2010年04月05日

歩々是道場 「站椿 その5」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 無極椿で要求されることは、一般によく知られた要訣の内容そのものですが、その要訣をどのように用いるのかということが大きな問題になってきます。これもまた門派によって解釈が様々に異なるのでしょうが、大切なことは、その要訣自体が ”活きる” ような用い方をしなくてはならないということでしょう。

 例えば、前述のごとく、

 『静かであること(動かないこと)』と、『静であること( 動きが無いこと)』
   が、まったく異なることであるように、

 『身体を要求で整えようとすること』と、『身体が要求によって整えられていくこと』
   では、かなりその意味内容が違ってきます。


 ひとつずつの要求で、身体を「順番に整えていこう」とした場合には、その要求ごとに身体が反応しますが、次の要求を満たそうとした時には、前の要求で整えられたものが薄れ、忘れられているかも知れません。つまり、常に整えようとした所だけしか整わないような事態が起こりやすいのです。
 しかし、身体自体に、それらの要求が「整えられていく環境」がすでに用意されている場合には、各々の要求が常に「全体が整えられること」として作用し、ひとつひとつが相互に関わる、全体的・相互依存的なものになります。
 これを「静と動」で表せば、前者は整えようとしたその時点で既に「動」の状態ですが、後者は「静」の中での出来事であると言えますので、解釈の仕方ひとつで、「静」を求めるはずが、初めから「動」を求めることになってしまうような場合も起こり得ます。


 初段階での「無極椿」が各種の要訣によって整えられたら、その整えられた構造を使って、いよいよ「抱球勢」に入ります。初めの抱球勢では、足幅は肩幅のままで、膝や股関節は「曲げる」のではなく、要訣によって整備された身体の状況によって自然に「曲がる」ようになります。ここで大切なのは膝や股関節の角度ではなく、その時の ”身体の状態” なのです。
 
 「抱球勢」は、これまた門派ごと、個人ごとに様々な解釈があるフォルムですが、よく耳にするのは、抱える ” 球 ” が「大きなボール」だということです。
 それは、両腕と両足、腕の内側から胸、腹、内股などに触れて抱えることのできる大きめのボールですが、門派によっては肩胛骨の内側や骨盤の内側まで抱えるイメージを広げるようなものも存在しているようです。

 ・・・では、それらは「どのような」ボールなのでしょうか。

 ”ボール”と聞くと、つい、バランスボールのようなゴム質のボールを連想して、そこに空気を入れていって膨らませるようなものを想像してしまいますが、私たちの抱球勢では、それは「球」ではあっても「ゴムのようなボール」ではなく、その球が「膨らんでいく」ことも、それを「膨らませていく」こともありません。他所で太極拳を学んできた人たちは、まずそのことに大変驚かれるようです。

 しかし、歴史的に見てみても、太極拳において站椿が確立された頃には、当然ながらまだ「空気で膨らませるボール」は存在していませんでした。確かに、ゴムボール自体が存在しなかった時代に、それが ”空気で膨らんでいくような感覚" で行われる練功が編み出されるとは、ちょっと考えにくいものです。

 昔の中国で云う一般的な「球(ボール)」とは、手まりや蹴鞠に使われる、犬の皮で作られたサッカーボールより少し小さい程度のものでした。犬皮製のボールは、今でも手鞠を突くことを「拍皮球」と呼ぶことにその名残が見られます。
 日本に渡来した蹴鞠の文化は、奈良の談山神社で行われる蹴鞠会(けまりえ)などで保存されており、古の時代と同じ皮のボールが使われています。私も本物を手に取ったことがありますが、想像していたよりもかなり小さな物で驚きました。
 詳しくは分かりませんが、それ以外の「球」と言えば、竹で編んだ球状の籠や布や紙の張り子、或いは小さな数珠玉のようなものだったのではないでしょうか。中国では、ボールと言えばそのようなイメージが長い間続いていたはずで、特に陳家溝のような田舎では、つい最近までは(今でも?)誰もバランスボールのような物の存在を知らなかったと思われます。

 考えてみると、バランスボールのような空気で大きく膨らませることの出来るゴム製のボールが簡単に手にはいるようになったのは、日本でもつい最近のことです。
 その存在を知って、それを用いることが普通になってしまうと、ついそれが古くから存在するイメージであるかのように錯覚してしまいますが、少なくとも、太極拳で站椿の練功が確立されてきた時代の中国には、「空気で膨らませるボール」は全く存在しなかったわけです。

