2009年11月25日

練拳 Diary #24 「腰相撲(こしずもう) その6」

 これまでに、弓歩、馬歩、壁抜け、蹲踞、投げ、と、五種類の代表的な腰相撲について述べてきました。私たちが行っている腰相撲の全ての形は、この五種類の架式を元に変化したバリエーションであり、その架式を離れたものは、ひとつも行われません。
 その5種類の架式にしても、元を辿ればたったひとつの「馬歩=ma-bu」に行き着くことになります。

 なぜ「腰相撲」というひとつの練功に対して、様々な種類の架式が用意されているのかと言えば、ひとつには、人が立っている所からそれぞれの架式を取りに行く際の「身体の状態」が非常に重要であるからであると言えます。
 つまり、「馬歩」が正しく理解されていれば、どのような架式を取りに行っても、身体が乱れることはなく、今ある状態から形の異なる架式を取りに行こうとしたときに、原理に則った動きができれば、それは即ち生きた架式、使える架式となり、終には相手と向かい合ったときに、武術的に自在に動けることに繋がるのだと思います。
 そうでなければ、なぜ基本功を中心に、ゆっくりと同じ動作を何回も繰り返し稽古するというのでしょうか。ましてや套路などは、全て架式から架式までの途中に、身体がどのような状態にあるかということだけが問われているようにも思えるほどです。

 実際に、架式の整え方が動きの有利・不利を決定するものなのだと、強烈に感じられたことがありました。
 それは、師父と空手出身の門人が一緒に並んで、前方に突きをしながら歩いていく訓練を行ったときのことです。
 足を肩幅に開いて立っているところから、右足を一歩後ろに引いて弓歩で構え、順突きをしながら前に進んでいくのですが、何回やっても師父の方が速いのです。
 一歩が速いわけでも、出される拳のスピードが速いわけでもなく、むしろ周りで見ている私たちにとっては、一歩ずつが数えられるほどの、ごく普通の動きに見えるのですが、拳が到達するのは絶対的に師父の方が早く、例えばミットなどに打っていけば、到達する早さの違いは、より明らかだったことでしょう。

 体格も、足の長さも、腕の長さもそれほど変わらない二人が、同時に突き始めても到達する時間が大きく異なるという事実は、当時の私にとってかなり大きなショックでした。
 それは同じパンチ力を持っていても早く相手に届いた方が当たりますし、相手のパンチ力が自分より遙かに勝るとしても、やはり早く届いた方が有利であることを意味するからです。
 これが刀だったら、あるいは拳銃であればどうだったかと想像すれば、より分かり易いかも知れません。それが、拳打のスピードやフットワークの素早さに関係なく、早い遅いが決まってしまうのですから、これは大変なことだと思ったのです。

 何が原因でそのような事が起こっているのかを観察してみると、構えた時の姿勢や身体の位置、膝の動きなどには、それほど大きな違いが見られなかったのですが、動き出したときには既に師父が前に居て、その門人は後ろに居る、という具合に、「遅い・早い」が動いた瞬間に決定しているという状態でした。
 ところが、試みに師父がその門人の構えを細かく真似されていくと、そこからの動きは、その門人とピッタリ同じタイミング、同じ早さになってしまうのです。
 そこでようやく、初めに「構え」た時点で、その「架式」に秘密があるのだということに思い至りました。もっと正確に言えば、その「構え」が完成するまでの動きや、身体の状態の違いであり、さらには構えに行く手前の「立ち方」が問題であった、ということが分かったのです。
 
 「腰相撲」の練功で、いちばん初めに用意されている課題は「架式が正しく取れること」です。「正しく」とは、立って動くことが、太極拳の法則から少しも外れないことであり、どのような架式を行うときでも、その意識で修練を続けることで、漸く「太極拳の身体」が手に入るのだと思います。
 それは、基本功や套路、推手や散手などにも、同じように当て嵌めて考えることができます。つまり、基本功の架式の取り方と対練での架式の取り方は同じであり、突きも蹴りも、戦い方も、そこから離れたものは何ひとつ存在しないということになります。
 そのことこそ、師父が常々仰る、「たったひとつのことを学んでいるに過ぎない」というところの、「ひとつ」の意味なのではないかと思えるのです。

 その理解が無いままに、どれほど多くの架式を学ぼうとも、また多くの秘伝や要訣を聞いていても、それらはただの「使えない宝」に過ぎず、陳列棚に並べられた宝など、ただのガラクタ同然で、文字通りの ”宝の持ち腐れ” になってしまいます。
 また、もしその収集した宝物が、実はそれらの宝とは比べものにならないほどの、大いなる叡智に到達するための、単なる「鍵=キーワード」に過ぎないとしたら、その「鍵」を集めて並べておくことや、その「鍵」をピカピカに磨くことなどに、いったい何の意味があるでしょうか。

 私たち修行者は、腰相撲に用意されている架式の種類に囚われることなく、その架式の意味するところを理解するために、それを利用し、使い込むことが求められているのだと思います。
 そうしてようやく、太極拳の学習の中で「腰相撲」という練功を稽古する意味が見えてくるに違いありません。

