2010年08月26日
練拳 Diary #33 「勁力について その4」
by 教練 円山 玄花
四正手の稽古は、馬歩の架式から始められます。足幅を三尺に開き、先ずは定歩でゆっくりと形(かたち)を取りながら、ポン・リィ・ジィ・アンの四つの勁を練っていきます。
馬歩で四正手の形と姿勢、そして身体の使われ方が分かったら、前後に足を開いた弓歩や、歩幅が狭い半馬歩など、架式を変えて稽古をしていきます。
どの架式で稽古をする場合にも、四正手の各動作をスイスイと流して動いていくようなことはなく、ポンの動作であれば先ずポンだけについて、手の位置、身体の向き、左右の膝の状態など、身体の各構造を細かく整えてから次のリィの動作に移ります。
初心者ほど早目のペースで動作を流してしまいやすくなりますが、多くは「架式」がどこでどのように決まるのかが分からない為に、それが起こっているように思えます。
私自身、架式の意味するところが分からなかった頃には、四正手や套路の形を、右から左、前から後ろへと、スイスイと流すように動いてしまっていたものです。
しかし、架式の持つ役割とその意味の重さを身をもって実感するようになってからは、まだ架式の持つ意味が分からない初心の時こそ、指導された通りの「形(かた=かたち)」で、規矩に沿って、丁寧に一動作ずつを決めて稽古するべきであると思えるようになりました。
例えば、定歩でお互いに同じ架式を取って技を自由に掛け合う、という課題が与えられた時などには、理解が不十分な架式や中途半端な技術では、大きな身体や強い筋力・腕力に対してはカケラも通用しないということを思い知らされることになります。
「架式」が通用しないとき、そして原理が働かないときには、やはり架式が流れてしまい、その結果「立つこと」が崩れ、「動けること」が消えてしまうのです。
定歩の対練でさえそうなのですから、それが活歩であったり、推手のように相手と手を触れたまま動くようなものであれば、ただ触れた腕をグルグル回しながら一緒に歩いていくようなことになってしまうことが予想されます。
相手の方が身体の使える範囲が広く、力も絶対的に強いという、日常的に見れば圧倒的に不利な条件でそのような対練に臨んだときに、初めて自分の基本の至らなさや視野の狭さに気づかされますが、それと同時に原理の持つ「不変の法則」を垣間見ることができます。
実は相手の大きさやパワーが全く無意味になるのは、自分の側に整然とした「架式」が存在するが故のことです。それは、架式が確立されているが故に、相手もまた「相手自身の架式」に制限されてしまい、結果としてより確立された架式の中で動ける側が、より脆弱な架式の側を制することが出来るからなのです。
架式の中でも「半馬歩」は、足幅が肩幅程度に狭くなることもあって難度が高く、正しい架式で四正手の勁を練っていくのは、上級者といえども決して容易ではありません。
半馬歩は、馬歩や弓歩と違って足の横幅はなく前後の幅も半分以下ですから、「立つこと」の全体が見えていなければ、なかなかカッチリとは動けないものです。
そのようなときには、半馬歩で立てない原因を幅の広い正馬歩に帰って確認し、また半馬歩で稽古をするということを繰り返し、「立つこと」と「動くこと」を徹底的に稽古することによって、より「馬歩」の原理に則った精密な架式へと洗練していくことができます。
─────話が「勁」から「架式」になってしまいましたが、「架式」なくして「勁」は存在しませんし、発勁の威力、化勁や聴勁の技術などを云々する前に、まずそれらの「勁」が正しく働く条件を整えなくてはなりません。何故なら、架式の不備とは即ち構造の不備であり、勁の不在とは、身体構造が正常に機能していないことを意味するからです。
師父は「架式の不備」についても、実に様々な譬えを用いて説明されます。
たとえば、凧揚げの凧は、その胴体に穴が空いていたらきちんと揚がらないし、フレームが歪んでいたり弛んだりしている自転車やクルマでレースをしたら真っ直ぐに走らず、大変なことになってしまう。また、銃器などは、その構造に少しでも狂いがあれば、単に弾丸が正確に飛ばないだけではなく安全性にまで問題が出てくる。武術にとって架式の不備とは、正にそのような事と同じ意味を持っている・・・などと説かれるのです。
余談ながら、私はこのような譬え話が大好きで、いつも感心して聞き入ってしまいます。
太極拳に限らず、物事は文字や言葉で説明できないことの方がはるかに多く、そのために個人の勝手な解釈や思い込みが入りやすいのが常ですが、師父のお話はいつもシンプルかつ明瞭で、各自のイメージにダイレクトにはたらきかけ、聴くと同時に映像が頭に浮かび、それを頭の中で再処理をしたり、考え直したりする必要がないのです。
