2009年04月28日

連載小説「龍の道」 第13回




 第13回 不 動(1)


 朝・・・太陽が昇ってまだ間もない時間、神戸の山の手は人影もクルマもまばらで、樹々を行き交う鳥たちの囀りだけが賑やかなひとときとなる。

 風は凪いでいるが、空気は澄んでいて、眼下に見下ろす港の景色が昼間よりもひときわ鮮やかに見え、所どころに犬を連れてのんびり散歩する紳士や、神社の石段を掃く人、玄関先に水を打つ人、ショートパンツ姿で颯爽とジョギングをしている外国人女性の姿なども見られる。

 ・・そんな朝の景色を巡るように、宏隆は風を切って自転車を飛ばしていた。
3キロほど離れた所にあるベーカリーに、焼きたてのパンを取りに行くためである。

 そのベーカリーは「FREUNDLIEB(フロインドリーブ)」と言って、神戸では有名なドイツパンの老舗であった。
 使用人に取りに行かせれば済むことなのだが、父の光興(みつおき)は、宏隆が小学校の三年生になる頃から毎朝欠かさず、予約したパンを取りに行く役目を彼に与えていた。

 山の手の家から、坂を下る・・・
 生田川に架かる橋を超えて少し西に向かって走ると、左手の柳坂の角に、大岩に彫られた不動明王を祀る古い杜(もり)がある。
 宏隆は、パンを取りに行くときには必ずこのお不動さまに立ち寄り、きちんとお参りをすることを毎朝欠かさなかった。

 神戸っ子によく知られる、この「柳坂のお不動さん」は、宏隆が生まれたばかりの頃に母の親族が彫ったもので、次のようなエピソードが伝えられている。

 母の叔父にあたるその人は、当時、京都で呉服商を営んでいた。
 商いは栄え、代も息子に替わって悠々自適の暮らしをしていたが、ある日夢枕に不動明王が火炎を背負って現れ、「神戸の北野の森に大岩があるので、それに私の姿を彫ってその地に祀れ」・・と仰った。

 その叔父は特に信仰があったわけでもなく、まして彫刻などとはまったく無縁で大いに戸惑ったが、ともかく気になって神戸に出かけてみたところ、夢で告げられた通り、広い森の中に大きな岩がポツンとひとつ転がっていた。
 翌日、石屋を雇ってその大岩を足場の良いところに据え、試しに職人の鑿(のみ)を借りて岩の前に立ってみると、不思議なことに自然に手が動き出して石を彫り始めた。
 それまで半信半疑であった叔父も、これは真に不動明王の御意志であると信じ、その日から七十二昼夜に亘って、形振り(なりふり)構わず、ほとんど飲まず食わずの状態で一心不乱に彫り続け、ついに不動明王のお姿をその岩の中から掘り出した。

 その後、京都に戻った叔父は彼の地を買取り、不動明王をお祀りする杜(もり)を造るように家族に言い遺すと、翌日から原因不明の病で昏睡状態となり、三日後に息を引き取ったという。
 母は、小さい頃から姪として可愛がって貰ったその叔父を供養するためか、まだ幼い宏隆を連れて、何年もの間、雨の日も風の日も毎朝欠かすことなく、そのお不動さまに参詣を続けた。母が宏隆を伴ったのは彼の生まれ年の守り神が大日如来であり、不動明王は大日如来の化身とされる故でもあった。

 ・・・そんな経緯があって、宏隆も、毎朝欠かさずお参りをする。
 彼にとっては不動の杜に立ち籠める線香の匂いは、心鎮まる安息の香りであり、母がお参りをする度に幾度となく祈り唱えた「不動真言」は、母の背で安寧の裡に聴いた子守歌に他ならなかった。

 霊験灼かな柳坂のお不動さまには、今日も早朝から蝋燭の献灯が絶えない。
 宏隆はいつもどおり、真夏でも冷んやりとする薄暗い参道を通り抜けて、火炎を背負い、降魔の剣を手にした、憤怒の形相のお不動さまの前に立ち、賽銭を入れて不動真言を幾度か称える。

「ナゥマクサンマンター、バーサラダンセンダン、マーカロシャーダー・・・」

 決して、意味も分からず、無暗に称えているわけではない。彼の血液には何かを未知のままに放置しておくような半端さは無かった。すでに中学に上がる頃には図書館でその真言の意味を調べ、原文のサンスクリット教典の内容を理解していたのである。


