2009年07月03日
練拳 Diary #18 「馬歩の実験 その2」
「馬歩に対する認識を高めることと、その重要性を理解すること」
そのような目的で行われた「馬歩の実験・その2」。
その実験には、今回もイスが用いられました。
まず、ひとりがイスに深く腰掛けます。
背中は背もたれにつけずに、背筋を真っ直ぐに保ちます。
正面からパートナーに両肩に手を掛けて軽く押さえてもらい、そのように動きを阻止されている状態から、普通に立ち上がってみる、ということを行います。
実際にやってみると、いつものことながら、内容はとてもシンプルです。
武藝館では、対練などに於いても、基本的に動作の少ないものから順に行われますから、技術の詳細や精度を求めるところからではなく、まずは自分の身体の構造を正しく観られることと、心身の在り方を整えようとする意識から始められるように稽古が構成されていることが分かります。
注意するポイントは、無暗矢鱈と、ただ立ち上がることを目的としないことです。
相手より大きな力を用いれば動かすことができる・・というのは、当然の事ながら一般日常的な考え方です。そのためには、相手よりも大きな身体と強力な筋肉が必要になりますが、太極拳には、その一般日常的な法則が当てはまりません。
それは、日々の稽古で誰もが経験していることでしょう。
例えば、一般クラスに在籍する小柄な女性門人が正しい馬歩の姿勢を取れば、ボディビルで鍛え上げた肉体と、百キロを超える体重を以てしても、その女性を押したり動かしたりすることが出来なかった、という事実からも分かります。
或いはまた、通常は、修行年数の少ない門人は長年練功を積んできた人を容易に崩すことができないものですが、その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで、あっと言う間に崩すことが可能になったりします。正しい構造に勝るものは無い、という事が常に武術的に証明されていくのです。
そのように正しく構造が整えられれば、持っている力の大小や修行年数に関係なく、相手に対して非常に有効な影響力を持つことが出来るのが「馬歩」です。
馬歩とは、単に「ひとつの立ち方のカタチ」ではなく、馬歩の存在自体が、私たち太極拳修行者に何を示そうとしているのかを深く感じ取り、追求し、理解して行かなくてはなりません。陳氏太極拳に於ける「馬歩」は、それほどの価値があると思えるものです。
さて、今回の実験は、馬歩の構造さえ身に付いていればワケもなく立ち上がれるものですが、実際には、誰もが自分の居る位置より上から押さえられているという状況が不利だと考えがちです。
たとえ押さえられている力がわずかなものであっても、ひとたび「自分が不利だ」という意識が芽生えてしまうと、何としても立ち上がろうとすることが先になり、馬歩の原理などはどこへやら、身体の傾きと足の強さで立ち上がろうとする結果となります。
こちらが何が何でも立ち上がってやろうとすると、相手もまた、それならば押さえる力を強くしてやろう、という事になりがちです。そのようなことがあると、お互いに「押さえられるか」「立ち上がれるか」という力比べの練習になってしまい、いつまで経っても何かを理解するための実のある実験にはなりません。
「実験」と「試験」とでは趣旨が異なります。この場合は自分の馬歩が出来ていることを「証明」することが目的ではなく、この実験を通して「馬歩とは何か」というところを各自に発見してもらい、さらに理解を深めてもらいたいわけです。
そのためにも、まずは「馬歩による比武」ではなく「馬歩の実験」だという意識を強く持つことが必要であると思います。
また、先ほど、この実験に於いて「状況が不利」だと考えがちである、と述べましたが、実際に自分が立つ位置よりも後ろに腰掛けていて、尚かつ前の上方向から押さえられているわけですから、見た目にはもちろん不利だと言えるでしょう。
普通に考えれば、軽く押さえられていても簡単には立ち上がることは出来ない状況です。
