2010年07月19日

練拳 Diary #32 「勁力について その3」

                        by 教練  円山 玄花



 軽くて早い、そして発するためのモーションを必要としないチカラ、”勁力” ────
 前稿では、そのチカラが「意」によって導かれ整えられた正しい「架式」から生じることを述べてきました。

 その稽古は「立つこと」の整備から始められ、「架式」の訓練によって身体が構造で動くことを理解し、対人訓練で「勁」が正しくはたらいていることをお互いに確認し、また基本功に戻って立ち方や架式を見直すという繰り返しによって、太極拳で求められるチカラ=勁力とは何であるのかを、順序立てて学習していくことができます。
 また、対人訓練に入る前に、架式の構造を正しく取れることと、その構造で動けることを十分に学ぶことで、「勁」と「勁力」に対する正しい認識が養われていきます。

 本来は、馬歩の架式が少しでも理解されてくれば、その時点で「力」に対する考え方が日常から非日常へと変わらざるを得なくなるもので、そこから「太極拳のチカラ=勁力」を学んでいくことができるのですが、馬歩がよく分からないうちから力の追求を始めると ”架式は架式、力は力” となる傾向があり、太極拳で学んだ架式に自分の思う「力」を乗せれば強力になるといったような、架式と力とを分けて考えることも間々あるようで、それでは何をどれほど学んでも勁力など永遠に手に入るはずもありません。

 身体が「正しい構造で動けること」というのは、それ自体が「力」を生み出すことであり、武術ではその為に「形(かた)」という訓練法を用いて、自分の構造と太極拳の構造との相違を明らかにしていくわけです。
 太極拳では、柔功も、纏絲練功も、開合訓練も、套路も、推手も、拆招(たくしょう)も、すべてがそのような「形(かた)」として用意されています。それは、日常的な手足の動かし方を如何に工夫しようと、決して正しい構造の動きとはならないからであり、その勝手気儘な動きを否定し、文字通り自分をピタリと「形にはめる」からこそ、はじめて「勁」という太極拳のチカラの本質を感じられるようになるわけです。

 例えば、”階段を歩く” という動作を考えてみても、太極拳の構造から外れることなく歩くことと、自分なりに足音を立てないようにしたり、足に負担が来ないように工夫することとは大きく異なります。試しに、階段を歩くことに、普段の歩法で指摘されている要求を当てはめてみると、足音や足の負担などを気にしなくとも、ただその要求を守ろうとしているだけで足音は立たず、足の負担も大きく軽減されることになります。
 また、先にご紹介した「足半(あしなか)」や「スーパー足半くん」などの練功用の履き物を用いる際にも、無意識に履いてしまうと身体は簡単に前傾して中心軸が失われてしまいますが、それを自分なりに力感で修正しようとするのではなく、太極拳の基本である「無極」の要求を正しく整えようとすることによって無理なく正しい構造で立つことができ、それが維持されたまま歩くことも可能になってきます。

 つまり、整えられた構造が「形(かた)」という条件に沿って動いたときには、どこで何をしていても「勁=非日常のチカラ」が働いている、ということです。
 この「無極」の調整によって構造が整い、その構造自体が非日常的なチカラを生じさせているために階段や足半でより高度な歩行が可能になった、というところが大切です。
 それは、太極拳のチカラが、一般日常的な後ろに溜めた力を前に出したり、右に溜めた力を左に出すような、溜めた力の大きさが即ち相手への影響力に比例するような種類のものではないことを意味しています。


 ここで、ひとつの対人訓練をご紹介しましょう。
 まず、お互いに広めの弓歩で向かい合って構えます。その姿勢で互いに両手を胸の前に出して手の平を合わせ、そこから ”取り” が前方に歩いて後ろ足を寄せてきます。ここでは正しい弓歩の架式から前足に乗り、正しく足を寄せてくることさえできれば、相手はそれだけで軽く後方へと崩れていくことが確認できます。
 ”受け” の側は、相手に対して抵抗するのではなく、ただ自分の弓歩の架式を守ってしっかりと立っているようにします。

 手順というほどの動作も無いシンプルな対練ですが、ここには太極拳の力を認識するための、そして「ポン」や「リィ」など四正手の勁を理解していくための基本が多く詰まっています。

