2010年07月01日

連載小説「龍の道」 第48回




 第48回 訓 練(7)


 パタパタと、窓のカーテンが風に揺れる音で、宏隆は目を覚ました。

 ここは『白月園乾洗名店』、つまり地下に秘密訓練場を持つ大きなクリーニング店・・・秘密結社・玄洋會が密かに経営するそのビルの、四階にある一室である。

 三日前に初めてこの店を訪れてからずっと、宏隆はホテルに戻らず、そのまま此処に泊まり込んで殆ど外にも出ず、射撃の訓練に余念がなかった。

「貴方さえよければ、ここに泊まって訓練を続けても構わないのですよ。円山大飯店から通って来るのも良いけれど、そう毎回秘密の通路を使うわけにも行かないでしょうし、敵に尾行されたり、それを撒(ま)いたりするのも面倒でしょうから・・・」

 白月園の女主人・・・陳中尉の姉でもある陳明珠さんからそう勧められるままに、社員寮でもあるビルの一室を宛がわれ、そこでしばらく寝起きをすることにしたのだ。

 時計は朝の五時を少し回ったところを指している。煉瓦造りのこのビルは、台湾の夏にしては思ったよりも過ごしやすく、涼しい風が部屋の隅々にまで入ってくる。
 大きく背伸びをし、ベッドからガバリと飛び起きてカーテンを開けると、眼下の中庭に明珠さんの愛犬、阿南が居る。ヒューッと口笛を吹き「你早(ニーツァオ)、アナン!!」と呼びかけると、阿南も宏隆を見上げて「ウォン!」と嬉しそうな声を出して千切れるほど尻尾を振る・・・犬が大好きな宏隆は、もうすっかり阿南と友達になっていた。

 その窓に向かって立ち、しばらく「無極」を整えた後に、馬歩を膝から爪先までの長さに取って立ち、「開合勁」でゆっくりと深い呼吸をする・・・・前後に、左右に、上下にと、「三開合」と呼ばれる三種類それぞれの形を、徐々に大きく展開しながら、その動作に合わせて呼吸も徐々に深くしていき、身体を整えていくのだ。無極椿から三開合までの訓練は、宏隆の朝の習慣になっているが、それを練り始めるとあっという間に身体が目覚め、意識がハッキリとしてくる。
 この数日、陳中尉からグラウンディングの指導を受けている為か、馬歩の内容が明らかに変わってきている。何よりも、立ったままの姿勢なのに腰掛けている実感が宏隆に出てきているのだ。そして、無極椿や馬歩が整えば整うほど「勁(けい)」に関心が出てくる。
 三開合は「勁」を理解するには分かりやすい入口であった。

 太極拳で学ぶ「呼吸法」は全部で六種類ある、と王老師に教えられた。宏隆はすでに四番目の呼吸法まで指導を受けていたが、基本とされる三種類も完全ではなく、特に四番目の呼吸法については未だ模糊として、どのように捉えれば良いのかもよく分からなかった。
 しかし、深く ”意念” を用いて「神(Shen)」と「息(Xi)」を結合させる訓練として行われる『神息=Spirit Breathing』と呼ばれる第四の呼吸法は、この三日間、陳中尉の指導で射撃の訓練をやり続けていた所為か、不思議とこれまでよりも身近に感じられる。
 こうして朝のトレーニングをしていると、呼吸自体が自分とは別に、自然に行われているような気がしてくるのだ。

『集中をするために、肉体的、精神的なチカラ(Force)を使ってはならない。
 ただ肉体と精神が寛いで、放鬆した状態に留まることだけに注意を払いなさい。
 そうすれば四番目の呼吸が意味することを理解できるだろう・・・』

『この第四の呼吸法が理解できるようになれば、君はようやく易筋経や洗髄経などの
 気功法のための、堅固な土台を築き上げたことになる・・・・』

 まるで、目の前に師が居るように・・・・そう宏隆に諭した王老師の言葉が、有り有りと思い出されてくる。

 宏隆は次に、半馬歩(pan-ma-bu)で前後に足を開き、四正手の勁を練り始めた。三尺の広い馬歩ではなく、その半分か、三分の一ほどの狭いスタンスで練るのだ。
 このような高い姿勢でも、腰は吊り下げられて低く落ちている。狭いスタンスでは、より構造がキッチリと決まらなくては正しく動けない。そして、人間の構造そのものが機能しないように造られてしまった身体では、落下や筋肉の力みによる移動といった単純な動きを繰り返すしかなく、月並な早さと日常的な拙力に頼って力を出すしかない。

