2010年04月27日

練拳 Diary #29 「階段の、ステップ・バイ・ステップ」

                        by 教練  円山 玄花



 1週間に2回、門人によっては1週間に5回の稽古を行う中で、一般武藝クラス・研究會の区別なく、幾度も繰り返し説かれている「日常・非日常」という言葉があります。

 人間の「常識・非常識」については、道徳の時間に勉強をしたり、社会生活のなかでそのことが問われる機会があったりもしますが、「日常・非日常」となると、そのような言葉そのものをあまり耳にしたことがなく、そのことと太極拳にどのような関係があるのか、それをどのように考えたらよいのかがあまりよく分からない、ということもあるようです。

 稽古中に最も多く聞かれる、「日常・非日常」に関係する言葉を上げると、

 「日常の考え方のままでは、太極拳は理解できない」

 「武術について、君たちが考えられる全てのことは、逆さまだと思った方が良い」

 「日常が非日常に、非日常が日常にならない限り、太極拳は見えてこない」

 ・・などです。

 それでは、普段私たちが生活をしている中での「日常・非日常」とは、一体何であるのかとちょっと考えてみました。

 例えば、普通ヒトは前向きに歩くところを、後ろ向きに歩いてみる。
 普段右手で箸を持つことを、左手で持ってみる。
 席を立つときに、必ず右回りでイスから立ち上がっていた動きを、左回りで立ってみる。
 
 他にも、自転車に乗る、車を運転する、まだ食べた事のない物を食べてみる、船で旅をする、全く知らない言語で話しかけられる、飛行機で見知らぬ遠い外国へ行く・・などなど、挙げ始めてみると、日常の中には意外とたくさんの「非日常」が転がっている事に驚かされます。

 もちろん、今挙げたものは事物や現象など、自分の身の回りのことであり、「考え方」について触れるものではありませんが、程度やレベルの差異はあっても、普段自分が考えないことや、生活習慣にない事柄は、すべて「非日常」と呼べるのではないでしょうか。


 そう考えてみると「階段」というものは、日常の中では見過ごされがちな、ほとんど日常と一体化しているような、けれども立派な「非日常」であると思えてきます。
 しかも、その存在がほとんど日常と一体化しているために、階段に対する自分の「考え方」の「日常・非日常」にまで、言及することができると思うのです。

 「階段」は、足が疲れるし、時間は掛かるし、息も切れる・・・
 三階建てのビルにエレベーターを付ける義務がないなんて、何て非効率的なのだろうか・・と、そう思っていたのは、太極拳を本格的に学び始める前までのことでした。

 「階段は、現代の人が太極拳を学ぶ上で、とても重要なことを教えてくれるはずだ」

・・そのように師父に言われてから、私の階段に対する見方と考え方が変わったのです。


 普通、「階段」という物はあまり好まれません。
 例えば、5階建てのビルの最上階にお遣いを頼まれたとして、受付のあるホールから少し入ったところに、階段とエスカレーターとエレベーターが同じ場所に並んでいたとしたら、貴方ならどれを選ぶでしょうか。
 個人の好みや、頼まれた用事の内容にもよると思いますが、真っ先に階段が選ばれることはまずないように思われます。

 なぜ階段が好まれないかと言えば、それは当然、平地を歩くよりも足に負担が来るからであると思います。聞いた話では、階段は普通、平地を歩くときの約2倍のエネルギーが必要だとか。そして、階段を上るときには、足で身体を持ち上げる負担が掛かりますし、下る時には、足で身体を支える負担が掛かります。
 この、”階段を下るときの負担” というものは、割と見落とされやすく、ともすれば上りだけが身体に負担が来るものだと思われがちですが、実はここに「日常」の視点から見た思い込みがありました。


