2009年09月24日

歩々是道場 「甲高と扁平足 その6(最終回)」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)


 さて、長々と書いてきたが、そろそろ纏めをしていきたい。
 先ず、脚(ジャオ)の役割とは、いったい何であるのだろうか。

 言うまでもなく、脚(ジャオ)の機能とは、「身体を支持すること」と「身体を推進すること」のふたつの事のためにある。
 人の身体の重さは、背骨から骨盤、大腿骨と脛骨を経て脚部の距骨(きょこつ)に乗り、そこから踵骨(しょうこつ)に約77.5%、中・前足部には約22.5%と、前後に分かれて重さが伝わる構造になっている。
 しかし、おそらくそのような人間本来の構造通りに、距骨まで真っ直ぐ綺麗に立つことのできる人などは、現代に於いては極めて希であるに違いない。
 多くの人は実生活に於いて「正しく立つこと」の意識を全く必要としないはずで、各人が最も都合のよい、歩きやすく動きやすい体軸を造り、それを用いながら日常を送っている。
 一般の人が取り立てて「ヒトの正しい構造」を気にする必要など、普段の生活には全く存在しないと言って良い。

 そしてその事は、武術を学ぶ多くの人にも、同じことが言えるかもしれない。
 一般人が「真正な体軸」に対して無知で無意識であるのに対し、武術を学ぶ人の場合は、これこそが武術的であると各自が信ずるところの情報をもとに、意図的にユニークな構造を造り、それをもとにして鍛錬しているのであろうが、それゆえに、ヒトとして本来備わる「正しい構造」を失ってしまっている可能性が無きにしもあらずである。
 そして、それらの「真正な体軸」からの逸脱は、直立静止状態から歩行動作へと、裸足からヒール付きの靴や特殊な靴を履くことへと、あるいはまた、一般日常的な運動から特殊な武術運動へと変化することにより、さらに顕著になっていくに違いない。

 武術を高度に発展させてきた先人たちは、その「思いこみ」と「正しい構造」とのギャップを埋めるために、実に様々な工夫を重ねてきた。

 たとえば、武器の訓練・・・
 片手に武器を持つ、片手ずつ武器を持つ、両手で武器を持つ、重い武器を持つ、
 長い武器を持つ、重くて長い武器を持つ・・・

 たとえば、站椿・・・
 床の上に立つ、杭の上に立つ、煉瓦に立つ、片足で立つ、椅子に座ることで立つ・・・

 たとえば、数多い推手のバリエーション・・・ 

 そして、十三勢套路の訓練段階・・・・

 それらの練功の目的が、何を差し置いても、その日常的に思い込んだ勝手気儘な体軸を「正しい構造」へと修正するための工夫であり、常に、一瞬たりとも其処から外れぬように工夫された「立ち方」と「動き」であるのだとすれば、それら多種多様な練功の存在にも、自ずと納得がいく。

 では、武術に於ける、脚(ジャオ)の役割とは何か・・・
 それは、ヒトとしての「正しい構造」を受ける最下端の部位として、その正しい構造が失われないようにするための、ある重要な役割を担っている。
 この地上に存在する限り、ヒトには「重力」が働いているので、当然ながら最下部の脚(ジャオ)は最も重さの負荷が掛かってくる所となり、そこは常に重さに喘ぐことを余儀なくされている部位でもある。
 子供に簡単にその部位の形を描かせると、大抵は「L字形」に描こうとする。
 これは、降りてきた脛の骨がL字形に曲がって、指先の方向に伸びているようなイメージを持っているからであり、実際、多くの人は大人になっても中々そのイメージが抜けない。
 しかし、骨格図や骨格模型を見れば、脚(ジャオ)は「逆Y字形」に浮かされている形であり、重さが直接地面にぶつからないように工夫されている。その工夫こそが「土踏まず」と呼ばれる「空間」なのである。

 この、脚(ジャオ)がL字形ではなく、逆Y字形に造られているというのは、武術的に見て、とても重要なポイントであると思う。
 骨盤から股関節を経て、スネの太い骨が降りてきたところには「距骨(きょこつ)」という、一番初めに重さを受ける骨があって、そこから前に向かって中足部のやや大きい骨があり、さらに指の骨である前足部が前に伸びている。
 また、距骨の後ろにはカカトの骨である「踵骨(しょうこつ)」があり、逆Y字形の後ろ側を担う骨として備わっている。

