2010年06月21日
練拳 Diary #31 「勁力について その2」
by 教練 円山 玄花
「勁」・・・その特殊で微妙な整えられた力は、稽古で練り、体験を重ねるほどに、なお不思議な力であると思えます。それは、勁という力があまりにも日常の発想から離れた質のものであり、また、私自身が未だ未だ日常性の域を出ていない故かもしれません。
しかし「勁力」というものを太極拳の訓練体系から眺めてみれば、決してそれほど特別なものではなく、むしろ勁というチカラを用いることの方が、ヒトとしてごく当たり前の、自然なことのような気さえしてきます。
なぜなら、站椿で立つことはヒトが構造的に最も自然に正しく立てるというところを少しも離れてはいませんし、歩法や套路で要求されることも困難極まりない特別なことではなく、指摘されることに素直に耳を傾けさえすれば小学生にでも訓練していくことができる、至ってシンプルな内容であるからです。
そして、自分自身のことを考えてみても、太極拳を学ぶことで見えてきた「動く」ということに関する考え方や身体の使い方の方が、以前と比べて遙かに無理や無駄のないものであると感じられるからです。
「勁力」と呼ばれるチカラもまた、単語だけで見ると、何か特別で神秘的なもののような気がしますが、各種の練功を稽古していく中で、こちらに伝わってくるチカラの感覚や、その時々の状況などを細かく見ていけば、決して神秘の力でもなければ超常的な気の力でもなく、とても実際的な力であるということが、誰にでも直ちに感じられると思います。
その「太極勁」を習得するためには、「勁」が非日常・非拙力のチカラであることを常に念頭に置き、自分が既によく知っている力を工夫するのではなく、全く未知の新しいものとして受け入れ、学んでいくことが ”鍵” となります。
さて、「出力・出勁」の稽古に入る前に、忘れてはならない重要なコトがあります。
それは、《 全ての勁力は、正しい架式から生じる 》という認識です。
これまでに腰相撲のシリーズでも述べてきたように、正しく整えられた架式なくして正しいチカラは発生しません。
事実、3〜4人の門人に思い切り腰を押して貰う訓練でも、それに楽に耐えて返すことの出来る上級者が、架式の要求をただひとつ故意に外しただけで、たった一人を相手にしても返せなくなってしまうという事が起こります。いや、返せなくなるというよりは、架式の仕組みが崩れて拙力でしか対抗できなくなったということが、本人は勿論、周りで見ている人にも目に見えてよく分かるのです。
では、「架式」とは、一体どのようにして整えられるものなのでしょうか。
例えば、お馴染みの腰相撲でも「右弓歩」の架式を取るときには、直立した姿勢から左足先を開き、左足に乗って右足を前方に大きく踏み出します。その時、右の膝は垂直に立ち、左の膝は完全に伸びているようにします。上半身は真っ直ぐに起ち、腰は前に弛んで回ることのないように、前後にピシリとキレているようにします。
架式を取ると言えば、ただこれだけのことなのですが、その際に重要なことは、完成姿勢が如何に決まっているかではなく、その姿勢になるまでの過程が如何に太極拳の要求を外れていなかったか、ということです。
仮に完成姿勢だけが問題にされるのなら、かの「跌岔」などは、完成姿勢さえ正しければ、どのような足の踏ん張りや足の蹴り上げを用いて立ち上がっても良い、ということになってしまいますが、そのような自分勝手に動いて良いものが、生命の遣り取りに関わる戦いの為の訓練になる筈もなく、同時に「型」の稽古をする意味も存在しなくなります。
「型」というのは、何も套路などの決められたものだけを指すわけではなく、右足を前に出して右弓歩を取るということも、それが武術としての訓練である以上、勝手気儘に動けるところはひとつとして無いのですから、それ自体が立派な「型」の稽古であると言えます。
よく稽古中にも、各自が架式の完成姿勢を鏡に映して確認し修正をする姿が見られますが、本来の稽古の在り方としては、完成姿勢に行くまでの過程である、姿、形、動き、といったものこそが修正されるべきであり、動作の終了後にアレコレと直してみても、示範された事と自分との違いは確認できても、それ自体は正しい修正にはなりません。
何故なら、架式は「意」によって導かれるからです。