 宏隆は常に、この半馬歩で勁を練る訓練を好んで行った。
 始めはゆっくりと、身体の構造と使い方を丁寧に合わせながら、弸(ポン)の動作をその場で立つ定歩で練り、やがて前進、後退を数歩ずつ繰り返しながら、徐々に早く、徐々に勁が大きくなるように、「勁」という字義が表すままに、勁疾(はや)く、勁健(つよ)く、勁草の如く撓(しな)やかに動いていく・・・・・
 しかし、それは力強く見えても、決して力んではいない。宏隆の身体は至って柔らかく使われていて、拙力から来る力みの片鱗も見えないのだ。また、柔らかいとは言っても、単にフニャフニャとした柔弱な軟(やわ)らかさではなく、身体の張りは勁直(けいちょく)なままに、余分な力みが何ひとつ存在し得ない構造ゆえの柔らかさであった。

 それら四正手の勁をすべて練り終えると、今度はしばらくの間、様々な奇妙な形に身体を婉(くね)らせながらゆっくりと床を転がり回ったり、逆立ちの恰好で壁のあちこちを足で伝い歩きをしたり、壁で垂直に跳ねたり、或いは部屋の入り口の桟に指先だけでぶら下がって懸垂をし、椅子を使った腹筋運動のようなものを何種類かこなしていたりしていたが、やがて顔一杯に玉の汗を浮かべたまま、シャワールームに向かった。


 クリーニング店の朝は早い・・・・
 土曜日だというのに、シャワーから上がってくると、もう階下(した)の洗濯工場で物音がし始めている。この店は大きなホテルと契約をしているので、週末の忙しさに備え、昨日の夕方に大量に集荷をしてきたホテルのシーツやら枕カバー、レストランで使ったテーブルクロスやらを、朝から大急ぎで洗わなくてはならないのだろう。

 食事は毎回、明珠さんが自分の部屋に招いてくれる。
 宏隆が恐縮していると「家族なのだから何の気兼ねも要らない」と言ってくれる。
 この「家族なのだから」という言葉を、台湾に来てから何度聞いたことだろうか。

 その明珠さんは、毎朝宏隆が起きる頃にモーニングコールをしてきて、『Good Morning ヒロタカ、美味しい珈琲が入ったわよ・・!』と声をかける。
 今朝もその電話が鳴って、てっきり同じ科白が出るのかと思ったら、『今日は ”スペシャルな珈琲” が入ったわよ!』と言うので、ちょっと期待して、急いで髪を梳かして部屋を訪れると、『・・さあ、これが何の珈琲だか当ててごらんなさい!』と、楽しそうに言う。

 宏隆は珈琲が好きだ。生まれ育った神戸の街には珈琲専門店が数え切れないほどあって、小さい頃からずっと珈琲を愛飲してきた。

 わが国に珈琲が入ってきたのは天明年間(1780年代)に長崎の出島にオランダ人が持ち込んでからだというが、実際に珈琲を飲ませる店が開かれたのはそれから百年も経った後のことで、明治21(1888)年に東京上野にオープンした「可否茶館」がそれである、というのが定説となっている。
 この「可否茶館」の創業者は鄭永慶という中国人実業家で、明治維新の後に北京代理大使を務めた鄭永寧の次男だが、その先祖は、かつて反清復明の旗印を掲げて清と戦うも南京で大敗し、新たな反攻の拠点として台湾を占拠し、漢民族として初めて二十数年間台湾を支配することになった、あの「鄭成功」であるというから面白い。

 国姓爺と称されたこの鄭成功も日本の生まれで、長崎の平戸で父・鄭芝竜と日本人の母、田川松との間に生まれ、幼名を福松と言って七歳まで平戸に暮らした。父の鄭芝竜は福建省の厦門(アモイ)辺りの島を本拠に密貿易で稼いでいて、政府軍や商売敵の連中と対抗するための私兵を擁していたような人であったという。
 日本には、今もその「日本鄭氏 ”国姓爺” 子孫会」というのがあって、上野の三洋電機の社屋がある所に『日本最初の喫茶店・可否茶館跡地』という記念碑を建て、2008年4月に除幕式が行われている。その「可否茶館」は経営難の為、わずか数年で閉店を余儀なくされたが、それから八十年も経った1968年に創業者の孫に当たる人が同名の喫茶店を再興して、今でもその店が阿佐ヶ谷にあるらしい。