そんなお話をして頂けるのも、師父が物事に対して常に丁寧に関わって来られた故だと思うのですが、お話を聴くたびに、自分もまたそのように物事に関わり、学んでいきたいものであると、つくづく思う次第です。
─────さて、話を「四正手」に戻しましょう。
馬歩の定歩で架式と姿勢、そして各要訣が整えられたら、次は弓歩の活歩で稽古をしていきます。活歩での稽古も、ゆっくりと一歩一歩を丁寧に、確実に動けるように整えていきます。
それは、整えた架式がどのように動くのかを見守るためでもあり、「立つことの要求」と、「動くための要求」を外さないためでもあります。
四正手を活歩で稽古していると、四正手の形に ”運足” を付けたのではなく、身体の動きによって足が自然に動くことが感じられるようになります。丁度、基本功の動きがそのまま歩法へと繋がっていったように、四正手でも無駄のない動きで一歩ずつを進めていくことができます。そして、その「四正手の勁で全身が動いている」という状態こそが、もし相手が自分に触れていれば、その勁の作用をダイレクトに受けてしまう状態に他ならないのです。
「勁」を学習する上で、「対人訓練(対練)」は欠かすことの出来ない練習法です。
四正手の対練では、各人が練ってきた「勁」というものの質とチカラの種類とを確認していきますが、その中でも「弸(ポン=正字は手偏)」は四正手の第一番目に位置していて、弸勁(ポンジン)は八門手法のすべての勁に含まれるというものですから、特に理解されるべき重要なチカラだと言えます。
太極武藝館では通常、弸(ポン)の対練は「半馬歩」の架式で行われます。
お互いに半馬歩で構えたところから始められ、双塔手からその場で弸を発するものや、前足を一歩踏み込んで弸を行うもの、また、大判のミットを持っている相手に弸を発していくものなど、様々なスタイルがありますが、どの場合でも最初は相手に触れた状態から弸を発していく訓練をします。
もちろん離れたところから接触して来て弸を行う稽古もありますが、勁というチカラの質が分からないうちは難しく、日常的な力感に陥りやすいので、勁を確認するには双塔手から始める方が分かり易いと思います。
触れた状態からの発勁ですから、そこには一切の予備動作はなく、言ってみれば向かい合ってから相手の手に触れるまでが予備動作に相当し、そこまでで既に「弸」の動作は終了しているのです。
これまでにも述べてきたように、相手に触れた状態では溜められているような力は少しもなく、もちろん相手にも何かが溜まってくるような感覚はありませんし、触れた手をそこから離しても、相手との関係性は何も変わりません。
「予備動作が無い」などと書くと、まるでそのこと自体が特別なことのように思えてしまいますが、実はそうではなく、予備動作の要らない身体の状態こそが「架式」であり、「站椿」で正しく立てることが即ち「勁力」の発生原理となるということに過ぎません。
そしてそのことは、私たちが練る小架式の特徴である、短打・短勁の技術になっています。
つまり、暗勁や寸勁などの技術が存在しているのも「架式」という考え方によるものであり、言い換えれば長打・長勁の必要がない架式を、学習の初めから練っていくわけです。
一般的には、勁力や発勁が特殊で神秘的な技法のように考えられたり、難解な表現で説かれる場合もあるようですが、それらは何れもこれまでに「勁の性質」や「勁の発生するメカニズム」などが身体構造的に説かれたことが殆ど無かった故かも知れません。
站椿、基本功、套路などを練り続けることで太極拳独自の身体を造り上げ、推手や様々な対練、拆招(たくしょう=招式の分析。単なる応用法とは異なる)などで勁の性質と働きを認識することができれば、それらの練功が分かれたものではなく、すべてが「太極勁」の理解のために存在していたことが誰にでも感じられます。
それ故に、私たちは四正手の対練を、ことさら「発勁の訓練」として行っていません。
「勁=チカラ」と「架式」を分けて考えるのではなく、あくまでも各自の「在り方」がどのようであるのか、基本の形が守られ続けた結果どうなるのかを綿密に確認し、「勁」と「形」が離れたものではないことを学んでいくのです。またその結果、站椿で長い時間を掛けて立つことや、套路で同じ動作を幾度となく繰り返して稽古する意味がようやく見えてくるようになります。
上級者の「弸勁(ポンジン)」が相手に発せられるときには、予備動作や相手に伝える為のモーションのような初動が全くと言って良いほど見られません。
構えたところから相手が飛んでいくまで、一連の動作を横から見ると、発する側には「弸」の基本動作以外には動きが見られず、前に立っている相手の姿を手の平で覆い隠せば、半馬歩の弸の基本訓練と何ひとつ変わるところがありません。
