2009年08月24日

練拳 Diary #20 「腰相撲(こしずもう) その2」

 「太極拳」といえば、やはり「馬歩」である、とつくづく思います。
 なぜならば、太極拳で最初に理解されるべき「站椿」が、弓歩や独立式(片足立ち)などではなく、単純に足を肩幅に開いただけの「馬歩」から始められるからであり、他の站椿で取られる形や、そこから変化していく半馬歩、側馬歩、弓歩なども、全ては「馬歩」を基本とした同じ構造であるのだと、日頃の稽古で感じられるからです。

 また、人間がごく普通に立ったときの自然な状態を考えると、「馬歩」と同じように足が身体の左右に付いている形そのものですから、その時の身体の状態と機能を正しく認識することによって、初めてヒトが今以上に高度な身体機能を追求し、手に入れることができるのではないかと思えます。

 なぜ「腰相撲」が馬歩ではなく弓歩から始められるかと言うと、ひとつには相手に対して足を横に開いた馬歩よりも、縦に開いた弓歩で行う方が ”押されること" に対して不必要な恐怖を持たずに居られるということ、もうひとつは、物理的に弓歩より遥かに押されやすい馬歩で、押されまいとして耐えることによって架式が崩れたり、基本の要求が失われてしまうことを避けたいからです。
 馬歩で足を左右に開いて立った状態では、当然ながら前後からの力にはかなり弱いので、《武術=強靭=確固不抜=押されてはならない》という考えが頭の中に出来上がっていると「立ち方」や「架式」に対する意識は、いとも簡単に失われてしまいます。
 その点、弓歩対弓歩で、相手と対等の形で向かい合うことから始められれば、心や身体にゆとりが生まれ、押されることによる自分自身の変化と、数々の太極拳の要求の意味をその中でじっくりと紐解いて見つめて行き易いように思えます。


 さて、その馬歩での腰相撲は、普通は、一横脚(いちおうきゃく=足先から膝までの長さ)の幅に開くか、それに拳(こぶし)ひとつ分か二つ分を加えた足幅で行われます。
 丁寧に足を開いて身体を整え、慎重に腰を下ろして、馬歩の姿勢を確認します。
 この時点で注意されることは、足のつま先が外へ開かず、正しく正面を向いていることと、膝がつま先の位置より前へ出ないこと、そして身体が極端に前傾しないことなどです。

 馬歩の架式で前方から押されるような場合には、ほぼ例外なく誰もが足先を外旋して立ち、力の来る方向に対して寄り掛かって、自重を前方に落下させて、相手に大きく預けるような傾向が見られます。
 しかし、前回の「腰相撲」でも述べた通り、「勁力」は正しい架式によって生じるチカラですから、そこに相手がいなければ倒れてしまうような、寄り掛かって自分独りでは立てないような状態では、正しくチカラが生じるはずもありません。
 身体を整えていこうとするときには、そこに自分の都合を一切挟まずに、ひたすら架式への要求に意識的に向かい合い、それを正しく持続できることが求められます。


 正しく「馬歩」で立つことができたら、相手にゆっくりと腰を押してもらいます。
 押す側の架式は、前回と同様に弓歩の形を取っていますが、相手の腰が低くなった分だけ押す位置が低くなるので、押す人は前足の外側に胯(クワ)が流れないようにし、真っ直ぐ水平に力を伝えようとすることが大切です。
 押されている方は、自分で馬歩が崩れていないことを確認しますが、見た目の架式が整っていても、そこに正しいチカラが生じていなければ、ただの馬歩の格好をしたマネキン人形と変わらぬ状態になってしまい、だんだんつま先が浮き始め、膝やお尻が出てきて、最後には押されてしまいます。つまりそれは、まだ十分に立てていなかったということです。

 馬歩の腰相撲で、相手に軽く押されてしまったり、押し切られなくとも正しく返せない時には、誤った姿勢と架式が、師父や教練の手によって直接修正されていきます。
 それが修正されると、誰もが自分の取った姿勢と修正後との違いに驚きますが、その際は口々に「こんな位置ではとても立っていられない気がする」とか、「この方が簡単に押されてしまいそうだ」・・といった感想を洩らします。
 私自身も、かつて最初に姿勢を直して頂いた時には、何かとても頼りなく、これで押されたら数秒も立っていられないと思えましたが、鏡でその姿勢を確認してみると、意外にも、それほど不安定な姿勢に見えなかったことが不思議でなりませんでした。

