2010年09月25日

練拳 Diary #34 「勁力について その5」

                        by 教練  円山 玄花



 一般的には「推手」と聞くと、どのようなイメージを持つのでしょうか。
 私が太極拳を始めた中学生の頃は、「推手」に対してあまり良い印象が無かったと記憶しています。なぜなら、推手の稽古をする度に腕や腿が筋肉痛になるので、”しんどい練功”という誤ったイメージしか持てなかったのです。ましてや推手が「化勁」の優れた訓練だとはとても思えず、悶々とした稽古時間を過ごしていました。
 今思うと情けない話ではありますが、唯一の収穫は、そのときにガンガン腕を使っていたために、後に拙力と勁力の違いを認識しやすかった、ということでしょうか。

 化勁とは、相手の力や攻撃をいなす技術である───────
 私は、化勁とはそういうものであると思っていました。しかし同時に、本当にその程度のものなのだろうか、という疑問も生じていました。
 それは、それほど身体の大きくない自分が、いかに推手で相手の攻撃をいなそうとしても、身体が大きくて力の強い人が相手では腕力で押し潰されてしまうからです。グルグルと腕を回しながらの攻防であれば、まだ何とか円い動きでクルリと逸らせるものの、手を触れている状態からの自由な攻防となると、クルリと動かす前に十分に入られてしまいます。

 何より、そうして相手の攻撃をクルリと逸らせたとしても、それ自体は ”深遠な太極の原理” などとは言えそうもありませんし、そんな事のために、あれほど厳格な基本への要求が在るとはとても思えないのです。それとも、基本功でシッカリと足腰を鍛えているからこそ、軽く相手の力を逸らすことが出来るとでもいう事なのでしょうか。しかし、もしそうだとすると、太極拳の戦い方は相手と触れてからの話だということになり、相手が武器を持っていた場合は、また違う戦い方が必要になってしまいます。

 さて、頭の中で次々と繰り返されるそんな問答に、いよいよ収集がつかなくなってきたとき、ある出来事が起こりました。

 それは、稽古中の対練でのことでした。
 その対練は、お互いにトレーニング・ナイフを持って、動きながら自由に突いたり斬ったりするというもので、条件は「素早さで目先の対処をせず、基本を守る」という事だけです。
 つまり、攻撃したり、それを躱そうとするときに、部分的な瞬発力や敏捷性で対応してはならないというわけです。このように条件を付けることによって「相手よりも速く動かなければやられる」という緊張がなくなり、自分の身体を整えながら動く学習が可能になります。

 その対練では、相手を斬ることもあれば、自分が斬られてしまうこともあります。
 もちろん巧く躱せることもあるのですが、時折、こちらの動きによって相手のナイフが当たらないだけではなく、相手の身体が勝手に崩れ、尚且つ、体勢を立て直すまでに時間が掛かってしまうという状況が出てきました。
 すると、傍で指導されていた師父が、「それが本来の化勁というものだよ」と静かに仰ったのです。それを聞いた私は「なるほど、そうか・・」と思いましたが、実は頭の中は大きく混乱していました。

 初めて私の「化勁」に対する認識が変わったのが、まさにその時でした。
 相手との接触・非接触に関わらず、相手の攻撃が ”無効” になってしまうこと。そこに働く作用のことを師父は「化勁」と表現されたわけです。
 その ”本来の化勁” と言われるものは、推手で相手の腕をクルリと逸らすこととは全く内容が違っています。相手の攻撃をただ単に逸らすのではなく、相手の攻撃そのものが無効となるチカラが働いていたということになり、そのチカラこそが「化勁」だということになります。
 推手の訓練で真っ先に要求されることは、『決められた動作の繰り返しであるからといって動きを流すことなく、一動作ずつ架式を正しく決めて行うこと』ですが、その要求がとても重要な意味を持っていたことが改めて認識できました。

 非接触の対練で、相手の攻撃が無効になるという体験をしてからは、推手に対する見方が大きく変わりました。推手の訓練が「化勁」を理解するための、実に優れた訓練方法であることが明かになってきたからです。
 「化勁」は、ランダムに相手との攻防を繰り返す対練よりも、相手と同じ架式を取り、同じ手の位置を合わせて、決められた形として動く方が遥かに分かり易かったというわけです。

 不思議なことに、その後の推手の訓練では、誰と組んでも腕が筋肉痛になるようなことがなくなりました。一瞬にして自分に大きな筋力がついたとは思えませんから、考えられることは唯ひとつ、自分のアタマが変わったということだけです。それも、推手の訓練の中で変わったのではなく、トレーニング・ナイフを使った対練によって変わることができたわけですから、つくづく「訓練体系」の有り難さを思い知らされたものです。