【 用意不用力(意ヲ用イテ、力ヲ用イズ)】という言葉は、太極拳の最も大切な要求のひとつであり、基本功、套路、対人訓練など太極拳に関わる全ての訓練に於いて貫かれるべき要訣です。套路や基本功で手の位置や身体の向きを修正する際にも、それが「力感」ではなく、「意」によって動かされなくてはなりません。
私たちの稽古で、ひとつの動作、ひとつの架式に対して、あれほど繰り返し多くの注意を受けるのも、各自の「意」に対する意識がとても重要であるからだと思えます。
套路で言えば、ただ一着(一技法)を師父について動く間にも、師父や教練から、そして同じ一般クラスの先輩からも、正しい在り方についての注意や、間違いに関する多くの指摘が為されます。
ほんの一例を挙げますと、
「その動きは明らかに原理から外れている動きである」
「合わせるのが遅い。示範にピタリと合わせて動けなくては自分の誤りに気付けない」
「静止して確認を促された瞬間の姿勢が、示されたものと大きく異なっている」
「そこで胸とお尻が出るようであれば、その手前の動きでアシの蹴りを使っている」
「もし、その動きが要求の通りなら、その時に手足はそのような位置には来ない」
「その問題の根本は、やはり ”正しく立てていない” ことに因ると思える」
・・・等々といったような、様々な注意を受けることになります。
しかも大抵の場合、一人の門人が抱えるひとつの問題は、その人が行う全ての練功に於ける共通する問題点でもありますから、例えば套路で間違いだと指摘されたところは歩法でも同じ間違いが存在しますし、やはり対練に於いてもその誤りが有り有りと出てくることになるのです。
詳細にわたる指摘と自己修正の繰り返し・・それが延々と、一日5時間も10時間も、或いは何日も何ヶ月も続くと、やがて誰にも「気づき」と「発見」が訪れるようになります。
指摘されたポイントを修正しようとするとき、単に身体だけを動かして修正されたものは、遅かれ早かれ、また同じ状況に身体が戻ってくるということ。
自分の構造の誤りを認め、意識的に正しい構造を認識できた時には、たとえ精度は十分でなくとも、その瞬間から正しい構造で動くことができるということ。
また、自分の間違いが認められない場合には、同じ間違いが際限なく繰り返されるということ。そして、何度も身体各部の位置や動きの修正を繰り返していくうちに、そもそも「意」でなければ、自分の「構造」には何ひとつ関われないという事がようやく見えてきます。
稽古中に幾度となく聞かれる「真似をする」という言葉もまた、同様にその「意」を促すものです。普通は、動きながら動作を真似しようとする際に、見たものを一旦アタマで考え、分析してから身体に反映させようとするので動きが遅れてしまいます。しかし、遅れないように動こうとしたときには、自分勝手な思考では追いつかないので、それを止めて、意識的に「ただ合わせよう」とする働きが起こるわけです。
よく、自分独りで稽古をしていると、足の筋肉の力みを多用してしまい、動けば動くほど身体は重くダルく感じられてしまうが、師父の動きにピッタリ合わせて動いてみると、驚くほど身体が軽く、足の力みなど不思議と少しも感じられない・・・などということが多く聞かれますが、これなどは「意」と「思考」の違いが明確に現れていると思えます。
つまり、自分で動こうとしたときには、指摘された要求がグルグルと頭の中を巡っているために「思考」となり、「思考」は直ぐには身体に反映されないので「力感」で身体を動かすことになるのですが、示範に正しく合わせようとして動いたときには、そこに「思考」を挟む余裕がありませんから、「見たものを、見た瞬間に、見たまま動く」という「意」が働き、それによって示範と同時に全身を動かすことが出来る、ということになるのでしょう。
「黙念師容」という要求は、まさにそのような学習方法を示しているのだと思います。
一般クラスの稽古で「用意不用力」という言葉が毎回のように出てくることはありませんが、師父や教練について動くことや、架式や歩法に対する細かく厳しい要求があるために、《「意」を用いることで身体が動く 》ということを最初から学んでいることになります。
そしてさらには、意が働けば気が動き(以意行気)、気が動けば身体が動く(以気運身)ということも、自ずと理解されてくるようになります。
「気」という言葉もまた、「発勁」などと同じように神秘やオカルトの世界のことだと誤解されがちなもののひとつですが、私たちの道場では、それを分かり易く説明するために、よく「エネルギー」として語られます。
