2009年06月12日

歩々是道場 「甲高と扁平足 その2」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)


 「扁平足」とは、外反母趾や内反小趾、開帳足などと同じく、脚(ジャオ)の骨格の歪みや崩れに起因するものであり、見た目にどれほど扁平足でも全く骨格が崩れていない場合もあれば、反対にどれほど甲高に見えても、実はひどく構造が崩れてしまっている場合もあり、骨格の崩れや歪みの特徴を詳しく観察すれば、それをチェックすることができる・・・ということが、これまでに分かった。

 太極武藝館に入門してくる人の中には、前述のSさんのように空手の訓練によってそうなってしまった人ばかりではなく、ごく普通の生活の中で「真性扁平足」になっている人も何人か見られた。
 ところが不思議なことに、その人たちはほぼ例外なく、ここでの稽古の量が積み重なるにつれて、徐々に扁平足ではなくなってきて、入門前よりもアーチが深くなり、足の甲が高くなってくる現象が見られる。
 また、扁平足でない人も、きちんと稽古に通ってきて、基本功から套路、対練に至るまでを欠かさずに熟(こな)していさえいれば、いつの間にかもっと足の甲が高く見えるようになり、靴の横幅が普通より広かった人も、徐々にサイズが普通に戻ってくるのだから、何とも不思議なものである。
 しかし、それらの反対のケースは今のところ一人も見当たらない。稽古によって脚の構造が崩れた人は武藝館に居ない、ということになる。
 一般門人は多くても週に三回、計12時間の稽古であるからそれほど問題にならないとしても、毎週末、金土日の三日間で合計24時間以上の稽古をこなす研究會のメンバーは、脚に掛かる負荷も並々ならぬものだと想像できる。しかし入門して10年、15年になる古参の門人でも、脚(ジャオ)の構造が崩れてしまったような人は一人も居ない。


 扁平足や、同じ原因から生じる外反母趾に悩んでいる人は多い。サラリーマンが10人居れば、扁平足や外反母趾の人が必ず2〜3人は居る、と云うのだから驚かされる。
 それは、あの水虫にも匹敵するような数であり、水虫は高温多湿のこの国で一日中西洋式の革靴を履いて過ごしているのだから仕方がないとしても、何もわざわざ扁平足になる必要はないのに、とも思える。

 その扁平足には、水虫よりもはるかに効果的な治療法があるという。多くの医師が口を揃えて勧める、扁平足や外反母趾を改善する、極めて有効な治療法があると聞いて、私もたいへん興味を持った。
 その最も効果的な治療法とは・・・何と、【裸足で土の上を歩くこと】であった。
 その後には、どこの家庭にもありそうな「青竹踏み」や「アーチのついた靴のインソールを使う」ことなどが並ぶのだそうだ。
 青竹踏みや特製インソールはともかく、治療法のトップが裸足で土の上を歩くことであるという事にはちょっと驚かされた。もはや現代人は裸足で土の上を歩く機会など殆ど皆無に近い。それは今の時代にはとても贅沢なことなのかもしれないが、よく考えてみると、靴を履いて生まれてくる人は居ないので、それは人間が立つことや二足歩行の”原点”であるとも言える。

 また、それを聞いて・・・かつて或る医師が、僻地の山村に居住する六十歳以上の老人たちと、都会に住む同年齢の老人たちの足裏の重心を比較測定の実験をした、という話を何かで読んだことを思い出した。
 その結果は、「山村組」の足裏の重心は、ほとんどの人が足指の付け根や指の腹に寄ったところあり、もう一方の「都会組」は踵(かかと)に近い人がほとんどで、重心が掛かるゾーンも、山村組が小さく狭いことに比べて、都会組はかなり広範囲に亘ったと記憶する。 
 また、山村組に扁平足や外反母趾がほとんど見られないのに対し、都会組にはそれらの症状は多く、脚の太さや大きさ、骨自体の強度も比べものにならないというものであった。

 ・・そんなことに想いを巡らせているうちに、ふと、アフリカの大地を文字通り裸足で歩いて生活している原住民の ”足裏重心” を測定したらどうなるのだろうか、などと考えた。
 扁平足の治療法のトップが「裸足で歩くこと」だというのは、とても意味深長である。
 何故かというと、アフリカの原住民は未だに多くの人が裸足で生活しており、中には白人から貰った皮靴や赤いハイヒールなんぞを大事そうに履いている人も居るが、やはり大多数は慣れた裸足の方が都合が良いらしく、あまり履物を履きたがらないからである。
 しかし、何故あのような荒野、原野、サバンナで、裸足の方が都合が良いのか・・?

