2010年02月08日

歩々是道場 「站椿 その2」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 お馴染みの「開合勁」を例にとってみましょう。
 現存するすべての太極拳には「開」と「合」という概念が存在しています。これは、太極拳独自のチカラである「勁」の種類として説明され、他の勁とともに「太極勁」という言葉で表されるもののひとつです。
 「開合勁」は、陳氏太極拳における「十大勁」の内、ふたつを占める重要な勁であり、かの 陳鑫(ちんきん)老師(*註1) が【 開合虚実即為拳経(開合虚実、即ち拳経を為す)】と言われるように、それは文字どおり「太極拳の核心」であると言えます。

 開合は、説明上「開勁」と「合勁」として分類されていますが、前回の稿で述べたように「対(つい)」でひとつとなっているので、ひとたび武術の構造として起これば「開合勁」となり、連綿として途絶えることのない循環するチカラとして生じ、そのシステムのなかで太極拳独自のチカラが「蓄」えられたり「発」せられたりすることになります。

 太極拳に必要なのはこの「開合勁」ばかりではありませんが、前掲の「起き上がり腹筋」のように太極拳の補助練功として考案されたものでも、拙力の構造が否定されて「勁」のみが働いていなくてはならず、間違っても「拙力の使い方の工夫」でそれをこなすのではなく、開合勁を始めとする勁が間隙なく用いられた故に、すべての運動が為されなくてはなりません。

 もちろん、この「起き上がり腹筋」のトレーニングにも開合勁が使われています。
 使われているというよりも、開合のシステムが発揮されなくては、太極拳の練功としては何ひとつとして動きようがないのです。
 ここでは、腰を床まで沈めていく始まりの動作にさえ、その開合勁が隙間なく使われていなくてはなりません。そうでなくては、たちまち日常の運動となり、拙力の運動となってしまうのです。

 重要なことは、そこには「拙力」が入る余地はまったく無い、ということです。
 繰り返しますが、「勁」は「間隙なく用いられるチカラ」なのです。つまり、言い換えればそれは、間隙なく用いられる「性質」のものであると言えます。
 したがって、たとえそれが部分であれ、全体であれ、身体が緩んだり、落下したり、脱力したり、膝をカックンと抜いたりしてしまったら、もうオシマイです。
 何故なら、それらはすべて「拙力」を構成する要素に他ならず、間隙なく用いられるチカラには決して成り得ない要素であり、そのような要素は「勁」というものには全く含まれておらず、站椿の構造にも存在していないからです。
 それらについては、すでに小館のホームページの『太極拳を科学する』でドクターバディが基本的な解説を述べているので重複を避けますが、このように「開合勁」ひとつを取ってみても「拙力」との違いは明らかになってきます。

 「勁」は、正しい「構造」から生じるチカラなので、練功では初めにチカラそのものを求めることは有り得ません。太極拳として整っていない構造から発せられる力は全て拙力となってしまうので、まずはひたすら「正しい構造」を求め、その構造を変えることなく行われる練功、すなわち「基本功」によって養われる身体こそが、そこに求められるべきなのです。
 そして、その「正しい構造」を維持しながら練功が行われれば、徐々に身体が造り替えられて行きます。ただ床に寝転がって再び起きてくるだけの、単純極まる【 起き上がり腹筋 】の運動は、そのことを端的に現しています。

 試してみれば誰もがすぐに理解できますが、ここでは「正しい構造」がなくては、容易に起きあがってくることは出来ません。
 その構造を得ていない人は、実に様々な拙力によるアプローチを試みることになります。
 腹筋を力んで上がろうとしたり、起き上がるための勢いをつけたり、立とうとする瞬間に足で蹴ったり、身体を縮めたり前方に弛めたりしてから立ち上がろうとしたり・・・
 そのような「拙力」でも何とか起き上がれなくはありませんが、誰が見てもそれが拙力であることは明らかなものです。
 拙力を廃するためには「起き上がること」を目的とせず、その体勢から正しく起き上がることの出来る「非拙力の構造」を見ていく必要があります。