 因みに、「国姓」というのは中国の君主の姓のことであり、漢の劉氏、清の愛新覚羅氏、明の朱氏、晋の司馬氏などがそれに当たる。明が滅んだ時に鄭芝竜らが擁立した亡命政権の隆武帝(朱聿鍵)は、芝竜の息子の鄭成功をいたく気に入り、国姓である朱姓を下賜したが、それでは畏れ多いと、本人は決して朱姓を使わなかった。以来、鄭成功は国姓を賜った人という意味で ”国姓爺” と尊称されるようになった。
 なお、台湾を拠点に明朝の復興を図った鄭成功の物語は、近松門左衛門が人形浄瑠璃の『国姓爺合戦』として創作し、後に歌舞伎にもなって、正徳五年(1715)大阪で初演から十七ヶ月間連続講演の大記録を打ち立てている。

 序でながら、記録に残る日本で初めて開かれた珈琲店は、明治7年(1874)に創業し、現在も神戸の元町で営業を続ける『芳香堂』という店である。
 上野の「可否茶館」の創業より14年も遡った明治11年(1878)12月26日付の読売新聞には、【 焦製飲料のコフィー、弊店にて御飲用或は粉末にてお求め共に御自由 】という、芳香堂のハイカラな宣伝広告が出されている。
 ”焦製” とは焙煎のことであるから、この店は珈琲を飲料として供するだけでなく、焙煎した豆の挽き売りもしていたわけである。つまり神戸市民は明治の初め頃には既に珈琲を愛飲し、挽いた珈琲豆を買ってきて、家で淹れて飲んでいたことになる。
 「芳香堂」は宇治に茶園を持つ松平家御用達の大茶商であり、慶応3年(1867)に神戸に貿易商館を建てて日本茶の輸出を行い、その頃から珈琲豆の輸入が始められている。 


 閑話休題・・・・

 その神戸で生まれ育った宏隆に、何の珈琲だか当ててごらんなさい、と明珠さんが悪戯っぽく言うのである。部屋の中には珈琲の芳香が高く鼻をついて、それだけでも若い身体には俄然食欲が湧き出てくる。
 
「えっ、僕に珈琲のテイスティングをせよ、と仰るんですか・・?」

「そうですよ・・・でも、貴方にはすぐに判ってしまうかも知れないわね」

「あはは、産地を当てなさい、と言われても困りますが」

「・・・まあ、ともかく、飲んでみてごらんなさい」

 薫り高い、その漆黒の色をした珈琲が柔らかい湯気を立てて、銀製のポットから、真夏に相応しい、爽やかなフルーツの絵付けがされた品の良いカップへと注がれる。

 その珈琲カップは、宏隆も好みの「リチャード・ジノリ」である。
 ジノリはイタリアを代表する磁器で、カルロ・ジノリ侯爵が1735年にトスカーナの自領に磁器窯を開いたことに始まる。鉱物学に造詣の深かったジノリ侯爵は、自ら原料の土を探し歩き、生成や発色の研究を続けて、遂にイタリアで初めての白磁器を完成させた。

 明珠さんが愛用するカップは「イタリアンフルーツ」というシリーズで、1760年に貴族のパーティ用に製作されてから今日まで、二百年以上も変わらない、ジノリの不朽の名作なのだと言う。
 手に取ると、やはり良いものは良い・・・何十年、何百年の歳月を経ても大切に遺され、踏襲されていくものは本物なのだと思える。自分が学んでいる陳氏太極拳もまた、何百年もの時間の中で工夫に工夫が重ねられ、研究に研究が続けられ、その拳理拳学が大切に伝えられてきたものなのだと思うと、自分の学び方や関わり方を決して疎放な、いい加減なものにしてはならないと思える。

 しかし、たっぷりとしたそのカップを口元に運ぶと、この香り、この深い味わいは小さい頃から良く知る味ではないか、と直ぐにピンと来た・・・

「あ・・もしかするとこれは、”にしむら” のブレンドですか?!」

「まあ、やっぱりすぐに判ってしまうわね・・・そう、いかにもニシムラの珈琲よ。
 神戸のお店では灘の酒造りに使う ”宮水(みやみず)” で淹れるのだそうですが、台湾ではそうはいかないので、ちょっと申し訳ないわね・・・」

