2010年06月15日

連載小説「龍の道」 第47回




 第47回 訓 練(6)


 全弾を撃ち尽くすと、ベレッタはスライドが引かれた位置でピタリと止まった。

「・・うん、なかなか整った馬歩で撃てましたね。もう少し肩や肘の力が抜けると楽に撃てると思いますが、初めにしてはまずまず、といったところでしょう」

 標的を戻すボタンを押しながら、陳中尉が言う。
 ウィーン・・というモーターの音と共に、銃弾で幾つもの穴が空いた紙の的が棚引きながら手もとに返ってくる。

「ほう・・大したものですね、中心の黒い円の中に数発入っているし、次の円にも幾つかの弾丸が命中していますよ」

「いや、そんなに中るはずはないのですが・・・何しろ、弾丸が何処に当たっているのか、全く見えない状態でしたから」

 ・・・宏隆は、ちょっと信じられない、といった面持ちである。

「やはり、18メートルというのは少々遠すぎましたか?」

「はい、すごく距離が遠く感じられて、30メートル位あるように感じました」

「確かに、初めにしてはちょっと遠すぎましたね。
 まあ、ヒロタカの実力を見ようと思って、一番遠いところにセットしたのですが・・」

「・・え、そうだったんですか?、この距離で撃つ訓練だとばかり思っていました」

「まあ、普通は一番近い6メートルのところから始めるんですけどね」

「そ、そんなぁ・・」

「それでも、こんなに命中しているじゃないですか。近距離でも当たらない人は当たらないものです。まして18メートルの距離にある直径5センチの黒円は、ほとんど点ぐらいにしか見えませんからね。初心者にしてはかなり良い成績だと思いますよ」

「本当ですか?、これで、近い的で当たらなかったらどうしよう・・・」

「ははは・・・それじゃ、今度は私が撃って見せましょうか」

「・・あ、お待ち下さい、いま弾丸をセットします」

「いや、今度は自分の銃を使うことにします。
 ベレッタはヒロタカの練習用にして、もう少し銃に慣れるまで使い込めば良いですよ」

「ご自分の、愛用されている銃ですか?」

「そうです」

 陳中尉はちょっと微笑むと、腰の後ろに右手を回してスッと拳銃を出した。背中のホルスターに銃を装着していたのだ。中尉は上着を着ていなかったが、宏隆はそれを今の今まで全く気がつかなかった。

「あ、そんなところに・・まるでスパイ映画みたいですね!!」

「こんな地下に居るところを敵に襲撃されたら、皆まとめて ”一巻の終わり” ですからね。
 備えあれば憂い無し、私たちにとっては映画ではなく、常に現実問題なのです」

「なるほど、しかし僕は暢気なのか、ホテルから後を尾(つ)けられても、いまひとつ現実としてピンと来ません・・」

「ははは、そのうち自分の現実をイヤというほど体験することになるかもしれませんよ!」

「えーっ、あんまり脅かさないで下さいよ・・!!
 ところで、その銃はベレッタより少し小さめに見えますが、何という銃ですか?」

「これはシグ・ザウエル、”SIG SAUER P220” という銃です。スイスのシグ社が設計開発して、傘下に入ったドイツのザウエル&ゾーン社が製造したものです。
 見てのとおり、ベレッタより全長が2センチほど短く、本体は150グラムも軽く作られています。弾丸は9mmパラベラムを基本として、有効射程距離や発射初速もベレッタと大体同じくらいの性能です。装弾数は9発と少ないですが、アメリカの市場を考慮して45ACPも使えるようにしてあるので、ボディは9mm弾用にしては、やや大柄ですね。
 まだ発売されたばかりですが、スイス軍の制定銃として採用され、FBIや各国の特殊部隊からも引っ張り凧になっている優れた銃ですよ」

