2010年03月12日

歩々是道場 「站椿 その4」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



「站椿」は、太極拳の中にどのような訓練体系で存在しているのでしょうか。
 これは、太極拳を学ぼうとしている人が等しく抱く、大きな疑問に違いありません。

 太極拳の「站椿」と言えば、一般的には「馬歩」の架式で球を抱え、空気の椅子に座るような姿勢で長い時間をじっと立ち尽くす・・というようなイメージが大きいようです。
 では、太極拳の站椿とは、そのような「馬歩・抱球勢」の中で構造を力学的に整え、意を練り、静中求動と動中求静を繰り返し、意を導びくことで筋肉を使い分け、オマケの気功法も加味され、果ては五臓六腑まで鍛えられるという・・・外見は極めて単純に見えるのに、やることは結構複雑そうな、気の弱い初心者などはちょっと退けてしまいそうな?システムなのでしょうか。

 この六十年間で、中国武術の学習体系は大きく変わったと言われます。
 文化大革命の影響についてはホームページでも少し触れられていますが、文革から今日までの六十年間、世代で言えば約二世代にも亘る時間の中で、どれほど多くの真伝が消え去り、どれほどの貴重な練功が闇に葬られ、失伝していったことでしょうか。
 太極拳の「站椿」も、決してその例外ではないのかも知れません。


 私たちが学ぶ太極拳の「站椿」は、シンプルかつ極めてシステマティックなものです。
 用いられる架式は、並歩 (bing-bu) 、馬歩 (ma-bu) 、半馬歩 (ban-ma-bu) 、独立歩 (du-li-bu) などで、その多くは膝が伸びたような高架式から始められます。
 また、それらは「抱球勢」ばかりではなく、様々な形の中で、様々な意念の用い方を学んでいき、さらには椅子に座ったり床に横たわったり、窓枠や壁、レンガなどを用いる様々なバリエーションが站椿の訓練として存在しています。
 また、それらは陳氏太極拳の隠されたルーツとされる「心意拳」の練功法にも多くの共通点があり、極秘伝書である『三三拳譜』が斯くも大切にされてきた理由が、その練功の中にも垣間見えてくるのです。

 しかし、どのような站椿を行うにせよ、太極拳にあっては先ずは「無極椿」と呼ばれる站椿を抜きにしては、その成果は何ひとつ得られないと言っても過言ではないでしょう。太極拳の学習は「無極」という最も基本的な ”太極拳の構造” を理解することから始められなくてはなりませんが、それは、この無極椿の学習無しには到底考えられないものです。
 「静」の環境の中で始められるこの「無極椿」は、太極拳で学ぶべき身体構造への要求をひとつづつ満たして行き、正しい構造を【立つこと】という条件の中で手探りで求めていこうとするものです。

 無極椿で用いる「並歩」の架式は、肩幅を超えず、ことさら膝を曲げる必要もありません。この並歩は、実は「馬歩」そのものに他なりません。
 「馬歩」は、陳氏太極拳の最も重要な架式で、すべての架式はこの馬歩を基準に成立しており、無極椿で用いられる高い姿勢の並歩も、馬歩そのものとして指導されます。

 そもそも架式とは「太極拳の構造」を端的に表すものであり、太極拳の構造とは、ただひたすら、この馬歩が示していることそのものに他なりません。それは「十三勢」の套路動作がすべて馬歩の構造によって成り立ち、套路の学習は馬歩を追求することによって理解されるように構成されているのを見ても明らかです。

 「馬歩」は一見単純なものに見えますが、習得する事は決して容易ではありません。
 それはまるでピラミッドのように、シンプルな形状ではあっても高度で計算され尽くした構造を形成しています。太極拳の理解とはこの「馬歩のシステム」の理解度に等しく、個人の「功夫」は、そのまま馬歩の修練の度合いに等しいと言えるかも知れません。
 また、馬歩の理解が無ければ、「弓歩」も到底理解することはできません。
 弓歩は、ただ馬歩から片足に重心を移したものではない、ということが深く理解されなくてはならないものです。

 太極武藝館では、最も一般的な馬歩、つまり馬上に跨ったり椅子に座ったような深い架式の馬歩をいきなり取らせるのではなく、まずは比較的高い姿勢を取ってその「構造」を細かく指導することから始められます。
 一般的には、初学の間にこそ深く腰を落とした低架式の馬歩を行わせるのが正しいとされる場合もあるようですが、太極武藝館では敢えてそうしません。
 そして、それには大きな理由があります・・・・

