2010年02月20日

歩々是道場 「站椿 その3」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 ある日、師父から、割り箸と輪ゴムと針金を使って、二種類の模型を作るように依頼されました。拳学研究会の人たちの教材として用いる、太極拳の構造の「核心」を表す模型だということです。

 不思議な図形が描かれたスケッチを渡された私は、その後何時間もかけて何本もの割り箸や輪ゴムと格闘した末、どうにか師父が希望された模型を作ることが出来ました。
 初めはその模型を見ても、作った私自身、それが何なのだか、何を表しているのだかさっぱり分からず、果たしてこんな割り箸のジャングルジムのようなもので、高度な武術構造の核心が表現され得るのだろうかと、少々疑問に思えていました。

 しかし、ようやく完成したその模型を師父が手にし、その末端をゆっくり動かすと・・・
 摩訶不思議!・・・割り箸の模型は、何とも絶妙に揺蕩(たゆた)う動きを見せながら、全体が同時に動くではありませんか!!

 ・・・近ごろ、こんなに驚かされたことはありません。
 自分で作った物に、こんなに感動したのは初めてのことでした。
 そして、それを目の当たりにしたことで、私の内にある ”確信” が生まれてきました。
 それは、これこそが「站椿」で認識されるべき構造そのものである、という確信でした。


 太極拳の構造とは、まずは何を措いても「順体」であるということでしょう。
 いや、ことさらに「太極拳の構造」などと言うのは大袈裟かも知れません。何故ならそれは私たち人間が本来誰もが持っている自然な構造であり、そもそも「順体」という言葉自体が、文字どおり「自然で正しい、ヒト本来の身体構造」という意味を表しているからです。

 中国武術に「順体」という術語は見当たりませんが、趙堡の或る名の知られた門派に伝わる拳譜には、その門派独自の八種類の要訣の中に「順」というものが見られ、七項目にわたって「順であるところの身体」が求められており、

 《 太極拳は自然に沿うこと(順逐)が最も重要である。 拳架は、順身、順腿、
   順手、順脚であることが求められる。 順とは自然に帰することである 》

 ・・などと、詳しく解説されています。

 私たちの稽古でも「順体」や「順身」という言葉が幾度となく出てきて、「これが順体」「だから順体」「こうなるが故に順体」などと言われる度に、何となくニュアンスが感じられるのみで、私にはその「順体」ということの実際の意味が一向に理解できませんでした。

 割り箸のジャングルジムに驚かされたのは、入門以来、長年の懸案であった「順体の謎」が、その模型の不思議な動きを見ただけで、あっという間に解けたような気がしたからです。
 「順体」に対する私の考え方は、まったく間違っていました。

 ひとつには、「構造」とは、あくまでも動くための構造であり、これは「静」のための構造、これは「動」のための構造、というように区別されてはいないということ。

 もう一つは、まず「静の構造」を得なければ、決して「動」は理解され得ないということ。
 これは、太極拳は如何に動くのか、太極拳は如何に戦うのか、つまり太極拳とはどのような武術であるのか、という大きな問題に関わってくる、非常に重要なポイントです。

 さらには、拳論に『一動無有不動、一静無有不動』と説かれる、

  《 ひとつが動となれば動でない処はなく、ひとつが静となれば静でない処はない。
    動に於いては全身が動となり、静に於いては全身が静となる・・・ 》

 という事が、この割り箸の立体モデルのお陰で、明確に理解することができたのです。

 そして、太極拳では拙力を捨てて「勁力=非拙力」を身に付けていくのではなく、站椿で理解される「動」は、初めからすでに「非拙力」であるということ。
 站椿を「静」から練っていくことの意味は、この「非拙力」、つまり「勁力」を理解するためにこそあったのだと思えました。

 「構造」については、昨年6回のシリーズでブログに連載した「甲高と扁平足」でも、脚(ジャオ)の構造を題材に思うところを述べましたが、その最終回で触れた「誰も語らなかった太極拳の構造」は、紛れもなくこの「順体」の中にあり、この割り箸の模型が示すところの「構造」そのものである筈なのだと思えます。

 「順体」は、それ自体が「纏絲勁」を生み出す容れ物となります。
 纏絲勁は、陳鑫老師が「太極拳纏絲精論」や「太極拳纏絲法詩四首」などで詳しく述べているように、陳氏太極拳の精華の在処であるわけですが、進退、左右、上下、裡外、大小、順逆、の六種の組み合わせが錯綜する、筆舌に尽くし難い拳理奥妙であるとしても、それを導き出す「身体の在りよう」は ”ただひとつのこと” であると、私は考えています。