しかし、この状況を武術的に見た場合には、押さえている人は、押さえようとするために身体が止まっており、反対に、押さえられている人はそこから自由に動くことが出来ます。
動いている方と止まっている方とで、どちらが有利かと考えれば、当然動いている方が構造的にも有利なわけです。
ゼロから徐々に時速100キロに加速するような運動では、たとえ時速300キロで走るクルマであっても、タイヤの前に小さな輪止めがしてあるだけで、全く前に進めませんが、反対に、たとえ時速20キロしか出ない車でも、その速度で動き続けていれば、それを同じ輪止めを以て止めることは非常に難しくなります。
そして、それと同じことが「馬歩」にも起こっているのです。
巧みに、軽い力で立ち上がれる人の動きを見ると、立っているところから座るまで身体がずっと動き続けていて、その動きにはほとんど支点が見られません。
そして、座りに来た動作の巻き戻しのように、ちょうどゴムチューブを伸ばしてきたものがまた戻っていくかのように、スゥーッと立ち上がっていきます。
肩を押さえている方は、手に強く当たる感覚が全く無いままに、身体ごと後ろに崩され、押さえていられなくなります。
それに比べて、なかなか立ち上がれない人の特徴は、座りに行くときには背筋を反って胸とお尻を突き出すような格好になっていることがほとんどで、座ってしまうと身体が止まって居着いてしまい、立ち上がるときになって初めて身体を使おうとする動きが見られます。
そのような場合には、部分的な入力や加速をする傾向があり、脚のつま先が浮きやすいのが特徴で、何れも身体が十分動き始める手前で相手に押さえられてしまいます。
もしこれが「実験」ではなく「稽古」であるならば、当然肩を押さえる側には更にもっと正しい構造が求められ、小さな力で押さえても相手が立ち上がれない事とは何かというところを稽古していかなければなりません。これこそ馬歩の取り合い、比べ合いであり、そうなって初めて、実質的な「稽古」が成り立ちます。
毎回の稽古で思うことですが、太極拳では、自分の置かれた状況の不利・有利ということが、日常とは全く逆転して、反対のこととして起こります。
例えば、先ほどの「上と下」という関係でも、普通は当然、両手で「上」から押さえている方が有利であると考えられますが、その両手の下側から指一本触れるだけで上方向に大きく崩してしまったり、反対に、手は相手の腕の「上側」に、触れるか触れないかの状態で置かれているのに、そこから相手を「上」に向かって崩したりすることが起こるのです。
普段の稽古では見慣れてしまっている光景でも、よく考えてみると、日常的にはそこには不思議なことがたくさん起こっているように思います。
そのようなことを目の当たりにする度に、まだまだ自分の考え方が日常に支配されていることを否応なしに感じさせられ、反省させられることしきりです。
もっと新しい発想と考え方が身に付くように、すでに教示されている太極拳の要求と基本功をきちんと見直さなければならないと強く思うものです。
今回の実験で学んだことは、本当の意味での不利・有利は、自分に降りかかってきた状況によって決定されるのではなく、どれほど自分の身体を自在に、武術的な構造を充分に使えるかどうかで決まるということです。
そして、人間には誰にでも持って生まれたヒトとしての構造があり、それを太極拳として最大限に活かすために理解されるべき最初の基本こそ、「馬歩」なのであると思えます。
(了)
【 参考写真 】

ゆったりと寛いで椅子に座ったところを前から押さえますが、結果はご覧のとおり。
立とうとした時には既に相手が高く飛ばされています。
後ろ向きに数メートルも飛翔するシーンは、見ていて誰もがハラハラします。

まずまずの成功例であると言えます。
椅子に深く座ってもこれが出来るようになれば、色々なことがハッキリしてきます。

二児の母である30代後半の女性も、かなり良い立ち方をしているので、
相手が軽く吹っ飛ばされてしまいます。

これは悪い例を演じてもらったものです。
立とうとしてもつま先が浮いてしまい、股関節を支点に上体を倒しているため、