 私が実際にアフリカの砂漠地帯で見かけた人たちは、遠くの水源から住居に生活用水を運ぶために、早朝から裸足のままで頭上に重い水瓶を載せて歩いていた。
 自分の身体の半分もある大きな水瓶を、まだ小学校低学年くらいの子供がいとも簡単そうに頭の上にヒョイと載せ、笑顔さえ浮かべながら、舗装も平地でもない、尖ってゴツゴツした石ころだらけの荒野を、裸足のままで30分も歩いていく。そして、帰路にはたっぷりと水を満たして、自分の体重ほどもありそうな、30kgにもなる重い水瓶を頭に載せて家まで帰ってくる姿が見られるのである。
 ・・・私には、とてもそんな真似は出来そうにない。いや、たとえ頭上の水瓶なしでも、あんな荒地を素足で30分も歩いたら、足の裏が傷だらけになってしまうだろうし、それ以前に、ただの数十歩程度でさえ、足が痛くて歩けなくなるかも知れないと思える。
 では、彼らの足裏の皮膚は物凄く厚く、ゾウのように硬く強靭に出来ているのか・・というと、さにあらず。小学生位の子供の足などは、信じられぬほど柔らかいのだ!!

 マサイ族の歩き方も、とても興味深かった。
 彼らはあれほどジャンプできるにも拘わらず、スネが細く、モモが細く、また飛び上がる際にはあまり膝を曲げないのに、まるで足許に小型トランポリンでもあるが如く、信じられぬほど高くジャンプ出来ることがとても印象的だった。
 扁平足や外反母趾の人など、マサイには唯の一人も居ないのではないかと思える。
 少なくとも私の見る限り、ペッタンペッタンと歩く人はマサイには居なかったし、足指が変に曲がっている人なども、ついぞ見かけなかった。もし彼らに問えば、扁平足とは何ぞやと、反対に問い返されるかも知れない。
 考えてみれば、たとえ脚(ジャオ)ひとつをとっても、人間本来のあるべき構造が崩れてしまっていては、いつ猛獣が襲ってくるかも知れぬ原野で十全に活動することは不可能だと思える。

 その時には、キリマンジャロに登った。アフリカ最高峰といわれるだけあって、やたらと高い。何しろ標高 5,895 メートル、富士山の上に、さらに北海道の大雪山を載っけたほどの高さがある。
 キリマンジャロは、ずっと以前から登りたかった山だ。
 ヘミングウェイの小説にある、西の頂きに横たわっている、ひからびて凍てついた一頭の豹の屍を見たかった・・というワケでもないが、遠くから観たあの山の端整な姿がどうしても忘れられなかった。
 キリマンジャロは登り易い、などと言う人もいるが、麓から山頂までは最短でも4泊5日かかり、毎月必ず数名の死者が出て、シェルパでさえよく登山中に死亡するのだから、決して楽で甘い登山ではない。
 空気の濃さは普段の約2分の1(富士山頂だと約3分の2)、要するに目一杯空気を吸い込んでもその中の酸素量は下界の半分しかない。これは人間が空気の薄さに順応できる限界高度なので極端に呼吸が乱れ、なだらかな登り坂なのに、僅か数メートルを歩くのに10分も時間が掛かってしまう。
 私もとてもきつかったが、シェルパが荷物を運んでくれているのだから、我が身ひとつ位はせめて登頂できなければ恥だと思い、大和撫子の意気を示さんと最高峰まで辿り着いた。
 三浦雄一郎氏の次男の豪太さんなどは、何と11歳でキリマン登頂を果たしたと言うから、やはり血は争えないもんです。

 さて、近ごろは携帯電話まで持っているらしいが、私が登った時には、シェルパたちは廃品タイヤで造った粗末なサンダルや、底に穴の空きそうなペラペラのデッキシューズなんぞを履いたまま、私のザック以外にも、水や食料、燃料など、山のような荷物を担いで登ってくれた。
 そんな履物で大丈夫なのかと心配で訊くと、反対にそんなゴツイ皮靴で大丈夫なのか?ヌガイエ・ヌガイ(マサイ語で”神の家”=キリマンジャロのこと)への道はキツイぞぉ〜、と言って笑う。
 シェルパは40kgくらいのリュックを軽そうにヒョイと背に担ぐ。それだけでもスゴイ!と思うのだが、更にもうひとつ、同じ40kgぐらいのリュックを更に頭の上に載せ、手には水の入ったポリタンクを提げて、悠々と歩き始める。
 彼らが運ぶ荷物は合計70〜100kgにもなる・・それを運んで六千メートル近くまで登るのだ。私はもう、唖然、呆然、心中騒然となった。