 「纏絲勁」に関しても、同じ様に、驚きに目を丸くしたことが度々ありました。

【 纏絲勁とは、太極拳の最終段階で教わる、高度で特殊なチカラである・・・ 】

 いつの頃からか、そのような勝手な認識が自分の中に芽生え、そこから太極拳全体の練功を見るような目が養われていきました。
 このことから、整備された訓練体系の中に身を置いていようとも、一介の修行者としてその全貌を眺めるまでには大変時間が掛かるということがわかります。それは太極拳に限らず、何事に於いても同じことが言えるのでしょう。
 また、自分が未だ知らないことに対しては、兎角早々に結論を付けたいという気持ちが生じてきますが、そこで終わってしまうか、そこで得た結論をそこから自身の研究材料にするかで、その後の発展が決まるような気がします。
 自分の場合には幸いにも、自分が「こうだ」と思ったことに対して、「それは違う」と訂正してくれる師が存在し、またそれを立証できるだけの学習体系が身近にありました。

 纏絲勁について、まだ「順」も「逆」も分からなかった頃、いちばん最初に驚かされたのは套路を稽古していたときです。それも、陳氏太極拳の表看板である「金剛搗碓」を練習していたときのことでした。

 自分が苦心していたのは、ちょうど左足を大きく前方に出して左弓歩となり、その左足に乗って右足を前に出すという、片足で起つ少し前のところでした。
 「乗れた」と思っていた左足は実は正しく乗れておらず、後ろ足が床から離れた途端に身体がフラリと左の外方向に流れてしまいます。
 その部分を鏡に映すと、見事に左の胯(クワ=骨盤側部)がフッと飛び出して見えました。
 ─────これでは正しく歩けていない・・と、愕然としました。

 太極拳で正しく歩けないことは、即ち戦えないことを意味しており、まして金剛搗碓を練りながら胯が外に膨らむようであれば、それは「架式」が整えられていない証拠です。
 もう一度、金剛搗碓の初めから動いてみたり、左弓歩の構えから確認してみたりと、いろいろ工夫してみるものの、なかなか歩けません。ちょっと良くなってきたかと思えば、足幅が狭かったり動きが速かったりして、何も問題の解決にはなっていないのです。

 歩法の稽古ではそれほど気にならなかったのに、なぜ金剛搗碓で軸足の胯が膨らむのか。
 その違いが分からないまま稽古を重ねて、幾日が経ったでしょうか。

 ある日、道場の後ろの方から、師父が誰かに指導されている声が聞こえてきました。
 「ほら、ここで右足が出せることが纏絲なのですよ」・・・と。
 そこで師父が示されていたのは紛れもなく金剛搗碓であり、左弓歩から前に一歩を出すところでした。

 ───────纏絲によって足が出されている。
 それは、その時の自分にとっては、かなり衝撃的なひと言でした。
 よく考えてみれば、太極拳は「纏絲の法」であると言われているのですから、纏絲によって足が出ることは、何の不思議もない、ごく当たり前のことなのです。
 問題は、それを学んでいる人間が自分なりの解釈で勝手なイメージを持ってしまうと、練功を練る目的も内容も、全て異なってきてしまうということです。

 私たちの套路の稽古では、改めて「纏絲」という言葉が出てこなければ、その動きが纏絲であることさえ忘れてしまうほど、ごく普通に見える動きが展開されています。
 そこでは、一般的に言われているような、身体や腕をグリグリとくねらせたり、足から頭までがブルンブルンと振るわせられながら、演手捶(突き)が繰り出されるような状況は全くありません。

 『太極勁や纏絲勁は、何も特別なものではない』

 ───────師父は毎回のように、稽古でそう仰います。

 ところが、私たちには纏絲がどのようなものであるかを追求する前に、どこかで誰かに聞いたようなことを短絡にヒョイと受け取ってしまうような、安易にそれが正しいことだと受け取ってしまう性質があるようです。また、多かれ少なかれ「纏絲」に対する各個人の勝手なイメージがあって、それに沿うものは正しく、沿わないものは間違いであるかのような錯覚をしていることもあるかもしれません。

 纏絲とは何であるのか───────
 太極拳を追求している以上は、そのことに各自が自分で足を踏み入れ、自分で探求していかなければなりません。そうでなくては、たとえ纏絲の謎が解ける環境にあっても、みすみすそれを見逃しかねないのです。それは既に宝の島に辿り着いていながら、そこにある宝が見えないようなものです。

