2010年06月07日

練拳 Diary #30 「勁力について その1」

                        by 教練  円山 玄花



 太極拳の訓練として行われる数々の練功は、静止した状態で始められる定歩のものから、各種の歩法や套路など活歩で行うもの、さらには相手と手を交える対人訓練や推手、そして互いに自由に動く散手まで、その形式や内容には様々なものがありますが、それらすべての太極拳の練功は、「太極勁」という独自のチカラを習得するために存在していると言えます。

 しかしながら、「勁力」というものが非日常的なものである故でしょうか、それが詳細に説明され、毎回の稽古で実際に目の前で証明されていても、各自の持つ武術概念が邪魔をしてしまい、太極拳を理解するための貴重な練功が、スポーツ格闘技に武術風のエッセンスを加えたり、どこぞの武道からの借り物のようになってしまうということが往々にして見られます。

 太極拳の目指しているところは何処であるのか、太極拳でいう「武術」とは何であるのかを正しく理解した上で稽古に望まなければ、どれほど希少で価値のある練功を学ぶ機会が与えられようとも、その本質を逃してしまうことに成り兼ねません。
 そのようなことを避けるためにも、太極拳で用いられるチカラ「勁力」とは、どのようなものとして捉えられ、どのように学んでいくのかを、正しく認識する必要があります。


 初めに述べたように、全ての太極拳の練功は「太極勁」を習得するために存在します。
 それは、站椿で立っていても、套路を練っていても、ミットに拳を打ち込んでいても同じことで、各練功によって目的が変わるということは有り得ません。
 つまり、どの練功に於いても、例外なく初めから「勁」というチカラの考え方を学び、それを実感し、練っていくというわけです。
 そして、ありがたいことには、各練功ごとに、練功の内容が正しいものであるかどうかを確認する方法が必ず用意されているのです。

 例えば、自分の「站椿」の認識が正しいかどうかを簡単に確認できる方法があります。
 それは、足を肩幅に開いて真っ直ぐ立ち、両手を肩の高さに挙げて軽く前に出し、前方から両掌を相手に押してもらう、「グラウンディング」と呼ばれる練習方法です。
 この実験は、これまでにもホームページやブログで紹介されたことがあるのですが、太極拳を理解するのにとても役に立ち、誰にでも簡単に実験できるので、重ねてご紹介しようと思います。

 グラウンディングでは、相手に寄り掛からず、自分の立つ中心を外れず真っ直ぐに立っていることが重要になります。正しく身体が整えられていれば、ある程度のチカラで押されても崩れずに立っていることができ、しかも、押されれば押されるほど自分の構造が明確に感じられ、自分が大地に立っていることに寛ぎ、相手に押されていることの中身をじっくりと味わえるようになります。
 しかし、それが反対であったなら、つまり、立ち方を正しく整えることができなければ、自分が立っていることよりも、相手から押される力の方を強く感じてしまい、簡単に押されてしまうか、身体の軸を崩して拙力で対抗することになります。
 そのようなときには、正しい要求など何処かへ行ってしまい、身体に残っているのは使い慣れた日常的な筋肉感覚、筋力操作の力感のみ、ということになってしまいます。

 これが、この練習法のとても面白いところだと思います。
 普通に考えればどうみても不利な条件でありながら、身体の整え方によって自分に生じる感覚が全く変わってきて、しかも同じ力の強さで押してもらっているのに、それに耐えられる場合と、耐えられない場合が生じてくるのです。

 私がこの練習で押されなくなったときには、とても驚いたことを今でも覚えています。
 「勁力」というものを初めて耳にしたときには、知りもしないのに、何だかとんでもないチカラのように想像していて、それをとても難しいものだと勝手に決めつけていました。
 そんなチカラを自分のものにするには、きっと厳しい練功と気功を山ほどやって、仙人のように何十年も厳しい修行に励まなければ手に入らない超人的な力に違いない・・・などと思っていたのです。

 けれども、そのチカラは、全くそのようなものではありませんでした。
 自分の身体の整え方では日常の領域を越えられずに、一般的な力である「拙力」しか生じず、小さな力が大きな力に制せられるという、日常の法則通りに相手に押されていたのですが、架式と姿勢が正しく修正されたことによって《勁力が生じる構造》となり、それ以前と同じチカラで押されても全くビクともせず、反対に返すことまで出来るようになりました。

