2010年06月01日

連載小説「龍の道」 第46回




 第46回 訓 練(5)


 いったい何が起こったのか・・・・

 宏隆には容易に理解できなかった。
 さっきの自分と同じように、陳中尉が弾けるように飛ばされていったのだ。

「なぜ、こんなことが・・・・・?」

 無論、自分にそんなことが出来たのだとは、これっぽっちも信じられない。
 何より、人が大きく飛んでいくような力を、全く出していないのだ。
 それなのに、陳中尉は信じられないほどの早さで吹っ飛んでいった。
 転がりこそしなかったが、さっきと同じように机の所まで後ろ向きに飛ばされ、後ろ手に机に手を着いて、ようやくそこで停まったのだ。

「・・いやあ、流石に上手いものですね。
 もう少し上達したら、きっと転がされてしまいそうですよ、ははは・・・」

「陳中尉、これは一体どうなっているんでしょうか・・?
 自分にこんなことが出来たなんて、ちょっと信じられません」

「それが ”架式” というものなのです。
 如何なる力みも存在せず、立っていることが中心から外れていない状態・・・」

「立つことの ”中心” ・・・無極椿で求められるものですね?」

「そのとおりです」

「・・それが、それ自体がチカラとなるような立ち方だということですか?」

「そうです。いま体験したように、架式はただ立っているだけなら ”静” ですが、そこから正しい構造で ”動” に転じれば、それだけで勁力、つまり正しいチカラとなります。
 しかし、それが力みで行われてしまうと、ただの拙力になってしまう。
 それは常に ”意” が用いられることによって行われなくてはなりません・・・」

「うーん、難しいですね・・・でも、稽古で真っ先に站椿を練ることの意味は分かるような気がします。自分はまだまだ站椿を理解していないようです」

「正しい理解が起こるには、多くの誤解を解いて行かなくてはなりません。人は何でも自分勝手に、好きなように理解したがるものですからね。己の無知と無力を識(し)り、ひたすら謙虚になることが出来れば、数々の誤解も自ずと解けていくものですよ」

「傲慢さは何ひとつ問題の解決をもたらさない・・と、よく父にも言われました。
 もっと、もっと、站椿をやり込まなくてはなりませんね。一時間でも、二時間でも、立つことを理解するために、立っていられる限り、立っていたい気持ちです・・・」

「・・うん、謙虚にそう思えるのは、とても良い傾向です。私の経験でも、站椿の重要性に気付いてから、ようやく太極拳で何を学ぶのかということが見えてきましたからね」

「王老師は、ただ単に足幅が広く架式が低いだけの馬歩など、何の役にも立たないと言われました。架式はそんなことで決まるのではなく、何処で立つか、何によって立っているかということなのだと・・・自分ではまだ、放鬆(ファンソン)が正しくないような気がしているのですが」

「馬歩で立っていて、椅子に腰掛けているような感覚がありますか・・?」

「王老師にもそう言われました。正しい馬歩は椅子に腰掛けているような感覚が在る、と。
 まるで椅子に腰掛けているように見える恰好で立つのではなく、実際に椅子に腰掛けているのと変わらない ”確かな実感” が内部に存在しているのだと言われました」

「そのとおりです、それが確かに感じられれば、高架、低架に係わらず、正しい馬歩であると言えます」

「身体の中心には、確かにある種のしっかりした構造のようなものを感じるのですが、実際に椅子に座っているのと同じような感覚・・とまでは明確に感じられません」

「ふむ・・・それじゃ、もう一度やってみましょう。
 さあ、馬歩を取り直して・・・」

 ふと気がつくと、ブースで実弾射撃の訓練に励んでいた二人が、いつの間にかそばに来て、陳中尉と宏隆のやりとりを食い入るように見ている。

 もちろん、王老師の陳氏太極拳は、彼ら結社のメンバーにとっても強い憧憬の対象なのだが、単にそのような憧れで眺めているわけではない。たとえ少しの時間でも陳中尉の指導に触れて何かを学ぶことは、彼らにとっては命懸けの任務を全うし、なおかつ身の安全を確保するための、差し迫った必要性に他ならない。その証拠に、彼らがこの師兄弟のやり取りを見る目は、まるで最前線に送られた兵士のように、真剣そのものであった。