 さて「纏絲によって足が出される」と聞いてから、私の金剛搗碓は大きく変わりました。
 もちろん、聞いたその瞬間から直ぐに、というわけにはいきませんでしたが、その問題をクリアするための稽古内容が大きく変わった結果、飛び出ていた左の胯は見事に出なくなったのです。

 そして同時に、自分の歩法の動きも変わっていきました。
 『歩法では乗れていたのに・・・』と思っていたものも、細かく纏絲の動きに照らし合わせてみると間違っていたのです。簡単に言うと「乗れていて胯が出なかった」のではなく「胯が出ないように歩いていた」のであって、その二つは大きく異なります。
 従って、金剛搗碓で自分の架式の不備が表れたことは当然のことである、と言えます。
 むしろそのお陰で、自分の纏絲や歩法に対する考え方を大きく見直せたことは、本当に有り難いことでした。

 歩法で胯が出ることを全く気にしなくても、飛び出ることが全くなくなったとき、そして金剛搗碓でフラリと左に寄らなくなったときの、その喜びといったら、喩えようもありません。
 日頃から師父に『キミたちの ”やり方” が間違っているのではなくて、 ”考え方” が違っているんですよ・・・』と言われていることを、身を以て体験したのでした。


 「化勁」や「纏絲勁」について、このように見直す機会が与えられる度に、思いを巡らせることがあります。
 それは、「勁」そのものの ”質” についてです。


                                 (つづく)

xuanhua at 22:15コメント(10)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2010年09月26日 21:44
>キミたちの ”やり方” が間違っているのではなくて、
>”考え方” が違っているんですよ・・・

師父がよく、チューニングという言葉を使って説明してくださいますが、
それこそが大切なのだと思います。

自分の体は、結局は自分の頭で動かしているのですから、
根本となる考え方が違えば、当然、生じる動きも異なって
しまいますよね。
 
だから、太極拳の考え方にチューニングする、
自分を挟まずに受け取ることが必要なのだと思います。
 
2. Posted by 春日敬之   2010年09月27日 16:27
>トレーニング・ナイフ

昔在籍していた空手流派でのナイフ対練は、こう突いてきたらこう躱す、というもので、
まあ、形と言えば形なのでしょうが、その構造というか、なぜそれがそうなるのかという
原理についての解説などは皆無でした。
面白かったのは、自由に斬り合う、刺し合うという練習が学習体系として無かったことと、
師範が指導員にそれを示したときに、お互いに何度もヤラレてはヤリ返すことが延々と
繰り返されたことでした。

>纏絲勁

金剛搗碓で、片足で立ちに行く前にクワが外にブレるのは当たり前だと思っている人も多い
のではないでしょうか。実際にそう示範しておられる老師も散見します。
しかし、武藝館ではソレはイカンということで、正しく立ち、正しく歩くことからそれを観て、
何ゆえにクワが出てはイカンのかを教えてくれます。
そして、ようやくクワが出なくなると、「ああ、やはりクワが出ていてはイカンのだ!」と
感動することになります。

>纏絲によって足が出されている

これはスゴイひと言ですね。
よく考えれば当たり前のことで、どの門派でも、どの先生でもそう言うのかも知れませんが、
それが「その運動をしながら纏絲をする」では大間違いだという事がようやく理解できました。

>「勁」そのものの ”質”

このシリーズは大変勉強になりますので、次回も楽しみにしております。
 
3. Posted by bamboo   2010年09月27日 23:23
いつか歩法の稽古でふと師父が高く蹴ったとき、自分まで妙に挙がりやすかったのを思い出しました。すべての動きが纏絲ということから、蹴り技に限らず挙動すべてが当然纏絲ですよね。。
はやく体現してみたいです。

日常が太極拳の原理になると、皆さんどんな心地なのでしょうか。
最近、稽古帰りにラーメンを食べると金剛搗碓のような感覚がして・・。
 
4. Posted by まっつ   2010年09月27日 23:55
このように何かを理解していくというプロセスに関して、
先に進んだ方から、ご自身の体験に基づいて綴って頂ける事は、
後進にとっては大変勉強になります。
それは言うなれば ”気付き” を追体験できるという事で、
より多くの手掛かり、足掛かりを基に歩を進められるという事です。
あえて人跡未踏の地を切り拓く努力をする必要なく、
道に乗せて頂いて進めるのだ・・・とありがたく思います。
 
5. Posted by 円山玄花   2010年09月29日 15:00
☆太郎冠者さん

チューニングは大切ですね。
ところが、チューニングそのものの捉え方も人それぞれのようで、
1,2回挑戦してみて上手くいかないと、すぐに違う方法を考え始めることもあるようです。