 指導者は、どこがどのように拙力であるかを分かりやすく指摘し、拙力の構造が何で出来ているかをその場で実感させます。そして開合勁を中心に、正しい勁の「構造」を示して、学習者が未経験の「新たな構造」でそれを試みるように導いてゆき、「やり方」ではなく「構造そのもの」を理解させていきます。

 ・・・すると、やがて「理解」が起こりはじめます。
 正しい構造で出来たときには誰もが非常に驚き、興奮し、信じられないような顔で、皆一様に『不思議だ・・何の抵抗もなく起ち上がれた!!』と言います。
 それまでの苦労はどこへやら、さんざん腹筋や背筋、大腿四頭筋などに抵抗のあったこの難儀な運動が、何の苦労も無しにヒョイと起きあがれ、なおかつチカラが有り余っていることを体験したときには、誰もが信じられぬほど不思議な感覚にとらわれます。

 起き上がれただけではなく、そのまま天井まで飛んで行けそうなこのチカラ・・・
 なぜこんなチカラが、何のリキミもなく、身体に生じているのか・・・

 それは、取りも直さず、「非拙力の構造」を体験したことに他なりません。

 かつて拝師弟子にしか教授されなかった【 身体を造り替えるための練功 】は、太極武藝館に於いては、現代人・・・つまり、戦後より精神文化を半ば喪失し、身体能力の低下に悩み、軟弱で鈍感になったと言われる現代日本人に、より太極拳の本質を理解し易いようにと、文字通り手を替え品を替え、或いは名を替え、スタイルを替えて、どんどん一般弟子にも教授されるようになってきました。
 そのお陰でしょうか、太極武藝館では入門して半年も経てばほとんどの人が正しい構造から正しいチカラを出せるようになってきますし、種々の練功の中でも難度が高いと言われている「起き上がり腹筋」も、ほぼその日から出来る人も居ますし、初級者でも十数回ほどの稽古の中で八割以上の人がそれを徐々に熟(こな)せるようになってきます。
 それは、多くの人がこの道場で短期間に「勁」を正しく体験しているということでもあり、その後の基本功の訓練にもたらすであろう影響や恩恵は計り知れません。


 話を「站椿」に戻しましょう。
 太極拳を学ぶためには、まず「勁」の概要をつかみ、基礎練功によって拙力を離れて武術の構造を学び、「用意」の訓練によって構造から導かれる動きを高度なものにしていく必要があるわけですが、もし「站椿」の訓練を抜きにして、套路だけでいきなり「用意」を訓練することになったら、初心者ならずとも、それはとても大変なことかもしれません。

 私の経験では、正しく「站椿」を経験した後では、それはとても効率が悪そうなことに思えました。「站椿」の経験を経ずにいきなり套路の動作を学んでしまうと、場合によっては、何によって身体が動かされるのかという肝心なポイントが曖昧になるかもしれず、「用意」の本質をつかむのが難しくなってしまうかも知れないと思えたのです。
 そもそも、すでに身体が動いている「動」の環境の中では、「動」そのものに関心が向けられてしまい、肝心の「意」が認識しにくく、「意によって身体が動く」ことを習得することが難しいであろうことは誰にでも想像がつくことです。
 それは、まさに反対側からのアプローチになってしまうのです。
 初心者にとって複雑怪奇にさえ映る套路動作の中でそれを取っていくことは、かなり無理があるに違い有りません。套路を学習する以前に必ず「站椿」が指導されるべきであるとされるのは、そのような理由にもよるのでしょう。


 站椿では、「静」が整備された後に【 静中の動 】というものを求めていくわけですが、いったん身体を正しい「静」に置くことさえ出来れば、その中に起こってくる活き活きとした「動」の性質を認識したり、積極的に「動」を呼び起こしたりするのはそう難しいことではありません。
 但し【 静中の動 】を、もし『静けさの中で動かず、 "動" が起こるのをじっと待つ・・』などというニュアンスで捉えてしまうと、いつまで待っても全く何も起こらないかも知れません。

 この【 静中の動 】というのは、「じっと静かに立ち続けてさえいれば、やがて何処からか訪れて来るに違いない ”動” 」・・というような意味ではありません。
 もしそのような感覚で「静かに」待っていると、意に反して「想念の動」が起こることが往々にしてあります。身体を安静に保とうとすればするほど想念は活発に働きつづけるものなので、全く何の意味のない支離滅裂な想念が次々にやって来て、アタマの中は非常に混沌とした状態に陥るかもしれません。