 お参りを済ませ、家族全員の無病息災と自分の武芸上達を祈ってペコリと頭を下げると、再び外に停めてあった自転車に飛び乗り、風見鶏のある異人館通りを横切ってハンター坂を下って行く・・・・

 勢いよく車輪が転がるのに委せてしばらく坂を下ると、やがてカトリック教会が見える頃には、焼きたてのパンの匂いが、もう、その辺りに香ばしく漂ってくる。

 自転車をキーッと停めてその店に入ると、カウンター越しに見える棚の上に、たくさんの食パンが蒸れぬように紙袋の口を開けたまま並べられてあり、その内のひとつに「加藤様」と紙に書かれた札が貼られているのが見える。
 棚に並んだパンに付けられた名札には、神戸という土地らしく、英語で書かれているものや、フランス人や回教圏の人の名前まで見受けられた。

 ドイツパンは、周りを硬く焼いたハードタイプが主流である。
 時間をかけて自然発酵をさせ、特製の煉瓦の釜で焼き上げられたパンは弾力性に富んで、身がギッシリと詰まっており、噛むほどに、食べるほどに、その味わいが増す。
 しかも、これはただのパンではない。その一個のパンを、発酵させてから焼き上げるまでに、実に6時間もの手間をかけて造られているのであった。
 パンの種類も豊富で、その美味しさには飽きがこない。家族は皆この老舗(みせ)のパンを愛し、宏隆が小さい頃から朝の食卓に欠かすことがなかった。


 店に入ると、一段と焼きたてのパンの香りが鼻をつく・・・
 予約の名札が貼られたパンの袋を指差すまでもなく、馴染みの宏隆の顔を見つけた年配の店員が、それを棚から取りあげながら声を掛ける。

「・・あ、加藤さま、お早うございます、今日は少し暑くなりそうですね」

 宏隆のような若い学生にまで、きちんとした挨拶で応対する・・・
訪れる人にとっては、そのような店の気風がとても心地よく感じられた。

 どのような店でも、その店の質は「客が作る」とはよく言われることである。
 店員の躾けが良いのは神戸という土地柄もあるのだろうが、この店を訪れる客たちもまた、たかが一個のパンを作るためにわざわざ6時間もの手間を掛けるという心意気を持ったこの店に対し、それを敬う心で対等の礼を尽くせるような育ちの良さを持った人たちに違いなかった。


「・・そうだね、でも僕はもっと酷く暑かったり、寒すぎるぐらいの方が元気が出る」

 店員の言葉を受けて、宏隆が返す。

「おや、生粋の神戸っ子にしては珍しいですね、爽やかな気候はお嫌いですか?」

「そりゃ僕だって、アラスカやサハラ砂漠より神戸やエーゲ海の方が好きに決まっているよ。
でも、あまり心地よい気候に慣れると、人間、バカになってしまうと思わないか?」

「うーん、私は馬鹿になっても良いから、心地良いところで暮らしたいですね・・」

「ははは・・・僕もきっと、歳をとってからそうするさ・・!」

 そんな言葉を交わしつつ、自転車の荷台の籠にパンを放り込むと、ありがとうございました、と言う店員たちの声を背に受けながら、早くも帰路の急な上り坂に向かって、力を込めてペダルをこぎ始めた。

 坂道の途中には、まだ朝露を付けたままの紫陽花が初夏の光に煌めいていた。



「・・・宏隆さま、お帰りなさいませ!」

 家に着くとすぐに、ハナと呼んでいる女中が飛んで出てきて、自転車の荷台の籠から、パンの包みを大事そうに取り出す。

 劉(りゅう)という姓の中国人であるハナは英惠(ying-hui)という名前だが、自分で日本風に「はなえ」と読んでいる。
 年齢も宏隆とそう違わない英惠は、三年前に台湾から家族で神戸に渡って来た。
日本に来てすぐこの家に住み込んで奉公するようになったが、よく気が利いて頭も良く、近ごろは加藤家を訪れる外国人に応対するために英会話の勉強もしている。
 英惠の家は、台湾ではそれなりの家格を持つ家だったそうだが、事情があって家族ごと日本に移住してきたのだという。
 ハナはスマートで足が長く、目鼻立ちは漢族というよりも、遠く西域の血液がどこかに入っていることを想わせるエキゾチックな美人である。
 それに、よく礼儀を重んじ、何に付けても外見よりも中身を大切にする心があることは、今どきの日本人の若者には見習って欲しいほどであった。