 そのときには、自分が棒立ちで相手を飛ばしたことよりも、その後でそれが「勁力」であると説明されたことに、とても驚きました。
 「勁力」とは、自分が想っていたような特別なチカラではなく、身体を正しく整えたときに既に生じている、日常的ではないチカラのことだったのです。
 師父は勁力を「特殊で微妙な整えられたチカラ」であると表現されたことがありますが、実際に自分でそのチカラを受け、未熟ながらも「勁」として相手に伝えられることを体験してみれば、まさしく特殊で微妙な、整ったチカラであると思えました。


 このような「相手に押させる」という稽古は、他の多くの練功でも行われています。
 代表的なものを挙げれば、お馴染みの「腰相撲」はもちろんですし、基本功や套路の途中姿勢でも、動作を止めたところで腕や腰などを押して確認したり、壁や椅子、床などに拘束された状態で、身体の各部位を一人から複数で押さえさせるものなどがあります。

 それらはいずれも、押させた後にそれを「返す」ということを行い、自分の架式や身体の状態を確認していきます。自分が立っているときに存在する力よりも大きな負荷を掛けてもらうことで、自分の身体がどのように整っているのか、どこが整っていないのかを詳しく見ていくことができるのです。
 相手には、毎回一定のチカラでゆっくりと押してもらっていますから、自分と相手との関係は変わりません。変わることがあるとすれば、「自分の状態=在り方」だけですから、自分の在り方だけを見つめながら稽古をすることができるわけです。

 正しく立てたときとそうでないときには、明確な違いが身体に生じ、それが押している相手にもハッキリと伝わりますが、その違いこそが「拙力」と「勁力」の違いだと思えます。

 私たちが稽古で受けている「勁」の特徴を、思い付くままに挙げてみますと、

 拙力に比べて、そのチカラは軽く感じられ、早さがあり、鋭さがあり、
 相手に伝えるためのモーションや、伝わるまでの時間が必要なく、
 筋力の大小に関係なく発することができ、
 意のままに、その方向も大きさも強さもコントロールでき、
 小さな動きで大きな力を出すことができ、それが長く持続する・・・

 ・・などと言えると思います。

 「力」というものを考えた時には、師父が言われたバッテリーの話を思い出します。
 自動車のバッテリーは、見た目にはそれがフル充電されているのか、残量がない虫の息の状態なのかは見分けられないし、バッテリーを充電している時にもそれ自体が膨らんでくるわけではないし、減ってきたからといって縮んでくるものでもない。目には見えないバッテリーの容量を測るにはバッテリーチェッカーを使わないと誰にも分からない。
 勁力もそれと同じことで、相手には、そこにどれほどの力が内在されているのか、推し量ることができない質のチカラである・・・と言われました。

 私たちが「勁」を学ぶときには、いきなり発勁の訓練を始めたりはしません。
 そもそも「発勁」というのは、勁の中でも比較的重要なものとして選ばれた何種類かの勁、「陳氏太極勁十論」などで語られる内のひとつのものに過ぎません。
 そして「勁」というものが正しく認識されれば、「発勁」も学ぶべき勁のひとつとして、誰もが学び、習得していくことができるのです。

 グラウンディングなどの練習法で「拙力」ではないチカラ、「勁力」を実感することができたら、次にそれを相手に返していくことを学んでいきます。返すと言っても、それはまだ「発勁」ではないので、道場では言葉を変えて「出力」などと呼んでいます。

 「出力」というのは、一般日常的なチカラである拙力を出すことではなく、整えられた身体から正しく「チカラが出される」ことを指しています。
 普通、人が力を出そうとするときには、それは筋肉に力を込めた状態、即ち「入力」であると言えます。重い荷物を持ち上げたり押していくとき、ロープを引き上げるとき、引かれないように身体を留めているとき、全身に「入力」が働いていることが実感できます。

 そして、格闘技出身者にミットやサンドバッグを打ってもらった場合にも、構えられた拳が大きな衝撃音を伴ってミットに繰り出されるとき、その腕には大きな「入力」があるように見えます。それは、どのような突きでも蹴りでも同じことでした。