 その細身で長身の、私の腕の太さ位しかない足のスネで歩いているシェルパが何故そんなことが出来るのか、何故それでキリマンジャロのテッペンまで行けるのか、不思議でならなかった。それも、粗末でペラペラの100円サンダルなんぞを履いて、である。
 見た目の体格なら、腕や足は彼らよりもよっぽど太くて頑丈そうな私は、その同じ重量の荷物を、平地で担いでさえも、果たして何キロ歩けるのだろうか、と真剣に悩んだものであった。

 ちょうどその頃の私は、好きな登山に明け暮れた結果、左足のカカトにばかりひどいタコが出来てしまって、薬を塗ろうがナイフで削ろうが何をやっても治らず、もしかすると自分の歩き方が間違っているのかも知れないと思い、「ヒトの正しい歩き方」や「ヒトのあるべき構造」に興味を持つようになっていた。だから、何処へ行ってもその土地の人間の歩き方を観察してやろうと、目を皿のようにして必死で見ていたのである。

 そこの原住民の歩行の特徴は、先述の日本の「山村組」のお年寄りと同じく、決して踵を重く潰さずに歩いていたことを思い出す。少なくともその集落では、踵に充分に重さを落としてから、更にその重さを脚の骨にグンと載せて任せるような重厚な歩き方をしている人など、ただの一人も居なかったように記憶する。
 しかし、かと言って踵を地に着けていないわけではない。よく見ると、踵がきちんと着いていながらも、そこに体重がことさら重く掛かるようには使われていないのだ。
 もしそんな使われ方をしていたとしたら、彼らの土踏まずは扁平足のように潰れて、多くの人は外反母趾だったかも知れないし、みんな靴やサンダルを好んでいたかも知れない。
 だいたい、あのようなゴツゴツした石ころだらけの荒地を裸足で歩くのに、いちいち踵を重く踏みつけ、それが足底筋の発達だろうが何だろうが、土踏まずが地面に着くオマケまであったなら、たとえゾウやサイのような頑丈な足裏を持っていたとしても、歩きにくいコトこの上ないはずである。

 それに比べて、当時最新流行の近代的な分厚い登山靴やトレッキングシューズを履いた私の歩き方は踵(かかと)にズシリと重く、先述の空手出身のSさんのように脚(ジャオ)の本来あるべき構造を踏み潰すような歩き方になっていて、御多分に洩れず、「外反母趾」であった。つまり、母趾の指自体がグルリと回転して、指の腹が小趾側を向き、爪の内側が下を向き、ちょいと母趾の関節が外に出っ張り始めていたのだ。

 そして、そのように歪み崩れた脚の構造が災いした故であろうか、何とかキリマンジャロの山頂を極めたものの、下山してくる際に岩に躓(つまづ)いて足の生ヅメを剥ぐという、恥ずべきアクシデントまで起こした始末であった。

                                (つづく)




    



    



        



    



        



    


disciples at 18:45コメント(8)歩々是道場 | *甲高と扁平足 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2009年06月13日 01:05
とても良い写真ですね!
余計なものの混ざらない、本来あるべき人間の姿が写っているように感じます。

先日、新しいものを買おうかと靴屋に行ったのですが、どれもこれも、
靴の中にクッションやら足底がどうだこうだと、至れり尽くせりな機能が満載でしたよ。

人間が本来持つ機能を殺してしまうようなものを作ること、
果たしてそれが本当に人間の進歩なのか、疑問に思います。

2. Posted by とび猿   2009年06月13日 02:42
太極拳を学ぶようになってから、いつも、
「人間とは、なんと精巧にできているのだろう。存在していること自体が、奇跡なのではないか」
と思います。
しかし、いつの間にか元来備わっている構造や機能を、
それぞれの都合で崩してしまっているように思います。
そのようなことが出来る余裕が、
いろいろと整備されたように見える現代社会にはあるのでしょう。