「45ACPというのは、銃弾の口径のことですか?」

「そう、口径が 0.45インチ(11.5mm)の弾丸のことで、ACPは Automatic Colt Pistol の略です。アメリカ人は ”45口径信仰” と言われるほど、爆発力の強い45口径を好みますからね・・・米軍の制式銃は45口径の ”コルト・ガバメント” ですし、西部劇で活躍する銃は殆ど45口径です。ヒットしたテレビシリーズにも ”コルト45” というのがありましたね。
 ヨーロッパでは反動がきついとか、これで弾丸の数を増やすとグリップが太くなって握りにくくなってしまうということで、45口径はあまり好まれていませんが・・」

 ・・・余談ながら、上記の ”コルト・ガバメント” は1985年にベレッタM92Fが制式採用されるまでの間、実に70年間の永きにわたってアメリカ軍の制式拳銃として用いられた。
 また日本の自衛隊では、戦後長らく使われ続けたコルト・ガバメントを廃して1982年にシグ・ザウエルを制式拳銃として採用し、長野県に本拠を置く「ミネベア株式会社」がライセンス生産をするようになった。
 なおミネベア社は、ミクロサイズのボールベアリングの製造で世界第一のシェアを誇る、国際的に名高い会社で、防衛省の航空機、戦艦、戦車などの防衛機器に関連する特殊装備品も多数生産している。


「シグ・ザウエル・・男っぽくて強そうな銃ですね、今度ぼくにも撃たせてください」

「・・ははは、いいですよ。以前までは ”ワルサーPPK” を使っていたのですけれど。
 これよりもっとサイズが小さくて軽いので、携帯するには丁度よかったのですが・・・」

「ワルサーPPK!、あのジェームス・ボンドが愛用している銃ですね?」

「そう、007の映画ですっかり有名になりましたね。元々はドイツの警察用として開発されたもので、PPKというのは ”Polizei Pistole Kurz” の略で、クルツは短いという事ですから ”銃身の短い警察銃” という意味になります。PPKはアメリカのシークレット・サービスをはじめ、日本のSPや皇宮警察などでも使われています」

 ・・・陳中尉は、いつも優しく、気さくに宏隆に接してくれる。日本から来た優れた素質を持つ弟弟子が可愛くて仕方がないという表情で宏隆に向かい、たとえ少年らしい無邪気な質問であっても、実の弟に話すように、自らの博学を紐解いては、ひとつひとつ丁寧に応えてくれるのである。

「ワルサーPPKより、シグ・ザウエルの方が相性が良かったのですか?」

「・・いえ、ワルサーPPKはあのヒトラーが愛用していたり、秘密警察ゲシュタポの制式銃だったと知って、そのときから持つのをやめたのです」

「そうでしたか・・・変なことをお訊きしてしまいました」

「・・まあ、銃はただ銃であるだけであって、銃に罪は無く、関係ないのですけどね。
 これは、自分の考え方、生き方の問題なので・・・」

 ジェームス・ボンドが映画で恰好よく使っている銃が、実はヒトラーやゲシュタポが愛用した銃であったとは、もちろん宏隆には知る由もないのだが、何も知らずに007の銃だと言って意味もなく燥(はしゃ)いでいる自分が少し恥ずかしく思えた。
 そして、銃に罪はない、としながらも、それがナチスに愛用されていたことを知って潔く使うのを止める陳中尉の男気(おとこぎ)に、宏隆は少なからず心を打たれた。

 生き方の問題・・・という陳中尉の言葉が、宏隆を捉えて放さなかった。
 宏隆は、かつて仲の良いクラスメートの女の子が、宏隆が飲んでいたジュースを指差し、自分は決して南アフリカ産のジュースを飲まない、と言っていたことを思い出していた。
 南アフリカでは激しい人種差別をしている、日本人は名誉白人などと言われて無事だが、他の有色人種はひどい目に遭っている。自分はそんなことを同じ人間として許せないから、そんな国から輸入された物など一切買わないし、他所で出されても絶対に口にしないのだと厳しい口調で語ったのだ。