 かつて池袋の ”サンシャイン 60” で、全部で1,204 段ある階段を使った、とても興味深い実験が行われたそうです。
 その実験とは、まず、サンシャイン60 の屋上と1階に数十人ずつの学生を集め、屋上の人は1階まで、1階の人は屋上まで、それぞれ移動してもらいます。
 そして「上り組」と「下り組」がそれぞれ1階と屋上に到着したら、全員が1階の階段に集合して、一斉に階段を下りてもらう、というものでした。
 すると「上り組」は、筋肉痛のために満足に階段を下りられなかったのに対し、「下り組」は何の問題もなく下りることが出来たといいます。
 ところが、その翌日、再び同じメンバーに集まってもらい、同じように階段を下りてもらうと、「上り組」は普通に下りていくのに対して、「下り組」は「上り組」以上に筋肉痛に苦しんでしまい、とても普通には下りられなかった、というのです。

 この実験から、階段の「上り」と「下り」では、使われる筋肉や身体に受ける負担は異なるものの、どちらも同じように負荷が掛かっているということ、そして階段を下るときに使う筋肉は、普段はあまり使われないためか、急激に使われた後の疲労はかなり大きいということが分かります。

 身体に掛かってくる負担の種類はともかくとしても、実際に20キロの荷物を持って3階まで上るとしたら、同じ荷物を持って下りることに比べると、より負担が大きいと言えます。
 そして、階段の上りと下りで負担が変わることが「日常」であるならば、その負担が変わらないことや、階段を歩くことと平地を歩くことが、身体的に変わらない状態が「非日常」であると言えます。
 そのことは、武術的に考えた場合に、何を意味しているのでしょうか・・・。


 武術の本や雑誌に見られる「歩法」に関係する項目を読んでみると、

 「膝を抜いて、前へ移動するための推進力にする」

 「膝を抜いて落下することで、後方への蹴りが不要になる」

 「膝を抜くことで、相手からは技の起こりが見えない」

 ・・などという表現がよく見られます。

 私たちが稽古で学んでいる歩法とは異なる、その「膝を抜く」という方法に興味を持った私は、それを「階段」で試してみました。

 実際にやってみると、「上り」で膝を抜くと、身体は前の下方向に向かいますから、大急ぎで後ろ足を上の段に持ち上げなくてはなりません。
 また、「下り」で膝を抜くと、次の段に後ろ足を降ろすことができず、そこから体が制御不能な状態に陥り、一番下まで、何段かおきに跳び歩くことになります。

 膝の抜きを加減して見た場合にはそのようなことはなく、後ろ足は次の段に来たのですが、それを連続させて歩くことは、私には難しく感じられました。

 「階段で戦うことは滅多に無い」と考えれば確かにそうかもしれませんが、例えばそれが坂道であったらどうでしょうか。
 下り坂であれば膝を抜いたり落下を推進に変えたりすることは、もしかすると戦闘上有利に繋がるのかもしれませんが、反対に上り坂であったなら、落下して推進できる距離やそれに伴う攻撃威力はずいぶん減少されることが想像されます。
 そしてその身体の使い方では、たとえ見た目にはほとんど分からないような、緩やかな斜面であったとしても、坂の上りと下りでは物理的に作用が異なっている、ということになります。

 果たして、生命の危機を如何に切り抜けるかという際どい状況にあるとき、自分の置かれた環境によって、身体の使い方や原理が左右される怖れがあるものを、わざわざ重要な歩法の練功として練る必要があるのだろうか、という疑問が湧き起こってきました。
 もちろん、私は「膝を抜く」ということに対してそれほどの研究を重ねたわけでもなく、ただ自分がその本を読んで、その言葉通りに試してみただけのことですから、そこに深い原理があっても、当然それを十全に理解することなど、出来るはずもないのですが・・・。


 武術として、自分が相手に殺されないための要素とは、絶対的な「早さ」と、一撃で相手を仕留められる「威力」だと私は思います。

 絶対的な早さとは、瞬間的な速さとは異なり、例えばどれ程パンチを打つ速度が速くても、武術的に見て、身体の動きが遅いのでは、何の意味もありません。
 また相手を確実に仕留められる「威力」とは、パンチ力や発勁力そのものの大きさや強さではなく、相手と自分の関係性に於いて、こちらの力や動作が小さくても相手にとっては強大な影響と作用を受けることが、武術的な「威力」ではないかと思っています。