太極拳の考え方にチューニングすることも、自分を挟まずに受け取ることも、
ひとつの訓練として、根気よくコツコツと積み重ねて欲しいものです。
 
6. Posted by 円山玄花   2010年09月29日 15:03
☆春日敬之さん

今頃は次回「龍の道」を書かれている真っ最中だと思いますが、
お忙しい中、コメントをありがとうございます。

>こう突いてきたらこう躱す・・・
ひと言で「形」といっても、様々な形式があるのですね。
ナイフ対練に限らず、そのような指導を受けたことがないので、とても不思議に思えます。

>クワのブレ
自分の問題点を突き詰めていくと、結局は「架式」に行き着きます。
ですから、架式の考え方の違いが基本功の解釈の違いとなり、
そこから套路の形の違いが生じてくるのではないか、と思います。

太極武藝館で学んでいると、形や種類はたくさんあっても、
原理はひとつであることが身に浸みてわかります。
そしてその理由も、理屈も、全て目の前で立証していただけるのですから、
私たちも「日々精進せねば!」と、気合いが入るわけですね。

纏絲については、もう少し紙面を増やして書こうかとも考えたのですが、
いきなり核心について触れるよりも、「勁」の ”質” について考えてみようと思いました。
次回もどうぞご覧頂けますように。
 
7. Posted by 円山玄花   2010年09月29日 15:05
☆bambooさん

日常が太極拳の原理になると・・・ですか。
う〜ん、目下稽古中なので何とも言えませんが、
一面から見ると、「一日中シャキッときちんとしていられる」心地で、
もう一面から見ると、「ヤレヤレと腰を下ろしたいときでも監視の目が光っている」
・・・という感じでしょうか。(笑)

その ”監視の目” とは、他ならぬ自分の目なのですが、ひと言で言うと、
何をしていても身体の在り方が気になって仕方がない、といったところです。

>稽古帰りにラーメンを食べると金剛搗碓のような感覚がして・・。
え、本当ですか。
門人から色々な話を聞きますが、これは初めてです。
他の人にも聞いてみると、結構面白い話が聞けるかもしれませんよ。
 
8. Posted by 円山玄花   2010年09月29日 15:07
☆まっつさん

>”気付き”を追体験できる
確かに、誰かがやってくれたこと、言ってくれたことについて研究をしたり、
意見を出すのは容易いことですが、自分がその「最初の人」になるのは大変なことですね。
私たちが歩いている道を遡って行ったら、
そこに関わった人達だけでも大変な人数になるはずです。

しかし、ただひとつだけ、他の人には出来ない、
人跡未踏の地を切り開く、必死の努力が必要なことがあります。
それは、「自分自身を開拓する」ということです。
こればかりは、他の誰にも、どのような手段を以てしても、手を出せないところだと思います。
 
9. Posted by とび猿   2010年10月01日 00:04
纏絲勁や化勁と聞くと、特別なもののように思えて、いつの頃からか、まず基礎を固めた後で、
纏絲勁や化勁というものを足していくのではないかという勝手なイメージを持ってしまいました。
しかし、改めて稽古を振り返ってみると、纏絲勁や化勁ということも、全て切り離すことのできる
ようなものではなく、すでに最初の無極椿を教わり始めたころから始まっていたのではないかと
思うようになり、今まで教わってきたことが、段々と繋がってきたように思います。

その様な目で見ると、太極拳に限らず、他の武術や藝事、それだけではなく人の営みにおいても、
それぞれに違いはあっても、根本は同じであったり、繋がっていたりするのではないだろうかと
思えてきました。
すると、不思議と、まだまだほんの少しですが、いろいろなことが自分の糧となり、研究材料と
なって見えてくるような気がします。
 
10. Posted by 円山玄花   2010年10月02日 00:26
☆とび猿さん

今までに教わってきたことが繋がるということは、とても大切ですね。
本来、ものごとを別々に指導したり教わることはできませんから、
私たちが教わったその時に、繋がりのない別のものとして捉えてしまったことが、
そもそもの始まりだと言えそうです。

>根本は同じ
やはり大切なことは「物の見方」だと思います。
無極椿ひとつ取り上げても、その整え方は「このように」と決められているわけであって、
自分でそれについて「どのように」したらよいかを、考える余地は無いわけです。
そう考えると、自分たちの稽古や生活に於いて、
一体どれほどの「自分」が挟まれていることかと、驚愕します。
また、そのために自分で創りだした「何か」を恐れたり、悩んだり、
喜んだりしているとしたら、私たちは何を生き、何を稽古しているというのでしょうか。

太極拳の研究が、そのまま自分自身を掘り下げていくことになるような、
そんな素晴らしいものと出会えたのですから、きちんと精進したいものです。
 

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