生命を、生命たらしめている根源的なエネルギー。
それは、大地にも、ヒトにも、天(宇宙)にも存在し、満ち溢れているエネルギーです。
ヒトもまた、起きていても寝ていても、休むことなく動き続けている ”生命体” ですから、当然エネルギーによって動いているわけです。そのような、ヒトが動くために必要な内在しているエネルギーの総称を「気」と呼んでいるわけです。
普段、気力旺盛な人を、「あの人はエネルギッシュだ」などと表現することもあるように、「気=エネルギー」として考えれば、取り立てて特別な物として扱う必要はないと思えます。
他にも、心意気、意気込み、意気揚々、生意気、意気消沈など、思いつくままに挙げてみても、私たちの生活の中で「意」と「気」に関係する言葉は、非常に多く日常的に、身近に使われていることが分かります。
・・少し話が逸れましたが、各練功に於いて必ず「意」が用いられるように稽古し、「意」によって身体が動くようになれば、「意」が働いたことによって「気=エネルギー」が動き、「気」が動いたときには「勁」が働く、ということになるでしょうか。
したがって、右足を前に出して「右弓歩」を取る際にも、その一挙一動に「意」が用いられなければならず、そのような訓練を経て整えられた右弓歩の構造には、既に「勁」が働いているため、数人掛かりで腰を押していこうと、どれほどの拙力を以て関わろうとも、容易に押せるようなものではなくなるわけです。
もし慎重に架式を整えたにも関わらず、軽い力で自分の架式が崩れてしまうようであれば、それはまだ弓歩になる前の「馬歩の構造」が理解されていない故であり、弓歩の架式を修正する前にもう一度「站椿」に立ち返って見直す必要があると言えるでしょう。
基本中の基本である、正しい「架式」の整え方によって、「勁」というチカラの質に僅かでも触れることができたら、そこからようやく「太極勁」を習得する旅が始まります。
(つづく)
「勁」・・・その特殊で微妙な整えられた力は、稽古で練り、体験を重ねるほどに、なお不思議な力であると思えます。それは、勁という力があまりにも日常の発想から離れた質のものであり、また、私自身が未だ未だ日常性の域を出ていない故かもしれません。
しかし「勁力」というものを太極拳の訓練体系から眺めてみれば、決してそれほど特別なものではなく、むしろ勁というチカラを用いることの方が、ヒトとしてごく当たり前の、自然なことのような気さえしてきます。
なぜなら、站椿で立つことはヒトが構造的に最も自然に正しく立てるというところを少しも離れてはいませんし、歩法や套路で要求されることも困難極まりない特別なことではなく、指摘されることに素直に耳を傾けさえすれば小学生にでも訓練していくことができる、至ってシンプルな内容であるからです。
そして、自分自身のことを考えてみても、太極拳を学ぶことで見えてきた「動く」ということに関する考え方や身体の使い方の方が、以前と比べて遙かに無理や無駄のないものであると感じられるからです。
「勁力」と呼ばれるチカラもまた、単語だけで見ると、何か特別で神秘的なもののような気がしますが、各種の練功を稽古していく中で、こちらに伝わってくるチカラの感覚や、その時々の状況などを細かく見ていけば、決して神秘の力でもなければ超常的な気の力でもなく、とても実際的な力であるということが、誰にでも直ちに感じられると思います。
その「太極勁」を習得するためには、「勁」が非日常・非拙力のチカラであることを常に念頭に置き、自分が既によく知っている力を工夫するのではなく、全く未知の新しいものとして受け入れ、学んでいくことが ”鍵” となります。
さて、「出力・出勁」の稽古に入る前に、忘れてはならない重要なコトがあります。
それは、《 全ての勁力は、正しい架式から生じる 》という認識です。
これまでに腰相撲のシリーズでも述べてきたように、正しく整えられた架式なくして正しいチカラは発生しません。
事実、3〜4人の門人に思い切り腰を押して貰う訓練でも、それに楽に耐えて返すことの出来る上級者が、架式の要求をただひとつ故意に外しただけで、たった一人を相手にしても返せなくなってしまうという事が起こります。いや、返せなくなるというよりは、架式の仕組みが崩れて拙力でしか対抗できなくなったということが、本人は勿論、周りで見ている人にも目に見えてよく分かるのです。
では、「架式」とは、一体どのようにして整えられるものなのでしょうか。