相手も後ろの下に向かって押される力を感じます。

こちらは力ずくで、何とか立ち上がろうと試みてもらったものです。
軽い力で押さえていても真上にしか立ち上がることが出来ず、跳ね返されてしまいます。

相手の手の上に、掌を軽く触れている状態から、そのまま更に上に崩したものです。
2枚目の写真は手が離れた瞬間ですが、膝の屈伸などの予備動作が一切ないまま、
踵が浮き始めていることが判ります。3枚目の写真は、その直後、急激に身体が
浮かされ、ボールが弾むように足が引き上げられています。
そのような目的で行われた「馬歩の実験・その2」。
その実験には、今回もイスが用いられました。
まず、ひとりがイスに深く腰掛けます。
背中は背もたれにつけずに、背筋を真っ直ぐに保ちます。
正面からパートナーに両肩に手を掛けて軽く押さえてもらい、そのように動きを阻止されている状態から、普通に立ち上がってみる、ということを行います。
実際にやってみると、いつものことながら、内容はとてもシンプルです。
武藝館では、対練などに於いても、基本的に動作の少ないものから順に行われますから、技術の詳細や精度を求めるところからではなく、まずは自分の身体の構造を正しく観られることと、心身の在り方を整えようとする意識から始められるように稽古が構成されていることが分かります。
注意するポイントは、無暗矢鱈と、ただ立ち上がることを目的としないことです。
相手より大きな力を用いれば動かすことができる・・というのは、当然の事ながら一般日常的な考え方です。そのためには、相手よりも大きな身体と強力な筋肉が必要になりますが、太極拳には、その一般日常的な法則が当てはまりません。
それは、日々の稽古で誰もが経験していることでしょう。
例えば、一般クラスに在籍する小柄な女性門人が正しい馬歩の姿勢を取れば、ボディビルで鍛え上げた肉体と、百キロを超える体重を以てしても、その女性を押したり動かしたりすることが出来なかった、という事実からも分かります。
或いはまた、通常は、修行年数の少ない門人は長年練功を積んできた人を容易に崩すことができないものですが、その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで、あっと言う間に崩すことが可能になったりします。正しい構造に勝るものは無い、という事が常に武術的に証明されていくのです。
そのように正しく構造が整えられれば、持っている力の大小や修行年数に関係なく、相手に対して非常に有効な影響力を持つことが出来るのが「馬歩」です。
馬歩とは、単に「ひとつの立ち方のカタチ」ではなく、馬歩の存在自体が、私たち太極拳修行者に何を示そうとしているのかを深く感じ取り、追求し、理解して行かなくてはなりません。陳氏太極拳に於ける「馬歩」は、それほどの価値があると思えるものです。
さて、今回の実験は、馬歩の構造さえ身に付いていればワケもなく立ち上がれるものですが、実際には、誰もが自分の居る位置より上から押さえられているという状況が不利だと考えがちです。
たとえ押さえられている力がわずかなものであっても、ひとたび「自分が不利だ」という意識が芽生えてしまうと、何としても立ち上がろうとすることが先になり、馬歩の原理などはどこへやら、身体の傾きと足の強さで立ち上がろうとする結果となります。
こちらが何が何でも立ち上がってやろうとすると、相手もまた、それならば押さえる力を強くしてやろう、という事になりがちです。そのようなことがあると、お互いに「押さえられるか」「立ち上がれるか」という力比べの練習になってしまい、いつまで経っても何かを理解するための実のある実験にはなりません。
「実験」と「試験」とでは趣旨が異なります。この場合は自分の馬歩が出来ていることを「証明」することが目的ではなく、この実験を通して「馬歩とは何か」というところを各自に発見してもらい、さらに理解を深めてもらいたいわけです。
そのためにも、まずは「馬歩による比武」ではなく「馬歩の実験」だという意識を強く持つことが必要であると思います。