 この「逆Y字形」を保つために、土踏まずには実に100本以上もの靱帯が付いている。
 また、脚(ジャオ)の足底部には、最も浅い第1層から、最も深い第4層まで、四つの層に11種類の主要な筋肉が巡らされ、それらの内在筋はすべて『足指関節の内転・外転・屈曲・伸展の作用』のために用いられ、同時に足底のアーチを支持する役割を担っている。
 このように、脚(ジャオ)は逆Y字形を維持するために、多くの靱帯と筋肉が骨格を支えており、本来ヒトの脚は「扁平足」ではなく、「土踏まずのアーチ」が正しく保たれてこそその機能をトータルに発揮できる ”構造” になっていることが分かる。
 つまり、骨格の崩れや歪みによって生じた「扁平足」は、ヒトにとって決して正常な状態ではなく、扁平足では十全にヒトの構造を使うことが出来ないのだ。

 よく、「扁平足」でありながら立派な記録を出す陸上選手の話題が出ることがある。
 だからと言って、末續選手のように扁平足でなければ、あのようなレコードを出せないというわけではない。現に、カール・ルイスやロロ・ジョーンズなども、ごく普通の足裏をしている。反対に、それが正しいアーチ構造が失われた「真性扁平足」でない限り、足裏が地面に着いてしまった状態が絶対に駄目だというわけでもないと思う。
 しかし、統計を取ったわけではないが、著名武術家、武道家、関取、スポーツマンなど、数十人の脚(ジャオ)を写真等で観察する限り、優れた構造や運動をする人たちは扁平足でない人が殆どであると思える。
 脚(ジャオ)の骨格や足裏の筋肉群の状態は、その人独自のトレーニングのスタイルによって生じた、その人の運動スタイルや、運動の経歴の現れであると言えるだろう。


 先ごろ結婚したモーグル選手の上村愛子さんは、ひどい「外反母趾」だったという。
 彼女が3歳から住んだ白馬村は1年の半分近くが雪なので、お洒落にハイヒールを履いて歩けるワケもなく、それは西洋式の靴の所為ではない。

 彼女の外反母趾の痛みを大きく軽減したという特殊な「インソール」の謳い文句には、

【土踏まずを正しい形で支えると、足の機能が良くなって体のバランスも整っていきます】
・・とあるが、これを反対に、

【身体をバランスよく正しく整えれば足の機能が回復し、
  土踏まずも正しい形になって、きちんと身体を支えられる】
・・と言い換えることもできる。

 言うまでもないが、高度な運動に於いては、靴をどうするか、道具をどうするかではなく、先ずは、身体の構造がどうか、ということこそが問われなくてはならない筈である。

 先述の通り、外反母趾は扁平足と同じ、脚の「構造の崩れ」によるものであり、足を酷使するモーグルで、間違った脚の使い方を続けていた為にそうなってしまったのだと推測される。そしてそれ故に、期待された割には成績が伸び悩んでいた。

 それまで「エアー技法」に拘っていた上村さんは、ソルトレイクで金、長野で銀を取ったフィンランドのモーグルスキーヤー、ヤンネ・ラテハラに師事することで、ターンの技術とスピードの向上を求めて走法そのものを見直し、徹底的に走法の改善を図り、その結果、ワールドカップ通算6勝、年間総合女王の座を掴むことになったという。

 この、「走法の改善」というのは、太極拳で云うところの「歩法の理解」に相当する。
 つまり、飛び上がって空中で演技をする「エアー」への拘りを捨てて、地に足を着けた「立ち方」「滑り方」という基本が見直されることによって、上村さんは飛躍的な進歩を遂げた、ということになるだろうか。

 これは、武藝館に入門してくる他門派の猛者が「パワー」や「スピード」に拘り、その挙げ句、母親のような年齢の女性に対練で吹っ飛ばされ、小柄な年下の女性に散手であしらわれてひどく落ち込み、ようやく「歩法」を本気で学ぶ気になる・・ということと似ている。 
「立つこと」と「歩くこと」の基本が理解出来ていなければ身体は歪み、当然のこととして構造は崩れてくる。それはスポーツでも、武術でも、同じことなのだと思う。