 しかし、その陳氏太極拳は、たとえ秘密結社・玄洋會に属する者であっても、望めば誰もが学べるわけではなかった。王老師は結社の隊員にも武術指導をするが、それと陳氏太極拳の真伝を正しく教授することとは全く内容が異なっている。

 中国武術では、本人の熱意や目的の確かさなどを認められて取り敢えず入門を許された者は「学生」と呼ばれるが、それは言わば師の示範を見様見真似に学ぶことを許されたということであり、師の動きを見せてもらえることを元に、自分の力でひたすら学んでいくしかない。
 学生たちの中で、さらに優れた資質を見出された者は「門徒」などと呼ばれる。つまり、ようやく師の門に入門を許された門人徒弟の立場となったわけであり、学生に比べればより多くの内容が指導されることになる。
 しかし、本当に拳理拳学の真実を授けられるのは、師のもとで生涯を懸けてこの道を学び、その内容を後世へ正しく伝承することを誓った「入室弟子」や「拝師弟子」と呼ばれる者たちである。彼らは門徒の中から選ばれた、師の鑑識眼に適う武藝の天稟と人格に秀でた人間であり、その者たちだけに限って、最も高度な奥妙が伝授されるのである。

 陳中尉と宏隆のやりとりを眺めている彼らにしてみれば、まだ笑顔にあどけなさが残る、この異国の少年が、たいそう不思議な存在として映っている・・・
 彼らが憧憬してやまない陳氏太極拳という高度な武術の真伝を学ぶことを許され、結社のみならず、斯界にその高名を聞く王老師の拝師弟子として認められたということだけでも正に驚くべきことなのだが、その宏隆は、さらに自分たちの尊敬する上官であり武術教練でもある陳中尉を、目の前で、僅か二度目のグラウンディングで見事に吹っ飛ばしている・・

 そんな宏隆という人間に対しては、もう立場や年齢を超えて、必然、畏敬の念さえ抱かざるを得ない。先刻、さんざん言い掛かりを付けた ”強” という男も、単に親譲りの反日感情と言うだけではなく、そんな宏隆への羨望や畏れの気持ちが強かったからに違いなかった。


 その宏隆は、再び丁寧に馬歩を取り直している・・・

 念入りに無極椿の要求を身体に整え、足を一歩横に開くのにも、教わったとおりの忠実な動きで、1,2,3、と、動作を分解して構造を整えながら細かな調整をしている。
 よく見れば、出す方の足が浮いて、ゆっくりと身体が左へと動き、もう身体がとっくに軸足の上を超えているのに、出された足はなかなか地面に落ちない・・まるで身体が空中に浮いているような、重力に拘束されていないかのような動きがありありと見られるのだ。

 それに、どのように立てばそんなことが可能となるのか、立っている軸足は、見た目に全くと言って良いほど外側にブレておらず、片足だというのに、ほぼ真っ直ぐに立っている。股関節の外側の、大転子(だいてんし)の方に寄り掛かるように流れては行かないのだ。
 そして、ようやく着地した脚は、まるで鳥が小枝に留まったかのようにフワリと軽やかで、站椿(Zhan Zuang)の字義である「杭のように立つ」などという事とはまるで無縁のような立ち方に思える。