それほどまでに、相手に重さを掛けたり、グイと持ち上げたり、落下の勢いを使ったりするところが何ひとつなく、相手の質量さえ感じられないような動きの中で、相手が軽やかに飛ばされていくのです。
弸の勁を受けたときの感覚も、押されたり持ち上げられるような力は全く来ませんし、最初に触れていた時の力以上には一切増えることもありません。そこにある感覚は、まさに「生卵が割れないくらいのチカラ」であると言えます。
これは、実際にそのような「勁」を受けた人でなければ分かり難いかもしれません。単に卵が割れないくらいのチカラで相手に触れても、当然どうにもなりませんし、どこかで聞いたような方法や上辺だけの格好を真似ても何も起こらず、そのような事では決して正しいチカラは理解できないからです。そして、そこで必要になるのが、精密な基本と基本を理解していくための学習体系です。
以前に、師父の指示で大判のスポーツタオルを持って師父の前に立ったことがあります。
タオルの両端を指でつまむように持ってピンと伸ばし、自分の頭より上に持ち上げると、タオルの下端がちょうどお腹の辺りに下がりました。つまり、私からは師父の姿が全く見えない状態で、師父からも私が見えない状態です。その状態で、私の胸の高さを狙ってタオルに拳打を打つというのです。
私は師父の拳打の威力を間近で見て知っているだけに少々怖くなり、自分の胸には当たらないようにと、タオルを持った姿勢を一度横から見てもらい、タオルと自分との距離も見てもらいますと、師父は笑って「強く当てるようなものではないから大丈夫」と仰いました。
正面に向き直り、タオルを前に掲げると、師父が前に立ったことは感じられるものの、それ以外には、構え方も、間合いも、いつ打ってくるのかも、一切分からない状態です。
しかし、次の瞬間・・・目の前のタオルが少し膨らむのと同時に、あっと言う間に自分の身体が後ろに吹き飛んでいました。そして、幸いにも身体への実質的な衝撃はありませんでした。(笑)
このときの感覚は、日頃の推手などでポンやリィで飛ばされるときのその感覚と同じものでした。周りで見ていた門人たちに聞くと、師父の拳打がタオルに触れると同時に、私の身体が後方に弾かれるように飛んでいったということで、後にビデオで確認すると本当にそのとおりで、驚かされました。
師父はこれを「ちょっとした実験」と言われたのですが、目の前で見て、体験した私たちにとっては十分に非日常的な出来事であり、「勁」というチカラの認識を新たにする大きなきっかけとなったのです。
指で摘んで垂らしたタオルに与えられる力など、どう考えても大きいはずがありません。
それほど小さな力なのに、どうして相手は大きな影響を受けてしまうのか─────
師父は毎回の稽古で、卵が割れないほどの軽くて小さいチカラを追求するからこそ、勁力の修得が可能なのだと仰います。大きく強い力でなければ相手に作用を及ぼせない、というのは日常的な感覚に過ぎず、先ずはその考え方を否定して新しい考え方に、太極拳の考え方に身を投じなければ「勁」という非日常・非拙力のチカラは決して手に入らない、と説かれます。
そして、そのような日常の力に対する執着がほんの僅かでも残っている限り、練功本来の意味や目的が見えるはずもなく、深遠な拳理はもとより、練功それ自体も歪めて受け取られてしまうことになる、と仰るのです。
私たちが学んでいることは「太極拳とは何か」ということであって、套路が恰好よくできれば良い、発勁で相手が飛べばそれで良い、武術としてそこそこ戦える技術が身に付けばそれでオーケイ、というわけではありません。
基本功や套路、そして対人訓練に至るまで、数々の練功が指し示している「ひとつのこと」を理解するためにこそ、それらの練功を使わなければ、ただ套路ができた、四正手ができた、少し発勁もできた、ということで終わってしまいますし、たとえそれらが滞りなく出来たとしても、太極拳を理解したことにはならないと、私は思います。
「勁」という太極拳のチカラを理解して習得するためにも、教わっていることをそのまま真っ直ぐに受け取り、コツコツと稽古を積み重ねて行かなければなりません。
私が、「勁力」に対する考え方や、そのチカラの質が本当に重要だと思えるようになったのは、推手の稽古の意味が、ようやく少しばかり見え始めた頃のことでした。
(つづく)
四正手の稽古は、馬歩の架式から始められます。足幅を三尺に開き、先ずは定歩でゆっくりと形(かたち)を取りながら、ポン・リィ・ジィ・アンの四つの勁を練っていきます。
馬歩で四正手の形と姿勢、そして身体の使われ方が分かったら、前後に足を開いた弓歩や、歩幅が狭い半馬歩など、架式を変えて稽古をしていきます。
どの架式で稽古をする場合にも、四正手の各動作をスイスイと流して動いていくようなことはなく、ポンの動作であれば先ずポンだけについて、手の位置、身体の向き、左右の膝の状態など、身体の各構造を細かく整えてから次のリィの動作に移ります。