また、先ほど、この実験に於いて「状況が不利」だと考えがちである、と述べましたが、実際に自分が立つ位置よりも後ろに腰掛けていて、尚かつ前の上方向から押さえられているわけですから、見た目にはもちろん不利だと言えるでしょう。
普通に考えれば、軽く押さえられていても簡単には立ち上がることは出来ない状況です。
しかし、この状況を武術的に見た場合には、押さえている人は、押さえようとするために身体が止まっており、反対に、押さえられている人はそこから自由に動くことが出来ます。
動いている方と止まっている方とで、どちらが有利かと考えれば、当然動いている方が構造的にも有利なわけです。
ゼロから徐々に時速100キロに加速するような運動では、たとえ時速300キロで走るクルマであっても、タイヤの前に小さな輪止めがしてあるだけで、全く前に進めませんが、反対に、たとえ時速20キロしか出ない車でも、その速度で動き続けていれば、それを同じ輪止めを以て止めることは非常に難しくなります。
そして、それと同じことが「馬歩」にも起こっているのです。
巧みに、軽い力で立ち上がれる人の動きを見ると、立っているところから座るまで身体がずっと動き続けていて、その動きにはほとんど支点が見られません。
そして、座りに来た動作の巻き戻しのように、ちょうどゴムチューブを伸ばしてきたものがまた戻っていくかのように、スゥーッと立ち上がっていきます。
肩を押さえている方は、手に強く当たる感覚が全く無いままに、身体ごと後ろに崩され、押さえていられなくなります。
それに比べて、なかなか立ち上がれない人の特徴は、座りに行くときには背筋を反って胸とお尻を突き出すような格好になっていることがほとんどで、座ってしまうと身体が止まって居着いてしまい、立ち上がるときになって初めて身体を使おうとする動きが見られます。
そのような場合には、部分的な入力や加速をする傾向があり、脚のつま先が浮きやすいのが特徴で、何れも身体が十分動き始める手前で相手に押さえられてしまいます。
もしこれが「実験」ではなく「稽古」であるならば、当然肩を押さえる側には更にもっと正しい構造が求められ、小さな力で押さえても相手が立ち上がれない事とは何かというところを稽古していかなければなりません。これこそ馬歩の取り合い、比べ合いであり、そうなって初めて、実質的な「稽古」が成り立ちます。
毎回の稽古で思うことですが、太極拳では、自分の置かれた状況の不利・有利ということが、日常とは全く逆転して、反対のこととして起こります。
例えば、先ほどの「上と下」という関係でも、普通は当然、両手で「上」から押さえている方が有利であると考えられますが、その両手の下側から指一本触れるだけで上方向に大きく崩してしまったり、反対に、手は相手の腕の「上側」に、触れるか触れないかの状態で置かれているのに、そこから相手を「上」に向かって崩したりすることが起こるのです。
普段の稽古では見慣れてしまっている光景でも、よく考えてみると、日常的にはそこには不思議なことがたくさん起こっているように思います。
そのようなことを目の当たりにする度に、まだまだ自分の考え方が日常に支配されていることを否応なしに感じさせられ、反省させられることしきりです。
もっと新しい発想と考え方が身に付くように、すでに教示されている太極拳の要求と基本功をきちんと見直さなければならないと強く思うものです。
今回の実験で学んだことは、本当の意味での不利・有利は、自分に降りかかってきた状況によって決定されるのではなく、どれほど自分の身体を自在に、武術的な構造を充分に使えるかどうかで決まるということです。
そして、人間には誰にでも持って生まれたヒトとしての構造があり、それを太極拳として最大限に活かすために理解されるべき最初の基本こそ、「馬歩」なのであると思えます。
(了)
【 参考写真 】

ゆったりと寛いで椅子に座ったところを前から押さえますが、結果はご覧のとおり。
立とうとした時には既に相手が高く飛ばされています。
後ろ向きに数メートルも飛翔するシーンは、見ていて誰もがハラハラします。

