2009年02月28日

連載小説「龍の道」 第7回




 第7回 南京町(2) 


 コーン、コーンと、足音だけが響く薄暗い地下の通路は、思ったよりも入り組んでいて、曲がったり、狭くなったり、違う方向に伸びていたりもしている。

 時おり、どこからともなく中華料理の匂いが漂ってくるのは、明らかにここが南京町の真ん中であることを改めて宏隆に思い出させたが、地上の食事客や観光客たちは、彼らがぶらぶらと歩く足下に、このような通路が秘められていることなど、もちろん誰ひとりとして想像できるはずもなかった。

 通路の幾つ目かの角を曲がったところに、落ち着いた朱色に塗られたドアがあり、表面には何かの文字か記号のようなものがひとつ、そこがどのような部屋であるかを示すかのように、浮彫に描かれている。
 案内をしてきた金剛力士のような男は、その扉の前で足を止め、鍵を開けて入室を促し、二人に席を勧めると、黙礼をしてそのまま何処かに立ち去っていった。

 部屋の中は意外に広く、天井もそこそこの高さがあって、地下に秘められた部屋であるような息苦しさを何も感じさせない。
 天井際の、僅か20センチほどしかない小さな天窓からは、戸外の光が柔らかく漏れていて、ここが確かにどこかの建物の地下であることが想像できる。
 しかし、部屋の中にも、外の通路にも、上の階に上がる階段がないので、実際にはその建物からはこの部屋に入れないのかも知れない。おそらく、この中国人街の幾つかの建物に秘密の入り口が設けられてあり、そこからこのような通路に通じているのではないか・・そしてこの地下には多くの秘密の部屋があるに違いない、と宏隆には思えた。
 この天窓にしても、こんなに小さな灯り取りでは、まるで建物の装飾のように思えて、外から見て気付く人は滅多に居ないかも知れない。天窓には植え込みのような影も映っているから、尚のことだと思える。

 部屋の床には、西域のホータンのものらしい、絹で織られた見事な毛氈が敷かれており、その上には、螺鈿が美しく鏤められた中国製の円卓と椅子が置かれ、傍らには深々とした皮張りのソファまで置かれている。
 美しい彫刻が施された華奢な飾り台の上の、大振りの見事な青磁の花器には、艶やかな生花がたくさん飾られており、壁には誰の筆によるものか、よく読めば老子の「道徳経」からの引用かと思われる、達筆な書の扁額が掛けられていた。

 しかし、わざわざ秘密の通路を造ってまで、いったい誰が、何の為に、このような部屋を設けているのだろうかと訝しくも思えるが、ともかく、そこは意外なほど静かで、ゆったりと落ち着ける部屋になっていた。


 やがて間もなく・・・碧玉のような色のシルクのチャイナドレスを身に纏った美しい女性が、黒檀の瀟洒なワゴンを押して中国茶を運んで来た。
 その女性は丁寧に一礼し、自分たちが座っている螺鈿の卓に並ぶようにワゴンを置いて傍らに腰掛け、中国式に薫り高いお茶を淹れて、笑顔で勧めてくれる。

 日本には茶道や煎茶道があり、厳格な作法や礼法が定められているが、中国には茶道は無く、その淹れ方にルールや規範はない。しかし近頃、特に70年代に入ってからの台湾では、それがひとつの作法、つまり「茶藝」として見直され始めていると聞く。
 その茶藝に於いては、茶器の載ったお盆に敷かれた白く四角い布は「素方」と呼ばれ、お茶を淹れるときの心構えである「正」を表しているという。心と姿勢を正しくして、その茶葉に適正な方法で淹れる一杯のお茶は、人の心を癒し、寛がせて、新たな活力となるに違いない。

 目の前でその「茶藝」の美しさに見とれ、お茶が薫る高い香気に、それまでの緊張が徐々にほぐれていくような気がするが、宏隆にとっては、その洗練された端整な美しさを眺めているだけでも、何やら心が寛ぎ、和らいでいく心地がした。

 やがて、その女性は慣れた日本語で「少しお待ちくださいませ」と言って、席を立った。
その淀みのない発音から、この人が小さい頃から日本に居住していることが想像される。
 K先生は、にこやかに「謝謝」と中国語で返してから、美味そうにお茶を飲み、まだ些か緊張の面持ちのまま硬くなっている宏隆を見て、ちょっと悪戯っぽく笑い、彼に「喫茶去」と言ってお茶を飲むように勧めた。喫茶去とは、趙州禅師の問答にある、「お茶を一服おあがり」という意味の禅語である。
 宏隆は、見慣れない作法で供された中国茶をうやうやしく飲んだが・・しかし、小さな茶碗に注がれたその薫り高いお茶は、猫舌の宏隆には少々熱すぎて、慌てて茶碗を置いた。


 K先生は、居合や柔術の師範ではあるが、武道の教授を生業としているのではなく、今も東京に本拠を置く、「東亜塾」という有名な政治結社の長であった。
 それは、かつて「東亜塾が動く時には昭和維新が決起される」とまで囁かれた、右翼、左翼の別を問わず、また、日本のみならず、近隣アジア諸国の政治にも極めて大きな影響力を持つ団体であり、政治関係者に限らず、一般市民にもその名は知られていた。