 私は真剣の日本刀を振り回したことはないのですが、それを持つときに腕に少しでも力みがあれば抜刀することはできないし、ましてや人を斬ることは絶対にできない、と教わりました。
 それは刀だけではなく、ナイフでも拳銃でも、大工仕事のカナヅチにでも同じことが言えると思います。金槌で釘を打とうとしたとき、金槌を持つ手に力が入っていたら、ただの釘一本上手に打つことができません。釘を真っ直ぐに打つためには、金槌を正しい方向に、必要な分の力だけを釘に伝えなくてはならず、そのとき初めて金槌による力が正しく発揮されたことになります。

 つまり、何かにチカラを伝えるためには、そのものがきちんと働いて力が「出力」される必要があり、反対に、動いていたものにブレーキを掛けて止めるときには、力が「入力」された方が効率がよい、と言えるでしょうか。

 ここに、私たちが斯くも「構造」にこだわり、それを大切に稽古する理由があります。

 金槌がその力を最大に発揮するためには、金槌の構造が整っている必要があります。
 もし、あの柄の部分が極端に長細かったり、強い力を出せるようにと頭の部分だけが巨大な金具になっていたとしたら、それは金槌としての用を為しません。
 矢が効率よく飛ぶためには、正しい弓の構造が必要ですし、ライフルだって戦車だって、その構造と働きのバランスが取れていなければ、機能することができないに違いないのです。

 一般日常的な力・拙力ではない正しい勁力を用いるためには、その人の構造が正しく整っていることと、その働きにバランスが取れていることが必要です。
 バランスというのは、特に難しい意味ではありません。上と下のバランス、前と後ろのバランス、相手と自分のバランス、陰と陽、虚と実のバランス・・・・

 そのことを理解するために、太極拳で最初に学ぶ練功が「站椿」であり、その内容を確認するものとして、「グラウンディング」や「腰相撲」などの対人訓練が存在しています。          


                                (つづく)

xuanhua at 20:11コメント(8)練拳 Diary | *#21〜#30 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2010年06月07日 22:32
何度受けさせていただいても、勁力というものには驚かされます。

腰相撲の動画でも、派手に人が飛んでいくシーンがありましたけど、
実際に体験してみると、映像で見るように人が飛ぶとは思えないような軽さで、
それだけでなく芯まで通る力強さがあり、経験したことのない不思議な感覚になります。
そしてそのたびに、自分の構造の至らない点、間違いが認識できます。

決して不可思議な「気の力」などではなく、精妙なチカラを得るための構造の整え方がしっかりと学習体系として存在しているのは、本当にすごいことだと思います。

そのすごいことを実際に学ぶ機会を得たのですから、決して無駄にすることなく、正しい体系を正しい方法で稽古に励みたいです。
 
2. Posted by まっつ   2010年06月08日 07:09
足を左右に開いて行うグラウンディングの稽古は、
足で踏ん張って耐える事を行い難い為、
間違っている場合には容易に押されてしまえるので、
自らの立ち方を確認するには非常に分かり易い練功だと思います。

特に上級者の方との対練であれば、
押す場合でも、押される場合でも自分をより見る事が起こり、
一人で行う稽古よりも、整えるという事をより理解する事が出来るように思われます。
正しい体軸というものに、当に直接触れられるという事、
それ自体が得難く貴重な体験です。
ご縁を得た機会を無駄にせず精進したいと思います。
 
3. Posted by マガサス   2010年06月09日 22:25
グラウンディングで押されると、チョイと前傾してそこに相手の力を押し留めていると押し返せそうな気がして、つい前傾して相手に寄り掛かりたくなってしまいます。
しかし、実はそれこそが「拙力」だと、最近少し分かるようになってきました。

要求を守り、正しく立つことを整えさえすれば、小さな馬歩で押されても立っていられるのです。
しかし、イザこれをやるのはとても怖くて勇気が要りますし、精密に調整して出来た時にはとても不思議な非日常的な感覚を味わえます。
相手の向かってくる方向に耐えようとするのが日常的な考え方ですが、グラウンディングでは自分が向かっているのは相手の力に対抗する方向ではない・・というのが非日常的ですね。

どのような対練でも、師父の勁を受けると、自分の力がどこかに行ってしまって愕然とします。
どれほど押しても、引いても、師父からはそれに対抗する力が返ってこない。
「暖簾に腕押し」という言葉がありますが、師父のはそうではありません。暖簾だと自分の力が
スカスカに空回りしてしまうわけですが、師父は「それが確かに暖簾なのに押せない」のです。