「・・そう、放鬆をすればするほど自分の立つ軸が分かり、立つ軸が分かれば分かるほど、そこに安心して放鬆することが出来るのです・・・どうですか?」

「はい、何だか寛いで放鬆するほど、立っている位置が際立ってくるような気がします」

「おそらくその感覚は正しいものでしょう。見た目の姿や形も、正しいと思えます。
 それじゃ、もう一度押していきますよ・・・」

「・・お願いします」

 陳中尉は、馬歩の架式で立つ宏隆を、再びゆっくりと押し始めた。

「そうです・・・押されている力を、そのまま脚(ジャオ)に伝えるようにして・・・」

「・・・・・・・」

「そう、そうです、その調子です・・・・
 その方が、つま先や太腿に寄り掛かりがないので、さっきよりも良いですね」

「はい・・・・」

 しかし宏隆は、馬歩の正しい位置に集中するあまり、少し身体が固くなってきた。

「それでは気負いすぎです・・・もっと、この辺りを・・この方向に放鬆するような気持ちでやってみると、立つ位置が分かりやすくなりますよ」

 陳中尉は一旦手を放して、宏隆の身体の何カ所かの部分をポン、ポン、と叩きながらそうアドバイスをし、再び手のひらを押し始める。

「あ・・・こうすると全然違いますね。何だか、こうしてはいけないような感覚がこれまでにはありました・・・こんなふうに放鬆しても良いんですね?」

「ははは・・・良いどころではありません、そうしなくては放鬆にならないのです。
 その状態から、それらの構造を結んで、さっきと同じ意識で私を飛ばしてごらんなさい」

「はい・・・」

 ふっ、と・・・・宏隆の身体がわずかに震えるように動いた途端に、陳中尉の身体は再び後ろ向きのまま、同じ机の方に飛ばされていった。

「・・あっ、これだっ!、正しい馬歩はこの位置なんですね!!」

「そのとおり・・・出来るじゃないですか!、たった二回目で早くもグラウンディングを取ってしまいましたね!」

 弾き飛ばされた陳中尉が、さっきと同じ机の辺りから、少し興奮気味に声を掛ける。
 中尉にしてみれば、王老師から同じ陳氏太極拳を学ぶ弟(おとうと)弟子が可愛くて仕方がなかった。その弟はなかなか度胸もあるし、武術の素質(すじ)も良い・・・

「いいえ、まだ謎だらけ、分からないことだらけです・・・だいいち、誰に押してもらってもこんな真似が出来るとは、到底思えません。中尉に丁寧に押して頂いたからこそ、出来たのだと思います」

「・・・大丈夫ですよ、やって行けば必ずこの馬歩の原理が分かるようになります。
 それに、相手を吹っ飛ばすことがこの練功の目的ではありませんからね。オリンピックではないので飛ばす距離を競うわけではないし、たとえ相手が10センチしか動かなくても、正しい構造は正しい構造なのです」

「ありがとうございます、これからは站椿をもっと繊細に練っていけそうです」

「站椿はいくら練っても多すぎるということはありませんね。時間を掛けて練れば練るほど、武術的に立つことの何たるかが理解されてくることでしょう。・・・さて、ちょっと脱線しましたが、次は射撃で馬歩を確認してみましょうか!」

「・・待ってました! お願いします!!」

「はははは・・・・」


 陳中尉は宏隆と一緒に射撃ブースに戻り、再びベレッタを手に取って見せる。

「銃を正確に撃つためには、先ほどと同じように無極を基本として、馬歩で構えるのです」

 ピタリ、と・・・陳中尉は寸分の狂いも有り得ないような見事な馬歩で立ち、ベレッタを両手でアソセレス(二等辺三角形)の形に構えて見せた。

「・・さあ、やってごらんなさい」

 宏隆もまた、たった今、中尉を弾き飛ばした馬歩を思い出して、ピタリと構える・・・

「そう、カタチはなかなか良いですね・・・
 では、チェンバー(chamber=薬室)に弾丸を装填して、そのまま撃ってごらんなさい。
 標的までの距離は約18メートル、中心の黒い円は直径5センチです」

 そう言われて、安全装置を外し、スライドを引き、初弾をチェンバーに送り込んで、もう一度構え直す。

 しかし、何とも標的が遠い・・・・

 18メートルぐらい、歩いてもほんの僅かな距離だというのに、どうしてこんなにも遠く感じられるのだろうか。それに、標的の真ん中の黒い円は、小さな点にしか見えない。
 片目をつぶって、懸命に照準を合わせて標的の中心を狙っていると、

「・・片目をつぶるのはダメですよ。実戦では動いている場合が多いので、片目をつぶるという行為は距離感や見える範囲を狂わせて危険極まりないですからね。
 片目で撃つような場合は、ある程度の距離があって、静止しているものを慎重に狙う必要がある時だけです。まずはきちんと両目を開けて、照準に慣れることです」

「はい・・しかし、両目を開けていると照準がダブって見えて、何処に合わせて良いか分からなくなりますが・・・」

「人間の目は左右に距離があるので、近いものに焦点を合わせようとすると、どうしてもダブって見えてしまうのは仕方がありません。両目を開けていても ”利き目” で照準を合わせられるように訓練しなくてはならないのです・・・」