まずまずの成功例であると言えます。
椅子に深く座ってもこれが出来るようになれば、色々なことがハッキリしてきます。

二児の母である30代後半の女性も、かなり良い立ち方をしているので、
相手が軽く吹っ飛ばされてしまいます。

これは悪い例を演じてもらったものです。
立とうとしてもつま先が浮いてしまい、股関節を支点に上体を倒しているため、
相手も後ろの下に向かって押される力を感じます。

こちらは力ずくで、何とか立ち上がろうと試みてもらったものです。
軽い力で押さえていても真上にしか立ち上がることが出来ず、跳ね返されてしまいます。

相手の手の上に、掌を軽く触れている状態から、そのまま更に上に崩したものです。
2枚目の写真は手が離れた瞬間ですが、膝の屈伸などの予備動作が一切ないまま、
踵が浮き始めていることが判ります。3枚目の写真は、その直後、急激に身体が
浮かされ、ボールが弾むように足が引き上げられています。
コメント一覧
1. Posted by 猫だニャン 2009年07月03日 04:43

>膝の屈伸などの予備動作が一切ないまま、踵が浮き始め
その時既に老師は、どこまで浮くかを見極めて…じゃなくて、
どこまで浮かせるかを決め終えていらっしゃるようですね。
右手で安全な一方向にコントロールされていますが、
これにもう一つ別のベクトルを加えられたら…ゾっとしますね。
…おや、部屋の隅に赤いミニトランポリンが…
ΛΛ
(゚∀゚メ)
(づと)
UU〜
||||
《__》
” “
2. Posted by タイ爺 2009年07月03日 08:54
起き上がり腹筋と同じなんでしょうね、これは。
>その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで・・・・
これと同じ様な話を以前にいた会で
「五層の功夫はその人の状態で一層にもなるし五層にもなれる、すべては最初からあるんです」
と説明されたことがあります。
それにしても最後の画像ったら・・・
>その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで・・・・
これと同じ様な話を以前にいた会で
「五層の功夫はその人の状態で一層にもなるし五層にもなれる、すべては最初からあるんです」
と説明されたことがあります。
それにしても最後の画像ったら・・・
3. Posted by トヨ 2009年07月04日 01:45
おかしな道場ですよね…。
派手にぶっ飛んでるほうじゃなくて、大人しく失敗してる
写真がヤラセなんですから。
それもこれも全て、馬歩を練り、非日常的な構造を得ようと
しているからなのですよね。
そりゃ、人生も変わってしまうというものです。
派手にぶっ飛んでるほうじゃなくて、大人しく失敗してる
写真がヤラセなんですから。
それもこれも全て、馬歩を練り、非日常的な構造を得ようと
しているからなのですよね。
そりゃ、人生も変わってしまうというものです。
4. Posted by ほぁほーし 2009年07月04日 04:42
☆猫先生
今回掲載した写真の、特に師父が示範されているものは、
実際には、その写真の位置から更に高く崩されていきます。
カメラの連写のタイミングで、それが撮れなかったようですが、
目の前で見ている私たちは、背面跳びのような崩され方に、
本当にハラハラさせられたものです。
師父は私たちが安全に受け身を取れるように加減してくださるのですが、
もしも手加減無しで動かれたらと考えると、何やら恐ろしい気がします。
>赤いミニトランポリン
床の上では分かりにくいことを確認するために、
様々な工夫をしながら使用しています。
使い道はいろいろとあって、なかなか面白いです。
今回掲載した写真の、特に師父が示範されているものは、
実際には、その写真の位置から更に高く崩されていきます。
カメラの連写のタイミングで、それが撮れなかったようですが、
目の前で見ている私たちは、背面跳びのような崩され方に、
本当にハラハラさせられたものです。