 自分と同い年の女の子がそんな考え方を持っていることに宏隆は驚かされたが、同時に、自分がこれまで、そのようなことを何も気にせずに過ごしてきた事がとても恥ずかしく思えた。そして、それまでただ美味しいと思って飲んでいたそのジュースを、二度と口にしないことに決めたのだった・・・・


「・・さて、私も撃ってみますから、よく見ていて下さい。
 ヒロタカのように上手く命中するかどうか、分かりませんけどね・・・」

 ニコリと笑って、宏隆を見る。

「はい、拝見させて頂きます・・」

 陳中尉は慣れた手つきで新しい標的の紙をハンガーに付け直すと、再びそれを18メートルの距離にセットし、アソセレス・スタンスで立ち、両手でシグ・ザウエルをピタリと構えた。

「ダァーン、ダァーン、ダァーン、ダァーンッッ・・・・」

 驚くほど正確に、等間隔で淡々と撃って行く。
 陳中尉が愛用のシグ・ザウエルは、ベレッタよりも少し反動が少ないように見える。
 それに、同じ9mmのパラベラム弾なので、銃声の大きさにそれほど違いはない筈なのだが、自分がベレッタを撃った時よりも中尉の方が太く、締まった音がするような気がする。

 ・・しかし、この正確さは、いったい何と表現すれば良いだろうか。
 撃たれた銃弾の一発一発が、まるで熟練の針子が等間隔で針を縫っていくように、ブレず、乱れず・・・弾丸が標的に吸い込まれるように発射されていくのだ。

 陳中尉は、見る見るうちに9発の全弾を撃ち終わり、標的を手前に戻すと、それを取って宏隆に渡して見せる。

「うわぁ・・やっぱり凄いですね、2発はほとんど真ん中近くに命中していて、3発が黒い円の中に、1発が次の円の内側に入っています。
 あとは・・・あれ?・・ひい、ふう、みい・・・おかしいな・・・陳中尉は確か今、全部で9発撃ちましたよね?」

 中尉が撃った標的の、空いた穴の数を数えて、宏隆が不思議そうにそう訊く。

「そうですよ・・」

 陳中尉は、そんな宏隆を見て楽しそうに笑っている。

「でも、標的には、穴は六つしか空いていません・・・
 やはり中尉のような方でも、標的を外すようなことがあるのでしょうか?」

「はははは・・そりゃ、私だって人間ですからね、狙いを外すことだってありますよ。
 でも、今のは全弾、一発も外してはいませんけどね・・」

「しかし、空いた穴は六つしか無いので、それだと計算が合わな・・・」

 計算が合わないと言いかけた途端、宏隆はハッと何かに気付いて、急に顔色を変えた。

「・・ああ・・・も、もしかして、これは・・・!!」

「そう、多分、その ”もしかして” ですよ、ははは・・・・」

 つまり、陳中尉が撃った弾丸は全部で9発だが、そのうち3発は撃った弾丸の上にピタリと重ねて撃たれていたのである。

「・・でも、この距離で・・この標的の大きさで、そんなことが・・・?」

「射撃をしていると、時々そんなことがあります・・もちろんマグレですけどね。
 あはははは・・・・」

「マグレだなんて、そんな・・・撃った弾丸の上に、ピタリと弾丸を重ねて撃てるなんて、ものすごいことですよ、それも3発も・・・信じられないようなことです!!」

「ははは・・いえいえ、私なんか、ちっとも凄くないんですよ。
 ・・・そうだ、オイゲン・ヘリゲル、という人を知っていますか?」

「いえ、存じませんが・・」

「オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel)はドイツの哲学者です。日本文化や禅を研究していた人で、大正十三年に東北帝国大学に招かれ、六年ほど日本に滞在しギリシャやラテンの古典哲学を教えていましたが、その間に阿波研造(あわ・けんぞう)先生に師事して熱心に弓道を学びました」