 そして修正された後に相手の力が加わってくると、まず、押してきた力の負荷が自分の足に来ないことに驚かされます。
 相手は腕が震えるほど押して来ているのですが、強く押しているはずのその力が此方にはそれほど感じられず、それどころか、相手の力のお陰で、自分の体軸がより一層確立されてくるようにさえ思えるのです。
 このことによって、相手の押してくる力と、自分が立って受けている力は、明らかに種類の異なるものであるように思えますし、すでに「立つチカラ」が働いている自分の身体には拙力で影響を与えることは非常に困難であることが分かります。

 これが「弓歩」による腰相撲であれば、後ろ足を支えにして耐えたり、筋力で押し返すことも可能かもしれませんが、この「馬歩」の腰相撲では、どれほど体格が優れていても、すでに押されることに不利な体勢から始めているわけですから、押してくる力と同質の力で立っていれば、簡単に押されてしまうのは目に見えています。


 「馬歩」の架式が確立されてくると、押されている最中でも、その場で足を上げて四股を踏んだり、足踏みをしながら相手を飛ばし返すことも可能となります。足を動かすことができれば即ち歩法が生じているので、そのまま相手を押しながら前に歩いていくことも可能になります。
 しかし、それらの現象はすべて「馬歩」が正しく整えられた為の結果であって、それができること自体は、決してこの訓練の目的ではないと注意されます。
 これは、腰相撲に限らず、私たちが行うどのような対練の稽古であっても同じことであり、結果が目的となってしまうと、押され負けない事や、人を派手に飛ばせることばかりを求めてしまい、それらの工夫になってしまった稚拙な動きには、すでに太極拳の基本原理は存在しないからです。
 そのことを各自が正しく認識できるように、私たちの稽古に於いては、「結果ではなく、学習の過程がすべてである」と、繰り返して何度も指導されます。

 それは、腰相撲で言えば、たとえ相手に押されてしまっても良いから、「馬歩とは何か」「構造とは何か」を理解する為にこの対練を用い、それを経験することであると言えます。
 そしてその為には、必要であれば相手に押す力の強さや速さを注文してもよく、自分が最も馬歩を理解できるような状況を整えることが最も大切であり、そのようにしてようやく、稽古が成り立つわけです。
 もちろん、自分の分かりやすい力と速さだけで稽古するのではなく、時には、相手に思いきり押してもらったり、押す人数を増やしたりもします。そうすることによって自分の馬歩がどれほどのものであるかを正しく知ることが出来ますし、ただ単純に待ち受けるだけの、相手との関係性を無視した稽古になっていないかどうかを確認することも出来るわけです。

 「腰相撲」は、まさに「力」に対するイメージを、日常から非日常へと一新することができる、優れた練功であると思います。そのために何種類もの「腰相撲」が用意され、各々のスタイルで「太極拳の構造」を理解できるように、学習体系として確立されているに違いありません。

 そして、それを正しく理解するためには、架式と基本に忠実に、過程を大切にした稽古が積み重ねられることが必要であり、そこを正しく通過せずに、結果として生じる現象だけを追い求めていては、何も見えては来ないのだと思いました。

                                (了)



  【 参考写真 】

        
  
   *体重80キロ以上の男性が、小柄な女性門人を目一杯押しているところから
    返されていく様子です。押されている方は、相手への寄り掛かりが全く見られません。



        

        

   *稽古では、男性がフルパワーで向かってもなかなか年上の女性門人を押せず、
    ついには反対に飛ばし返されてしまう光景がよく見られます。



        

   *馬歩の腰相撲、多人数(4人)掛け。
    全員、声を呻らせ、顔に青筋が立つほど頑張って、真っ直ぐ前に力が伝わるように
    押しているのですが、正しく馬歩の原理を得ることが出来れば、その場で足踏みを
    したり、足腰を伸ばしてそのまま棒立ちになれる余裕さえあります。

xuanhua at 21:10コメント(8)練拳 Diary | *#11〜#20 

コメント一覧

1. Posted by tetsu   2009年08月24日 23:29
この 錬拳Diary を読んでいると、人体構造の奥深さと、身体の理に適った学習体系ができている
太極拳、それを脈々と伝えられている武藝館のすばらしさを本当に感じますね!