師父は私たちが安全に受け身を取れるように加減してくださるのですが、
もしも手加減無しで動かれたらと考えると、何やら恐ろしい気がします。
>赤いミニトランポリン
床の上では分かりにくいことを確認するために、
様々な工夫をしながら使用しています。
使い道はいろいろとあって、なかなか面白いです。
5. Posted by ほぁほーし 2009年07月04日 04:44
☆タイ爺さん
起き上がり腹筋では、床に背中を着けたときに身体が動きにくく、
今回の実験でも、椅子に座ったときに身体が居着きやすいですから、
馬歩では「居着けない身体」を勉強させられているような気がします。
私たちも常日頃から、
「何か新しいことを順に積み重ねていくのではなく、
たったひとつのことを、深く掘り下げていくのだ」
と、言われております。
そしてその「ひとつ」とは、初心者でも上級者でも、
何も変わらないことなのだと思います。
>最後の画像・・
これはもう、本当に、自分の常識がひっくり返るのに十分な出来事でした。
人の重さやチカラというものを考え直す、よい機会だったと思います。
起き上がり腹筋では、床に背中を着けたときに身体が動きにくく、
今回の実験でも、椅子に座ったときに身体が居着きやすいですから、
馬歩では「居着けない身体」を勉強させられているような気がします。
私たちも常日頃から、
「何か新しいことを順に積み重ねていくのではなく、
たったひとつのことを、深く掘り下げていくのだ」
と、言われております。
そしてその「ひとつ」とは、初心者でも上級者でも、
何も変わらないことなのだと思います。
>最後の画像・・
これはもう、本当に、自分の常識がひっくり返るのに十分な出来事でした。
人の重さやチカラというものを考え直す、よい機会だったと思います。
6. Posted by ほぁほーし 2009年07月04日 04:46
☆トヨさん
「稽古」が正しく行われてさえいれば、
たとえ下手でも、動けなくても、それは”間違い”にはならないので、
稽古にならなかった例を、わざわざ演じてもらう必要が出てくるのですよね。
馬歩ひとつを見ても、自分の都合や考え方は一切通用しないわけですから、
見方によっては新しい自分になるとも言えるかもしれません。
そうなると、人生も変わってくるでしょうね。
「稽古」が正しく行われてさえいれば、
たとえ下手でも、動けなくても、それは”間違い”にはならないので、
稽古にならなかった例を、わざわざ演じてもらう必要が出てくるのですよね。
馬歩ひとつを見ても、自分の都合や考え方は一切通用しないわけですから、
見方によっては新しい自分になるとも言えるかもしれません。
そうなると、人生も変わってくるでしょうね。
7. Posted by のら 2009年07月04日 15:12
一番最後の写真は、いわゆる「拍皮球」というものですね。
しかも、それを門人たちに分かりやすく示範されたものだと思います。
『太極拳理論の要諦・銭育才著』という本に拍皮球の話が出てきますが、
師父が上から被せた手を、ちょっと下へ触れて離すだけでピョーンと飛び上がる様子は、
まるで本当にボールを弾ませているように見えました。
すごいと思うのは、下から持ち上げたのではなく、そのような作用が起こることと、
その後も相手がボールのように、ポーン、ポーン、ポーン・・と、
いつまでも弾み続けて止まらないことです。
いったい、ただそれだけの動作で、人間にそれほどの作用が起こるのか・・
不思議で仕方がありませんが、少なくとも私たちはその不思議さを毎回の稽古で
目の前で見せつけられ、実際に体験させられるので、納得するしかありません。
しかし、それもこれも、すべては陳氏太極拳の”核”であるところの「馬歩」を
理解することに係っている事なのだと思うと、站椿のひとつ、柔功のひとつひとつ、
套路の一動一着を決して疎かにするわけにはいきません。
昨日の稽古も、套路の稽古は「金剛搗碓」ただひとつだけでした。
ただそれだけで、居合わせた17名全員が2時間25分の濃密な稽古を過ごせたことは、