 そして、その「ただひとつのこと」を端的に表しているのが「站椿」なのだと思えます。
 当然ながら、武術とは「動く」ものであり、戦闘では動けなくてはお話になりませんが、その根本である高度な構造を解くには、動いていては決して解らない・・・
 だからこそ、初めに「静」ありき、「無極椿」ありき、となるのでしょう。

 この「無極椿」は、おそらく全ての太極拳門派で、その内容がほぼ等しく指導されているところのものと思われます。従って、それを基礎とし、それを根本として練拳に励めば、誰もが等しく太極拳の構造原理を習得することが出来るはずのものです。

 しかし、現実的には、何ゆえに斯くもそれが難解で、ほとんど誰にも理解できないようなものになってしまうのか・・・金剛搗碓や単鞭どころではない、套路を練らんとして初めに立った時の姿さえ原理とはほど遠いようなことが、どうして実際に起こるのか・・・・

 第一には、それを正しく伝える人が極端に少ないこと。

 第二には、その実際を正しく伝えてもなお、その正しい「在り方」が難解であること。

 第三には、それが門派や個人の都合によって猥雑なものへと歪められてきたこと。

 第四には、それをそこまで極めようとする学習者が著しく少ないこと。

 ・・・それらの理由によって、その根本が見えにくくなっているのだと思います。
 

 太極拳の練法は【 以意行気、以気運身(意を以て気を動かし、気を以て身体を動かす)】ことに拠るとされます。しかし「意」や「気」を以て動かすと言われても、同じ漢字を使う私たち日本人でも、いや、実際には当の中国人でさえも、その ”意” とするところが分かるような、分かっていないような、雲を掴むような内容に思えてしまいます。

 しかしながら、構造から読み解いて行こうとすれば、それは自ずと明らかになってきます。
 正しい構造からアプローチしていけば、そこに「意」や「気」という言葉が用いられた理由が、実はこの「構造」ゆえのことであったのだと、つくづく思えてくるのです。

 正しい構造を身に付けるためには、それを理解している門派や老師のもとに弟子入りして、ひたすら教えを乞う以外に方法はありません。


 では、それが「正しい構造」であるということをどうやって見分けるのか・・・?

 それは、実はそれほど難しいことではありません。
 それが「動き」ではなく「構造」によるものであるという目でそれを見た上で、


 まず、その門派の学習体系を明確に、具体的に学習者に提示できるか、

 それが明らかに体系的に優れたものであると、学習者が実感できるものであるか、

 それが西洋式の体育運動理論とは明らかに異なったものであるか、

 太極勁の種類とその内容を、それぞれ明確に解説することが出来るか、

 基本功や套路が太極拳の基礎的な要求どおりに正しく行われているかどうか、

 無極、馬歩、弓歩などの架式が、型どおり、要求どおりに行われているか、

 難度の高い動作や、大きな方向転換の動作が身体構造として正しく説明されているか、

 推手や散手の発勁が力みではなく勁力で行われ、僅かな動きで大きな力を出しているか、

 対練に於いては接触、非接触に係わらず、常に相手が御され、著しく崩されているか・・


 例えば、そのようなチェックポイントをよく観察すれば、それが「正しい構造」によって行われているかどうかは、自ずと明らかになるはずです。

 そして、正しい構造が提示され、それを完成させていくことが拳理拳学の要点であることをきちんと教えて貰える門派や老師であれば、誰もが納得した上で、深遠な太極拳の学習を喜びに満ちて学んでいけるに違いありません。


                                 (つづく)

disciples at 20:11コメント(10)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2010年02月22日 18:22
武術の構造というのは、実に不可思議で精妙なものだと思います。
…と、そのように感じるのも、我々が「自然で正しい、ヒト本来の身体構造」
から大きくかけ離れた生活を送っている証拠なのかもしれません。

師父が対練で触れずに人を崩しているのを見て、子どもたちが、
「念力だ〜!」
と騒ぐのも無理はないかもしれませんね(笑)
 
2. Posted by tetsu   2010年02月22日 21:51
むむむ・・・その模型とは・・・???

しかしながら、このブログの記事は本当に奥深く、味わいあるものですね。

私は武藝館に入門する前は「構造」というものに全く目が、意識がいっていませんでした。
それゆえか、自分自身今までやってきたことに憤りを感じ、伸び悩み、疑問も多く沸きました。

しかし、武藝館に入門し、師父の示される架式、動き、それに伴う説明を聞いていると、
「正しく学ぶべきもの」というものが見えてきました。
これは本当に素晴らしい師に出会えたと思っています。