例えば、お馴染みの腰相撲でも「右弓歩」の架式を取るときには、直立した姿勢から左足先を開き、左足に乗って右足を前方に大きく踏み出します。その時、右の膝は垂直に立ち、左の膝は完全に伸びているようにします。上半身は真っ直ぐに起ち、腰は前に弛んで回ることのないように、前後にピシリとキレているようにします。
架式を取ると言えば、ただこれだけのことなのですが、その際に重要なことは、完成姿勢が如何に決まっているかではなく、その姿勢になるまでの過程が如何に太極拳の要求を外れていなかったか、ということです。
仮に完成姿勢だけが問題にされるのなら、かの「跌岔」などは、完成姿勢さえ正しければ、どのような足の踏ん張りや足の蹴り上げを用いて立ち上がっても良い、ということになってしまいますが、そのような自分勝手に動いて良いものが、生命の遣り取りに関わる戦いの為の訓練になる筈もなく、同時に「型」の稽古をする意味も存在しなくなります。
「型」というのは、何も套路などの決められたものだけを指すわけではなく、右足を前に出して右弓歩を取るということも、それが武術としての訓練である以上、勝手気儘に動けるところはひとつとして無いのですから、それ自体が立派な「型」の稽古であると言えます。
よく稽古中にも、各自が架式の完成姿勢を鏡に映して確認し修正をする姿が見られますが、本来の稽古の在り方としては、完成姿勢に行くまでの過程である、姿、形、動き、といったものこそが修正されるべきであり、動作の終了後にアレコレと直してみても、示範された事と自分との違いは確認できても、それ自体は正しい修正にはなりません。
何故なら、架式は「意」によって導かれるからです。
【 用意不用力(意ヲ用イテ、力ヲ用イズ)】という言葉は、太極拳の最も大切な要求のひとつであり、基本功、套路、対人訓練など太極拳に関わる全ての訓練に於いて貫かれるべき要訣です。套路や基本功で手の位置や身体の向きを修正する際にも、それが「力感」ではなく、「意」によって動かされなくてはなりません。
私たちの稽古で、ひとつの動作、ひとつの架式に対して、あれほど繰り返し多くの注意を受けるのも、各自の「意」に対する意識がとても重要であるからだと思えます。
套路で言えば、ただ一着(一技法)を師父について動く間にも、師父や教練から、そして同じ一般クラスの先輩からも、正しい在り方についての注意や、間違いに関する多くの指摘が為されます。
ほんの一例を挙げますと、
「その動きは明らかに原理から外れている動きである」
「合わせるのが遅い。示範にピタリと合わせて動けなくては自分の誤りに気付けない」
「静止して確認を促された瞬間の姿勢が、示されたものと大きく異なっている」
「そこで胸とお尻が出るようであれば、その手前の動きでアシの蹴りを使っている」
「もし、その動きが要求の通りなら、その時に手足はそのような位置には来ない」
「その問題の根本は、やはり ”正しく立てていない” ことに因ると思える」
・・・等々といったような、様々な注意を受けることになります。
しかも大抵の場合、一人の門人が抱えるひとつの問題は、その人が行う全ての練功に於ける共通する問題点でもありますから、例えば套路で間違いだと指摘されたところは歩法でも同じ間違いが存在しますし、やはり対練に於いてもその誤りが有り有りと出てくることになるのです。
詳細にわたる指摘と自己修正の繰り返し・・それが延々と、一日5時間も10時間も、或いは何日も何ヶ月も続くと、やがて誰にも「気づき」と「発見」が訪れるようになります。
指摘されたポイントを修正しようとするとき、単に身体だけを動かして修正されたものは、遅かれ早かれ、また同じ状況に身体が戻ってくるということ。
自分の構造の誤りを認め、意識的に正しい構造を認識できた時には、たとえ精度は十分でなくとも、その瞬間から正しい構造で動くことができるということ。
また、自分の間違いが認められない場合には、同じ間違いが際限なく繰り返されるということ。そして、何度も身体各部の位置や動きの修正を繰り返していくうちに、そもそも「意」でなければ、自分の「構造」には何ひとつ関われないという事がようやく見えてきます。
稽古中に幾度となく聞かれる「真似をする」という言葉もまた、同様にその「意」を促すものです。普通は、動きながら動作を真似しようとする際に、見たものを一旦アタマで考え、分析してから身体に反映させようとするので動きが遅れてしまいます。しかし、遅れないように動こうとしたときには、自分勝手な思考では追いつかないので、それを止めて、意識的に「ただ合わせよう」とする働きが起こるわけです。