「利き目、と言うのですか?、その言葉自体、初めて耳にしました・・・」

「普通は、利き手、利き腕とは言っても、あまり利き目とは言わないかも知れません。軍隊用語だと思ってもらえればいいですね。
 今の場合は、照準を合わせやすい方の目が ”利き目” です。標的が移動している時は両目を開けていることが必要で、それを動的射撃と言います。距離があって標的が静止している場合は片目をつぶって撃ちますが、それを静的射撃と言います」

 ・・・通常、銃の照準器は、銃の先端に凸型の照星(フロント・サイト)、グリップの上にある撃鉄のすぐ前に凹型の照門(リア・サイト)が着いていて、照門の窪みに照星を合わせて狙いを付ける。そして両目で見ていると照門がダブって見えるので、素人は必ずと言って良いほど、しっかり片目をつぶって照準を合わせようとする。
 しかし片目をつぶると、照準を合わせたところ以外の動きが見えにくく、すぐ横に味方が飛び出してきたのが見えなかった、などということが無いように、銃を用いる仕事では必ず両目を開けて撃つ訓練が行われる。


「訓練をしていけば、すぐに自分の利き目で合わせることに慣れてきますよ」

「利き目で、狙いをつける・・・・ああ、なるほど、両目を開けていても、片目で狙った時と同じように照準を合わせることが出来ますね」

「そうです、それで撃ってごらんなさい」

「はい・・・・」

 はい・・と、答えるか答えないかのうちに、宏隆はもうベレッタを撃ち始めていた。

「ターン、ターン、ターン、ターン・・・・・」

 初めて撃つベレッタの銃声が、射撃場に響きわたる。
 実際にそれを手にして撃てば、拳銃とは思えぬほど軽やかな音に聞こえた。


                                 (つづく)



  【 参考資料映像・ベレッタM92F 】


     

taka_kasuga at 20:08コメント(12)連載小説:龍の道 | *第41回 〜 第50回 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2010年06月01日 23:16
先の「のらさん」の站椿の記事とリンクしているようでとても勉強になりました。
まさか銃の撃ち方から馬歩がここまで詳細に語られるとは・・・。いやはや驚きの展開ですね。
本当にこの小説は道場で教えを受けているような錯覚を覚えます。

また、「両目を開けて照準をとる」というのは初めて聞きました。本当の実戦を想定した訓練というものは私達が知らないことが沢山ありますね。
 
2. Posted by トヨ   2010年06月03日 01:34
むぅ、放鬆。これがわからないと位置がわかりませんね・・・。

なんて稽古で言ったら、
「いつも言ってるじゃないか!」と師父に言われてしまいました(笑)
って、笑ってられないんですけども。

宏隆くんはまだ十代なのに、自分なんかよりよっぽど大人で、
学び方ということがわかってるんだろうなァ・・・と感じます。
もっと、自分を磨かないといけません。

あれ、なんだか小説へのコメントになってないですね(汗)
 
3. Posted by 円山 玄花   2010年06月03日 13:31
前回から引き続き、グラウンディングの稽古でしたね!

たった2回目で取ってしまった宏隆くん。彼の才能云々というよりは、
正しい指導と、考え方や発想を瞬時に転換できる柔軟な軸があれば、
なにも長い時間、汗水流してオイッチニっとしなくとも、
その場で理解できるということが、学習の本質なのだと思いました。
そのためには、謙虚な心が必要になってくる、と。
まさに原因と結果、これぞ太極の考え方ですね。

モチロン、理解できた後はひたすら汗水流して、
せっせと鍛錬に励まないといけませんけれども・・・。

しかし、動的射撃に静的射撃!?
まだまだ秘密の訓練場での訓練が続きそうですね。
次回も楽しみにしています。
 
4. Posted by まっつ   2010年06月03日 22:26
今回の「龍の道」では、のらさんの「站椿 その6」の内容を、
当に実際的に求めていくプロセスから、站椿を紐解いて頂いているのですね・・・
1つの方向からでは把握が困難な問題が、他の視点から見ればどのように見えるのか?
架式とは、実際的で確かな実感として身体の内部に感じられるものなのですね。
その質感の一端を活き活きと感じさせて頂けました。
站椿に向き合う際の道標にさせて頂きたいと思います。
このように細部に至るまで、心を砕いて導いて頂ける事に感謝致します。

さぁ、次回こそ宏隆君の射撃の腕前が披露されますね!
どーなるんだ次回!(C)
見事中るのでしょうか!?
 