 太極拳では「十趾抓地」と言う「足の指で地面を掴むかのようにする」などと云われる要訣が知られ、格闘技やスポーツの世界では「母趾球に力を入れる」とか「母趾球が足の中心である」などという考え方もよく聞かれる。あるいはまた「足裏の筋肉を多用する」とか、「足の指をフル活用して動かすことが拳理の妙諦に繋がる」などと云う人も居られるようだ。
 しかし、何を差し置いても先ず、本来のヒトの脚(ジャオ)の役割とは一体如何なるものなのか・・それを識らず、それが解らずには、何も始まらないと思える。

 その、ヒト本来の構造・・・チンパンジーやゴリラ、猿人、原人などの構造から、現在の私たちの、完全な二足歩行を可能とする「構造の違い」が無視されたままでは、如何に高度な鍛え方や使い方をしようと、それがある特殊な運動能力の一助にはなったとしても、決して「人間の機能」としての、高度でトータルな使われ方に発展できるはずは無い、と私には思える。
 そして「高度な武術」とは、取りも直さず、二足歩行が可能な「ヒト」でありさえすれば、本来誰もが等しく有する、ありのままの自然な構造を用いて、その機能を限りなく高度に研ぎ澄ませていったものではないかと思えるのだ。

 「ヒトの存在は、それ自体が奇跡なのだ・・」と、よく師父が仰る。
 人間は、その存在という名の奇跡を、ごく当前の成り行きであると勘違いしてか、絶妙なバランスによってようやく保たれているその奇跡を、あまつさえ自分勝手に解釈し、崩し、壊し、他のものと取り替え、要らぬものをわざわざ付加したりする事で、それを研究や進歩、成長や発展などと勘違いしがちである。
 古今東西の賢者や聖者たちは、その傲慢さを超えて人間本来の在るべき姿に目覚めることを様々な立場から説いたが、太極拳もまた、優れた先達賢者たちによって、天理自然に見る普遍の原理から人の本来の在り方が詳しく観照され、人間の精神性と身体機能が本来在るべき姿として宇宙自然の理と調和することによってこそ、高度な武藝原理が創出されると達観されたものだと思える。

 師父は私たちを指導する際に、「何を足しなさい」とも言わないし、「何を引きなさい」と言われるわけでもない。能く能く考えてみれば、ただ「ヒトの本来在るべき姿」を見出し、その構造に還り、その本来の構造を武術として高度に磨いて用いることこそが、この道場の稽古に於いて求められていることであった。
 そして、今や内外に多くの人々が知るところとなった、師父の驚嘆すべき太極拳の功夫、その武藝=武功藝術は、すべてそのような考え方のもと、ただそれだけの事を、四十年もの永きに亘ってコツコツと根気よく求め、築き上げ、練り上げて来られたものに違いないのである。


 実は、太極武藝館には、今まで誰も語らなかった「太極拳の構造」が存在している。
 武術雑誌のバックナンバーを何十冊となく読み漁っても、神田の書店街の武術コーナーにあるほとんどすべての本を読み尽くしても、何故か、それを記したものは一冊も、一行も、唯の一言も存在しない。不思議なことに、それを仄めかすような記述さえ皆無なのである。

 しかし、武藝館で行われている全ての練功は、その「誰も語らなかった太極拳」の構造のためにこそ存在している。一般クラスの稽古で、拳学研究會で、正式弟子の厳しい訓練で、等しく行われているそれらの練功は、そのシンプルな「構造」のためにこそ、存在しているのだと思える。

 脚(ジャオ)は、その「誰も語らなかった構造」の、重要なヒントである。

 ヒール付きの靴を履いただけで、容易に失われてしまう、その構造・・・
 階段を昇降しただけで、容易に崩れてしまう、その構造・・・
 金剛搗碓で、片足を挙げただけで、消えてしまう、その構造・・・
 跌叉式で、床に座っただけで、雲隠れしてしまう、その構造・・・
 それを正しく知らぬが故に錯覚してしまう、落下や蹴りなどの拙力の構造・・・