「あらあら、大変な汗のコト・・お食事前にシャワー、お使いなりますか?」

 まだ中国訛りが抜けない日本語で、ハナが宏隆を気遣って、そう言う。

 ほとんど上り坂ばかりの道を思いっきりペダルを漕いできたので、彼のシャツはそのまま絞れるほど汗まみれであった。

「いや、いい・・・ついでに、このままもう少し汗をかくことにする」

 ・・・そう言って、庭の方に向かって歩き出した。

「それでは、お朝食の準備、でき次第、お声掛けます!」

 ハナが宏隆の背中に向かってペコリとお辞儀をしながらそう言うと、

「・・ああ、そうしてくれ」 

 振り向きもせずにそう答えたが、ふと、足を止めて、

「あ、それと・・」

「・・ハイ、何か?」

「もう、晩メシに海老フライはたくさんだぞ!」

 ハナの方に振り返り、冗談を言って、笑う。

 ハナは、普段から宏隆の悪口に慣れているのか、少しプイと怒って見せながら、

「ご安心なさいマセ、本日はスズキ・シェフに代って、オリエンタルのフクハラ・シェフ、厨房に来られるのコトね。きっと美味しいフレンチ料理、沢山召し上がれますでしょうネ!」

「・・・ほう、きっと父も、お前の料理にはつくづく辟易したのだろう。
鈴木シェフがフランスから帰ってくるのを、もう、誰もが待ちきれないんだ!」

「ムッ・・ソなこと仰ると、もう二度と作って差し上げませんのコトね!」

「あはは・・そうだ、もう二度と作るんじゃないぞ。
あんな海老のフライがあるものか! 衣はボテボテ、中身はヨレヨレ、エビの臭みも抜けていない・・・この際、まともな海老フライの作り方を、そのオリエンタル・ホテルの、何とか言う、代りのシェフに教わるといいぞ!」

 そう貶(けな)したものの、ハナが珍しくしょんぼり俯(うつむ)いて消沈している様子を見て、ちょっと気になって、

「・・・そう、アレ以外なら・・・まあ・・・まあ、食べられなくもないからな・・・
うん、そうだ・・・勉強さえすれば、お前もきっと一流のメイドに・・・」

 しかし、気休めを言いかけた宏隆の言葉をさえぎるように、

「・・あら! 後から取って付けたように賞めても、もう駄目のコトね!!」

 怒ったようにそう言うと、ハナは厨房の裏口のドアを開けて、そのままプイ、と中に入るそぶりを見せたが、すぐにそのドアから顔だけ戻して出し、にっこり微笑んでみせた。
こんな時のハナの笑顔は、メイドとは思えぬほど、ドキリとするほど美しかった。




       

          *昔のフロインドリーブ。右隣は「にしむら珈琲・北野店」


taka_kasuga at 18:18コメント(8)連載小説:龍の道 | *第11回 〜 第20回 

コメント一覧

1. Posted by のら   2009年04月29日 01:42
回を追うごとに、宏隆さんの生い立ちや家族の様子がだんだん見えてきて、
・・ああ、こんな家庭で、こんなお母様に育てられて、お家はこんな様子なのだなぁと、
読者としては小説を読み進めていくのが益々楽しみになります。

憧れの港町の描写が、旅行者の目としてではなく、実際にそこに住む人だけが知り、
感じられるような神戸の様子が描かれていて、とても好感を持てますね。

武術をどうした、どう学んだ、どう強くなった、などという事ばかりではなく、
主人公の人間像が見える、今回のような味わいのあるお話も取り入れて下さるのを
嬉しく思います。

2. Posted by マルコビッチ   2009年04月30日 00:32
今回は小題が変わり、しかも「不動」・・ですからね!
ドキドキしながら読み進めていったのですが、今回は謎の王先生は現れず、
何とも清々しい異国情緒たっぷりの風景が、
それもカラー映像で頭の中に映し出されていきました。

フロインドリーブのパン、私も食べたことありますよ!
あの美味しさは、他のお店では味わったことがありません。
お不動様も、もしかしてあそこのことかしらと思わされるのですが・・
前回までが信じられないような話で、でも今回は実在するお店が出てくるあたり
めっちゃリアルですねえ!
ああなんだか、パンの良い香りが・・(よよよだれが・・)
神戸に行きたくなりました。

あと、宏隆君の生まれ育った環境とか、家系とか、凄そうですねえ!
私なんか、未知なる事をそのままにしている事が多すぎて・・
宏隆君の血を、少しでいいから輸血してほしい・・なんちゃって。

次回、また楽しみしています!