押されている側が写真にあるような状態では、普通は「弱い」「簡単に押されてしまう」と思われ
がちですが、正しい構造、正しい架式がとれているからこその不思議さというのでしょうか?
しかし、これは決して神秘的なものではない。
「正しい太極拳の理にあった構造」だけなのですよね。

目先の結果に囚われず、「いかに正しくあるか」ということを追求していくことこそ本物の武術の
在り方、稽古なのだと思います。
 
2. Posted by まっつ   2009年08月24日 23:59
何時も感嘆してしまいますが、
要求が余さず整備され、その働きが起こっている馬歩とは、
実に綺麗なものですね。

魚が水中を躍るように疾駆し、
鳥が空を自在に舞うような、
機能的な美しさが感じられます。

「腰相撲」の練功とは、
人の身体の機能とは何かを教えてくれる、
実に優れた窓なのだなと感心してしまいます。

・・・それにしても、
武藝館の女性陣はすげー・・・
 
3. Posted by トヨ   2009年08月25日 16:35
常連お二人に遅れまいとコメントに参上…!

>自分の都合を一切挟まずに、ひたすら架式への
>要求に意識的に向かい合い、それを正しく持続できること

これがまっこと重要なのだと、痛切に感じます。
ぼやっとしていても、また、ああしようこうしようと考えている間にも、
物事の瞬間は過ぎ去ってしまいます。

「今、ここ」にいかに在り続けるか。
稽古では毎回、そう問われているような気がして、
それがすごく面白いんですよねェ。
 
4. Posted by ほぁほーし   2009年08月25日 18:15
☆Tetsuさん

>人体構造の奥深さと、身体の理に適った学習体系・・・
それこそ、私たちが毎回の稽古で驚かされ、感動させられることですね。

物事を観る視点が異なれば、当然見えてくるものは違いますし、
ましてやそれが、自分の知らないことであれば尚のこと、
神秘的なもの、超常的なものとして映ります。
しかし、学習体系に沿ってひとつひとつ丁寧に学んでいくと、
全て科学的に明瞭に説明のつくものであるということが見えてくるように思います。

目先の結果を気にしていると、いつの間にか「原理」が見えなくなっていた、
などということもありますから、常に自分を律していくことが大切だと痛感いたします。

5. Posted by ほぁほーし   2009年08月25日 18:18
☆まっつさん

無理のない無駄のない佇まいは、全体を見ても部分を取り出して見ても、
本当に美しいものですね。
翻って自分たちの身体の使い方を省みれば、
どうしても自分の「やりたいこと」が優先されて、
本来在るべき構造が無視されているように思います。

人間としても、武術としても、進化し続けていきたいものですね。

6. Posted by ほぁほーし   2009年08月25日 18:28
☆トヨさん

>「今、ここ」にいかに在り続けるか。
そのことを意識し続けるだけで、普段自分が思っている「時間」や「空間」というものが、
それまでとは異なる視点で感じられるような気がします。

「腰相撲」ひとつを取り出してみても、「武術」というものに対するイメージや、
考え方までもを変えられるヒントが、ぎっしり詰まっているように思います。

7. Posted by bamboo   2009年08月28日 17:26
稽古でいつも見る光景とはいえ、やはりスゴイですね・・。
修正していただくと毎度のように「これでいいんですか・・?」
と思うくらい力が要らないことが証明されます。
また、課題が明確になるだけに稽古への姿勢まで浮き彫りになりますね・・^^;
それにしても改めて写真で見ると、やっぱりスゴイですね。
 
8. Posted by ほぁほーし   2009年08月31日 15:28
☆bambooさん
コメントバックが遅くなり申し訳ありません。

稽古で正しく修正してもらえることは、とても有り難いですね。
bambooさんのように、自分自身の身体で証明出来るのは、
太極拳を学ぶ上で、とても貴重な経験であると思います。

私などは、稽古中に修正されることが、自分の考え方や生き方についてまでも、
修正するヒントを頂いているような気がして、とてもありがたいです。
「ああ、こんなにも緊張して、力が入っていたのか」・・と。

写真は、確かにすごいと思えます。
稽古ですと一瞬のことですし、飛んでいく人よりは飛ばしている人の構造が気になる
ものですから、なかなか写真の構図のようには見られないのですよね。
稽古のお役に立てて頂ければ、幸いです。

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