「阿波研造・・・弓道の先生ですか?」

「阿波研造先生は、術としての弓を否定し、道としての弓を追求した弓禅一如の体現者として知られる弓道の名人で、”一射絶命、的と一体になって我が心を射貫き、仏陀に到る” と言って、弓道を生涯求め続けた人です」

「わが心を射貫く・・・・」

「その阿波研造先生のもとに、ある日、哲学者のヘリゲルが入門してきました。
 しかし、学ぶにつれて、日本弓道の術理や精神性には心酔するものの、西洋人の徹底した合理主義と論理的な精神を持つヘリゲルには、”心で射る” とか ”的と一体になる” などといったことが全く理解できません・・・何しろ、阿波先生がヘリゲルに要求したのは、射手が上手く矢を的に当てるための技術ではなく、矢のほうが勝手に的に当たって行くというものだったのです。
 ヘリゲルは師に、そもそも実際にそんなことが出来るのか、それは単なる精神論、理想論に過ぎないのではないのか、と疑問をぶつけました。すると阿波先生は、納得できないのなら今夜私の道場に来なさい、それを貴方に証明して見せよう、と言われました。
 その夜、師宅の道場を訪れたヘリゲルが、一体これから何が始まるのかと思っていると、阿波先生は真っ暗な道場に、たった一本の線香に火を灯して的の前に立てます。
 弓道の的は、近い距離の的でも28メートルあり、的の大きさは直径36センチしかありません。闇の中に線香の小さな火がかすかに見えるだけで、的の形さえ見えないのです。
 阿波先生は、そのかすかな線香の火に向かって弓を引き、続けて矢を二本放ちました。
 矢は闇の中に吸い込まれて行きましたが、暗闇の中の遠く離れた的に中ったのか、中らなかったのか、ヘリゲルには全く分かりません。師に促されて的のところまで行って、初めてそこに驚くべき事実を見出します。
 何と、一本目の矢は、見事に的の中心に命中しており、さらに二本目は、的に突き刺さった矢の弓筈(ゆはず=弦をかける切り込みのある矢の最後尾の部分)に中って、一本目の矢を真っ二つに引き裂いていたのです・・・」

「あ・・ああ・・・・!!」

「この暗闇の中で、射手はいったい何を狙って射ることが出来るというのか・・
 これでも貴方は、人は的を狙わずには矢を射られるはずがないと言うのだろうか・・
 阿波先生は、ヘリゲルにそう教え諭したそうです。
 ヘリゲルは、ドイツに帰国してから ”騎士の藝術としての弓術” と題する講演でその体験を熱く語り、多くの国の言葉にも翻訳された「日本の弓術」という名著に詳しく書いています。もちろん日本語にも訳されていますから、ぜひ読んでごらんなさい」

「・・ああ、すごい・・すごい話です・・・
 お恥ずかしいですが、そんな人が日本人に居たなんて、全く知りませんでした」

「だから、上には上がある・・・私の射撃の腕など、大したことはないのです」

「そんな・・陳中尉だって、同じことをやってのけているじゃないですか!」

「いいえ、私はとても阿波先生のような境地にはほど遠いものです。
 そのような精神状態になるには、まだまだ太極拳の修行を深く積んで行かなくてはなりませんし、たとえ修行を積んでも、自分にそれだけの器量があるとは到底思えません。
 武藝の至高の境地とは、自分が向かっている対象に意識が向かうのではなく、自分の内側へと意識が向けられるのです。自分以外の、外側へ意識が向かうのではなく、ひたすら自分の内側へと向けられていくのです。
 そして達人と言われるような人は、最終的にはその意識さえも跡形もなく消し去ってしまう・・・阿波先生の弓道も、王老師が伝える太極拳も、そのような至高の武藝であり、人間が辿り着ける最高の境地であると、私は思っています。
 私など、未だそのような境地の入口さえ見つけられません・・・ただ、せっかく王老師のような素晴らしい師と巡り会うご縁を戴いたのですから、石にかじりついてでも、太極拳の奥妙を極めたいと思っていますが・・」

