2010年03月20日

練拳 Diary #27 「腰相撲の訓練」

                      by 教練  円山 玄花


 太極武藝館で一番初めに学ぶ ”歩法” は、その名も「太極歩」というものです。
 太極歩は両手を腰に当て、足を交互に前に出して歩いていくだけの最もシンプルな歩法で、前進と後退とを、ひたすら時間を掛けて行われます。

 なぜ最初に学ぶ歩法が太極歩であるかと言えば、この歩法が「歩く」ということそのものを理解するのに最も適しているからであり、もしこれが腕を素早く振り上げながら歩くものだったり、震脚をしながら拳を打ち出していくというような、見た目にも難しいものであったら、歩法の内容に目が行くまでに随分時間が掛かってしまい、太極拳における「歩法」の示す意味など、何も見えてはこないことでしょう。

 この太極歩は、初心者が最初に学ぶ歩法とは言っても、その奥は深く、歩法では太極歩が一番難しいと言われるほどですから、『歩法は太極歩に始まり、太極歩に終わる』と言っても過言ではないかも知れません。


 そして、歩法の太極歩にあたるものが、腰相撲では「弓歩の腰相撲」なのです。
 「弓歩の腰相撲」は、以前にもご紹介したことがあるように、足を前後に開いた弓歩の姿勢で前方から相手に押してもらい、それを返すという、腰相撲の基本形とも言えるものですが、そこに内包されているものは単に基本に留まらず、太極拳の立ち方、歩き方、相手との関わり方から相手の崩し方まで、腰相撲で自分の在り方を整えることが、そのまま即太極拳の戦闘理論の理解に繋がる、ということを実感することが出来るのです。

 それ故でしょうか、何年稽古しても、何種類の腰相撲を学んでも、この「弓歩の腰相撲」が最も奥が深いように思われますし、その度合いは自分の歩法に対する理解と比例しているように感じられます。

 腰相撲では、弓歩の架式が正しく決まれば、相手がどれほど力を込めて押してきても押し切られることがありません。それはこちらが最大の力で耐えているからではなく、むしろ楽に構えていることができ、足には負担がなく、軽く感じられるほどです。

 私自身、自分より30キロ以上も体重のある、目の前に立ったら視界がゼロになってしまうような大きな男性が思いきり押してきても押し切られなかった、という事がありました。
 因みにこの時の稽古は、いわゆる ”受けと取り” に分かれた腰相撲の対練ではなく、互いに弓歩の姿勢で押し合い、どちらが相手を押していけるかというものでしたから、相手には ”受ける” という感覚はさらさら無いようで、押しながら後ろ足をにじり寄せてまでこちらを押し切ろうとしていましたが、結果として、相手は一歩も前に出られなかったのです。

 このことには私自身がたいへん驚かされました。
 こちらがやっている事と言えば、弓歩で構えるために足を一歩出していく過程では、歩法の通りに動こうとするだけで、徐々に前足が曲がるにしたがって、弓歩という架式が隙間や余りが無く、きちんと整えられてきます。
 そこに相手が力を加えてくると、その力によって構造が咬み合い、さらにカッチリと締まるような感覚があり、同時に足は取り立てて踏ん張る必要がないほど軽く感じられます。
 その感覚は相手が押してくればくるほどに強いものとなり、より明確に弓歩の構造だけが浮き出てくるようでもあったのです。
 まさに太極拳でいうところの架式、そして構造の妙を体験したような気がしました。
 
 ところが、その弓歩がキッチリ決まらなかったとき、つまり一歩が正しく出せなかったときには、相手が力を加えてくると、あっと言う間に身体が崩れはじめます。同時に、自分の全体重と相手の力が後ろ足一本に集まり、前足が浮いてくるように感じられます。
 そうなると、たとえ相手が自分よりも小柄で体重の軽い人に押してもらっても、ギシギシと音を立てて頑張っていた足の筋肉にもやがて限界が来て、それ以上どうにも踏ん張ることができずに、簡単に押されてしまうのです。

 この腰相撲での二つの体験は、そのまま歩法の練習にも出てきました。
 立っているところから正しく一歩を出すことができ、弓歩の架式が構造としてピタリと決まったとき、そこから次の一歩を出すときには足の負担がカケラも感じられず、また前に歩いて出るような感覚があまりありません。
 それに比べて弓歩の架式が決まらなかったときには、そこからどれほど歩法で教わっていることをその通りに動こうとしても身体は動かず、そのまま無理に動こうとしたときには、自分の身体が歪み崩れていくことを感じます。
 歩を進めて行くと片足ずつに重く乗り上げていくようであり、この一歩で相手に向かって拳を打ち出したときには、容易にかわされてしまうことが想像できました。