私は子供の頃から、いつも靴が同じ所から傷んできましたが、
これも、自身の構造の崩れから来ているのでしょう。
太極武藝館に入門してから、段々と脚の形が変わってきました。
それと共に、靴も長持ちするようになってきましたが、まだまだ人間の脚には、程遠いようです。
もっともっと意識的にならなければならないですね。
  
3. Posted by tetsu   2009年06月13日 18:41
この文面の内容と写真に驚愕し感嘆させられました。
以前から薄々とは感じていましたが
「文明の利器とは逆に人本来の身体を退化させているのではないか?」
ということがわかるような気がします。

「重いものを持ち上げる」「高くジャンプする」ということを現代的なな思考で捉えると、
きっと「どこどこの筋力を強化する」となってしまうのでしょうが、
人本来の持っているチカラというのは単なる部位だけの問題ではなく、
「いかに無理のない構造をとっているか」だと思います。

武藝館での稽古では常に「構造」というものが重視されます。
将に人体の理に合った無理のない姿勢、動きを追及したすばらしい教えを受けている
ことを感じます。

それにしても3枚目の写真の方の跳躍力はすごいですね・・・。

4. Posted by のら   2009年06月14日 15:09
☆トヨさん
人間が本来与えられた構造や機能は、
それを使いこなすことによって進化するのだと思います。
安易な考え方で利便ばかりを追求した物は、人に害を与えこそすれ、
それが進歩には繋がるはずもありませんね。
靴だけではなく、
武術の世界でもまた、同じことが言えると思います。
  
5. Posted by のら   2009年06月14日 15:12
☆とび猿さん
>存在していること自体が、奇跡ではないのか
私もそう思います。
しかし人間は、その存在という名の奇跡を、当たり前のことだと考え、
その絶妙なバランスでようやく保たれている奇跡を、
壊したり、崩したり、取り替えたり、付け加えたりすることで、
進歩や成長であると勘違いしがちです。
そして、その傲慢さを諭すことの出来る人間や教えが、
今日ではほとんど失われてしまったような気がします。
その貴重な教えを、高度な太極拳の学習の中で受けられる私たちは、
本当に恵まれて幸せであると、つくづく思います。

6. Posted by のら   2009年06月14日 15:15
☆ tetsu さん
武藝館で師父から太極拳を学んでいると、
「ヒトの本来あるべき構造」をとても大切にしていることが感じられますね。
だからこそ、師父の示される技法には、何の拙力も必要としない、
触れただけで人が宙に舞うような、太極拳の真諦を目の当たりにできるのでしょう。
しかし、「拙力」とは、良く名付けたものです。
それは「正しい構造が失われたチカラ」と定義できるかも知れません。

>それにしても3枚目の写真の方の打擲力はすごいですね・・・
これは、その場で見ると、もっとすごいです。
跳躍・・・と言っても、私たちがよくやる手に反動を付け、
膝を曲げて飛ぶ「その場飛び」とは大違いで、彼らはほとんど膝も曲げず、
手も振らず、地面もロクに蹴らずに、これほどの高さまで飛び上がります。
そして、その力の根元は、5枚目の写真の、
素っ裸のまま裸足であるいている子供の歩き方に現れていると思います。
  
7. Posted by タイ爺   2009年06月14日 22:26
昔のCMで(確かアリナOン)俳優さんと一緒にジャンプしているのをみた時に
その違いにびっくりしたのを思い出しました。
俳優さんは顔を歪ませて歯を食いしばり力の限り飛んでいましたが、
隣のマサイの人々は楽そうに跳ねていましたねえ。

5枚目の男の子(?)の腰から伸びる足と言ったらとても真似ができません。
  
8. Posted by のら   2009年06月15日 22:30
☆タイ爺さん
コメントをありがとうございます。

>隣のマサイの人々は楽しそうに跳ねて・・
いや、ホントに、一体どんな身体構造なら、あんなにジャンプできるのでしょうか。
目の前で見ると、滞空時間が異常に長くて、とても人間とは思えませんでした。
まるでそこだけ重力が少ないような・・・

>5枚目の男の子(?)の腰から伸びる足といったらとても真似ができません。
・・・これ、これ、この歩き方ですよ!
私たちがいくらそうやって歩こうと思っても、軸足が弛み、早い時期に踵が浮き、
前足を早く落下させて着地したくなります。
しかし、この子供の前足の軽そうなことと言ったら、どうでしょうか・・・・
上原清吉先生やウチの師父は、常にこの姿そのものです。
私たちは大切なことを失ってしまった「アウト・オブ・アフリカ」なのかも知れません。
  

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