 そしてその二つの要素は、基本功を中心とした数々の練功によって、身体に備わってくるものだと思うのです。

 基本功や歩法を、ゆっくりと等速度で丁寧に時間を掛けて練り込んでいくのは、どのような状況下にあっても「ひとつの原理」で動ける身体を手に入れるためであり、多くのシチュエーションを設定しておいて、ひとつひとつに対処できるように工夫するようなことは有り得ません。

 例えば、歩法で足の蹴りや落下が感じられなくとも、「階段」を歩くときに足の蹴り上げや落下が必要であるなら、それは同じことが平地でも生じているはずであり、それだと基本の原理から外れてしまうため、まだ身体がトータルに動けているとは言えません。
 階段でも坂道でも、荒野でも田圃の泥の中であっても通用する、不変の原理でなくては、武術としての意味も、日夜の厳しい修練に励む甲斐もないというものです。


 私の場合、自分の歩法を飛躍的に変えてくれたのが、まさにその「階段」でした。
 最初の頃は、段の上に足を乗せて、その位置に自分の身体を持って行こうとすると、どうしても足の筋肉に効いてしまいました。
 それを歩法で考えてみると、出した前足を身体が通過していくときには、足が効いているということであり、それならば足が効かないようにと、そこで膝を抜いても、身体は落下するだけですから、結局どこかで下から上に戻ってこなければなりません。

 私たちが稽古で「落下」を注意される理由のひとつは、落下する動きは、相手にとってはとても「遅い動き」として見えてしまうからです。
 例えば、川を流れる水を見たときに、どこにあった水がどの辺りまで来たかを認識することは非常に難しいのですが、落下して滝壺に落ちてゆく水を目で追うことは容易にできる、ということと似ていると思います。
 さらに、落下をしている間は決して身体をトータルに働かすことが出来ず、身体が十全に働かない状態では「勁力」は生じないという問題があるためです。

 「落下」の問題については、階段の下りの方が、より分かり易いかもしれません。
 いま上ってきた階段を注意深く同じ感覚で下りようとすると、足がわずかに届かない状態となって、不足した分の高さを「落下」で補っていたことが分かります。

 このことについて師父は、階段の上りと下りとでは、使われる身体の構造が異なるためであると指摘されます。
 本来人間の身体は大きな段差を下れるようには作られて居らず、階段が必要な場所では、上りと下りで一段の高さを変えて、下りは上りの三分の二程度の高さにすれば歩きやすく、駅などでは下りのエスカレーターを増やせば大変効率も良いし、健康にも良いはずであると言われるのです。

 ただし、それは一般の人に対してのことであって、師父ご自身は階段の上りでも下りでも、平地と何ら変わらない状態だと仰いますし、実際に師父が階段を歩く姿を拝見すると、まるでエスカレーターにでも乗っているのではないかと思えるほど、身体に入力や脱力などの変化がまったく見られません。

 師父は、それを可能にするために足腰を鍛えたわけではなく、ただ「基本」を守って歩いているだけである、と仰います。
 それだけで、階段を上るときにも足には平地を歩く以上の負担が掛からず、下りでも足が足りないということがなくなってしまうのですから、「基本」がもたらす構造の、何とすごいことでしょうか。

 平地でも階段でも、何ひとつ変わりなく、同じように歩けること。
 それは私たちの学んでいる「原理」がひとつであること、そして「歩法」が示していることもひとつであり、それは平地でも坂道でも、前進でも後退でも、横向きに歩いても、ゆっくりでも素早く動いても、何ら変わることのない、すべてに通じる「法則」であることを意味しています。