その原理構造を理解していくことの喜びにも増して、それほどに深い道を、そのように、
誰もが求めて行けることを実感できる悦びがありました。
この「練拳ダイアリー」を、ご自分の「学習」に役立てているという知らせが、
事務局には、実に多くの、様々な立場の人たちから寄せられ続けています。
嬉しいような、怖いような・・・・(笑)
しかも、それを門人たちに分かりやすく示範されたものだと思います。
『太極拳理論の要諦・銭育才著』という本に拍皮球の話が出てきますが、
師父が上から被せた手を、ちょっと下へ触れて離すだけでピョーンと飛び上がる様子は、
まるで本当にボールを弾ませているように見えました。
すごいと思うのは、下から持ち上げたのではなく、そのような作用が起こることと、
その後も相手がボールのように、ポーン、ポーン、ポーン・・と、
いつまでも弾み続けて止まらないことです。
いったい、ただそれだけの動作で、人間にそれほどの作用が起こるのか・・
不思議で仕方がありませんが、少なくとも私たちはその不思議さを毎回の稽古で
目の前で見せつけられ、実際に体験させられるので、納得するしかありません。
しかし、それもこれも、すべては陳氏太極拳の”核”であるところの「馬歩」を
理解することに係っている事なのだと思うと、站椿のひとつ、柔功のひとつひとつ、
套路の一動一着を決して疎かにするわけにはいきません。
昨日の稽古も、套路の稽古は「金剛搗碓」ただひとつだけでした。
ただそれだけで、居合わせた17名全員が2時間25分の濃密な稽古を過ごせたことは、
その原理構造を理解していくことの喜びにも増して、それほどに深い道を、そのように、
誰もが求めて行けることを実感できる悦びがありました。
この「練拳ダイアリー」を、ご自分の「学習」に役立てているという知らせが、
事務局には、実に多くの、様々な立場の人たちから寄せられ続けています。
嬉しいような、怖いような・・・・(笑)
8. Posted by tetsu 2009年07月04日 23:46
>その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで、
>あっと言う間に崩すことが可能・・・
これは自分も稽古に参加させていただき実際に体験していることです。
いかに構造を正しくとるか、理解しているかがとてもよくわかる実験だと思います。
それにしても最初の連続写真に写っている門人の○○さん・・・
師父に飛ばされて無事だったでしょうか・・・?
>あっと言う間に崩すことが可能・・・
これは自分も稽古に参加させていただき実際に体験していることです。
いかに構造を正しくとるか、理解しているかがとてもよくわかる実験だと思います。
それにしても最初の連続写真に写っている門人の○○さん・・・
師父に飛ばされて無事だったでしょうか・・・?
9. Posted by まっつ 2009年07月05日 13:02
>正しく構造が整えられれば、持っている力の大小や修行年数に関係なく、
相手に対して非常に有効な影響力を持つことが出来るのが「馬歩」です。
簡にして明。
太極拳の求める力とは何かが、垣間見られるフレーズですね。
計測器により測定可能な力の多寡、
筋力、膂力、破壊力の類ではなく、影響力があれば良いとは、
武術の在るべき姿を考えれば、至極真っ当な話ですよね。
往時には、触れれば身を裂き、骨を断つ利器をもって、
戦場を往来していたのですから、
相手に影響できて、相手の影響を受けずに済めば、
それだけで難を逃れて、五体無事に生還できる可能性が高まります。
「馬歩の構造」にその影響力が秘められているのだと、
直球で喝破されているのですから、話は簡単かと思えば然に非ず、
シンプルなのに、日常的な心身では真似る事も覚束無い・・・
だからこそ修行になるし、謎解きの面白さもある。
師父、ほぁ様の馬歩に至っては、審美に適う芸術性も備えている・・・
粗大な自らの身体を「馬歩の構造」という芸術作品に向かって、
彫り上げ、磨き上げると思えば、少しは非日常に開かれるかな?