 大切なことは、前に出るために自分の腕を弛めて身体を動かそうとしないことです。
 普通は、前方に障害物があるときには、その物体に対して最も力を出せる位置まで身体を運び、その後で物を動かしていこうとしますが、武術的に考えた場合には、その物体に触れてから実際に影響が出るまでの "時間" が問題になります。
 相手に対して、自分の攻撃が始まってから相手に影響が出るまでに長い時間が必要であれば、それはそっくりそのまま相手にとっての有効な時間になってしまいます。
 相手との接触・非接触に関係なく、自分が動いた瞬間からすでに相手に影響を及ぼせていなければ、どれほどの破壊力を身につけていようとも武術的には全く無意味なものになってしまうわけです。

 腕を弛めないと言っても、肘をピンと張り伸ばしておく必要はありませんが、自分が弓歩の姿勢から動き始めたときには、同時に相手がすでに崩れ始めているという状態が正しく、単に前方への移動のために腕を弛めてしまうと、ただ立っているだけの相手に軽い力で阻止されることになり、前に足を寄せてくることができなくなってしまいます。

 私がこの対練が「腰相撲」の稽古よりも難しいと思えるところは、相手に押してもらわずに自分から動くというところと、腰ではなく、手を用いるところです。
 相手と同じ架式で立ち、手を触れている状態からでは「拙力」で押せばすぐに分かってしまいますし、ゆっくり腕を弛めていっても容易にそれを感知されてしまいます。
 ここから自分が前足に乗って行くには、構えた弓歩の架式が決まっていることと、そこから歩法の原理通りに正しく動けること、そして、寄り掛からず、手で押さず、弛めもしない、などという自己制御が必要になります。

 もうひとつ難しい点は、始めにも述べたように、自分の前にいる相手を動かすために自分側に力を ”溜め” ようとしてしまうことで、パンチやキックなどを相手への衝撃力として訓練してきた人に多く見られる考え方です。
 大抵の場合は腕を弛めて自分の身体を前足に近づけ、曲げられた腕を伸ばすことで相手を押そうとするか、腕は伸ばしたままで身体に入力をし、それを解放するタイミングで相手に関わろうとするかのどちらかになるようです。
 当然そのような関わり方では架式も歩法も必要ありませんし、正しい弓歩で構えている相手には通用しません。仮に相手を動かせたとしても、相手にぶつかる力が与えられることになりますから、相手には、いつ、どのような力が、どのような経路で自分に来るのかが、ありありと分かってしまいます。
 師父や上級者と対練をしたときには、「何が来たのか感知できないうちに崩される」という状態で、力みも衝撃も感じないままに自分の足下が突然崩落するような感覚になります。
 力の大きさで表現すれば、力を溜めてからこちらに解放されたものとは比べものにならないほど小さな力に感じられ、お互いの手の平に生卵が挟まれていても、それが割れないほどの力である場合が多いのです。

 太極拳のチカラについて、私たちが最初に学ばなければならないことは、勁力は「溜める」ようなものではないということです。
 勁力を一般日常的な力と混同して考えてしまうと、站椿をはじめとする基本功の全ては、より大きな拙力を手に入れるための練功となってしまい、そこから勁力を理解していくことはたいへん難しくなります。

 勁力とは、整えられた構造が原理に沿って動いたときに生じるチカラであり、例えば先ほどの対練のように、弓歩の姿勢から正しく一歩を出せたときには、一歩を出すために動き始めたその瞬間からチカラが生じており、一歩出す間に力をためておいて、然る後に一気に放出するという種類のものではないのです。
 もしそのようなものが太極拳の力だとしたら、站椿や基本功での動きはグッと貯めてパッと打ち出すような動きであるべきですし、そうなると等速・等力や無極の要求を守ることも、全く必要なくなってしまいます。むしろ、走り込みや縄跳び、筋トレなどの太極拳とは正反対の訓練が必要になってくるかもしれません。

 繰り返しますが、「勁」は予め溜めておいてから出すような種類のものではありません。
 稽古では「勁」を ”電気のようなもの” であると喩えられることもあります。
 家庭のコンセントの所まで、それはすでに到達しているものであり、後はスイッチを入れれば電灯は点き、スイッチを切れば消えます。それも蛍光灯のような点灯までに時間の掛かるものではなく、白熱灯のようにスイッチを入れると同時に点灯するものです。スイッチを入れた後に力が溜められてから出されるような種類のものではないのです。
 そして、電気の通っているコードが「勁道」にあたり、その勁道にはすでに勁が通っている為に、触れれば(スイッチを入れれば)崩れ、吹っ飛ばされる(電灯が点く)ということが起こるのだと説明されることもあります。