 脚(ジャオ)は、それらを正しい構造に導いてくれる、大きなヒントであると思う。
 長々と ”甲高と扁平足” を、このブログに書き連ねた理由も、そこにあった。

 この最終稿に目を通された師父が、ポツリと、武術的に「立つこと」とは、「立つ」という言葉で表現していては分からないかもしれない・・と仰った。
「立つこと」は、「立つ」と表現するから理解できないのかもしれない、と仰るのである。
 ならば、その「立つこと」とは、いったい何を意味するのか・・?

 私にとって、それを探求する旅は、まだまだ果てしなく続いてゆく。


                                  (了)

disciples at 21:36コメント(6)歩々是道場 | *甲高と扁平足 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2009年09月25日 01:02
人間の構造とは、実に精妙に出来ているのだと驚かされ、また、正しい構造を
得るための練功の緻密さと確かさにも、驚愕…?
ええと、良い言葉が見つかりません。

とても勉強になるシリーズでした。
また次回を楽しみにしています。
 
2. Posted by とび猿   2009年09月25日 01:55
太極拳を学んでいると、「ヒトの構造」の素晴らしさ、絶妙さに驚かされます。
しかし、少なくとも現代では、その「ヒトの構造」を無視しても、生活が出来てしまいます。
そして、その「ヒトの構造」を無視しても生きていけるための工夫が、どんどん生まれているように思います。
しかし、これが人類の発展に繋がるのでしょうか・・・
私は、疑問に思います。
「甲高と偏平足」を拝読して、改めて考えされられました。
脚(ジャオ)一つ取ってみても、考え方、向かい方がハッキリと表れますね。
ありがとうございました。
 
3. Posted by まっつ   2009年09月28日 23:12
元来、人間の身体には、高度な運動表現を可能にする構造、
すなわち直立二足歩行を可能にする機能が万人に備わっており、
その普遍的な働きを窮めていけば、年齢性別、体格に関わらない、
絶対的な武術性が見えてくる・・・

「何」を稽古すれば良いかが、
はっきりしていればこそ可能な喝破ですね。

その真意を信じられるからこそ、
「立つ」「歩く」という、
あまりにも当たり前と思われる身体操作の追求に、
迷い無く、全身全霊をもって稽古する事が出来ます。

脚の構造に観る本来在るべき機能を、
稽古で指導頂く内容に照らして考えると、
「何」の意味する合理性が良く理解できます。

太極拳の教えから見られる人間の身体構造の妙は、
極めるほどに見事な相を顕わにして、芸術性までも表現してしまいます。
その教えの深さには、つくづくと驚嘆してしまいます・・・
 
4. Posted by のら   2009年09月30日 15:03
☆トヨさん
その「正しい構造」を、真正面から精密に教えてくれるところは滅多にありません。
それを教えていただけることを「当たり前」のように思わず、
それが実に稀なことであることを充分に解った上で稽古すべきなのだと、
最近特に身が引き締まるような思いがします。
 
5. Posted by のら   2009年09月30日 15:04
☆とび猿さん
師父はいつも、「普段の生活で、その軸で立てているか、歩けているか」と仰います。
稽古も大切だが、普段の生活で稽古が活かされているか、
稽古で得られた身体で生活することが出来るか、ということが問われます。

「ヒトの構造」を無視した生活は、様々なところに溢れていますが、
何よりも先ず、自分がその正しい構造に還ったかどうか、身に付けたかどうかということこそ、
武藝館の門人として厳しく問われているのだと思います。
 
6. Posted by のら   2009年09月30日 15:05
☆まっつさん
太極武藝館では、何の為に何を稽古するのか、ということが常に明確ですね。

こうであれば、こうなる。
こうなるから、こうすることができる。
こうすることによって、このようなことが起こる。
このようなことが起これば、さらに、こうなる。

ここまで「太極拳の構造」が学習体系に確立され、
さらなる発展を追求している門も、なかなか存在しないと思いますが、
斯界では、その「構造」自体に注目し、理解している人が余りにも少ないのは、
大変残念なことであると思います。
 

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