・・・と思う。今日この頃です。
相手に対して非常に有効な影響力を持つことが出来るのが「馬歩」です。
簡にして明。
太極拳の求める力とは何かが、垣間見られるフレーズですね。
計測器により測定可能な力の多寡、
筋力、膂力、破壊力の類ではなく、影響力があれば良いとは、
武術の在るべき姿を考えれば、至極真っ当な話ですよね。
往時には、触れれば身を裂き、骨を断つ利器をもって、
戦場を往来していたのですから、
相手に影響できて、相手の影響を受けずに済めば、
それだけで難を逃れて、五体無事に生還できる可能性が高まります。
「馬歩の構造」にその影響力が秘められているのだと、
直球で喝破されているのですから、話は簡単かと思えば然に非ず、
シンプルなのに、日常的な心身では真似る事も覚束無い・・・
だからこそ修行になるし、謎解きの面白さもある。
師父、ほぁ様の馬歩に至っては、審美に適う芸術性も備えている・・・
粗大な自らの身体を「馬歩の構造」という芸術作品に向かって、
彫り上げ、磨き上げると思えば、少しは非日常に開かれるかな?
・・・と思う。今日この頃です。
10. Posted by ほぁほーし 2009年07月06日 19:53
☆のらさん
稽古中には、人がボールみたい弾んだり、羽織を放るように投げられたり、
石像のように動けなくなってしまったりと、不思議なことが多いですね。(笑)
しかし、それを直に体験させていただくことで、
そのときの感覚が套路を練っていくときの指標にもなり、
柔功や馬歩に目覚めるきっかけにもなりますから、真にありがたいことです。
ここで行われている稽古の本質をお伝えするのは本当に難しいのですが、
事務局に寄せられる皆さまの声を励みに、精進したいと思います。
稽古中には、人がボールみたい弾んだり、羽織を放るように投げられたり、
石像のように動けなくなってしまったりと、不思議なことが多いですね。(笑)
しかし、それを直に体験させていただくことで、
そのときの感覚が套路を練っていくときの指標にもなり、
柔功や馬歩に目覚めるきっかけにもなりますから、真にありがたいことです。
ここで行われている稽古の本質をお伝えするのは本当に難しいのですが、
事務局に寄せられる皆さまの声を励みに、精進したいと思います。
11. Posted by ほぁほーし 2009年07月06日 19:55
☆Tetsuさん
歩法や套路で、まだその形や動きを取れていない人でも、
修正されると見事にその姿勢や立ち姿が変わりますね。
しかし、それは当然一時的な体験ですから、
実際に馬歩を自分のものにしていくためにも、
今回のような実験は、とても役に立つと思います。
>最初の連続写真に写っている・・・
かなり際どかったのですが、大丈夫です。無事でした。
もしもあれが天井に着いている非常灯の下だったら、
ちょっと危なかったと思います。(^^;)
歩法や套路で、まだその形や動きを取れていない人でも、
修正されると見事にその姿勢や立ち姿が変わりますね。
しかし、それは当然一時的な体験ですから、
実際に馬歩を自分のものにしていくためにも、
今回のような実験は、とても役に立つと思います。
>最初の連続写真に写っている・・・
かなり際どかったのですが、大丈夫です。無事でした。
もしもあれが天井に着いている非常灯の下だったら、
ちょっと危なかったと思います。(^^;)
12. Posted by ほぁほーし 2009年07月06日 19:56
☆まっつさん
自分の馬歩などはまだまだですが、「馬歩」そのものはとても美しいと感じます。
とても強固に見えるような馬歩であれば、同時に脆さも存在するように思いますが、
見た目に整っていて、バランスがよく、偏りや強弱を感じさせないその姿は、
どこか神々しさまで感じられ、とてもそこに向かって突きや蹴りを出す気になれません。
まさに馬歩は武功の藝術であると言えますね。
自分の馬歩などはまだまだですが、「馬歩」そのものはとても美しいと感じます。
とても強固に見えるような馬歩であれば、同時に脆さも存在するように思いますが、
見た目に整っていて、バランスがよく、偏りや強弱を感じさせないその姿は、
どこか神々しさまで感じられ、とてもそこに向かって突きや蹴りを出す気になれません。
まさに馬歩は武功の藝術であると言えますね。
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