 私たちがこの説明を初めて耳にしたときには、「勁」という、日常から見れば異質な、難解に思えるチカラをすんなり受け入れられたと同時に、このような認識を「太極勁」習得のための大事な第一歩として考え、ここから学習を始めなければならないと思いました。

 また師父は、『それは何も太極拳に限ったことではなく、そもそも力を溜めてから作用させるようなものは武術とは言えない』と言われます。よく考えてみれば、触れるだけで即斬れてしまうような刃物を手にした場合に ”溜めてから斬る” などということはちょっと考え難く、より時間を多く必要とする「溜める」という考え方自体、高度な武術の本質から外れているのではないかと思えます。

 そういえば、稽古中に受ける全ての対練の感覚は、”斬られる” 感覚と近似しているように思います。刃物に対しては此方が手で防いでも足で踏ん張っても、抵抗も虚しくバッサリ切られてしまいます。稽古でも同じように、たとえどのように抵抗しようとも、根本からひっくり返され、時には重力に反して軽々と浮かされ、時には突然落とし穴に掛かったように地面に吸い込まれ、こちらの抵抗は全くの無意味になってしまうのです。
 それは、こちらが相手を拘束しに行っても、お互いに同じ条件で投げ合っても、散手で打ちに行っても、全て同じ感覚が返ってきます。
 そしてどの場合にも、こちらが抗えないような強大な力によって屈服させられるのではなく、むしろ自分の側に立っていられないような、力が抜けていくような「どうしようもなさ」によって崩されてしまうのです。
 その「どうしようもない感覚」が、素手で刃物に向かっていったときの「斬られる感覚」と同じように感じられるのかもしれません。

 稽古では、お互いに「四つ」に組んで崩し合うものも行われており、それなどはとても興味深く、太極拳の考え方が分かり易いと思われますので、いずれ折を見てご紹介していきたいと思います。


 正しく整えられ、よく練られた架式には「勁道」が備わり、そこにはすでに「勁」が通っているということ・・・・それ故に、相手に触れたところから架式が動けば「勁」がはたらき、同時に相手も動かされているために、結果として立っていられない、崩される、ということが起こります。
 それでは「勁道」はどのようにして身体に備わるのか、と言えば、それは「基本功」をひたすら練ることによって養われるのです。わずか数種類ほどしかない基本功の動作は、まさに「勁道」を確立するために存在していると言えます。
 基本功で練られる「勁道」が見えてきたら、次は四正手の「勁」を練ることができます。



                                 (つづく)



        




        


xuanhua at 22:14コメント(8)練拳 Diary | *#31〜#40 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2010年07月19日 23:42
この、日常的な感覚で間違えやすい「チカラをためる」ということ、考えてみると
実に面白いですね。
そもそも、人間の身体構造を物理的にみていけば、何かをためて放つというようには
出来てはいないものだと思います。
それは同じ構造を持つ相手に対する場合にも同様だと思います。

実際に稽古で体験したことを含めると、いかに架式が重要で、かつ、理にかなっている
かということがありありと実感させられますね。
それを発見し「勁」という名前をつけて、運用方法まで事細かに体系化した先人たちの
叡智には、ただただ驚かされるばかりです。
 
2. Posted by まっつ   2010年07月20日 07:22
確かに師父や上級者の方々に崩される時は、
過程に時間が無く、一瞬にしてどうしようもなく崩されてしまいます。
動かされるというよりは、動いてしまっていますし、
耐えようとしても、その働きが無効になってしまいます。
力の量は大きくないのに、作用の影響力は極めて大きいのです。
力の世界に馴染んだ身には、とても不思議な現象に感じられます。
その秘密が全て架式にある、「形」にあると喝破されているのですから、
それこそを心して求めたいと思います。
 
3. Posted by のら   2010年07月21日 11:54
「拙力」と「勁力」は、正反対のものだと、つくづく思えます。
私たちは、太極拳を学ぶことで初めて勁力に出会うことになったわけですが、
その実感は、誰もが師父と手を合わせてもらった時であって、
「え〜っ、ウッソォ────!」となったはずです。(笑)
何と言っても、自分の身体がまったく反応できないのですから、嘘のようです。

勁力を理解する稽古というのは、師父に勁を掛けられ、門人同士の稽古で力を受け、
それを繰り返すことによって、「ああ、これが勁力なのだ・・!!」と、
ハッキリと違いが分かってきて、勁力の学習が、太極拳が、とても面白くなってきます。