 それは丁度、座禅に於いて、初心者が精神の静寂の境地を求めながらも、それを求めるが故に反対にありとあらゆる妄想に悩まされてしまうという、あの状態が同じように「站椿」でも起こり得るのです。
 いや、それだけで済めばまだ良いのですが、その想念が身体に反応を起こして、ケイレンや麻痺、ワケの分からぬ”自発動”などを繰り返すようになってしまうと、ちょっと厄介です。
 何が厄介かというと、本人はその”非日常的”な現象を結構気に入って、それこそが「動」が生じているコトに違いない、などと思いたがってしまうからです。

 「静」とは「静かにしていること」ではなく、【 動きが無いこと 】です。
 その認識の違いは、それ以降の訓練に大きな差異をもたらすことになります。

 それでは、「動きが無いこと」とは一体どのようなことなのでしょうか。
 動きが無いことというのは、自分で身体を動かそうとしていない「動きが無い環境」という意味です。しかし、それは決して、静けさの中で何かを待ち続けている状態ではありません。

 では、どうするのか・・・

 学習者はそこで初めて「用意」、つまり【 意を以て構造を調整し続けること 】という大きな課題に、実際に直面することになります。

 站椿で求められるものは、あくまでも武術的な「静」であり「動」なのであって、武術的な「静」を求めていく意味というのは、あくまでも「構造そのもの」を求めること以外には無いと私は考えています。
 何故なら、それがどのような構造であれ、先ずは【 静 =不動 = 動きが無いこと 】が整備された環境の中でこそ、その精度が認識されるはずであり、その「静」の状態が高まるほど構造の精度もまた高められ、その「構造」の精度が高まれば、まさにヒトの構造上、そこに自ずと「動」の環境が生じると思われるからです。

 そして、もしそうであれば、如何なる站椿も「静」から始められなくてはならないという理由はそれ故である、ということになるでしょうか。
 そして、太極拳が【 用意不用力 】を奥義や術理としている以上、「静」である站椿から始めなくては何も理解できないということになります。

 太極拳は「無極」という最も基本的な構造への理解から始まり、まずは徹底して動きを廃した「静=不動」の環境から「静中の動」を見つめて行かなくては何も始まらない・・・

 站椿こそが、最も重要な練功であるとされるのは、それ故ではないでしょうか。


                                   (つづく)
 


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 (*註1)陳鑫( ちんきん・Chen Xin・1849〜1929 )

   陳氏太極拳小架式・第十六世伝人。字(あざな)は品三。
   陳鑫は仲甡の次子で、兄の陳垚(ちんぎょう・Chen Yao)は ”武” を、次子
   の陳鑫は ”文” の道に進むことを命じられ、陳垚は十九歳で軍校に入り、陳鑫
   は『貢生』となった。

   「貢生(こうせい)」とは、明・清の時代の科挙制度に於いて、府・州・県よ
   り推薦され、首都の最高学府であり最高の教育管理機関でもある「国子監」の
   入学試験に合格し、科挙の「郷試」の受験資格を許された、晴れて「秀才」と
   呼ばれ賞賛される学生を指す。
   科挙の試験の競争率は非常に厳しく、時代によっても異なるが、およそ3,000
   倍とも言われている。それ故か、最終合格者の平均年齢も36歳と非常に高いも
   のであった。

   しかし、陳鑫の著作の序文の中には「武に生きる者には将来が広がっているが、
   文に生きれば成就すべきものがない」という記述が見られる。
   陳鑫は幼少から父の仲甡や兄の垚に就いて拳を学び、明確な理法を身につけた
   ため、その太極拳は精微を尽くし妙を得たものであり、兄が ”武” によって多
   くを成就したことに発奮し、 ”文” の才能を活かすことによって陳氏世伝の太
   極拳理法を解き明かす偉大な著書を著して後世に遺したのである。