 腰相撲のシリーズは今回で終わりになりますが、最後に、私たちが行っている腰相撲の様々なバリエーションを、写真にてご紹介したいと思います。

                                  (了)




   【 横からの腰相撲 】

        

   馬歩の姿勢を取り、横からゆっくり肩と腰の二個所を押してもらいます。
  大切なことは、「耐えられること」や「押されないこと」ではなく、架式が理解できる
  ことです。

   ゆっくりと押してもらっても架式と姿勢が乱れず、足に力みが生じなければ相手を返
  すことが出来ますが、まだ架式が充分に取れていない場合には上半身が傾いたり、押さ
  れている方と反対の足に力が増えてきて、そこが支点となり、限界まで来ると押されて
  しまいます。



   【 後ろからの腰相撲 】

        
  
   半馬歩(ban-ma-bu)の姿勢を取り、後ろからゆっくりと押してもらいます。
   充分に押された後に、それを返すこともできます。
  
   相手の手に寄り掛かることなく、半馬歩の姿勢が崩れないようにします。
   半馬歩が難しい場合には、弓歩の姿勢を取り、後ろから押してもらうことも出来ます。

   足を前後に開いた状態で後ろから押してもらうことにより、自分の架式や立っている
  身体の状態がより明確になります。

   例えば、「馬歩」の構造が正しく取れていなければ、たとえ小さな力で押されても、
  身体が居着く状態となりますし、反対に「馬歩」の構造が守られていれば弓歩で前から
  押された時と同様に、どれほど押されても足に大きな負荷が来ることはありません。



   【 片手での引き合い 】

        
  
   向かい合って構え、単塔手の状態から手首同士を掛け、互いに後ろに向かって四正手
  の「リィ」をするように引き合います。
   架式は、半馬歩よりやや広めに取り、相手を引くときには身体を動かしても構いませ
  んが、一方向に等速度で引くようにし、引きながら方向を変えたり、何動作にも分かれ
  ないことが大切です。

   これまでに述べてきた腰相撲と違って、「取り」と「受け」に分かれないため、より
  架式が整っている方が、相手を力むことなく引くことが出来ます。



   【 膝相撲 】

        
  
   お互いに弓歩の架式を取り、脚の内側を向かい合わせて脛を交差させ、そこから双方
  同時に押し合います。グイグイと煽らずに、一動作で押していくようにします。
   これも、弓歩の架式が正しく取れている方が正しく動くことが出来、その結果相手を
  押していくことが出来ます。

   膝相撲では、他に膝の内側を併せてお互いに押し合って崩すものもありますが、何れ
  にしても弓歩が固くて動けないような、不自由なものではないことを現しており、架式
  そのものが ”使えるもの” であるということが分かります。



   【 肩を押す 】

        
  
   床に正座をしているところを、前から肩を押してもらい、返すというものです。
   架式では馬歩の確認となり、正座で足が曲げられていても、無極椿の要求が変わらず
  守られていることが大切です。

   日頃大腿四頭筋を多用していると、軽い力で押されてもアシに負荷が来てしまうため、
  押されると簡単に後ろに転がされてしまいます。



   【 足を伸ばして座り、手を押す 】

        
  
   一方が床に座って足を開いて伸ばし、パートナーは床に座った人の掌を前から後ろに
  倒していくようにゆっくりと押していきます。

   これも架式で言えば馬歩の確認となり、馬歩の理解が正しければ絶対的に不利な体勢
  であるにも拘わらず、相手を返すことが出来ます。
   架式がまだ十分でない場合には、押される力は腕に来やすく、そこから背筋、大腿四
  頭筋へと力みが伝わり、ついには相手に押されてしまいます。

   正座や床に座るものなど、足を使わずに行う対練では、「架式」というものが足の形
  式ではなく、身体全体の問題であるということを示しているように思います。

   足を使わない腰相撲では、この他にも、床に横になって腰や肩を押してもらうもの、
  また、多人数で手足を押さえさせるものなどもあります。



   【 ぶら下がり腰相撲 】

        
  
        

   これも足を使わない腰相撲の一種ですが、今度は上からぶら下がって足の踏み込みや
  蹴りが使えない状態で腰を押してもらい、更にそれを返すというものです。

   初めはカカトを床に着けて行いますが、「立ち方」が理解されてくると完全に足を浮
  かせてぶら下がった状態でも押されることはなく、身体は武術的に機能しているために
  相手を返すことが出来ますが、反対に、立ち方が十分でない場合には、小さな力でゆっ
  くり押されても、まるでサンドバッグを押すように簡単に押されてしまいます。

   一番下の女性演者の写真のように、足が床に着いていない状態では筋力で耐えること
  も出来なければ、脚力で返すことも出来ないため、自ずと「立つこととは何か」という
  ことに行き当たります。
   また、拙力を使えない状態、拙力を使っても意味のない状態を創り出すことによって
  「非拙力の構造」を垣間見ることのできる、優れた練功法であると思います。

xuanhua at 22:05コメント(8)練拳 Diary | *#21〜#30 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2009年11月26日 23:19
大変勉強になります。
思えば「一つの架式をとる」「ただ一つの動作をする」ということに対し、
身体の状態、精神の状態を深く考えるということは日常ではしません。
だからこそ、稽古で学ぶのだと思います。
深いものを学ばせていただいている武藝館に感謝です。
 