でも、「本物の勁力」を受けなければ、決してその面白さは分からないことでしょう。
そこに少しでも拙力、つまり自分と同じような日常の力が感じられたなら、
ここに居る誰もが、これほどには太極拳にはのめり込まなかったかもしれません。
「何の力みもないのに人が軽々と飛ぶ・・・コレが勁力なのか、スゴイッ!!」・・と、
本物の勁力で毎回それを体験させてもらえることが、私たち門人の大幸運でしょう。

この世界ではそれを修得した師を何年も探すと言いますが、これでは遠方からでも通いたく
なると思います。実際に、島根、広島、福島、長野、アメリカ、オーストラリアなどの遠方
から足繁く通ってくる門人たちが存在するわけですから・・・
私たちは、おそらく太極拳を習得するのに一番の近道にいるのだと思います。

───玄花さんの「勁力シリーズ」、今後も楽しみにしております!
 
4. Posted by 円山 玄花   2010年07月23日 00:17
☆トヨさん
普通は、出される力は溜めた力に比例すると考えられますよね。
特に師父の勁を受けたときなど、手は触れたままで、身体にもモーションがないので、
腹や腰やインナーマッスルなどにギュギュッと力を入れて、一気に放出しているのではないか
と、考えてしまうわけです。
よく考えれば、そんなところに力が溜まるわけがないのですが。

自分の思う「力信仰」を捨てて太極拳の体系に身を委ね、そして「架式」の持つ意味や役割に
目を向け、耳を傾ければ、誰にでも「勁」という力を発見することができると思います。
 
5. Posted by 円山 玄花   2010年07月23日 00:21
☆まっつさん
>力の量は大きくないのに、作用の影響力は極めて大きい・・・

このことこそ、筋力や腕力ではない、「勁力」の証であると言えますね。
「架式」の稽古は、まず姿勢や形がカッチリと守られて外れていないことが大切です。
自分の身体にとっては不慣れな運動で、動きにくかったりもしますが、要求を外さずに、
丁寧に整えていくことで、次には「架式で動ける」ということが見えてきます。
そうなると、套路などはとても面白くなってくると思います。
 
6. Posted by 円山 玄花   2010年07月23日 00:23
☆のらさん
確かに、「本物の勁力」を受けていなければ、これほどの探求心は出てこなかったと思えます。
同じ人間なのに、全く質の異なる力が感じられるのですから、これほどの驚異はありません。

単に自分より体格の大きな人に、力の大きさや動きの速さで適わないだけなら、
こちらのトレーニング次第では、筋力も増やせるし、速さも養えますが、
全く異なる、非日常的な力であるならば、やはり日頃から師父に言われているように、
考え方を変えなければ、その力は習得できないのだと思います。

>太極拳を習得するのに一番の近道
「道」に近道はないと、私は思っていますが、
それでも、一切の遠回りをする必要がないという意味で、やはり一番近いのだと思います。
道を探すところからではなく、すでに「この道を行け!」と示されているところから、
私たちの修行が始められているのですから。
 
7. Posted by マガサス   2010年07月23日 02:21
>文字通り自分をピタリと「形にはめる」からこそ、
>はじめて勁という太極拳のチカラの本質を感じられるようになるわけです。

自分のやりたいように、やりやすいように、という数えきれないほどの自分勝手、
インスタントな考え方、甘さ、粗雑さを思い知らされることばかりです。
自分なりの、自分が執着していた日常が、こんなに厄介な物だったとは・・・

「正しい身体の構造」を理解するために、正しい精神の状態や考え方を学ぶことが、
たいへん重要であると痛感しています。
指導されている条件に沿って丁寧に練功を積んでいくことで、
正しく「架式」を取ることができ、太極拳の理解に繋がっていくのですね。
 
8. Posted by 円山 玄花   2010年07月23日 16:02
☆マガサスさん
太極拳を習得しようとしたときには、自分の生き方や考え方が直接の問題として、
自分の身にザンザカ降りかかってきますね。
「普通はこうだ」とか「自分はこう思う」などということは一切通用しません。

日常の物の見方、考え方、感じ方でがんじがらめになっている私たちに、
”救済法”として用意されているのが「架式」なのだと思います。

「架式」は、それを丁寧に整えようとするだけで「力」から「仕組み」へと自然に
目を向けることになり、太極拳の修行に最も必要な発想の転換が起こります。
そうなると、「勁」というチカラも、比較的理解しやすいと思います。
 

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