初心者ほど早目のペースで動作を流してしまいやすくなりますが、多くは「架式」がどこでどのように決まるのかが分からない為に、それが起こっているように思えます。
私自身、架式の意味するところが分からなかった頃には、四正手や套路の形を、右から左、前から後ろへと、スイスイと流すように動いてしまっていたものです。
しかし、架式の持つ役割とその意味の重さを身をもって実感するようになってからは、まだ架式の持つ意味が分からない初心の時こそ、指導された通りの「形(かた=かたち)」で、規矩に沿って、丁寧に一動作ずつを決めて稽古するべきであると思えるようになりました。
例えば、定歩でお互いに同じ架式を取って技を自由に掛け合う、という課題が与えられた時などには、理解が不十分な架式や中途半端な技術では、大きな身体や強い筋力・腕力に対してはカケラも通用しないということを思い知らされることになります。
「架式」が通用しないとき、そして原理が働かないときには、やはり架式が流れてしまい、その結果「立つこと」が崩れ、「動けること」が消えてしまうのです。
定歩の対練でさえそうなのですから、それが活歩であったり、推手のように相手と手を触れたまま動くようなものであれば、ただ触れた腕をグルグル回しながら一緒に歩いていくようなことになってしまうことが予想されます。
相手の方が身体の使える範囲が広く、力も絶対的に強いという、日常的に見れば圧倒的に不利な条件でそのような対練に臨んだときに、初めて自分の基本の至らなさや視野の狭さに気づかされますが、それと同時に原理の持つ「不変の法則」を垣間見ることができます。
実は相手の大きさやパワーが全く無意味になるのは、自分の側に整然とした「架式」が存在するが故のことです。それは、架式が確立されているが故に、相手もまた「相手自身の架式」に制限されてしまい、結果としてより確立された架式の中で動ける側が、より脆弱な架式の側を制することが出来るからなのです。
架式の中でも「半馬歩」は、足幅が肩幅程度に狭くなることもあって難度が高く、正しい架式で四正手の勁を練っていくのは、上級者といえども決して容易ではありません。
半馬歩は、馬歩や弓歩と違って足の横幅はなく前後の幅も半分以下ですから、「立つこと」の全体が見えていなければ、なかなかカッチリとは動けないものです。
そのようなときには、半馬歩で立てない原因を幅の広い正馬歩に帰って確認し、また半馬歩で稽古をするということを繰り返し、「立つこと」と「動くこと」を徹底的に稽古することによって、より「馬歩」の原理に則った精密な架式へと洗練していくことができます。
─────話が「勁」から「架式」になってしまいましたが、「架式」なくして「勁」は存在しませんし、発勁の威力、化勁や聴勁の技術などを云々する前に、まずそれらの「勁」が正しく働く条件を整えなくてはなりません。何故なら、架式の不備とは即ち構造の不備であり、勁の不在とは、身体構造が正常に機能していないことを意味するからです。
師父は「架式の不備」についても、実に様々な譬えを用いて説明されます。
たとえば、凧揚げの凧は、その胴体に穴が空いていたらきちんと揚がらないし、フレームが歪んでいたり弛んだりしている自転車やクルマでレースをしたら真っ直ぐに走らず、大変なことになってしまう。また、銃器などは、その構造に少しでも狂いがあれば、単に弾丸が正確に飛ばないだけではなく安全性にまで問題が出てくる。武術にとって架式の不備とは、正にそのような事と同じ意味を持っている・・・などと説かれるのです。
余談ながら、私はこのような譬え話が大好きで、いつも感心して聞き入ってしまいます。
太極拳に限らず、物事は文字や言葉で説明できないことの方がはるかに多く、そのために個人の勝手な解釈や思い込みが入りやすいのが常ですが、師父のお話はいつもシンプルかつ明瞭で、各自のイメージにダイレクトにはたらきかけ、聴くと同時に映像が頭に浮かび、それを頭の中で再処理をしたり、考え直したりする必要がないのです。
そんなお話をして頂けるのも、師父が物事に対して常に丁寧に関わって来られた故だと思うのですが、お話を聴くたびに、自分もまたそのように物事に関わり、学んでいきたいものであると、つくづく思う次第です。
─────さて、話を「四正手」に戻しましょう。
馬歩の定歩で架式と姿勢、そして各要訣が整えられたら、次は弓歩の活歩で稽古をしていきます。活歩での稽古も、ゆっくりと一歩一歩を丁寧に、確実に動けるように整えていきます。
それは、整えた架式がどのように動くのかを見守るためでもあり、「立つことの要求」と、「動くための要求」を外さないためでもあります。