 それは、馬歩には本来、高い姿勢からそれを始めなくてはならない「システム上の必要」があるからです。
 それは、低架式が膝や腰を痛めたり、腿の筋肉を痛めたりするからと言うことではなく、ちょうど家を建てる時に土台から工事を始めなくてはならないように、馬歩の構造自体が、「高いところ」から始めなくては理解されない性質を持っているからです。

 いきなり膝を深く曲げ、腰を落とした低架式から始めると、馬歩の構造を大きく誤解してしまう怖れがあります。正しい指導がなければ不要な筋肉をたくさん使ってしまい、そのフォルムに耐えようとするだけの「拙力」の訓練になってしまうかもしれません。
 太極武藝館ではまず、「直立すること」を基本として、どのような過程を経た上で馬歩のフォルムにしていくのか、何ゆえにそのカタチになっていくのか、ということを大切にし、低い架式での訓練は、馬歩がどのような構造で出来ているのかをきちんと理解し、体得してからのこととされます。
 無極椿を高い姿勢の「並歩」から始めるのは、このような理由からです。

 ついでながら、普段の稽古ではいきなり馬歩それ自体の訓練から始められることはなく、『馬歩のための馬歩』とでも言うべき練功が、稽古開始時に欠かさず指導されます。
 これは、古くから伝えられる伝統的な馬歩の学習法であり、馬歩の「静」と「動」を実際に体験させ、構造そのものを繊細に整えることが出来る、大変優れた練功です。

 2008年に入って間もなく、太極武藝館のスタッフは、この練功がそっくりそのまま最も古い時代に書かれた形意拳の拳譜に記されていることを発見しました。
 その拳譜には、古の心意拳の練功法として、この馬歩の練功が描写されており、これらが陳氏にどのような経緯で伝承されてきたのか大変興味深いものです。
 この拳譜は、陳氏拳術と心意拳の関係を研究する上で大変貴重な資料になることでしょう。

 この練功は、少し以前までは拝師弟子に教授されるのみでしたが、数年前から一般門人にも公開されるようになりました。実際に経験してみれば「馬歩」の理解が全く大きく違ってくることに誰もが納得でき、今では初心者から上級者まで欠かすことの出来ない重要な練功となっています。この稿では内容を詳しくご紹介できないのが残念です。


 「直立すること」や「立つこと」は站椿の基本となりますが、それは日常的にはなかなか理解し難いものです。
 バランスボールを使っての練習は学習者に非日常的な感覚をもたらしてくれますが、ボールの上に立つ訓練を、つい「站椿」として捉えてしまうことも、誤解されやすいことのひとつかもしれません。
 バランスボールの練習は師父によって私共のホームページにも紹介されていますが、主として「放鬆」や「虚領頂勁・気沈丹田」など、要訣の理解の一助に用いられており、決してそれがそのまま ”站椿” であるとは説明されていません。
 「站椿」とバランスボールとでは、その目的も、練る内容も全く異なっており、そもそもボールの上に立っている状態では、站椿の訓練それ自体が成立しません。
 「ボールに立つこと」は、站椿を訓練する環境とは異なっているのです。

 「静中求動」を例にとれば、ボールの上に立っている状態では、いかに「静」を求めようとしても、立っていること自体、すでに「静」が失われている状態であり、「動」を求めるどころか、すでに制御し難いほど勝手に「動」が起こっている状態であるわけです。従ってそれは静中求動ではなく、「求静被動」とか「動中被動」とでも言うべき状態であると思います。
 また、静中求動の「求 (qiu)」は、「探求する、積極的に求める」という意味で用いられており、バランスを取るためにボールの上で自然に身体を動かさざるを得ないような被動的な意味合いではありません。
 ボールに立つと、自分が立ち続けようとすることを「静」、そこでバランスを取るために否応なしに動かされてしまうことを「動」である、と想像したくなります。
 また、バランスを取るための必然として起こる「動」の中で、ボールを捉え続けようとする身体の中心を「静」と考えると、あたかもそれらが「静中求動」「動中求静」であるかのように思えるかも知れません。
 しかし、站椿で「求」められるべき「静」と「動」は、あくまでも【意で導く】ことによって得られる構造とチカラの問題であり、ボールの上で得たバランス感覚から必然的に生じてきた「静」と「動」とは根本的に異なるものです。