5. Posted by 春日敬之   2010年06月04日 18:45
☆ tetsu さん

私も「のらさん」の記事は、何度も読んで勉強させてもらっていますが、
今回のは偶然で、別にリンクさせようとして書いたわけではありません。(笑)
のらさんご自身も、”実銃” でガンガン撃つ訓練をしちゃうような人ですから、
きっと站椿もかなりのレベルでこなされているんだと思います。

両目を開けて照準を取るのは、実際に訓練を受けた人なら知っていることです。
グァムやオーストラリアなんかの観光射撃だと、みんな片目をつぶって撃ってますけどね。
訓練で片目をつぶっていると、「何でお前はターゲットにウィンクをするんだ?!」なんて
どやされることになります。
 
6. Posted by 春日敬之   2010年06月04日 18:50
☆トヨさん

「放鬆」はとても大事ですね。

太極拳は、放鬆がなければ、立つことが成立しない・・
太極拳は、放鬆がなければ、動くことも、戦うことも出来ない・・
男は、強くなければ、生きていけない・・
優しくなければ、生きている資格がない・・・・(ついでに)

・・でも、放鬆が「何ゆえ」に大事で、「何を」「どうする」ことが放鬆であると、
きちんと説明をした人が、未だかつて居ないような気がします。

・・で、よく分からなければ、指導者に訊ねればよいのです。
指導者というのは、「知っていることを知らない人に教える」立場の人であり、
「知らないことを教えてあげたい」と思っている人なのですから、
熱意を持って訊ねれば訊ねるほど、教えずには居られなくなるはずです。

・・まあ、これはオトナの悪知恵ですけどね・・・(笑)
 
7. Posted by 春日敬之   2010年06月04日 18:55
☆玄花さん

かつて師父が套路を示範する後ろで一緒に就いて練習した人が、まるでもう一人の師父が
其処にいるかのように、ものの見事にピタリと合わせて、その高度なレベルを目の当たりにして、傍で見ている人たちが驚嘆した、というお話を伺ったことがあります。
その人はオーストラリアから来た外国人で、太極拳なんぞまったくの素人、
師父に教えを受け始めてからまだ三ヶ月も経っていない、27歳の女性であった、と・・・

その女性の才能や資質もあるのでしょうが、
それは、まさに正しい指導と、考え方や発想を瞬時に転換できる柔軟な軸の為せるワザであり、
「その場で理解できることこそ、学習の本質である」と言えるでしょうか。

考えれば、私たち戦後日本に育った「微温湯世代」は、学校で教わることを6〜7割も記憶すれば
卒業できたので、自分の創意工夫や研究していくチカラを養って来なかったように思います。
・・で、武藝館で教わっても、それを学校のようにただ師父について動きを繰り返し、
あとは勝手に要点だけを大切にして試験に備え、自分の武術のイメージでここの太極拳を楽しんでいるような・・・まあ、武藝館にテストはありませんけれども、そんな学生時代の感覚でやっている人は、結局はダメだと思います。

いつも師父が、「考え方を変えなさい。やり方を自分で工夫しても、コレは解らない」
と仰っていることを、もっと真摯に受け止めなくてはなりませんね。
 
8. Posted by 春日敬之   2010年06月04日 18:59
☆まっつさん

>架式とは、実際的で確かな実感として身体の内部に感じられるものなのですね。
>その質感の一端を活き活きと感じさせて頂けました。
>站椿に向き合う際の道標にさせて頂きたいと思います。

ははは・・・・そりゃぁ、アベコベでしょう。

まっつさんが入門してから何年経つのか存じませんが、
武藝館の稽古では、私の ”三文小説” の中身なんぞとは比較にもならない、
その万倍、億倍に匹敵するボリュームの「道標」が日々惜しげもなく饒舌に語られ、
門人の誰もが等しくそれを間近で見て、それを詳細に真似ることを許され、
それを習得するための方法まで具体的に提示される、「実際的・実質的な場」であるはずです。

架式の「質感の一端を活き活きと感じ」なければならないのは、他ならぬ「稽古の場」であって、
私のような ”ニワカ小説家” が書く、とりとめもないフィクションの物語の中なんぞには無く、
この小説を見て「站椿に向き合う際の ”道標” にする」なんてぇコトになると、
ちょいとハナシがあべこべでは?・・・と思います。

「ああ、いつも稽古で言われていることと同じだね〜!」と思って頂けるのなら、
とっても嬉しいですけどね。

上で tetsu さんが仰るような、
「この小説は道場で教えを受けているような錯覚を覚えます・・」
というのが、日々高度な稽古を熟している門人の、極く普通の実感だと思いますが、
如何でしょうか・・?
 