四正手を活歩で稽古していると、四正手の形に ”運足” を付けたのではなく、身体の動きによって足が自然に動くことが感じられるようになります。丁度、基本功の動きがそのまま歩法へと繋がっていったように、四正手でも無駄のない動きで一歩ずつを進めていくことができます。そして、その「四正手の勁で全身が動いている」という状態こそが、もし相手が自分に触れていれば、その勁の作用をダイレクトに受けてしまう状態に他ならないのです。
「勁」を学習する上で、「対人訓練(対練)」は欠かすことの出来ない練習法です。
四正手の対練では、各人が練ってきた「勁」というものの質とチカラの種類とを確認していきますが、その中でも「弸(ポン=正字は手偏)」は四正手の第一番目に位置していて、弸勁(ポンジン)は八門手法のすべての勁に含まれるというものですから、特に理解されるべき重要なチカラだと言えます。
太極武藝館では通常、弸(ポン)の対練は「半馬歩」の架式で行われます。
お互いに半馬歩で構えたところから始められ、双塔手からその場で弸を発するものや、前足を一歩踏み込んで弸を行うもの、また、大判のミットを持っている相手に弸を発していくものなど、様々なスタイルがありますが、どの場合でも最初は相手に触れた状態から弸を発していく訓練をします。
もちろん離れたところから接触して来て弸を行う稽古もありますが、勁というチカラの質が分からないうちは難しく、日常的な力感に陥りやすいので、勁を確認するには双塔手から始める方が分かり易いと思います。
触れた状態からの発勁ですから、そこには一切の予備動作はなく、言ってみれば向かい合ってから相手の手に触れるまでが予備動作に相当し、そこまでで既に「弸」の動作は終了しているのです。
これまでにも述べてきたように、相手に触れた状態では溜められているような力は少しもなく、もちろん相手にも何かが溜まってくるような感覚はありませんし、触れた手をそこから離しても、相手との関係性は何も変わりません。
「予備動作が無い」などと書くと、まるでそのこと自体が特別なことのように思えてしまいますが、実はそうではなく、予備動作の要らない身体の状態こそが「架式」であり、「站椿」で正しく立てることが即ち「勁力」の発生原理となるということに過ぎません。
そしてそのことは、私たちが練る小架式の特徴である、短打・短勁の技術になっています。
つまり、暗勁や寸勁などの技術が存在しているのも「架式」という考え方によるものであり、言い換えれば長打・長勁の必要がない架式を、学習の初めから練っていくわけです。
一般的には、勁力や発勁が特殊で神秘的な技法のように考えられたり、難解な表現で説かれる場合もあるようですが、それらは何れもこれまでに「勁の性質」や「勁の発生するメカニズム」などが身体構造的に説かれたことが殆ど無かった故かも知れません。
站椿、基本功、套路などを練り続けることで太極拳独自の身体を造り上げ、推手や様々な対練、拆招(たくしょう=招式の分析。単なる応用法とは異なる)などで勁の性質と働きを認識することができれば、それらの練功が分かれたものではなく、すべてが「太極勁」の理解のために存在していたことが誰にでも感じられます。
それ故に、私たちは四正手の対練を、ことさら「発勁の訓練」として行っていません。
「勁=チカラ」と「架式」を分けて考えるのではなく、あくまでも各自の「在り方」がどのようであるのか、基本の形が守られ続けた結果どうなるのかを綿密に確認し、「勁」と「形」が離れたものではないことを学んでいくのです。またその結果、站椿で長い時間を掛けて立つことや、套路で同じ動作を幾度となく繰り返して稽古する意味がようやく見えてくるようになります。
上級者の「弸勁(ポンジン)」が相手に発せられるときには、予備動作や相手に伝える為のモーションのような初動が全くと言って良いほど見られません。
構えたところから相手が飛んでいくまで、一連の動作を横から見ると、発する側には「弸」の基本動作以外には動きが見られず、前に立っている相手の姿を手の平で覆い隠せば、半馬歩の弸の基本訓練と何ひとつ変わるところがありません。
それほどまでに、相手に重さを掛けたり、グイと持ち上げたり、落下の勢いを使ったりするところが何ひとつなく、相手の質量さえ感じられないような動きの中で、相手が軽やかに飛ばされていくのです。
弸の勁を受けたときの感覚も、押されたり持ち上げられるような力は全く来ませんし、最初に触れていた時の力以上には一切増えることもありません。そこにある感覚は、まさに「生卵が割れないくらいのチカラ」であると言えます。
これは、実際にそのような「勁」を受けた人でなければ分かり難いかもしれません。単に卵が割れないくらいのチカラで相手に触れても、当然どうにもなりませんし、どこかで聞いたような方法や上辺だけの格好を真似ても何も起こらず、そのような事では決して正しいチカラは理解できないからです。そして、そこで必要になるのが、精密な基本と基本を理解していくための学習体系です。