 なお、バランスボールは、自在に動ける中心軸を開発するためには、ある程度の効果を発揮してくれますが、きちんと強い張りを持つ質のボールでなければ、それほど用を為さないものです。
 私たちの所では、上に乗ってもなかなか潰れないような、固めの材質で強い張りのあるものを使用しており、空気も充分に入れてきちんと ”張り” を出します。
 乗るだけで半分ほども潰れてしまうような、巨大な座布団のようなフニャフニャした柔らかい材質のボールは、確かに立ちやすく制御しやすいものですが、それでは補助輪をつけた自転車のようになってしまい、あまりボールとしての効果は望めません。
 太極武藝館では、固く強く張られたボールに膝を伸ばして正しく立つことが出来、そこで連続してジャンプが出来るようになれば、「立ち方」の秘密が少し見えてくるようになるかも知れません。


 さて、無極椿に話を戻しましょう。
 無極椿を初めて練習する時には、敢えて「抱球勢」を行いません。
 抱球勢を取るのは、その次の段階とされています。

 「馬歩のための馬歩」が存在するように、この無極椿は「站椿のための站椿」であると言えます。「抱球勢」にするための腕の上げ下ろしや、馬歩として腰を落とすことさえ、ここでは不要なこととされ、抱球勢にしないために理解できることを求めて行くわけです。従って、外見は手をダラリと下げて、ただ立ち尽くしているようにも見えます。
 ここで要求されることは、一般的に太極拳で語られるところの要訣そのものであり、その要訣に従う以外は、格別に変わったことを行うわけでもありません。

 また、「虚領頂勁」「気沈丹田」「含胸抜背」などのよく知られた要訣は、すべて「構造」を正しく整えようとするものでが、その構造の「在り方」と「整え方」こそが問題です。
 何故なら、その解釈こそが、その門派における「武術の構造」や「勁」の解釈そのものを表していると言えるからです。それら要訣の中身は、門派によって解釈が微妙に或いは大幅に異なるので、学習者は各々の門派の教えに従うより他はありません。

 しかし、その「解釈の違い」は、とても大きいものです。
 同じ陳氏太極拳でも、根本の立ち方とされる「馬歩」でさえ、外見も構造もまったく異なる立ち方が存在していますし、中には明らかに要訣そのものから外れているようなものも見受けられます。
 そのような「解釈の違い」は、一般的には本流から支流へ、支流または傍流へと、分かれれば分かれるほど顕著になり、太極拳以外の武術が併存する門派であれば尚さらのことですが、もとよりそれは内容の正否の問題ではなく、太極拳の拳理についての ”解釈” の問題であると考えられます。
 それらは、その門派、その時代、その当代各個人などの考え方によっても微妙あるいは大幅に改変されていますが、何れも「門派独自の拳理」が追求されているわけで、武術として正しいとか間違っているなどという事ではないのでしょう。

 源流である陳氏太極拳が指し示している武術原理は、大きく分ければふたつの流れとなり、数多ある現存の太極門に於いても、必ずその二つの内のいずれかを基礎として拳理が構成され、更にそこから様々な形に発展して行っているように思えます。
 そして、その「二つの拳理」の構造は至ってシンプルなものなので、系統の違う太極拳がその構造に何を加え、何を差し引いたのか、何を取り出して発展させていったのかを観ていくことも出来ます。


 例えば、私たちが「腰相撲」と呼ぶ、何人もの人に腰を押させてそれに耐える訓練は、源流である陳氏でも好んで行われていますが、陳氏の四傑と呼ばれる人たちが属している系統では、まずそこで力強く押されることに耐え、その後に自分の後方へ、化勁のように相手の力を流して崩しているのが見られます。
 そしてそれは「身体に内気をため、その気の力で相手の力点を崩すことができる」とか、「下半身が安定すれば相手が強くても倒せる」、「強い力が来ても食い止められる」などという表現で説明されます。
 しかし、ホームページの【太極拳を科学する】でもご紹介しているように、私たちはそのような方法とは反対に、押している相手が多人数であっても、前方に歩いて出て行くことが出来たり、前方に大きく飛ばして返せなくてはならないとされています。