 それを想う時に、なぜか私はいつも「中国の ”靴” 」を連想してしまいます。
 北京の「内聯昇 (Nei-lian-sheng)」という、清朝の頃から続いている有名な老舗靴店で最も人気のある靴は、よく老師たちが表演などに好んで使われる、あのチャイナ靴です。
 購入してみると立派過ぎるほど豪華な箱に入れられていますが、本体はイタリア製かと思えるほどの良く鞣された革で出来ており、きちんと型崩れ防止用のバネ付きのシュー・キーパーまで着けられており、世界中の何処に出しても恥ずかしくないような靴を造ろうとしているこの店の ”拘り” に、ちょっと感心させられます。
 しかし、最も驚かされるのは、そうであるにも関わらず、靴底だけは現在もゴムやプラスチックなどではなく、昔ながらの「幾重にも重ねた布」で出来ているということです。
 この”重ねる”という発想は、太極拳を理解するにあたって大変重要な意味を持つものなのですが、本論と外れるので此処では触れず、機会があればご紹介したいと思います。

 日本の寒冷地では、今でも凍結した道を歩く時に長靴に藁縄を巻いて簡単な滑り止めにしたりしますが、日本人は最高級のゴム長の底をワラジで作ったりはしません。
 実はここに、中国人独自の、頑なな迄の ”こだわり” が見え隠れするのです。
 ・・・いや、本当は「重ねる」ということへの執着かも知れません。つまり、こんな靴をいまだに ”実用” として造っている民族は、站椿の「球」を抱えるコトとは「こうだ!」と考えたなら、空気で膨らませるボールが手に入る便利な時代になろうが、なかなかそれを站椿のイメージなんぞには変えないのではないか・・・と、思えるほどのものが、私には感じられてならないのです。


 さて、站椿が確立された時代には空気で膨らませるボールは無かったのですから、無いものはイメージのしようがありません。
 私自身、初めて站椿を指導された際、「球を抱えるように・・」という言葉を聞いた時に、両手は大きく開かれていたにも係わらず、まず想像して抱えようとしたものは、「ドッヂール・プラスアルファ程度」の大きさの球であった覚えがあります。
 私の鈍さの故かもしれませんが、そのボリュームで抱えているのを見つけられ、『それでは小さいので、もっと大きな球を抱えるように』と指導されてもなお、それが空気を入れて膨らませていくボールなどとは全くイメージしませんでしたし、指導される際にも、それを「空気で膨らませるように」という表現は一切なかったことが思い出されます。
 それは今からわずか十年ほど前の、まだバランスボール自体が発売されていなかったかも知れない頃・・少なくとも一般的には全くと言って良いほど、そのようなものが知られていなかった頃の話です。
 しかし、その後バランスボールが稽古の中に取り入れられるようになると、突然自分の中で站椿のイメージがガラリと変わり始めました。まるでバランスボールそれ自体を抱えるようなイメージが、自分の中で勝手に作られてしまっていたのです。
 しかし、それは私たちの道場に於いては、まったく誤ったイメージでした。


 私たちが「抱球勢」に於いて、空気で膨らませるボールをイメージしない理由は、第一には、それが《 陰陽の原理 》に合致しないからです。
 そのような「膨らませることのできるボール」を抱えた場合には、当然のことながら、膨らんでいく方向にチカラが働いていきます。

 ボールが膨らんでいく方向に、どんどん大きく広がっていくチカラ・・
 そのイメージが、自分の中でどんどん大きくなっていき、
 ついには、自分の身体全体に、ボールが膨らむチカラが漲ってくる・・!!
 おおっ!、もしかすると、これこそが弸勁(ポンジン)ではないのか・・・!?