「・・わぁ、まさか台湾でにしむらの珈琲を頂けるなんて、思いも寄りませんでした!
 でも、よく ”にしむら” をご存知ですね、どうやって入手されたのですか?」

「私が珈琲好きなのを知っている船員が、神戸に入港した際には必ず北野の店に行って豆を買ってきてくれるんですのよ。大武號とは別の、報徳號というもうひとつの貨物船で、大切に厨房の冷蔵庫に収って置いて、持ってきてくれるのです」

「いやぁ、とっても嬉しいです。神戸港を発ってからもう十日近く経ちますが、その間全く神戸の珈琲を飲んでいませんでしたからね。自宅で頂くのは、大抵にしむらか、京都の小川珈琲ですし・・・」

「小川珈琲も一度買ってきてもらったことがありますが、美味しいですわね。豆の種類毎に別々に焙煎してからブレンドしていると聞きました。そんな繊細なことをするのは世界でも日本人だけでしょうね。良質の豆で丁寧に焙煎された日本の珈琲は世界でも一流の味に思えます。台湾では、珈琲は、まだまだ富裕層の嗜好品だというイメージが強いのですが・・」

「神戸に戻ったら早速、にしむらのブレンドを送らせて頂きます」

「・・まあ、それは嬉しいですわ、楽しみにしています!!」

「台湾では、珈琲はすべて輸入されているのですか?」

「いいえ、台湾の珈琲の歴史は、実は中国茶よりも古いのです。清の時代に、台湾が中南米の気候と似ていることに目を付けた英国の貿易商が、台北の山林に百本余りの珈琲の木を植えたことがその始まりですが、その時は木の管理が悪くて全部枯れてしまいました。
 その後、日本統治時代になると、東部と南部の山間部に大規模な珈琲農園と工場を造って生産するようになり、アジア最大の珈琲工場にまで成長しました。
 日本人と共に研究し栽培した ”台湾珈琲” は、世界コンテストで第2位に輝くほど品質に優れていて、昭和天皇にも献上された由緒正しいものだったのですよ・・・」

「すごい!・・・そんな話は聞いたこともありませんでした」

「日本が戦争に負けて、国民党軍が台湾に入って来ると、珈琲の生産も中止されました。
 まだ台湾では珈琲を愛飲する人が少なかったので、栽培は無意味だと考えられたのです。
 でも、近代化の始まった現在の台湾では、国を挙げて珈琲の栽培が始められています。
 珈琲農家は日本が統治した時代の夢を追い求めて、世界の名産地に一歩も引けを取らない、その ”幻の珈琲” をもう一度造ろうとしています。二十年も経てば、きっと夢が実現するに違いありません。台湾の珈琲は、日本人が遺してくれた貴重な贈り物なのですよ・・・」


 ・・・・朝の心地よい涼風が、円卓に飾られた鮮やかな花をそよそよと揺らし、高く鼻をつく珈琲の薫りを部屋中に広げている。
 壁が白く塗られた高い天井を持つこの部屋には、明朝の瀟洒な飾り棚やスツールが置かれているが、このジノリのカップをはじめ、李朝の壺や、有田焼の大皿、バリの籐製の椅子やベトナムの美術品まで見られて、明珠さんという人が異文化に広く興味を持ち、自分に合ったもの、美しいと感じるもの、丁寧に造られた一流のものを愛惜しむようにして使っていることが分かる。

 本当に、宏隆の知らない日本の歴史がたくさんある・・・今の台湾珈琲の話といい、台湾に来てからは自分の国について、新たに知らされ驚かされることばかりであった。
 そして、何故今の日本人はそれを知らないのか、教えられていないのか・・・・


「明珠さんは、 ”にしむら珈琲” の歴史をご存知ですか?」

「いいえ、存じません。でも、これが一流の人の考えで繊細に造られた、一流の珈琲であると言うことは充分に感じられますが・・・」

「では、台湾の珈琲のお話を聞かせて頂いたお礼に、説明させてください。
 父から聞いた話ですが・・・」

 そう言って、宏隆が明珠さんに語るところによれば・・・・

 神戸北野のハンター坂を下ったところ、宏隆が毎朝パンを買いに行くフロインドリーブの隣にある「にしむら珈琲」は、まだ敗戦のショックも冷めやらぬ昭和23(1948)年、巷には大豆を煎った代用コーヒーしか無かった時代に、極上の輸入豆から形の整ったもの、色艶の優れたものだけを選り分け、自家焙煎をして一杯ずつネルドリップで淹れる ”本物の珈琲” を出す店として始められた。
 「にしむら珈琲店」は現在でこそ立派な外観を誇るが、創業当初はわずか五坪のバラックの店先にテーブルを三つ置いただけで、客に出すカップも、まともな物はたったの二つしか無いような店であったという。