   陳鑫の著作には『陳氏太極拳図説・全四巻』『太極拳引蒙入路・全一巻』及び
   心意拳譜をもとに編纂された極秘伝書である『三三拳譜』がある。

   『陳氏太極拳図説』は、十二年もの歳月を費やして著された、百数十万字の内
   容から成る著書である。
   本来は後代嫡孫の研究に益する為に陳氏小架の奥義を文字に遺したものであり、
   陳氏小架式の真伝を正しく学んだ者以外には難解な内容も多いが、今なお門派
   や国境を超え、太極拳の聖典として、また第一級の資料として研究され続けて
   いる。

disciples at 19:33コメント(4)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by まっつ   2010年02月09日 00:53
考えてみれば人体の在り様において、
天然自然に動きが無い事など一瞬たりとも無いように思われます。
眠りにおいてさえも、余程の昏睡に至らなければ不動など起こらないのでは?
と思われます。

そのような状態を敢えて意識的に求める事、
それ自体が極めて非日常的なアプローチであると思われます。

外見上いかに身体の動きを止めてみても、
大概は水の流れを塞き止めるに似て、凪ぎの水面にはなりません。
限界に至っては決壊する因果を離れられません。

それでは「無極」「不動」「静」とは何を意味しているのでしょう?
うーん、謎だ・・・
 
2. Posted by tetsu   2010年02月10日 22:14
大変勉強になります。
かつて私も単なる筋肉運動が動きの元、全てと勘違いしていた時期がありました。
武藝館で学ばせていただき、太極拳の奥深さ、「静」に求められているもの、
「構造」というものに驚愕いたしました。
「これは然るべき師について学ばないと、とてもじゃないが理解できない。
とても独学では気付かないだろう」と感じました。
また、武藝館では様々な工夫を凝らした学習システムを師父が指導してくださり、
本当に素晴らしい道場だとしみじみ思います。
今後の連載も学習の糧として楽しみにしております。
 
3. Posted by のら   2010年02月11日 14:07
☆まっつさん
「静」や「動」というのは、
禅で言う「無」や、老子の言う「無為」というところのものと似て、
私たちには、その考え方自体が、なかなか難しいですね。
けれども、
「無」というものが、ただ何も無いことではないように、
「無為」というのが、ただ何もしないことではないように、
「静」というのも、ただ動きがないことではなく、
「不動」というのも、ただ動かないことではないのだと思います。

その「謎」は、いくら考えても、探ろうとしても、深まるばかりですね。
私たちが太極武藝館で教わっていることは、
師が黒板に書かれたことをノートにとって、次の試験に備えるようなことではなく、
それを深く体験していくことで、私たち自身がその内容そのものになることなのでしょう。

そして、それを体験するには、ただひたすら繊細に、注意深くなくてはならず、
自分の日常を持ち込んではならず、自分の主張をそこに夾んではならず、
古ぼけた分厚い眼鏡を外さなくてはならず・・・
自分の勝手な想いを捨てて、わが身を師に預け、
懈怠を怖れて、道に精進しなくてはならないのだと思えます。

単に学究の心ではこの道は成らず、
単に兵士(つわもの)の覇気ではこの道は見えず、
まして小人匹夫には、この道を歩みようがない。
近道は無い・・・
ただ直向きに、荒地に畑を起こし、どの種よりも小さな武の種を播き、
陽を待ち、雨を乞い、風雪に耐え、花を咲かせ、実を結ぶための作業をする・・・
そうすれば、自分のような凡夫にも太極というものが少しばかり見え始めるのだと、
師父から伺ったことがあります。
 
4. Posted by のら   2010年02月11日 14:10
☆ tetsu さん

>これは然るべき師について学ばないと、とてもじゃないが理解できない。

まったく、仰るとおりですね!!
昨今のような便利な社会では、情報を得るのも容易ですし、
日本でも、中国へ行っても、いろいろな師に就いて学ぶことも可能です。
しかし、本物の師を探すことの難しさと、本物の内容を学ぶことの難しさは、
何時の世でも変わることがないのでしょう。
真実を知り、真実を教えてくれる人は、そう多く存在するはずもありません。
私たちは、この幸運を活かすことに、もっともっと励まなくてはならないと思います。

「站椿」の続きも、また楽しみにお待ち下さい。
 

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