 ・・・・違います。

 私たち日本人は、ついそう想ってしまいがちですが、太極拳原理の要点は、先の ”静と動” のように、すべて陰陽に支配されており、すべてが「対のもの」として説明されています。

 「弸勁 (ポンジン) 」とは、陰と陽、内と外の ”双方に” 同時に張られているチカラのことであって、《 単に外側に向かって張られる力 》のことではありません。
 このような術語の誤解や解釈の違いは、何故か日本には非常に多く存在しており、日本で翻訳出版されている中国人老師の「太極拳理論」の解説の中にさえ、「拳理」以前の語学的な誤解が幾つも見受けられるほどで、太極拳の理論や資料文献を読み解くことの難しさを知らされますが、かえって欧米在住の中国人老師が英語で解説した書物の方が遥かに内容的にも高度で分かりやすい、と思うこともしばしばです。


 さて、「空気で膨らませるボール」のイメージを「抱球勢」で説明しましょう。

 膨らんでくるボール自体は「外」に向かっている力であって、もしそれに押さえる力を加えず、ただ「抱える」だけであるような場合は、その ”力” のイメージは「外」だけに向かっていることになります。
 また反対に、膨らんでくるボールを「押さえよう」とするイメージをした場合には、そこに生じるものは「内」だけに向かう力となり、それらは、いずれにしても「片方」への力です。

 あるいはまた、ボールが膨らむイメージを「外」へのチカラ、それを抱えて押さえるイメージを「内」へのチカラとして、併せてそれらを同時に行おうとしても、ボールが「外」へ向かう力を「内」に押さえることになりますから、結局はボールが「膨らむ」ことと「押さえる」ことのふたつに分かれており、そこではいずれかに偏りのある「二つの力のイメージ」を繰り返してしまうことになります。
 ・・しかし、そのように「膨らむ」「押さえる」ということを繰り返しても、たとえそれが、どれほど素早く繰り返されようとも、その二つはそこに ”同時” には存在していないので「抱球勢」にはなりません。


 それでは、「抱球勢」とは、どのように行えばよいのでしょうか。

 多くは書けませんが・・・
 先ず、基本的な要求としては、

  球の質が、”空気で膨らませる” ことの出来るようなものではないこと。
  球の質が、非常にもろく、壊れやすいもので出来ていること。
  球の質が、冷感や温感を容易にイメージすることが可能なものであること。
  球それ自体に、”重さ” や ”軽さ” を感じずにいられるものであること。

 ・・・・などが挙げられます。

 「抱球勢」で練られるべきものは門派ごとに異なっているのでしょうが、もしそれが養生としての気功法などではないとされるのであれば、武術として何のためにそれが練られ、武術的にどのように効果があるのかが説明され、証明されなくてはなりません。

 「抱球勢」の站椿を行う目的は、最も基本とする「無極椿」で造られた構造の上に、《 武術的なチカラが発生する環境 》を造ろうとするものです。

 それは、単なる一方通行の力の感覚を弸勁(ポンジン)とするものではなく、「勁」それ自体を造りあげていくための、重要な基盤となるものなのです。
 手をダラリと降ろした無極椿では、まだ太極拳の基礎となる構造だけでしたが、それだけでは、決して武術としての用を為しません。無極椿自体は基本的な武術の構造ではあっても、それだけでは武術的なチカラが認識できるものでもありませんし、発生するものでもないのです。
 太極拳の武術としてのチカラを発生させるメカニズムの、最も基礎となるカタチが、この「抱球勢」であると言えます。

 手を抱えない無極椿と「抱球勢」が異なるところは、そこに《変化》が存在するということです。
 少し敏感な学習者であれば、手を降ろした無極椿から抱球勢に入るだけで、その時に身体が変化することに気付いて、たいへん驚くことでしょう。
 そのささやかな「変化」こそが、実は太極拳のチカラを生み出す元となるものであって、それを知らずに、それを体験せずに、それを基本とせずに、太極拳のチカラを云々しても何も始まりません。
 ただし、最初の、手を抱えない無極椿での「構造」が正しく整っていなければ、そこには何も起こりませんし、何かが起こっていても「それ」に気付くことは望むべくもありません。

 肩幅での並歩による、無極椿・抱球勢で「身体が変化すること」を理解した人は、つぎの「馬歩」による抱球勢へと、站椿の練功を進めていきます。

                                (つづく)

disciples at 21:23コメント(6)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2010年04月06日 23:04
すごい内容ですね!大変勉強になります。
まるで太極拳の隠れたバイブルのような・・・。

「抱球勢におけるゴムボールを抱えたイメージ」というのは現代の人が本当に陥りやすい錯覚かもしれません。
確かに言われてみるとおり太極拳が確立された時代にバランスボールなどあるはずもありません。ないものはイメージできません。
站椿に求められるものは外部にイメージを膨らませるものではなく、内に求められる要求・・・
構造そのもの、身体の変化に気付くというものでしょうか・・・。