よく、自分独りで稽古をしていると、足の筋肉の力みを多用してしまい、動けば動くほど身体は重くダルく感じられてしまうが、師父の動きにピッタリ合わせて動いてみると、驚くほど身体が軽く、足の力みなど不思議と少しも感じられない・・・などということが多く聞かれますが、これなどは「意」と「思考」の違いが明確に現れていると思えます。
つまり、自分で動こうとしたときには、指摘された要求がグルグルと頭の中を巡っているために「思考」となり、「思考」は直ぐには身体に反映されないので「力感」で身体を動かすことになるのですが、示範に正しく合わせようとして動いたときには、そこに「思考」を挟む余裕がありませんから、「見たものを、見た瞬間に、見たまま動く」という「意」が働き、それによって示範と同時に全身を動かすことが出来る、ということになるのでしょう。
「黙念師容」という要求は、まさにそのような学習方法を示しているのだと思います。
一般クラスの稽古で「用意不用力」という言葉が毎回のように出てくることはありませんが、師父や教練について動くことや、架式や歩法に対する細かく厳しい要求があるために、《「意」を用いることで身体が動く 》ということを最初から学んでいることになります。
そしてさらには、意が働けば気が動き(以意行気)、気が動けば身体が動く(以気運身)ということも、自ずと理解されてくるようになります。
「気」という言葉もまた、「発勁」などと同じように神秘やオカルトの世界のことだと誤解されがちなもののひとつですが、私たちの道場では、それを分かり易く説明するために、よく「エネルギー」として語られます。
生命を、生命たらしめている根源的なエネルギー。
それは、大地にも、ヒトにも、天(宇宙)にも存在し、満ち溢れているエネルギーです。
ヒトもまた、起きていても寝ていても、休むことなく動き続けている ”生命体” ですから、当然エネルギーによって動いているわけです。そのような、ヒトが動くために必要な内在しているエネルギーの総称を「気」と呼んでいるわけです。
普段、気力旺盛な人を、「あの人はエネルギッシュだ」などと表現することもあるように、「気=エネルギー」として考えれば、取り立てて特別な物として扱う必要はないと思えます。
他にも、心意気、意気込み、意気揚々、生意気、意気消沈など、思いつくままに挙げてみても、私たちの生活の中で「意」と「気」に関係する言葉は、非常に多く日常的に、身近に使われていることが分かります。
・・少し話が逸れましたが、各練功に於いて必ず「意」が用いられるように稽古し、「意」によって身体が動くようになれば、「意」が働いたことによって「気=エネルギー」が動き、「気」が動いたときには「勁」が働く、ということになるでしょうか。
したがって、右足を前に出して「右弓歩」を取る際にも、その一挙一動に「意」が用いられなければならず、そのような訓練を経て整えられた右弓歩の構造には、既に「勁」が働いているため、数人掛かりで腰を押していこうと、どれほどの拙力を以て関わろうとも、容易に押せるようなものではなくなるわけです。
もし慎重に架式を整えたにも関わらず、軽い力で自分の架式が崩れてしまうようであれば、それはまだ弓歩になる前の「馬歩の構造」が理解されていない故であり、弓歩の架式を修正する前にもう一度「站椿」に立ち返って見直す必要があると言えるでしょう。
基本中の基本である、正しい「架式」の整え方によって、「勁」というチカラの質に僅かでも触れることができたら、そこからようやく「太極勁」を習得する旅が始まります。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by トヨ 2010年06月21日 22:13
それまでは全くわからなかった構造が、認識を修正し、意を正しく用いることによって
瞬時に変わる、というのは驚くべき体験だと思います。
筋肉が一瞬で強化されるはずはないので、意識の修正によって瞬時に構造が変化すると
いうことは、それこそが太極拳が拙力を用いない証拠だといえるのではないでしょうか。
だからこそ、自分勝手なことでは何も出来ず、本物を知る師のもとで正しい体系を学習しなければ
本当の武術は決して習得できないのだと思います。