 東亜塾は、政治だけではなく、国学や和歌などの研修施設を東京に建て、国学の研究を行い、歌道の専門誌を発行するなど、戦後の日本で忘却されつつある、それら文化面の活動も盛んであり、政治家や作家も多くその会に名を連ねていた。
 宏隆は父の光興(みつおき)を介して、何度かその歌道会や万葉集の研究会に招かれたことがあった。

 K先生の父親は、かつて右翼の大物として内外にその名を轟かせた人であり、特務機関員を育てた陸軍中野学校にも深く関与し、多くの政治的事件にも陰で関わりを持ったとされる謎の多い人物であったが、日本が敗戦した際には、皇居を望む陸軍練兵場跡地の丘で、一門の有志十数人と共に見事に割腹して果て、憂国の志士の心意気を示した剛毅な人でもあった。

 子息であるK先生自身もまた、その父の志を継いで、今の世の中を・・・ようやく「戦後」も過ぎ、学生運動も下火となって、表向きは平和そのものに見える、「昭和元禄」などと呼ばれる現在の日本を厳しく見守りながら、同じ憂国の志を持つ塾生たちと共に、一旦緩急有ればの時に備え、日夜心身を研ぎ澄ませている・・・
 東亜塾で研鑽されている武道は、そのための入魂の居合道であり、柔術であった。


 K先生は、数年前から、東京から神戸に居を移して来られた。
 その理由は宏隆には分からないが、こんな南京町の秘密の場所と縁があるのだから、この神戸もまた、K先生にとって重要な拠点なのだろうと思える。

 父の勧めで参加した「日本文化研究会」で初めてお目に掛かったとき以来、K先生は、近づいてみればみるほど、意外なほど自分の立場に拘らない人であり、主義主張を他人に向けたり、押しつけたりするようなことも何ひとつとして無かった。
 宏隆から見れば、K先生は政治結社の長というよりは、ただ自分の信じる道を淡々と歩んでいる人といった印象の方が強い。国粋主義でもなければ、単なる民族主義でもない、むしろ反対にそのような会の席では、若者たちに真の国際人になるべく、外国の文化をよく研究し、彼らの長所を学ぶことを勧めた。
 そして同時に、日本の文化や歴史が示すところの、日本人の考え方や長所短所を正しく学び、国際人である以前に、まず日本人である自己を認識する必要がある、と諭すのであった。

 そんなK先生は、宏隆にとって、折に触れては偏りなく、彼の知らない世の中の広さや人の営みの何たるかを教えてくれる、本当の意味で「良き師」と呼べる、人間としても尊敬できる人であった。

 ・・・しかし、南京町の地下の、このような秘密の場所にごく当たり前のように案内されることは、やはりK先生が決して普通の人ではない、一般の人たちには知り得ない「陰の社会」に深く係わっている人であることを、あらためて宏隆に実感させた。


 その地下の部屋で、十分ほども待った頃・・・

 やがて、音も立てずに、スーッと、入り口の扉が開いた。




   



taka_kasuga at 22:22コメント(4)連載小説:龍の道 | *第1回 〜 第10回 

コメント一覧

1. Posted by マガサス   2009年03月02日 00:35
毎回、次はどうなるのかと楽しみにしています。
地下の秘密の通路の話などは、自分が本当にそこを通っているような気がして、
次の角を曲がるとどうなるのか、などとハラハラドキドキしてしまいます。
宏隆くんはこれから一体どうなるのでしょうか・・・

戦後がようやく終わった平和な世の中だと誰もが信じて疑わなかった、
70年代の日本を見直す意味でも、この小説は意義があると思います。

2. Posted by オポルト   2009年03月02日 15:18
今度、神戸の南京町に行ったら、広東料理店のいちばん奥の部屋を予約して、
そこの壁を三回、叩いてみようと思います。

3. Posted by のら   2009年03月02日 17:22
私は秘密結社とかレジスタンスとか、いわゆる裏社会に大変興味を持っているので、
この物語がどうなっていくのか、ハラハラしながらも楽しみにしており、
だんだん、8のつく日をあと何日かと、カウントダウンするようになりました。

武術小説としても大変面白く、また時代背景や特殊な人間関係からも、
今後の展開がたいへん楽しみに待たれます。

これは、ブログに連載する小説にしておくのは勿体ないような、
本来は書籍として出版するべきような内容であると思えるのですが、
著者である春日さんには、まったくそんな気が無いようなので・・(笑)
とりあえず、ありがたく武藝館のブログとして読ませていただいております。

4. Posted by 春日 敬之   2009年03月06日 23:23
>みなさま

コメントバックが遅くなり、申し訳ありません。
・・というか、もう間もなく次が出てしまいますね。
2月は28日で終わりなので、次の回までが早い・・・ヒィ・・(汗)

多くの方が楽しみにしていただいているようで、大変ありがたいことです。
日本を取り巻く国際的な時代背景や、一般の方が知り得ない結社の内部のコトなど、
筆者の命を狙われない程度に(笑)どんどん書いていきたいと思います。(汗)

今後ともどうぞよろしく、ご愛読のほどを・・・m(_ _)m


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