 さらに視点を変えてみれば、相手が如何なる武術の戦闘法を身につけていようとも、如何なる種類の武器を所持していようとも、こちらは「たったひとつの原理」を磨き続けていればよい、ということになります。
 いつ誰がどのような武器を持ち、何人で襲ってくるか分からないという、現代からは想像もつかない過酷な戦乱の状況下で、相手がどのような武術に長けているのかも分からない中では「何々に対してはどのように対処する」という考え方では、とても生き延びられなかったはずですから、それは昔日には極めて常識的な考え方だったかもしれません。

 「ただひとつのことを理解し、身につけるために、すべての練功はある」

 ・・そのことを常に忘れてはならない、と指導される師父の言葉は、幾度となく繰り返して聞いても、とても深く、そして重く感じられます。


 「日常」から「非日常」へと興味を持ったとき、そして自分にとっての未知なる「非日常」をやってみよう、やっていこうとしたときには、まるで荒れ地を耕して豊かな畑にしていくかのように、脳の中が開拓され、身体が変わり、自分という生命が大きく、豊かな存在になっていくような確かな実感があります。

 ドレスアップして高級フランス料理店へ行くことも、十分素敵な「非日常」だと思いますが、言わばそれは身の回りのことであって、ただひとときの心地よい体験に過ぎません。
 つまり、自分を変えなくても、「非日常」という環境に身を置くことはできるのです。

 「階段」は、その関わり方次第で、見方・考え方・実際の感覚を「非日常」へとチェンジすることができる、優れた道具だと思います。
 そして、何がきっかけであれ、一度でも自分の「非日常」が「日常」へと変化すれば、人はそこからさらに大きく、自分を開拓していくことが可能になるのだと思います。

 現代における武術の存在意義は、そのようなところにもあるのだと感じられました。


                                    (了)

xuanhua at 19:30コメント(8)練拳 Diary | *#21〜#30 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2010年04月29日 22:08
大変勉強になります。
玄花后嗣の「日常・非日常」の例え話はとてもわかりやすいです。
「階段」については武藝館で学びだしてからとても気をつけるようになりました。
まだ、武藝館に通い始め間もない頃、ふと門人の方々の階段の上り下りをみて「何か違う!」とは感じていました。
その後師父より階段の上り下りを見せていただいたときの驚きといったら今でも忘れません。
本当に師父の動きはまるでエスカレーターに乗っているようなのです。
「太極拳の原理というものは我々が“日常的”と思っている動きをここまで変えるものなのか!」と深く感じました。
太極拳を学ぶこと・・・それは決して「道場で学ぶ事だけではない」と感じています。
いかに教えられている原理を日々追求し、普段から自分の思考、動きを照らし合わせていかないと深い理解はできないと常々思っております。
また、このような勉強になるものを宜しくお願いします。
 
2. Posted by のら   2010年04月29日 22:38
以前、階段を上って行く師父の頭部だけが見えた時に、ずいぶん驚いたことがあります。
tetsu さんも書かれていますが、まるでエスカレーターに乗っているかのように思えたのです。
もちろん、武藝館ビルにエスカレーターなど無いのですが、私たちのような上下動や前後動が余りにも見られないので、そのように錯覚してしまうのかも知れません。
稽古中に、ごく普通に歩いて門人を指導して回って居られる際にも、頭部を見ていると殆ど上下していないので、そんな時でもまるで動く歩道に乗っているように見えます。

よく武道やスポーツで、「アタマの高さを変えずに歩け」というような言葉を耳にすることがあります。しかしウチの師父は、門人に対してそんな事をひと言も仰ったことがありません。
そして、そうであるにも関わらず、ご自分は頭の高さが変わらない・・・
これは一体どういうことなのでしょう・・・・???
 