 何ゆえに、これほどまで「架式」が重要であるとされているのか・・・・
 架式が正しく整えられていれば、そこから動いたときには「勁力」が生じている、とは言われていても、普通は後半の「動いたときには勁力が生じている」ところだけを重要視してしまい、その元となる架式そのものを、何をどのように整えたらよいのかというところには、なかなか着目されないようです。

 大切なことは、基本功で学んでいることから離れて、自分なりに腰相撲のための工夫を始めないことです。基本功で学んでいることとは、日常の考え方を止め、日常の立ち方を離れ、太極拳で要求されていることにひたすら自分を合わせていくことです。そうすれば、そこに深遠なる太極拳の学習体系を見出すことができ、そこから始まる歩法や套路などの各練功の意味が、自ずと見えてくるに違いありません。


 ある時、腰相撲の稽古中に、師父に「腰相撲が ”纏絲勁” だということが分かるか?」と問われたことがあります。その瞬間、何かで頭を殴られたようなショックがあり、それは今も鮮やかに残っています。
 その時には、自分は基本功の通りに構えて、そこから動くと相手が飛んでいく、ということしか分からず、纏絲勁とは結びつかなかったのですが、よく考えてみれば「太極拳は纏絲の法である」と言われていて、一般クラスで基本功を稽古している際にも、普段と何も変わらない動きのまま、「これが纏絲です」と説明されることがあります。
 それは決して腕をグルグルと力強く捻っていくようなものではありませんし、常日頃から「遙か彼方の高いところに纏絲の法があるのではなく、初めから纏絲しか教えていない」と言われていることを考えれば、腰相撲が纏絲勁であるということも、ごく当たり前のことなのでしょう。

 しかし、そこには隠しきれない驚きと新鮮な感動がありました。
 私にとっては、まだそれは「当たり前」ではなかったのです。
 套路の稽古で師父について動くとき、師父が時折見せてくださる身体や手足がブルブルと震えては空を切り裂くような纏絲の動きは、その手前の動作をいくら真似てみても自分には起こりません。精々が力みのない手足がプルンと一回振れる程度です。
 そのような違いが「勁」というものの理解の違いであり、それは徐々に段階を追って身につけていかなければならないものだと、頭のどこかで考えていました。

 それが、今自分のやっているこのシンプルな腰相撲が、「纏絲勁」だと言われたのです。
 それは、押してきた相手に耐えられることがあって、そこから纏絲勁を発するのではなく、正しく架式が整えられたことそのものが纏絲が働いているということであり、相手の力に楽に耐えられることと相手を返せることは、同じ纏絲の働きであったということを意味しているのです。

 そのことがあってから、自分の稽古が少し変わりました。
 今までよりも基本功や歩法の動きをさらに立体的に見られるようになり、対練では、より基本の動きに注意深く、基本から離れないことをもっと大切にできるようになったのです。
 それは、私が考え方を変えたのではなく、一種のショックによって変わってしまったと言えるでしょう。まるで初めて火を目にした子供が、その不思議さに惹かれて不用意に手を伸ばし、熱い!、と思ったその瞬間に「火」というものを理解することと似ているかもしれません。

 実際に目にして、触れて、味わわなければ、そしてそのショックを体験しなければ、自分の考え方、物の見方は変わりようがなく、決して自分の持ち前の頭でチェンジできるようなことではないと思えます。
 そう考えると、ブログで紹介してきた様々な練功も、本当の意味でそれを皆さんにお伝えするには、実際に見ていただくより他に方法がないような気がしてきます。

                                   (了)

xuanhua at 22:17コメント(8)練拳 Diary | *#21〜#30 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2010年03月21日 18:06
太極歩!・・・これは毎回稽古に参加するたびに新しい教え、発見があります!
本当にこの一歩・・・一歩が難しく奥深いです。
基本の教えであっても簡単には済まされない。いや、むしろ基本だからこそ大切であり、
それをとても大切にせねばならないとつくづく思います。

私も師父や玄花后嗣の腰をどんなに力いっぱい押してもビクともせず、
逆に壁に叩きつけられる経験を何度もしました。押している自分はもちろん全力です。
しかしどんなに押してもチカラの衝突がありません。
次の瞬間にはいきなり「ポンッ!」といった衝撃が自分の中に突き抜け全身が飛ばされます。

これは本当に自分の目で見て、実際に経験しないとわかりません。

武藝館での教えは一つ一つが大変奥深く、貴重です。
このような武藝を学ばせていただけることに感謝です。
そして一つ一つを丁寧に身に付けていかなくてはならないと思います。
 