 そのオーナー、ただ独りで店を切り盛りする女主人・川瀬喜代子の信念は「一期一会」の茶道の精神であり、もてなしの心を追求し、大切な人を自宅に招くように不特定多数の客に接するということを貫いたものであった。
 そして、上質な豆で珈琲を淹れるには、それに相応しい上質の水が必要であった。
 神戸ウォーターとして海外にその名を知られる神戸の水は、水道の蛇口を捻りさえすれば清冽な六甲の名水が溢れるのだが、川瀬喜代子はそれに飽き足らず、ひたすら珈琲に合う水を求め続け、昭和27年、灘の酒造りに使われる特別な水である「宮水」に行き着き、以来、今日までその水が使われ続けている。

 にしむらのブレンド珈琲は、ブレンドにするには勿体ないほどの一級品の豆ばかりである。その極上の珈琲豆を自家焙煎し、豊かな風味と、それがもたらす安息をお客さまに味わって頂くという徹底した姿勢は、創業から六十数年を経た今も、何も変わらない。
 その信念と努力あって「にしむら珈琲」は日本の珈琲業界のパイオニアとして君臨し続けてきた。日本で初めてストレート珈琲をメニューに入れたのもこの店であるし、カプチーノ、ウインナー珈琲、コーヒーゼリー・・・今日では誰もが知っているこれらの品書きは、全てこの小さな珈琲店から誕生したものである。

 なお、現在の「にしむら珈琲」のホームページには、次のような言葉が記されている。

 《 企業として単に年商高や店舗数の拡大を図るのではなく、業務内容として珈琲店の
  「一流」を目指し、社員にとっては生涯を懸けて打ち込める仕事であり、この仕事を通
  じて自分自身が「一流」になれる可能性を秘めた企業であることを追求する・・・
  この殺伐とした世の中で、何よりも人間味豊かに、心と心が通い合える店でありたい。
  テーブル三つだけの小さな珈琲店として開業した当初からの想いは、時代を超えて脈々
  と受け継がれています。一杯の珈琲を通じて人を大切に想い、人の幸せを追求したい。
  それが我々の喜びであり、「にしむら珈琲店」の永遠の目標でもあるのです・・・》 


「まあ・・・・」

 宏隆が話し終わると、明珠さんの目が潤んでいた。

「やはり、一流のものは、一流の人によって造られるのですね・・・
 かつて日本人が台湾に世界に名立だる珈琲農園を創り上げたことがよく分かります」

「僕の父は、一流というのは、その人の志によるものだ、と言っていました。人間は身分や才能で決まるのではなく、その人間の志が低ければ、何をやっても決して一流には成り得ないのだと・・・」

「・・・そのお父様に育てられて、東亜塾のK先生や王老師など、その道の一流の方々や、陳氏太極拳という一流の武術に出会えたのですから、貴方もきっと一流の人になられることでしょうね」

「本来ぼくは臆病で、怠惰で、能天気な人間なのですが・・・・しかし、そのようなご縁にきちんと報いられるよう、心して学んでいきたいと思っています」


 異国の地で、思いがけなく戴いた神戸の珈琲は、宏隆が普段よく知る珈琲と同じものとは全く思えぬほど、五官を心底から刺激し、新たな活力を漲らせていた・・・・


                                 (つづく)




          


        *2006年に新装オープンした、神戸にしむら珈琲・中山手本店

taka_kasuga at 20:07コメント(8)連載小説:龍の道 | *第41回 〜 第50回 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2010年07月01日 21:35
僕のような若造には、一流のことなどまだわかりませんが、
せめて志だけは高く持っていたいものです。

それにしても、興味深いことが多々書かれてますね・・・。
呼吸法のことなどぜんぜんわからないのですが、個人的にはこれが、

>集中をするために、肉体的、精神的なチカラ(Force)を使ってはならない。
>ただ肉体と精神が寛いで、放鬆した状態に留まることだけに注意を払いなさい。

いろいろな意味で面白いなぁ、と感じました。
 
2. Posted by tetsu   2010年07月01日 23:05
太極拳の稽古の話から、今回は珈琲についての深い話・・・。
文章のボリュームもありますが、取り上げる内容が一つ一つ本当に深いですね。
そして太極拳のことでも珈琲のことでも
「自分が知らないことが本当に沢山あり、奥ってものはどこまでも深いものなのだな・・・」
としみじみ感じてしまいました。
しかし、一つ一つのことを掘り下げていく、追求していくってことは時に苦労を伴うことも
ありますが、人生を豊かにしてくれるものだと思いますね。
この小説を読んでいるとつくづく思いますね。
 