9. Posted by とび猿   2010年06月05日 13:17
たった2回で、グラウンディングを取ってしまうとは、宏隆君は凄いですね。

なにかを取っていけるかどうかは、才能もあるのでしょうが、本人が何をどれだけ求めているのかによるのだなと、痛感します。
自分の外にあるものを手に入れたい、自分に付け足したい、コレクションしたいというのならば、傲慢であってもできるのでしょうが、何かを理解したいとなると謙虚にならざるを得ないですね。
これは大変な違いですね。
 
10. Posted by 春日敬之   2010年06月06日 13:26
☆とび猿さん

何かを取っていくというのは、「自分のものにする」「それが自分自身になる」、ということですから、よく考えてみれば大変なことですね。

太極拳は、それを伝承する立場の人、師父や玄花さんにとっては、「道」です。
「道」というのは、自分の「人生」として歩んでいくところのもの、という意味です。
だから、そこには人生で起こる全てのことが起こります。
拝師弟子や候補生の方たちも、それを「道」として選んだ人たちで、それを実際に歩むことで学び、学ぶことで人間としての精神と武術的な身体を高度なものにしていきます。

一般門人は、それが趣味であったり、心身の健康を養うものであったり、人生の指標であったりします。
ところが、その中に研究会レベルの武術身体を持つ人が何人も現れてくる、というから面白いものですね。研究会のように太極拳を極めようとしていないのに、研究会が驚くような高いレベルの人が出てくるのだと・・・

これは、その人たちがひたすら「正しい稽古をしている」故であるからだと、師父は仰います。
つまり、「正しい稽古」をして居さえすれば、誰にでも高度なレベルを取れるのだと。
しかしその「正しい稽古」もまた、本人が「何をどれだけ求めているか」ということによって、正しく出来るかどうかが決まるわけで、結局は謙虚に自分自身を観ていける人、素直に正しい稽古に身を委ねて(surrender)いける人だけが、これを取っていけるのだと思えます。
 
このサレンダーという言葉は、とても意味深い言葉だと思います。
降伏する、降参する、参った、と言って明け渡す、身を委ねて明け渡す、という意味ですが、
これがなかなか出来ない。普通は「負けるもんかっ!」が価値になるんですね。
しかし、それが「正しい稽古」を学ぶのに邪魔になる。
「参りました・・!」と降参しない限り、それをトータルには学べないと思います。
 
11. Posted by みみずく   2010年06月06日 21:36
宏隆君と比べると自分は放鬆の意識が不足しており、無極椿が浅いものになっていると感じます。
やはり放鬆は無極椿をやり込み、徹底して探さないと解らないものだと、この物語を読んで身に染みる思いです。
日頃より度々注意を受ける、意識することの大切さや、自分が何を目指すのかという明確な志を
持つこと、そして、その望み自体が小さければ何をやってもダメだという事の意味が、ひしひしと実感として伝わってきます。
この小説を読んでいると、本当に反省させられることばかりです。
 
12. Posted by 春日敬之   2010年06月10日 16:58
☆みみずくさん

お返事が遅くなりました。
龍の道をご愛読頂き、ありがとうございます。

無極椿はとても大切ですね。
無極椿をやり込むためには、自分が立っている位置を繊細に実感していくことや、
ひとつひとつの要訣を丁寧に尋ねていく必要がありますが、それさえ、コツコツきちんとやって
いけば、やがて無極の理解が始まるのだと、師父は言われます。

ものごとに意識的に向かうことや、明確な志を持って生きること、
自分の望み自体が小さければ何をやっても手に入らない、というのは、
そっっくりそのまま、「上達への道」を示している言葉ですね。

私は「龍の道」を、自分の成長や上達のためにも書かせて頂いております。
どうぞ今後ともご愛読ください。
 

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