以前に、師父の指示で大判のスポーツタオルを持って師父の前に立ったことがあります。
タオルの両端を指でつまむように持ってピンと伸ばし、自分の頭より上に持ち上げると、タオルの下端がちょうどお腹の辺りに下がりました。つまり、私からは師父の姿が全く見えない状態で、師父からも私が見えない状態です。その状態で、私の胸の高さを狙ってタオルに拳打を打つというのです。
私は師父の拳打の威力を間近で見て知っているだけに少々怖くなり、自分の胸には当たらないようにと、タオルを持った姿勢を一度横から見てもらい、タオルと自分との距離も見てもらいますと、師父は笑って「強く当てるようなものではないから大丈夫」と仰いました。
正面に向き直り、タオルを前に掲げると、師父が前に立ったことは感じられるものの、それ以外には、構え方も、間合いも、いつ打ってくるのかも、一切分からない状態です。
しかし、次の瞬間・・・目の前のタオルが少し膨らむのと同時に、あっと言う間に自分の身体が後ろに吹き飛んでいました。そして、幸いにも身体への実質的な衝撃はありませんでした。(笑)
このときの感覚は、日頃の推手などでポンやリィで飛ばされるときのその感覚と同じものでした。周りで見ていた門人たちに聞くと、師父の拳打がタオルに触れると同時に、私の身体が後方に弾かれるように飛んでいったということで、後にビデオで確認すると本当にそのとおりで、驚かされました。
師父はこれを「ちょっとした実験」と言われたのですが、目の前で見て、体験した私たちにとっては十分に非日常的な出来事であり、「勁」というチカラの認識を新たにする大きなきっかけとなったのです。
指で摘んで垂らしたタオルに与えられる力など、どう考えても大きいはずがありません。
それほど小さな力なのに、どうして相手は大きな影響を受けてしまうのか─────
師父は毎回の稽古で、卵が割れないほどの軽くて小さいチカラを追求するからこそ、勁力の修得が可能なのだと仰います。大きく強い力でなければ相手に作用を及ぼせない、というのは日常的な感覚に過ぎず、先ずはその考え方を否定して新しい考え方に、太極拳の考え方に身を投じなければ「勁」という非日常・非拙力のチカラは決して手に入らない、と説かれます。
そして、そのような日常の力に対する執着がほんの僅かでも残っている限り、練功本来の意味や目的が見えるはずもなく、深遠な拳理はもとより、練功それ自体も歪めて受け取られてしまうことになる、と仰るのです。
私たちが学んでいることは「太極拳とは何か」ということであって、套路が恰好よくできれば良い、発勁で相手が飛べばそれで良い、武術としてそこそこ戦える技術が身に付けばそれでオーケイ、というわけではありません。
基本功や套路、そして対人訓練に至るまで、数々の練功が指し示している「ひとつのこと」を理解するためにこそ、それらの練功を使わなければ、ただ套路ができた、四正手ができた、少し発勁もできた、ということで終わってしまいますし、たとえそれらが滞りなく出来たとしても、太極拳を理解したことにはならないと、私は思います。
「勁」という太極拳のチカラを理解して習得するためにも、教わっていることをそのまま真っ直ぐに受け取り、コツコツと稽古を積み重ねて行かなければなりません。
私が、「勁力」に対する考え方や、そのチカラの質が本当に重要だと思えるようになったのは、推手の稽古の意味が、ようやく少しばかり見え始めた頃のことでした。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by トヨ 2010年08月28日 01:30
大切なことがぎっしり書かれていますね、勉強になります。
個人的には、
>どこかで聞いたような方法や上辺だけの格好を真似ても何も起こらず
というところが大切かなと感じました。
ただ真似しているつもりでもダメで、説明を聞いて理解していると思ってもダメで、
ひたすら本質の部分に、自分の照準をぴたりとつけていかないといけないのだと思います。
そのために正しい学習体系を学ぶことに意味があるし、正しいけれど、人間として特別じゃない架式を見つめていく必要があるのだと思います。
個人的には、
>どこかで聞いたような方法や上辺だけの格好を真似ても何も起こらず
というところが大切かなと感じました。
ただ真似しているつもりでもダメで、説明を聞いて理解していると思ってもダメで、
ひたすら本質の部分に、自分の照準をぴたりとつけていかないといけないのだと思います。
そのために正しい学習体系を学ぶことに意味があるし、正しいけれど、人間として特別じゃない架式を見つめていく必要があるのだと思います。