3. Posted by まっつ   2010年07月02日 07:09
一流に触れる経験とは、
ただ一過性の悦楽に興じる経験とは異なり、
常に古くて新しい世界に眼を開かせてくれます。

武藝館で味わわせて頂いている太極拳然り、
時間の流れの中で磨かれた揺ぎの無い軸、
それも志のある人によって守られてきたのですね・・・。
こんなにも身近で一流に接する機会を得ている事を無駄にせず、
初心を忘れず日々を生きたいと思いました。

私は元々は紅茶党で珈琲を飲む習慣は無かったのですが、
師父のお宅で頂く珈琲に魅了されて、
今ではすっかり珈琲党になってしまいました。
一流とはこのようにも人を変えてしまうのですね。

毎回、骨太な内容をお届け頂きありがとうございます。
どーなるんだ、次回!(C)
期待してます。
 
4. Posted by 円山 玄花   2010年07月05日 16:07
本物・本質を基本として歩むために、それが一流の道程を成しているのですね。

たかが珈琲一杯、たかが戦闘法のひとつが、「基本」の姿勢によって一流の藝術になる。
基本はどこまで行っても基本であって、それが秘伝であるということが、再び実感できました。
太極拳の基本、人間としての基本の姿勢を学ぶべく、
今日も稽古に励みたいと思います。
 
5. Posted by 春日敬之   2010年07月05日 20:41
☆トヨさん

武藝では、正しい呼吸法を知り、習得することはとても大切ですね。
王老師の言葉は意味深ですが、第四段階から先になると、こんなコトも出てくるようです。
小生は情報だけは色々と持っておりますので、今後も面白いことを色々とご紹介いたします。

♪人生いろいろ〜、呼吸だっていろいろ〜・・・

 ↑知らん・・やろなぁー・・・(昭和62年っ!・汗)
 
6. Posted by 春日敬之   2010年07月05日 20:49
☆ tetsu さん

本当に自分が知らないことは山ほどあって、物事の奧というのはどこまでも深いのだと思います。
主人公の宏隆君には、たかが珈琲一杯といえども、それを真摯に追求している人にとっては
崇高なる「道」なのだということを分かって欲しくて、こんな話を書きました。

こんな若い日に戻って、もう一度きちんと人生をやり直したいと思いますが、
♪泣きながらちぎった写真を手のひらにつなげてみても、青春の後ろ姿は・・・
後悔先に立たず・・・ひいっっ!!(涙)
 
7. Posted by 春日敬之   2010年07月05日 21:06
☆まっつさん

やはり、「一流」というのは「在り方」の問題であって、
「やり方」になると、ただの「ポーズ」や「自己流のスタイル」になってしまうのだと、
つくづく思い知らされます。
そう言えば、「自己流」という「やり方」で一流になった人は存在しませんね。
自己流はとても心地良いものですが、行き着く先が「高み」ではないというのが、
一流とは異なるところなのでしょう。

師父は、珈琲党であるだけでなく、
さる有名な紅茶評論家の経営する紅茶専門店に足繁く通われていた紅茶党でもあります。
紅茶は珈琲と同じように、なかなか美味しく淹れるのが難しいものですが、
その深い味わいには珈琲同様、すっかり魅了されてしまいますね。
しかし日本人が「日本茶」の味をよく分からずに、珈琲紅茶と言っているのも情けない話です。
師父は日本茶もよく嗜まれ、茶道だけでなく煎茶道を研究されたこともあります。
武藝館のシェフは、様々な種類の日本茶を正しく入れる技術を身に付けている、といいます。
  
8. Posted by 春日敬之   2010年07月05日 21:19
☆玄花さん

太極拳では、武術が単なる戦闘のための技術ではなく、
「道」や「藝術」にまで高められているのが素晴らしいですね。
太極拳自体が有する技藝としての内容の高さもさることながら、
それをこのレベルまで高めて来た先人たちのインテリジェンスにも敬服します。
今後、誰が、何を、どのように伝え、高めていくのか・・・・
太極拳の真伝が、もっとより多くの人たちに正しく伝えられていくことを、
心より願うものです。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