構造の妙から生まれる何とも不思議な間、身体への影響は口では語れませんね。
 
3. Posted by まっつ   2010年02月22日 22:28
「站椿」の要求とはアナロジーな表現で、何か隠された意味があるのでは?
と考えた事もありましたが、「構造」という切り口で「站椿」の要求を見ると、
かなり直截的、実際的な表現である事に愕然としました。
難しい点は、その「構造」を実感をもって信じられるかにあると思われます。
 
4. Posted by のら   2010年02月23日 17:50
☆トヨさん
私たちは、「本来の身体構造」から随分かけ離れた生活をしていて、
身体の構造が大きく変わってきても、全然おかしくない事だと思えます。
これは明らかに「退化」なのでしょうね。
・・で、師父のように構造を得た人を見ると、
念力だぁ〜っ!、超能力だぁ〜っ!、
果ては、インチキだぁ〜・・・てなコトになって(笑)
ヒトは、自分には考えられないことは、何でも「有り得ないこと」になるようです。
 
5. Posted by のら   2010年02月23日 17:55
☆ tetsu さん
いつも拙稿をご覧頂き、ありがとうございます。

>むむむ・・・その模型とは・・・???
制作者の役得で、私は拝見してしまいましたが、
本来は拝師弟子のみの研究に用いられるとのことです・・悪しからず(笑)

>武藝館に入門する前は「構造」というものに全く目が、意識がいっていませんでした。
師父が示されるところの「構造」から武術を紐解いていく人は、なかなか居られませんね。
たまに「構造云々・・」という方も居られるようですが、
ヤレ股関節がどうの、ヤレ腸腰筋がどうの、ヤレこんな感じで揺らせばどうの・・と、
そもそも「構造」の捉え方自体が、私たちとは大きく異なっているのかも知れません。

私程度の門人が、余所で長年修行されてきた方が驚くような構造を得られるのですから、
これは本当に凄いことだと思います。
 
6. Posted by のら   2010年02月23日 18:01
☆まっつさん

站椿の要求をアナロジーで理解させようとする門派もありますが、
武藝館では、まず初めに構造理論ありきで、その後に意念を用いて身体を開発していく
システムになっているように思います。
「構造」の学習は、他の介在を夾まぬ「ダイレクト」なものであり、
ひたすら「プラクティカリティ」なものだと思えます。

なかなか「構造」から入って行くことができない人は、
「自分が造ってきた身体」のイメージが、余りにも強烈なのかも知れませんね。
 
7. Posted by マルコビッチ   2010年02月23日 18:10
「站椿」の連載をして頂き感謝しております。
私は、のらさんのように知的に考えを深め追求していく力が足りないので、
今まで漠然としか感じていなかった事を文章にして頂くと、
「なるほどー!」と世界が広がるような気がします。
これからもこのブログの記事を頼りにしつつ、
私ももう少し知的能力を開発していけるよう頑張ります。
今後ともよろしくお願いします。

割り箸と輪ゴムと針金で作った太極拳の構造の核心を表す模型・・・
ってどんなのだろう???
ジャングルジムみたいで・・・
末端を動かすと全体が同時に動く・・・か・・うーん?!
 
8. Posted by のら   2010年02月24日 00:23
☆マルコビッチさん

>知的能力
私なんか、ぜんぜん知的じゃありませんよ!!
ただ、太極拳を理解していくというのは、とても知的な作業なのだと思いました。
こちらこそ、今後もご指導をよろしくお願いいたします。

>構造の核心を表す模型・・ってどんなのだろう???
これは口裂けオンナになっても、口外できませんね。
でも、私は役得で見てしまったので・・・
わーい、役得、役得ぅ〜・・っと!!(ゴメンナサイ)
 
それよりも、今日の稽古で発表された「新型グッズ」の方が、
よほど現実的で実用的かと・・・
がんばって、太極勁をモノにしましょう!!
 
9. Posted by とび猿   2010年02月27日 13:09
太極拳の構造の核心を表す模型ですか!!
うーん、スゴイ。

稽古では、よく、人間の構造の絶妙さに驚かされます。
しかし、人間は簡単に構造を無視した動きができてしまいます。
それは、日常に於いては大変便利な事なのですが、
それは、どれだけ工夫しようとも拙力であって、武術や高度な動きにはなりませんね。
 
10. Posted by のら   2010年02月28日 23:54
☆とび猿さん
>稽古ではよく人間の構造の絶妙さに驚かされます。

私も同じことを師父に申し上げたら、

『いやいや・・まだまだ基本しかやっていないので、言わば入口、門前で、これからが本番、
 入口が分かってきた人には、これからようやく太極拳の門が開かれるわけですよ・・』

・・・と、仰ってました。
 

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