>生命を、生命たらしめている根源的なエネルギー
ヒトも、この宇宙を構成する物質も、そこで起こる出来事も、全てエネルギーの営みですからね。
それもまた面白い!です。
瞬時に変わる、というのは驚くべき体験だと思います。
筋肉が一瞬で強化されるはずはないので、意識の修正によって瞬時に構造が変化すると
いうことは、それこそが太極拳が拙力を用いない証拠だといえるのではないでしょうか。
だからこそ、自分勝手なことでは何も出来ず、本物を知る師のもとで正しい体系を学習しなければ
本当の武術は決して習得できないのだと思います。
>生命を、生命たらしめている根源的なエネルギー
ヒトも、この宇宙を構成する物質も、そこで起こる出来事も、全てエネルギーの営みですからね。
それもまた面白い!です。
2. Posted by まっつ 2010年06月22日 07:13
確かに日常的な思考が優位な状態で在ったり、
自らの課題や感覚に囚われていたりする状態では、
師父の動きとピタリ合わせる事は起こりません。
どんなに速く動こうと「思って」も遅く始まってしまいます。
意識の働きによるナチュラルな速さと、
言葉を伴う思考による処理の限界なのでしょうか?
考えてみれば言葉を紡ぐ速度では、
間に合わないのは当然なのだとも思いました。
自らの課題や感覚に囚われていたりする状態では、
師父の動きとピタリ合わせる事は起こりません。
どんなに速く動こうと「思って」も遅く始まってしまいます。
意識の働きによるナチュラルな速さと、
言葉を伴う思考による処理の限界なのでしょうか?
考えてみれば言葉を紡ぐ速度では、
間に合わないのは当然なのだとも思いました。
3. Posted by tetsu 2010年06月23日 22:38
私も稽古において師父の後ろで必死に合わせようとしている時は不思議なくらいに身体が軽く感じられたときがありました。その後、自分で動いてみると今度は逆に身体や脚が重く感じます。
これこそ将に「合わせよう」とする「意」を用いた動きと、自分勝手な思考による動きの差なのでしょう。
稽古の場でこの差が感じられたことだけでもすごい発見をしたような気がします。
また、このような違いを判らせてもらえる道場も素晴らしい。
ここまで掘り下げて指導をしていただける武藝館は将に本物を伝えてくれる道場なのだなとつくづく実感します。
これこそ将に「合わせよう」とする「意」を用いた動きと、自分勝手な思考による動きの差なのでしょう。
稽古の場でこの差が感じられたことだけでもすごい発見をしたような気がします。
また、このような違いを判らせてもらえる道場も素晴らしい。
ここまで掘り下げて指導をしていただける武藝館は将に本物を伝えてくれる道場なのだなとつくづく実感します。
4. Posted by 円山 玄花 2010年06月24日 20:42
☆トヨさん
筋肉の質と量を変えるためには時間とトレーニングが必要ですが、
意識を変えるためには”理解”が必要なのであって、時間も体力も特殊な能力も要りません。
物事に自分を挟まず、ありのままを受け入れ、ひたすら誠実に追求することに尽きます。
そうして、意識が変わると構造が変わります。
意識は光よりも速いと言われていますから、トヨさんの言うように、
それは一瞬にして変わってしまいます。
正しい意識の積み重ね・・それも、正しい訓練体系とそれを体現できる師について
学ぶことによってのみ、ただの自己満足で終わることなく、
太極拳を大いなる「道」として歩むことが可能になるのだと思います。
筋肉の質と量を変えるためには時間とトレーニングが必要ですが、
意識を変えるためには”理解”が必要なのであって、時間も体力も特殊な能力も要りません。
物事に自分を挟まず、ありのままを受け入れ、ひたすら誠実に追求することに尽きます。
そうして、意識が変わると構造が変わります。
意識は光よりも速いと言われていますから、トヨさんの言うように、
それは一瞬にして変わってしまいます。
正しい意識の積み重ね・・それも、正しい訓練体系とそれを体現できる師について
学ぶことによってのみ、ただの自己満足で終わることなく、
太極拳を大いなる「道」として歩むことが可能になるのだと思います。
5. Posted by 円山 玄花 2010年06月24日 20:45
☆まっつさん
>意識の働きによるナチュラルな速さと、
>言葉を伴う思考による処理の限界なのでしょうか?