2. Posted by まっつ 2010年08月30日 00:49
大変、勉強になります・・・(汗)
これほど直截に勁力の在り方を論じて頂けるとは、
ありがたい限りです。
一般的にイメージされる勁力とは、
全身の力を集中させて爆発的な衝撃力を相手に与える・・・
などと考えられているようですが(小生もそのように想像してましたが)、
実際にこの身で、師父の勁の体験をさせて頂くと、
本当に接触点は「生卵が割れないくらいのチカラ」であるのに、
全身を貫く激しい影響を受けて崩される事で、
二重に驚いてしまいました・・・
高速で回転しているものや、熱いもの、漏電しているものに触れて、
思わず身体が反応してしまうような、思いも掛けない質による影響「力」、
そのように感じられました。
そして如何にこちらが激しく崩された時でも、
師父の側は常に静かで、細波さえ立っていない磐石の様子で、
力を集めたり、爆発させたりなど何もありません。
唯、常と変わりません。
その変わらない形、「架式」の大事を、
直接に味わわせて頂けているのですから、
もっとこの身でも再現できるように努めたいです。
これほど直截に勁力の在り方を論じて頂けるとは、
ありがたい限りです。
一般的にイメージされる勁力とは、
全身の力を集中させて爆発的な衝撃力を相手に与える・・・
などと考えられているようですが(小生もそのように想像してましたが)、
実際にこの身で、師父の勁の体験をさせて頂くと、
本当に接触点は「生卵が割れないくらいのチカラ」であるのに、
全身を貫く激しい影響を受けて崩される事で、
二重に驚いてしまいました・・・
高速で回転しているものや、熱いもの、漏電しているものに触れて、
思わず身体が反応してしまうような、思いも掛けない質による影響「力」、
そのように感じられました。
そして如何にこちらが激しく崩された時でも、
師父の側は常に静かで、細波さえ立っていない磐石の様子で、
力を集めたり、爆発させたりなど何もありません。
唯、常と変わりません。
その変わらない形、「架式」の大事を、
直接に味わわせて頂けているのですから、
もっとこの身でも再現できるように努めたいです。
3. Posted by 円山 玄花 2010年08月30日 19:50
☆トヨさん
『上辺だけの格好を真似ても何も起こらず』というのは、当たり前と思われがちですが、
それでも、やってみて初めて何が違うのかが実感できるという、不思議な体験でした。
真似をしているつもりで終わらずに、もう一歩踏み込んで自分を観照してみると、
こんなにも自分の範疇外の勉強が始まるものかと驚いたものです。
何ごともそうだと思いますが、照準も1回定めたらオーケイではなく、
ずっと合わせ続けていることが大切なのですよね。
『上辺だけの格好を真似ても何も起こらず』というのは、当たり前と思われがちですが、
それでも、やってみて初めて何が違うのかが実感できるという、不思議な体験でした。
真似をしているつもりで終わらずに、もう一歩踏み込んで自分を観照してみると、
こんなにも自分の範疇外の勉強が始まるものかと驚いたものです。
何ごともそうだと思いますが、照準も1回定めたらオーケイではなく、
ずっと合わせ続けていることが大切なのですよね。
4. Posted by 円山 玄花 2010年08月30日 19:53
☆まっつさん
えーと、全身の力を集中させて?、爆発的な衝撃力を?、相手に与える?・・・
今でこそ、このような言葉を聞くと三重の驚きですが、
かつては私も似たようなことを想っていました。
まさしく『日常の考え方ではワカラナイ』と日頃から指導されるとおりですね。
この考え方だと、「架式」よりも身体の弾力性や柔軟性、そして瞬発力が欲しくなり、
站椿よりも排打功やサンドバッグへの練習が”有効”であると思えそうです。
えーと、全身の力を集中させて?、爆発的な衝撃力を?、相手に与える?・・・
今でこそ、このような言葉を聞くと三重の驚きですが、
かつては私も似たようなことを想っていました。
まさしく『日常の考え方ではワカラナイ』と日頃から指導されるとおりですね。
この考え方だと、「架式」よりも身体の弾力性や柔軟性、そして瞬発力が欲しくなり、
站椿よりも排打功やサンドバッグへの練習が”有効”であると思えそうです。
5. Posted by マルコビッチ 2010年09月03日 01:12
遅くなりましたがコメントさせて頂きます。
この記事は、とても大事なことがたくさん詰まっていて大変勉強になります。
まだまだ読み逃していることが、たくさんあるように思います。
のらさんの「站椿その8」でも衝撃でしたが、ここでもまた衝撃的な一言が・・・
まさしく発想の転換ですね!