武藝館で事細かに師父の姿勢、身体の変化を目の当たりにし、それを見てとれないと気付かないことも多いことでしょう。大変難しいですが、それらを指導していただけていることに感謝です。
 
2. Posted by タイ爺   2010年04月08日 23:22
まさしく「太極は無極より生じ動静の機、陰陽の母なり」ですね。
あの拳経にこんな具体的な意味があるなんて思いもよらなかったです。

空気で膨らますボールは色々な人がポン勁の説明として使っていますが、考えてみれば陰陽だから内外に同時に向かってる力なんですよね。
昔からのこの辺が疑問でしたが、こんなに簡単に説明されてしまうと今までの自分がナンダカナーという感じです。
mixiで拝読したときもそうでしたが、目から鱗がごそっと落ちました。
 
3. Posted by マルコビッチ   2010年04月09日 00:22
その要訣自体が”活きる”ような用い方・・
このことは本当に大事なことだと思います。
そうでないと全てが違う方向に行ってしまうように思います。
それはやはり正しい解釈の仕方であり、
師父のおっしゃって下さる言葉をそのまま、プラスもマイナスもせずに
受け取り、合わせていくことなのではないかと思います。
イメージというのも人それぞれで、私も”ボール”と言われたら、
自分なりにバランスボールのようなものをイメージしていました。

師父はよく「研究会では詳しく言っているけど、一般の人には何も教えていない・・」と、
おっしゃいますが、私は沢山のことを教えて頂いていると思いますし、
最近は師父の一言一言が秘伝のように感じます。
師父のおっしゃることは、捉え方、解釈の仕方でとてつもない秘伝に成りうるように思います。
そのひとつずつを大切に重ねていき、自分の余計なものは廃除して・・
そんなふうに繰り返していくことで、光が見えてくるように感じます。

まだまだ未熟でわからないことだらけですので、
このように事細かに『站椿』について記して下さると、
自分の気がつかないことがあったりしてとても勉強になります。
のらさんが勉強されていることを教えて頂いて申し訳ないようですが、
ありがたいことです。感謝致します!
また次回もよろしくお願い致します。
 
4. Posted by のら   2010年04月09日 16:41
☆ tetsu さん

>まるで太極拳の隠れたバイブルのような・・・

いえいえ、そんな大それたものではありません。(笑)
いつも申し上げているように、これは日頃から師父より伺ったことの聞き書き、覚え書きで、
何かの参考になれば幸いですが、これをお手本にして頂いては困りますよ〜

>構造そのもの、身体の変化に気付く・・・

これが一番大切ですね。
・・というか、大切なことは、それしか無いのだと思います。
 
5. Posted by のら   2010年04月09日 16:45
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

>拳経にこんな具体的な意味があるなんて・・

無極より生じる動静の機、陰陽の母・・・
「この言葉と、どれ程にらめっこしたかわからないよ」と、師父が仰っていました。

>考えてみれば陰陽だから内外に同時に向かっている力なんですね

考えてみれば、と思うことは本当に多いですね。
私たち門人は、原理を体験しないうちから人や書物を経由して知識を蓄えてしまうので、
発想がそこからスタートしてしまうのだと、よく戒められることが多いです。
如何なる発想も原理を体験し、それを知った上で始められるべきだと言われました。

>目から鱗が・・
ありがとうございます。そう言って頂くと、恥ずかしくて大汗をかきながらも、
これを掲載している甲斐があるというものです。
 
6. Posted by のら   2010年04月09日 16:49
☆マルコビッチさん

>「研究会では詳しく言っているけど、一般の人には何も教えていない」

 ・・・けれども、師父は、こうも言われていますね。

「わたしは何も隠してはいない。門人には大切なことを全て教えているし、
 一般クラスと研究会は目的が違うだけで、内容を分け隔てしているわけではない」

 ですから・・・

>私は沢山のことを教えて頂いていると思いますし、
>一言一言が秘伝のように感じます

 ・・というのは、正解だと思います。

マルコビッチさんが仰るように、
指導されることを、
本人がどのように捉えるか、どのように見えるのか、どのように聞こえるのか、
・・が唯一の問題であって、
指導されることの難しさのために自分が中々習得できないと思うことは誤りだと思います。

>また次回もよろしくお願い致します

こちらこそ。
文章になっていないかも知れませんが、どうぞ読んでみて下さいませ。m(__)m
 

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