 かつて私たちは、「腰相撲」の様々な資料映像を参考に、私たちと他の系統との違いを詳細に比較研究してみたことがありますが、明らかに「身体の構造」と、それに伴う「勁の内容」が異なっているという事を確認することができました。
 そして、それは単に「腰相撲」に留まらず、推手や散手、歩法、套路などに於ける「勁」の現れ方や、そこに生じる影響についても、その構造に於いて全く同じ傾向であることが理解できました。
 特に套路に関しては、誰もが難しい技法と思える、地面に腰を付けて再び立ち上がってくる「跌岔式」をテーマに、多くの映像を比較研究してみましたが、そこにも全く同じチカラの使われ方、すなわち同じ身体の構造を共通して見出すことができました。
 このような研究は今も継続して行われていますが、そうした分析を試みることで、今日に於いてこのふたつの系統がどのように異なっているのか、その中身が朧気ながらにも見えてきたように思えます。


 そのような意味合いで ”要訣” を見れば、それらはまるで「暗号」のように思えてきます。
 事実、円山洋玄師父は、太極武藝館を開門された頃から、これら拳譜に存在する要訣や基本功、套路などのすべてを【 Tai-ji Code 】と呼び慣わされて来られました。
 実はこれらは、その外見からは決して容易に判読を許さない、様々な仕掛けやカラクリが巧妙に織り込まれた、複雑極まる難解な【 Code=暗号 】である、というわけなのです。

 そもそも「暗号」とは、一見すると普通の文章や意味のない文字、或いはただの言葉の羅列のように見えるものですが、もちろん本当に伝えたい事はそこに表現された文字の意味の中には在りません。そこには巧みに秘匿された真の意味が存在しており、その真の意味を解くためには【 解読表 (Code Book) 】が必要になるわけです。
 しかし、どのような暗号に於いても、解読方法は多種多様ではあっても、その解読されるべき内容は、おそらく「ひとつ」であるに違いありません。
 太極拳で言えば、そこに文化や言語の違い、翻訳のニュアンスの差異があっても、それが源流を同じくする一条の大河の流れに育まれてきたものである限り、そこに意味されるべき「真実」は、決して大きく異なるものではないはずです。

 しかし、もし誰かが偏見に満ちた手前勝手な「コード・ブック」を作ってしまうと、その後の世代にはどうしても解読できない部分が出はじめ、その欠損を埋めるために、終いには想像や独善でしかない意味を充てるような状態が起こってきます。
 どこかの世代でそのような状況が起こると、次の代には更に内容が微妙に外れ、徐々にもっと異なったものになってくるに違いありません。
 そしてそれが何代も続けられて来たとしたら・・・そうなったら、きっと元の意味などは何処にも見当たらないほど、中身が薄れてしまっているに違いないのです。
 伝統武術の門派の価値とは、ある意味ではその「コード・ブック」を所有しているか否かに掛かっていると言えるかも知れません。

 師父はこれを、『大海を往く船人の、コンパスのようなもの』であると言われました。
 どなたかの詠じた歌に「北を指すものはなべて哀しきに、吾は狂はぬ磁石を持てり」と、あったと記憶しますが、それは正に、学ぶべき拳理の真諦をいかなる場合にも正しく指し示し続ける「狂はぬ磁石」に他ならないのだと思います。

                                (つづく)

disciples at 19:10コメント(8)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by 円山 玄花   2010年03月16日 17:42
無極椿は、よくこのような練功を残してくれたものだと、ありがたく思います。
抱球勢を取らずに、ただ要求に従って立っているだけで、
普段の生活ではあまり気にならなかった身体の状態や、
太極拳の考え方から構造に至るまで、実に多くのことが見えてくるものです。

そして、站椿で見えてきた要訣の意味を、基本功から套路、推手から散手まで、
照らし合わせて見ることができ、同時に常に自分の研究が道を外れていないかどうかを
確認できるということは、本当に幸せだと思います。
 
2. Posted by トヨ   2010年03月17日 00:52
乱暴に言ってしまえば、ただ立っているだけの無極椿。

ただ立つだけなら誰にだって出来ますが、その中で正しい武術の構造が得られるかどうかは、
正しい学習体系が存在し、ひたすらそれにしたがっているかがどうかなのだと思います。