・・そのように表現することも出来るのかもしれませんが、
そもそも「合わせる」ということの中には、
”何を以て、どのように” ということさえ存在しません。
たとえば「水」以外の物で、何をどのように工夫しようとも、
本物の「水」にはならないのと同じように、
「合わせる」ことは、「ただそのものになる」ことでしか合わせることは出来ないのです。
”何を以てどのようにしたら合うのか” ・・を思案している時点で、
それはすでに ”異なる質” の状態だと言えるでしょう。
ましてや稽古の中で、示範されている人の後ろに従いて動くときに、
「次は遅れないように」「もうちょっと速ければいいかな」などと考えてしまい、
心がその場に無いようであれば、その稽古を丸々逃してしまうことになります。
「合えばよい」のではなく、
合わせることのできる ”自分の在り方” に目を向けることが、大切だと思います。
その為にも、ゆっくりとした動きから全ての稽古が始められるわけですから。
>意識の働きによるナチュラルな速さと、
>言葉を伴う思考による処理の限界なのでしょうか?
・・そのように表現することも出来るのかもしれませんが、
そもそも「合わせる」ということの中には、
”何を以て、どのように” ということさえ存在しません。
たとえば「水」以外の物で、何をどのように工夫しようとも、
本物の「水」にはならないのと同じように、
「合わせる」ことは、「ただそのものになる」ことでしか合わせることは出来ないのです。
”何を以てどのようにしたら合うのか” ・・を思案している時点で、
それはすでに ”異なる質” の状態だと言えるでしょう。
ましてや稽古の中で、示範されている人の後ろに従いて動くときに、
「次は遅れないように」「もうちょっと速ければいいかな」などと考えてしまい、
心がその場に無いようであれば、その稽古を丸々逃してしまうことになります。
「合えばよい」のではなく、
合わせることのできる ”自分の在り方” に目を向けることが、大切だと思います。
その為にも、ゆっくりとした動きから全ての稽古が始められるわけですから。
6. Posted by 円山 玄花 2010年06月24日 20:48
☆Tetsuさん
師父の後ろについて動くと驚くほど軽い、という実感は、
きっと、門人であればほとんどの人が体験しているのではないかと思います。
それではなぜ、自分で動いてみたときには身体が重く感じられるのでしょうか。
私は、「合わせる」ことが失われてしまうからだと思います。
つまり、師父に合わせていたことが見た目の動きだけであれば、
示範が終われば合わせるものがなくなってしまい、自分の動きになってしまいますが、
もし、師父に合わせていた内容が、「師父が合わせていたこと」であれば、
示範が終わっても「合わせる」ことを稽古できるのではないかと思うのです。
なぜ站椿で長い時間をかけて立つということが必要なのか・・
なぜ本やビデオだけでは武藝を極めることができないのか・・
なぜ道場に居ても自己主張を捨てて取り組まなければ理解できないのか・・
その全ての解答が、「合わせる」ことにあるような気がします。
師父の後ろについて動くと驚くほど軽い、という実感は、
きっと、門人であればほとんどの人が体験しているのではないかと思います。
それではなぜ、自分で動いてみたときには身体が重く感じられるのでしょうか。
私は、「合わせる」ことが失われてしまうからだと思います。
つまり、師父に合わせていたことが見た目の動きだけであれば、
示範が終われば合わせるものがなくなってしまい、自分の動きになってしまいますが、
もし、師父に合わせていた内容が、「師父が合わせていたこと」であれば、
示範が終わっても「合わせる」ことを稽古できるのではないかと思うのです。
なぜ站椿で長い時間をかけて立つということが必要なのか・・
なぜ本やビデオだけでは武藝を極めることができないのか・・
なぜ道場に居ても自己主張を捨てて取り組まなければ理解できないのか・・
その全ての解答が、「合わせる」ことにあるような気がします。
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