3. Posted by まっつ   2009年04月30日 23:08
アイヤ〜
毎朝、焼き立てのフロインドリーブのパンアルか・・・
なんとも羨ましいアルネ!

フロインドリーブには、
関西住まいの頃に立ち寄った事がありましたが、
おっきな基督教の教会に店名が大書してあって、
度肝を抜かれましたヨ。

そして買い求めたパンを手にして、またビックリ。
ズシンと重いんですネ〜。
でも、この密度感が食べ応えがあって好いものです。

待望の女性キャラも登場し、
今後の展開が益々気になる所です。
ココは武侠小説とはいえ、重要な押さえドコロでしょう!

さぁ、サイドストーリーも充実の予感。
不動(2)も気になるゾ。
どーなるんだ次回!(C)
期待してます!

4. Posted by 春日敬之   2009年05月01日 14:35
☆のらさん
これまで「南京町」シリーズで緊張してきたので、
今回は、ここらでちょっと一息……という感じでしょうか。
サイドストーリーはもう少し続きます。どうぞお楽しみに!!

5. Posted by 春日敬之   2009年05月01日 14:38
☆マルコビッチさん
フロインドリーブのパンは美味いですね〜!!
僕はあそこの「ドイツコッペ」が好きです。
神戸にはそれ以外にも、美味しいパン屋さんが沢山あるそうですよ。

知らないこと、解らないことをそのままにしておかない、
というのは、僕自身の戒めでもあります。(汗)
でも、加藤家の血液を分けてもらったら、普通では考えられないような、
とんでもない人生になるかもしれませんよ!!(笑)

6. Posted by 春日敬之   2009年05月01日 14:49
☆まっつさん
写真のお店は、宏隆くんの時代に在ったベーカリーの場所ですが、
今は加納町のユニオン教会跡を改装して、モダンな感じにしてますね。
元の教会は、著名な外国人建築家の設計によるもので、
聖堂を利用した現在のカフェは、1999年に登録文化財の指定を受けたそうです。

カフェでのランチは、なかなかイケます。
サンドウィッチなどは、私でも食べきれないほど出てくるのですが、
可愛い神戸っ子の女性がペロッと平らげたりするのを横目で見て、
やはり文化の高いところは女性が強いなぁ、なんて思ったりもします。(笑)

「不動」では、ハナさん以外にも新たな人物が登場します。
どうぞご期待下さい。

7. Posted by ほぁほーし   2009年05月07日 23:34
不動…深いですね。
タイトルを読んですぐに金剛石に座するお不動様を連想したのですが、
本当にお不動様のお話が出てきて驚きました。

お不動様は動物で現せば「龍」ですし、物では「両刃の剣」、
静と動では「動」になる、と聞いたことがあります。
それだけで今後の展開を想像してしまうのは、早計でしょうか。

次回が楽しみです!
・・って、明日ですね。(汗)
コメントが遅くなってすみません。

8. Posted by 春日敬之   2009年05月08日 01:36
☆ほぁほーしさん
>「龍」「両刃の剣」「動」・・・・

おお、流石にお詳しいですね。
まあ、僕もそれほど凝って考えたわけではないのですが。(汗)

勿論、不動明王は修行者、求道者に付き従ってこれを迷いから護る存在ですし、
不動という言葉自体も、ご存知の如く、他の影響によって動かされない、
揺るぎない信念、意志の貫徹という意味に用いられています。

「悟りを開くまでは此処を動かず」と、釈尊が菩提樹下に座した時、
ありとあらゆる魔王の群れが釈尊を挫折させようと襲いかかったと言いますが、
不動明王はその際の釈尊の心の状態を具現した神性の姿であるともされます。
何れにせよ、私たち修行者にとっては心に留めるべき非常に大切な言葉であり、
今回の「龍の道」のストーリーに沿って、その小題としました。

では、次回をお楽し・・・
・・って、もう日が変わって掲載日になっちまった〜!!(汗)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