3. Posted by まっつ   2010年04月30日 02:51
膝を抜く・・・

思い起こせば、小生も格闘技を学んでいた時分には使っていました・・・
打撃に使う発想はありませんでしたが、膝下を狙うようなタックルへの応用は、
外れた場合でも転がって追撃を避けられるもので、
マット上の徒手組技のルールの中では有効なテクニックの一つでした。
でも、格闘技をやっていた当時ですらも、
それを路上や河原、坂道で試そうとは思いませんでした。
(自分から転ぶような動作ですから痛そうで・・・)
やはり限定されたルールの中でのみ有効な一手であったと思われます。

ともあれ、上下への移動を伴う階段とは、思えば確かに日常的ではないですね。
その中で踏まない蹴らない歩法の原理が保たれると云う事は驚異的です。
つまりは階段でも平地と同じ散手が出来る・・・!?
そう思えば少しは階段における非日常性を実感できたようでした。
 
4. Posted by タイ爺   2010年05月01日 10:14
昨年、長い階段を上りと長い下り坂を経験する機会がありましたが、自分の体なのにここまでコントロール出来ないものなのかと愕然としたものです。
登りは太ももが張り、くだりは足を着くだびにがくんがくんと体中に衝撃が走り、ともすれば走り出そうとする足をブレーキをかけながら降りるのが精一杯。
いやもう、散々でした。
膝の抜きなど使ったものなら、そのまま転げ落ちたに違いありません。
良い経験でした。
 
5. Posted by 円山 玄花   2010年05月05日 20:50
☆tetsuさん
階段を歩いても、エスカレーターに乗っているようにしか見えない人が、
平地を、音もなくこちらに歩いてきたら、やっぱり恐いですよね〜。
私も、そのような驚きや恐ろしさの感覚は、何年経っても忘れられません。
特別何かが目立つわけでもなければ、武術的に見えるのでもなく、
むしろ普通に見えることが、なお怖ろしいと言いますか・・。

やはり、日常生活の全てが非日常として発想することができ、見て考えることができるという、
そのことが真の武術性に繋がっているように思います。
私たちは、日々修練あるのみですね。
 
6. Posted by 円山 玄花   2010年05月05日 20:53
☆のらさん
>アタマの高さ・・・
>これは一体どういうことなのでしょう・・・・???

日頃の稽古で指導されているポイントや、キーワードを確認していくと分かると思うのですが、
結論から言いますと、頭の高さを変えずに歩くことと、正しく歩いたときに頭の高さが変わらない
ことは、その内容が全く異なります。
皆さんに「頭の高さを変えずに歩け」とは言わないのに、師父が歩いているときに頭の高さが
変わらないということは、正しい歩法の原理で歩いたときには、頭の高さを気にせずとも、
頭は上下しないということだと思います。
つまり、歩法の《キーワード》は頭の高さを変えないことではなく、他にあるということですね。

私たち学習者は、与えられる《キーワード》に喜んでいるのではなくて、
それを基に太極拳を読み解いていかなければなりません。
また、《キーワード》そのものは解答にはなり得ないということも、
覚えておかなければならないと思います。
 
7. Posted by 円山 玄花   2010年05月05日 20:56
☆まっつさん

ひと言で「膝を抜く」といっても、その意味するところや身体操作には、
ずいぶん幅があるようですね。
私たちも膝を動かさないわけではありませんし、むしろ「膝」に関するポイントは、
たくさん示されています。
その辺りのことは、また次の機会があれば、もう少し詳しく書いていきたいと思っています。

>階段で散手
う〜ん、これはまたすごい発想ですね。
でも、平地では、ナイフを持って向かい合っても、スローに限定しても、素早く自由に行っても、
全て同じことですから、きっと階段で行っても同じことなのだと思います。
 
8. Posted by 円山 玄花   2010年05月05日 20:59
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

>長い階段と長い下り坂・・・
それはたいへんな経験をされましたね。
私が小さい頃には豪雪で名高い寒村の山中で過ごし、毎朝30分の時間を掛けて、
急勾配の山道を徒歩で通学していましたが、行きは全て下り坂ですし、帰りは当然上り坂でした。
特に冬の凍りついた急な坂道では、膝を抜くなどして身体を動かすことよりも、
如何に転ばずに自分の身体を立てて保っておくか、ということが、
小学生ながらにも、自分の身を守るための、重要な課題になっていたように思います。
 

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