勁力は何か動きによって起こるものとは思っていなかったはずなのに、
どこかでまだ、動いて発するもののイメージがあったようです。
「四正手の勁で全身が動いている」・・そうして勁を練っていくのですね!
誰か相手に発することがイメージの主でしたので、新たなる意識改革です!!
師父の動きを拝見したり、お話を聞いていればわかりそうなことなのに、
なかなか認識できないものです・・トホホ・・
このように文字にして下さることは本当にありがたいことです。
まずは正しい架式へと整えていくことですね!!
この記事は、とても大事なことがたくさん詰まっていて大変勉強になります。
まだまだ読み逃していることが、たくさんあるように思います。
のらさんの「站椿その8」でも衝撃でしたが、ここでもまた衝撃的な一言が・・・
まさしく発想の転換ですね!
勁力は何か動きによって起こるものとは思っていなかったはずなのに、
どこかでまだ、動いて発するもののイメージがあったようです。
「四正手の勁で全身が動いている」・・そうして勁を練っていくのですね!
誰か相手に発することがイメージの主でしたので、新たなる意識改革です!!
師父の動きを拝見したり、お話を聞いていればわかりそうなことなのに、
なかなか認識できないものです・・トホホ・・
このように文字にして下さることは本当にありがたいことです。
まずは正しい架式へと整えていくことですね!!
6. Posted by メイ@ 2010年09月03日 02:04

長らくご無沙汰しておりましたが、やっと初めてコメントさせていただきます。
いつもいつも、非常に深い理論を、本当にきっちり体系化して教えておられることに、
心底感心するやらうらやましいやら・・・・。
おまけにむずむずと練習したくなったりならなかったり。
とりあえず、今日はしばらく立ってみます。
ここんとこ仕事ばっかりですっかりなまった八卦掌、たまには磨いてやらなければ。
7. Posted by 円山 玄花 2010年09月03日 12:17
☆マルコビッチさん
イメージは大事ですね。
良くも悪くもイメージ次第で自分の方向性が決まってしまうように思います。
ですから、まずは自分なりのイメージを持たないことが大切です。
その為にも、見たいように観ることを止め、聞きたいように聴くことを止めてみることが、
示されていることをそのまま受け取るための、ポイントだと言えるでしょうか。
その人のイメージが正しいかどうか、或いは近いのか遠いのか、
すべては「架式」をみれば分かると言われています。
今日も「架式」を頑張りましょう!
イメージは大事ですね。
良くも悪くもイメージ次第で自分の方向性が決まってしまうように思います。
ですから、まずは自分なりのイメージを持たないことが大切です。
その為にも、見たいように観ることを止め、聞きたいように聴くことを止めてみることが、
示されていることをそのまま受け取るための、ポイントだと言えるでしょうか。
その人のイメージが正しいかどうか、或いは近いのか遠いのか、
すべては「架式」をみれば分かると言われています。
今日も「架式」を頑張りましょう!
8. Posted by 円山 玄花 2010年09月03日 12:29
☆メイさん
こちらこそ、ご無沙汰をいたしております。
また、お忙しい中、コメントをありがとうございます!
私にとって大きなテーマだった「勁力」について、
思うところを書き綴って、早くも4回目になりました。(汗)
記事の内容は、一般クラスで教授されたことと、それについて自分が感じたことなのですが、
書くほどに、太極拳の奥深さ、拳理の高さを否応なしに感じさせられます。
私たち門人は、整備された学習体系が用意されていることに甘えることなく、
もっともっと精進しなければならないと痛感する次第です。
このシリーズはもう少し続けていくつもりですので、今後もご覧いただければ幸いです。
お暇がある時にでも、またコメントを頂戴できれば、とても嬉しく思います。
こちらこそ、ご無沙汰をいたしております。
また、お忙しい中、コメントをありがとうございます!
私にとって大きなテーマだった「勁力」について、
思うところを書き綴って、早くも4回目になりました。(汗)
記事の内容は、一般クラスで教授されたことと、それについて自分が感じたことなのですが、
書くほどに、太極拳の奥深さ、拳理の高さを否応なしに感じさせられます。
私たち門人は、整備された学習体系が用意されていることに甘えることなく、
もっともっと精進しなければならないと痛感する次第です。
このシリーズはもう少し続けていくつもりですので、今後もご覧いただければ幸いです。
お暇がある時にでも、またコメントを頂戴できれば、とても嬉しく思います。
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