「実際にそれほどの腕がおありなのに・・・陳中尉は本当にいつも謙虚なのですね。
 自分など、何かがちょっと出来るとすぐに慢心してしまい、その後で、案の定その軽薄さをひっくり返されることになって、落ち込んでしまうことの連続です」

「ははは・・それはそれで、ヒロタカらしくていいじゃないですか。そのヒロタカも王老師
 が認める優れた資質があるのですし、要は磨いていくことですよ。お互いに、ね・・」

「・・はい、とても貴重なお話を、ありがとうございました」

 大きなものの全体性に触れることで、自己というちっぽけなものに気付かされた時には、人はどうしても謙虚にならざるを得ない。自分に厳しく、他人に優しい兄弟子に向かって、宏隆は自然に、深々と頭を下げていた。

「・・さあ、もっと撃ってごらんなさい。
 基本が分かったら、とにかく理屈抜きに、解るまで徹底的にやり込むことです!」

「はい・・・!!」

 宏隆はベレッタに新しいカートリッジを入れ、スライドを引いてチェンバーに初弾を装填すると、標的に向かって丁寧に馬歩を取り、両手でピタリとアソセレスに構えた。

 相変わらず、的は遠い・・・・
 しかし、陳中尉の話を聞いたおかげで、そこに如何に外さずに命中させるか、上手く中てるかなどということに、もう宏隆は何も執着しなくなっていた。


「心で撃つのだ・・・・
 目に見える的を、銃で狙って撃つのではない・・・

 標的は、破壊すべき敵ではない
 標的は、自分自身の姿、自己の存在を映す鏡に他ならない

 身体の軸・・・ 心の軸・・・
 身体の中心・・・ 心の中心・・・・

 己が映し出された標的と、ひとつになって・・・
 己の中心が的に向かって没入され、自然に引き込まれ、一体となっていく・・・」

  
 ・・・じっと構えたまま、まだ宏隆には銃を撃つ気配がない。

 まるで站椿を練るように馬歩を整えながら的に向かっていると、あれほど遠くに感じられた標的が、いつの間にかずいぶん近くなったように思えた。


                                 (つづく)

taka_kasuga at 18:50コメント(10)連載小説:龍の道 | *第41回 〜 第50回 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2010年06月15日 22:15
なんと!オイゲン・ヘリゲル氏のことが出てくるなんて!これは驚きでした。
私もヘリゲル氏の著書「弓と禅」はお気に入りの本です。
弓道界の阿波研造先生も日本が誇る素晴らしい名人ですね。
国や文化が違えども、求めている境地が高いほどその境目がなく、
「人として如何に在るべきか?」ということが問われてくるようです。
本当にこの小説は面白いですね!
フィクションの世界というのではなく、こうした実在の人物や歴史を紹介し、
「武術とは何ぞや?」「学ぶこととはどういうことか?」というものが描かれているのですから!
 
2. Posted by トヨ   2010年06月16日 01:12
本当に、大切なことがたくさん書かれてますね!
僕の心も射抜かれてしまった気分です。

これですよ、これ!
「人間」と「世界」を探求できて、体現できる・・・
(か、どうかはわかりませんが(笑))・・・

太極拳に出会えて本当によかったです。
 
3. Posted by まっつ   2010年06月16日 07:05
自分の内側に向かう意識・・・ですか。
この現代日本ではあまりにも希薄になってしまった方向性ですね。
確かに在りのままの自分を見ようとする事には苦痛を伴いますが、
自分でも認識すらできなかった「自分」に出逢えるという経験は、
実はこの上も無く活き活きと自分を感じられる事で、
それ自体がとても心躍る体験だと思います。