手前勝手な解釈にならぬよう、十分に自分自身を見つめなおし、反省していかなければなりませんね・・・。
太極拳の「難しさ」は、そこにあるように感じます。
 
3. Posted by tetsu   2010年03月17日 21:42
「立つ」ということ一つをとっても、これほどまで人体の構造に注視し、研究され、伝えられている太極拳の奥深さを武藝館で学ばせていただいてからしみじみ「すごいものだ」と感じています。

今現在の我々の生活様式は様々な「便利なもの」に溢れ、人体の機能を十分に発揮できておらず、また逆に「退化させてしまっているのでは・・・?」とも感じております。

武藝を学ぶことは「人」そのものを見つめ直すものでもあり、それは人体の構造から精神性までもが含まれていると思います。

ただ、それが正しく伝承されているところは数少ないかもしれません。
武藝館ではそれらが正しく「こうあるべき」と指導されており、本当に貴重な道場であると思います。
 
4. Posted by マガサス   2010年03月18日 15:17
のらさんの「站椿」は、一見すると前書きにある「誰もが知る現代武術の基礎知識」のようにも
思えるのですが、よーく読んでいくと、とんでもなく高度なことが書かれていると思えます。

それは高度なものへの「橋渡し」になること、と言った方が正しいかも知れません。
何故なら、それは常に平易な言葉で表現され、チェスのゲームのようにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだりしながら、だんだんチェックメイト(王手)へと迫っていくからです。
しかも、王手が掛けられていることすら、こちらには判りにくい・・・
もしかすると、コレがほんとの「太極拳の戦い方」かも知れませんね。(笑)
そして書かれた言葉の端々には、どうあっても私たちが立ち止まって考えなくてはならないような珠玉の至宝が散りばめられています。

 >馬歩の理解がなければ「弓歩」も到底理解することは出来ません。
 >弓歩は、ただ馬歩から片足に重心を移したものではない、ということが
 >深く理解されなくてはならないものです。

このセンテンスなどは、もう30回くらい繰り返して読んだでしょうか。
このシリーズを熟読する人は、そのような宝物を発見してヒジョーに驚かされると同時に、自分が学んできたことの曖昧さと、理解していたツモリになっていたことの軽薄さに、あらためてショックを受けることになるのです。(・・ン?私だけか・・汗)
 
5. Posted by のら   2010年03月19日 13:10
☆玄花さん
もし無極椿が存在しなかったら、と思うとゾッとします。
何十年と練功を積んでも、太極拳のタの字も解らなかったのではないでしょうか。
無極椿が示してくれる在り方と、それを確立することによって得られる構造は、
私たち学習者にとっては正に掛け替えのないものです。
こんな学習体系を創造した人は、本当に天才なのでしょうね。
 
6. Posted by のら   2010年03月19日 13:13
☆トヨさん
自分の在り方がどうあろうと、関わっていることを好きなようにやって良いのだ・・
という考え方が溢れている時代に、師父の太極拳はそうではない世界をイヤというほど
見せてくれますね。
大河に抗って泳ぐことが努力なのではなく、
身を委ねて流されていくことこそが学ぶということなのだと、
私もよく注意されました。
正しい学習体系に自分を委ねて行くことの素晴らしさを見出した人だけが、
その深遠な道を歩むことを許されるのでしょうね。
私も心して稽古に励んでいきたいと思います。
 
7. Posted by のら   2010年03月19日 13:18
☆ tetsu さん
昨今では、武藝の真髄を学ぶことと、スポーツの殴り合いで優劣を競うことをゴッチャに
している人も、かなり多いのではないでしょうか。
武藝の示す正しく精密な身体構造は、人としての正しい在り方をも示していると思います。
ただ、tetsu さんが仰るように、それを教えてくれるところが余りにも少ない・・・
それを学ぶ機会を得た私たちは、本当に真摯に頑張らないとバチが当たるのではと、本気で
思えます。
 
8. Posted by のら   2010年03月19日 13:25
☆マガサスさん
>高度なものへの「橋渡し」・・
>珠玉の至宝・・

このシリーズは私の学習メモを元にしており、大切なことは全て師父が仰ったことの
聞き書きですから、そうであることは当然かも知れません。

>もう30回くらい繰り返して読んだでしょうか。

私も自分のメモを何度も何度も繰り返して読みます。
読めば読むほど、それらが活き活きと生きているものであることを感じます。
メモと言っても、大学ノートに何冊分もあって、それをまとめて出版したいほどです。
 

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