2. Posted by トヨ   2009年11月26日 23:22
様々な腰相撲をやることで、いかに自分が武術的に立てていないかが、認識しやすいと思います。

>身体がどのような状態にあるかということだけが問われている

自分がどのような状態にあるか、を見れるか。
自分の生活の中で欠けている、自分自身を見つめる精神も必要なのだと痛感痛感、また痛感です。

自分はまだまだ、甘いです(涙)
 
3. Posted by とび猿   2009年11月27日 00:11
6回にも亘る腰相撲の連載、ありがとうございました。

沢山の種類の腰相撲を行っていくと、どれ程架式というものが大切か、そして、それがごくごく
日常的な発想の延長線上にあるものではないということ、また、やり方ではなく、在り方という
ものがどれほど大切なことであるのかと改めて考えさせられます。
さらに、何かを理解していこうとするとき、この様に囚われることなく自由にやっていくもの
なのだ、そして、自分は、なんと沢山のつまらないことに囚われているのだろうかと、毎回、
目が開かれるかのような思いがします。
 
4. Posted by まっつ   2009年11月27日 00:51
「生きた架式、使える架式」とは良い表現であると覚えます。
架式というものが要求であったり、目的であったりするのでは無く、
道具として使われるものである事が痛感されます(・・・あれ?)。

如何に站椿で追求される身体の在り方が留められるのか?
架式はその精度を測るスケールであり、
行く先を示すコンパスであり、
問題点を映すミラーであるようです。

その絶対的な規矩を当てて、
在り方を整える事が稽古なのだと徹底されないとイカンなー・・・
と改めて思いました。
 
5. Posted by 円山 玄花   2009年11月27日 17:51
☆Tetsuさん

自分の場合は、物心が付く頃から、「ただひとつの動作をする」ことに対して、
身体や意識の状態まで見つめるということを、日常生活で学ばせてもらっていたように思います。

例えば、朝起きてから夜床に就くまで、手や顔を洗うとき、食事を戴くときの箸の上げ下ろし、
靴を履く、脱いで揃えること、布団を敷くこと・・などなど、歩く訓練こそしていませんでしたが
全ての日常の振る舞いに於いて、自分に対して「常に意識的であること」を指導されてきました。

これは、どこの家庭でも行われる”躾け”に過ぎないのかもしれませんが、
今の時代は、玄関できちんと靴を揃えられない”お父さん・お母さん”が多いと聞きます。
意識的に日々を過ごすということが、日本人から失われつつあるのでしょうか。

せめて、私たちのように武藝を志す者は、稽古で学ぶことを日常に活かし、
日常での修行を、稽古にしたいものですね。

6. Posted by 円山 玄花   2009年11月27日 17:53
☆トヨさん

もし、「見つめる」ということがトータルに理解され、それが生じているならば、
稽古で師父や教練の動きを「見る」ときには、同時に、自分の側も「見れている」と思います。
しかし、相手を見ることが出来ているつもりで、自分の側を見られていないのであれば、
まだトータルには「見る」ということが理解されていないのだと思います。
それは、本来どちらか片一方では存在できない性質のものだからです。

同じように、自分の生活で何かが欠けていると感じるのであれば、
道場での稽古も同じ分だけ何かが欠けているのだと思います。

そう考えると、道場という特殊な場で稽古できる機会を与えられているということは、
自分の人生に於いて、何と幸運な、恵まれていることかと思えてなりません。
日常生活だけでは気がつきにくいことでも、山奥に籠もることもなく、
頭を丸める必要もないままに、今の社会の中で自分を見つめ、
自分に気がつくことが可能になるのですから。

7. Posted by 円山 玄花   2009年11月27日 17:56
☆とび猿さん

何かに”囚われていた”と思えるときは、自分が”安心”を求めてそれを選んでいた、
ということが往々にしてありますね。
檻の中に閉じこめられて不自由な思いをしているように感じても、
実は、扉に鍵は掛かっていなかった、なんてことも、自分はたくさんありました。
出ることに怯えていただけなんですよね。

しかし、ただ自由なだけだと、そこには必ず不自由がつきまとうような気がします。
物事と自分の仕組みを理解すること、そして「法則」を見出すことが、鍵ではないでしょうか。

8. Posted by 円山 玄花   2009年11月27日 17:59
☆まっつさん

確かに、定規の目盛りが毎回違ったり、
羅針盤の針が日によって定まらなかったり、
鏡に映したら曇っていた・・では、困ってしまいますね。

架式もまた、ひとつの狂いようのない、使える道具として、考えられるかもしれません。
反対に、何回取り直しても毎回変わってしまうような、決まらない架式では、
架式になっていない、と言えます。

今回ご紹介したように、腰相撲でたくさんの架式を稽古してみると、
自分の問題点も、よりハッキリしてくるように思いました。

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