正しく太極拳に向かう事で自分にも向かい合える武藝館での稽古とは、
どれだけ貴重で得難い機会なのでしょうか・・・
小生も宏隆君のように心して学びたいと思います。

毎回、密度の濃い世界を届けて頂きありがとうございます。
個人的には銃にまつわる話はとても好きです!
どーなるんだ次回!(C)
期待しています。
 
4. Posted by のら   2010年06月16日 18:01
この小説では、いつも多くのことを学ばせて頂いております。

そもそも武術というのは、相手を確実に殺傷できることが本来の目的であるはずで、
刀で斬ろうが、銃で撃とうが、拳で打とうが、相手に中らなければ話にならない。
しかしその「命中させる」「ヒットさせる」という行為を「どのように修得していくのか」
というところに武術としての妙があるわけですね。

普通、武術を求める人は、ただ的に当てる、相手に当てる、どうやって当てるか、などという
思いに囚われます。
ここで書かれている「的を狙わないのに矢の方が勝手に中っていく」という考え方など、
全く思いもつかないし、中々信じられないし、自分の問題だとはとても思えない。
普通の人は、如何に上手く矢を的に当てるか、如何に巧く相手にパンチを当てるか、という
技術をひたすらマスターするために訓練するわけです。

どうすれば相手を殴れるか、という技巧や強さを習得していくだけのコトであれば、どんな
武道や格闘技を学んでいても、そこそこの努力で、そこそこのモノにはなれるのでしょう。
しかし名人や達人と呼ばれる人は、「敢えてその目的を必要としない境地」に身を置くことに
よって、人が滅多に成し得ない究極の技藝を修めている・・・

しかし、そのような至高の境地に到る学習体系が存在していることを実際に示し、その過程を
教授することのできるマスターが、果たして現代にどれほど存在するのでしょうか・・・
 
5. Posted by 円山 玄花   2010年06月17日 01:09
>達人と言われるような人は、最終的にはその意識さえも跡形もなく消し去ってしまう・・・

この言葉は、私が太極拳を始める前から、様々な形をとって私の前に表れる言葉です。
武藝に関係する話だけではなく、宗教でも、音楽でも、同じ言葉が出てきます。

弓道であれば、弓を見てもそれが何であるのか分からないほどに消え去り、
宗教であれば、一日何万回と唱えていた経文が自分の中から消えてしまい、
音楽であれば、ただ道端の石ころに触れただけで、音楽が溢れてくるほどの人がいる・・と。

それは、人から聞いたことであったり、ふと手に取った本に出ていたり、映画に出てきたりと、
本当に様々なのですが、この「龍の道」でも出会えるということは、
よほど深く入って行きなさい、磨きなさい、ということなのでしょうね。(苦笑)
 
6. Posted by 春日敬之   2010年06月18日 16:55
☆ tetsu さん

>ヘリゲル氏の著書「弓と禅」はお気に入りの本です。

「弓と禅」は、まだ読んでおりませんので、早速取り寄せようと思います。

>国や文化が違えども、求めている境地が高いほどその境目がなく・・・

日本の凄いところのひとつは、それが何でも「道」になるというところでしょうか。
有名なウィリアムテルやロビンフッド、蜀の黄忠などは弓の名人でしたが、それじゃヨーロッパや中国で弓が「弓道」になったかというと、そんなことはまず有り得ない。たとえ達人や名人が何人出ても、それが「高度な人間性を追求する文化」となるとは限らないのであって、その辺りはやっぱり日本人というのはスゴイと思います。

>本当にこの小説は面白いですね!