2. Posted by マルコビッチ   2010年03月22日 10:21
腰相撲も師父が示して下さっていることは同じなのですが、
自分では毎回進化しているように感じています。
数ヶ月前までは、何か力を溜めて返すようなことをやっていましたが、
今では、歩法の原理であって何も力むものではないということが
よくわかります。
腰相撲は最も基本でありながら難しい対練のように思います。
その日の自分のコンディションによっても違いますし、
相手によっても自分が変わってきてしまう・・・
まさしく常日頃の自分の在り方が問われるのだと思います。

私も「この基本功が纏絲勁なんです!」と師父がおっしゃった時は衝撃でした。
またしても、自分がぼんやり考えていることを、
こうして玄花后嗣にブログで文章にして頂いて感謝いたします。
 
3. Posted by まっつ   2010年03月22日 23:40
正しい稽古の感覚を味わわせて頂ける文章で、
大変勉強になります。

稽古の中でこのように明確な内部の感覚が感じられるのかと驚きます。
小生のように稽古の求め方が外側の問題への対処になってしまう状態とは、
大きく異なります。

自分の内側が曖昧なままを許して稽古に臨んでしまう為、
站椿から基本功、歩法そして対練を貫く原理が見えず、
なかなか稽古に成らない点が課題です。

先ずは正しい稽古と成るためにも、
内側の整備に努めたいと思いました。
 
4. Posted by 円山 玄花   2010年03月23日 18:27
☆Tetsuさん

「基本」とは、シンプルなために見過ごされがちですが、歩法の基本だけでなく、
太極拳の基本も、太極拳の考え方の基本も、すべてそこにあるわけですから、
すごいことだと思います。
基本の大切さ、重要さをどれほど骨身に沁みて感じられるかが、
その後の学習の鍵になるような気がしますね。

>チカラの衝突
どれほど小さくても、それがチカラであれば衝突が起こりますし、
”チカラ対チカラ” なら、やっぱり大きな方が勝ります。
しかし、それが ”チカラ対構造” だと、大小強弱の法則が当てはまらないから不思議です。

「当たり前」だと言ってしまえばそれまでですが、
私たち学ぶ者は、当たり前のことを当たり前だと受け取らずに研究していくことが、
太極拳の道を正しく修めるための、最大のポイントかもしれません。
 
5. Posted by 円山 玄花   2010年03月23日 18:30
☆マルコビッチさん

腰相撲の稽古で毎回進化しているよう感じられるのは、
マルコビッチさんがその度に進歩しているためかもしれませんね。

例えば腰相撲を示すとき、そこで示しているものが腰相撲の全てであったとしても、
そこに ”説明” というものが入った時には、とてもその全てを説明することはできませんし、
そんなことをしたら、きっと皆さんの頭も身体も混乱してしまいます。

だから、どうしてもその時その場で必要なことを取り出して説明することになり、
あとは各自の基本を理解した度合いによって、或いは説明された言葉だけを追ってしまうか、
見えたことの全てを自分で体現しようとするかによっても、
各自の腰相撲の内容が変わってくるのではないかと、私は思います。
 
6. Posted by 円山 玄花   2010年03月23日 18:32
☆まっつさん

確かに、日々正しい稽古を修めることは、誰にとっても容易ではないと思います。
ただ原理を教わっても、ただ長い時間を費やしても、ただ汗を流していても、
それらはやはり外側のことがらであり、正しい稽古を修めているとは言えません。
問題は自己の在り方であり、学ぶために心得るべきことを外さないことが大切だと思います。

それは、学ぶ者が身を引き締めて稽古に臨み、教えの中から取捨選択をせず、
傲ることなく、その道に謙虚に誠実に向かい、黙々と研鑽を重ねることであると思います。

そこに、「でも、だけど、しかし、そうは言っても、と言うよりは・・・」などといった
自分の言葉や思考を挟むと、そこで与えられていることを逃してしまうことになります。
 
7. Posted by タイ爺   2010年03月26日 21:31
ご無沙汰しております。いつも楽しく拝見しつつ、話の奥深さに感心してしまいます。

のらさんの站椿のお話と合わせて読むと太極拳の構造の不思議さとすごさが感じられます。
そこには自分なりの考えなど存在せず、人間本来の機能を追及する科学とも言える体系が垣間見ることが出来ると思います。
基本は大事とは良く聞く言葉ですが基本がすべてとも言えるわけですね。
澄んだ心がないと難しいですね。
 
8. Posted by 円山玄花   2010年03月27日 14:53
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

太極拳の構造は、知れば知るほど、また実感が増えれば増えるほどに、
不思議さと面白さが、自分の内側から湧き上がってきます。
日々の稽古で指導を受けていると、自分の理解など構造の「こ」の字にも満たないことが
痛切に感じられますが、そのことが基本に対するより大きな渇望を持つことへと
結びついているように思います。

タイ爺さんが仰るとおり、「澄んだ心」によって初めて太極拳のあるがままの姿を、
この目で観ることができるような気がいたします。
 

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