新稿の「勁力シリーズ」は、今後もとても楽しみです。
どうせなら動画を出して頂きたい、と切に願うのは、きっと私だけではないはずです。
 
4. Posted by のら   2010年06月10日 14:18
稽古とは即ち、「勁力が生じる構造」を整えるためのものに他ならないのでしょう。
しかし、そのためのグラウンディングの稽古をしていると、正しい構造が示されているのに、どうしても自分の筋肉感覚や日常的な感覚が入ってしまいます。

対練で相手に押された時には、そこで起こっている実際の身体の感覚と、自分がそれに対抗して不要な筋肉を使いたがっているということが生じますが、それによって「自分の考え方」が明確になり、それ自体を自分に問い掛け、正しくフィードバックしながらまた稽古をしていけます。
『稽古に唯あるのは反省と精進のみ』と師父が言われる通り、ひたすら自分自身を省みながら修正を繰り返していくもので、それに向かうことでしか上達は有り得ないのだと思えます。

連載小説「龍の道」の宏隆くんは、グラウンディングの経験がないのに、それまで正しい考え方で正しい稽古をしてきたので、たった2回で正しい馬歩が取れて、勁力が生じる構造になった・・・
私自身、まだまだ言われたことをそのまま受け容れられない自我のフィルターが沢山ありますが、站椿や基本功、グラウンディングなどの対練をひたすら繰り返していくことで、上達が可能となる「自分の在り方」が見えるようになってくるのだと思えます。
 
5. Posted by 円山 玄花   2010年06月10日 23:35
☆トヨさん

「軽さ」は、勁力の一番の特徴ではないかと思います。
師父が示範されるものは、姿勢も動作も、見た目にも「軽さ」を感じます。
相手に向かって大きく足が踏み込まれることもなければ、
相手に触れていた手が、力強く相手に押し込まれるようなこともありません。

基本功や套路にそのような動作がないことを考えれば、
太極拳では当たり前のことなのでしょうけれど、
やはり、何回体験しても不思議だと思えるものです。

本物に出会い、それを習得することが出来る機会を天が与えてくれたのなら、
その道を外すことのないように、日々注意深くあることですね。
 
6. Posted by 円山 玄花   2010年06月10日 23:37
☆まっつさん

正しい体軸に触れる・・ということは、とても大事ですね。

たとえ、どれほどの言葉を以てそれが語られようとも、
秘伝満載の極意テキスト(?)があろうとも、
たくさんの写真と動画でそれを詳細に検証することができようとも、
たった一回、正しい体軸に触れるという体験に勝るものではありません。

私たちは、それを毎回の稽古で体験しているわけですから、
ホントに本気で精進しないと、バチが当たるどころではありませんね。(汗)
 
7. Posted by 円山 玄花   2010年06月10日 23:45
☆マガサスさん

確かに、非日常とは、聞くは易く行うは怖し(・・アレ?)で、
聞いたときには、なるほどそれが非日常だよな、と納得できても、
イザ自分がそれを実践するとなると、尻込みしてしまうものです。
そこで新しい一歩が踏み出せるかどうか・・ということは、太極拳に限らず、
自分の人生で何回もそのようなことに直面してきているはずなんですけどね。

「勁力シリーズ」などと、大層なものではありませんが、
ともすれば有耶無耶にされがちな「勁力」について、
私たちがどのように指導され、学んでいるのかを、
教わっている範囲で書き綴れればと思っています。

>どうせなら動画を・・・
勁力は、腰相撲より言葉で表しにくいですから、可能性は高いカモです。
 
8. Posted by 円山 玄花   2010年06月10日 23:48
☆のらさん

のらさんがとても丁寧に、そしてひとつひとつを大切に稽古している様子が伝わってきました。

”自分自身を省みる”ということは、時としてつらく、情けなく思えることもありますが、
そこに一切の妥協もごまかしも入れないという心構えによって、
自分自身を映す鏡から曇りが消え、そうしてようやく、示されていることをありのまま、
受け取ることができるのだと思います。

また、自分自身の変容によって、それまで見えなかったもの、受け取れなかったことが、
自分にストレートに入ってきたときの悦びが、精進への活力になるのでしょうね。
 

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