ありがとうございます。単に小説のストーリーとして面白く考えるだけではなく、一門人として、日頃学んでいることを若い宏隆くんの目線で表現して行けたらと思っております。
今後とも、ご愛読のほどをよろしくお願い致します。m(_ _)m
 
7. Posted by 春日敬之   2010年06月18日 17:01
☆トヨさん

>「人間」と「世界」を探求できて、体現できる・・・

♪どうせ〜、この世に、生まれてきたからにゃ、
 何かやろうぜ、ステテコ、シャンシャン。
 丼鉢ゃ浮いた浮いた、ステテコ、シャンシャン・・・っと!

 太極拳に出会えて、良かったッスね〜!! \(^O^)/
 
8. Posted by 春日敬之   2010年06月18日 17:06
☆まっつさん

「有りの儘の自分」を直視することは、とても苦痛を伴いますね。
しかし、高度な拳理を修得するためには、自分がどのような精神状態であるのか、
自分の身体がどのような状態であるのかを、常に冷静に観ていく必要があります。
つまり、拳理を教えられるが儘に、何も付け足さず、何も差し引かず、きちんと取っていける人
というのは、常に ”有りの儘の自分” を直視していける人である、と言えるわけです。

心身を預け委ねてトータルにそれに関わり、示される道程を真摯に歩んで行ければ、
自己の「全体の姿」を観ることが出来、それが何であれ、やがては高度な域に到達する筈です。
反対に、自分が中途半端にそれと関わり、自分のイメージをそこに投影していても何も起こらず、
自分が「的と一体になる」というような、高度で ”絶対的なこと" は永遠に理解できず、
「的にどのように当てるか」という ”その場限りのこと” に始終するしかありません。

自分で認識すら出来なかった「自分」の姿に出会えるという僥倖は良い経験ですが、
本物の道程を歩むということは、それが「常に起こり続けている状態」であって、
それこそが、学ぶ対象が真物であるかどうか、学ぶ自分が真物であるかどうかを、
正しく証明するものに他ならないのだと思います。

自分の内側に向かうことが現代日本で希薄になった方向性かどうかは兎も角、
それが自己の中で希薄になってしまった意識であっては、本物は学べません。
それがまっつさんの「一時の経験」や「心躍る体験」に終わらないことを心より祈ります。
 
9. Posted by 春日敬之   2010年06月18日 17:17
☆のらさん

>「的を狙わないのに矢の方が勝手に中っていく」

玄門會で師父と散手をすると、それに近いことをイヤというほど体験させられるそうです。
つまり、まだ師父が打っていないのに「もう当たっている」ことを感じるのだと・・・
自分がまるでそのような的になったような気がする・・・というのです。

それは「ここを打ってくる」とか「次は此処にパンチが来る」という予想や感知ではなく、
全くリアルに、「もう既に打たれている」という感覚なのだそうです。
そして、打たれる側がそのことを察知できるかどうかが、その時に自分が武術的にどう動けるかということに繋がり、太極拳の「戦い方」を理解するカギとなるのだといいます。

これは、真正な太極拳が決して小手先の技術ではないということの証明であり、
どれほど目先の速さや強さ、当てる、避けるの技巧を工夫しようとも、
絶対的な武術原理には決して太刀打ちできないということの証しではないかと思います。
 
10. Posted by 春日敬之   2010年06月18日 17:24
☆玄花さん

繰り返し与えられるメッセージに注意深く耳を傾けることはとても重要ですね。
それは自分の潜在意識からのメッセージでもあると思います。
しかし、私たちはそのようなメッセージにあまり耳を傾けずに遣り過ごし、
遣り過ごしては、再度、再々度、再々再度、同じメッセージに出会うことになります。

最終的にはその意識さえも消え去ってしまう世界・・・
しかし、そのような状態に到るまでには、人はどれほど矢を射続け、どれほど経を唱え、
どれほどの辛苦を経て、そこに到るのでしょうか。
求めれば手に入らず、求めなければ尚、そこに到ることが有り得ない世界・・・
目的地としての境地があるのではなく、ただ過程としての道があるのみだと言われる所以が、
何となく理解できるような気がします。
 

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