2009年02月21日

練拳 Diary #9 「ボール乗り・その3」

 ボールの訓練が、心身両面にその核心に迫ってきた頃になると、すでにボールに立てる門人にとっては、次の段階である「手を使わずにボールに立つ」という新たな課題に直面します。

 しかしながら、試しに、手を使わずにボールに立つつもりで、目の前にあるボールに片足を掛け、そのままもう一方の足を乗せるつもりになるだけで、それが如何に困難であるかを全身に感じることになります。
 きっと、「これは、不安定なんてものじゃない・・・」と、誰もが思えることでしょう。
 
 すでに手を使わずにボールに立てる門人は、自分の経験から、
「ボールが ”動かない物” だとイメージするんですよ・・」などと、にこやかにアドヴァイスしてくれますが、手を使ってしか立てない人にとっては、どう見てもボールは ”自由に動く物” としか映りません。
 ましてや、運動神経がところどころ冬眠している私にしてみれば、手を使わずにボールに飛び乗る、などということは、地上4,000メートルの上空からパラシュートを背負って飛び出すより遥かに難しいものに思えました。

 さて、どのようにしてそれに取りかかろうかと、ボールの上でゆらゆらと「膝立ち」をしながら思案していたとき、師父がドッヂボールほどの大きさの、軟らかくて軽いボールを持って、私の前に立たれました。
 そして、「これでキャッチボールをしようか・・」と、仰るのです。
 
 いつものコトながら、いったい何処からそのような発想が出てくるのか・・・
 凡人の我々にはトンと見当も付きませんが、様々な方向から、角度や速さを変化させて投げられるそのボールを、足元がぐらつきながらも、キャッチしてはまた投げ返すことを繰り返すうちに、身体の感覚が少しずつ変わってくるのが感じられ、徐々に面白くなってきました。

 身体が最も不安定になるのは「ボールを受け取った時と、投げ返すその瞬間」で、一体何が不安定を生み出しているのかと言えば、それは明らかに「足の蹴り」が使われたときであることが判りました。
 こんなに軽いボールを受ける時でさえその衝撃が足に来てしまい、投げ返すのにも足の反動を用いてしまっているのなら、「腰相撲」で腰を押されているときや「散手」で相手を打っていくときなどにも、「アシのケリ」を当たり前のようにガンガン多用しているに違いないではありませんか。

 つまり、「踏まない、蹴らない、落っこちない」が全く出来ていない・・・
これが軽いボールだから良いようなものの、それが1kgや3kgもあるメディシン・ボールだったら、一体どうなることやら・・・
 これは、先日お伝えした「足幅」に引き続いての、大発見でした。


 そして、「はい、次は、立ってキャッチボール・・」と、言われ、頭の片隅にちょっぴり不安を残しつつ挑戦してみれば、これはもう、先ほどまでの「膝立ち」とは比べものにならないほど「アシのケリ」が顕著に表れました。そのために、一回受け取ってはバランスを崩し、一回投げ返してはボールから落ちる、ということになってしまいます。

 また、師父がボールを持って前に立っただけでバランスを失い、キャッチボールをする以前にボールから落ちてしまうようなことも見られましたが、それについて師父は、それは身体のバランスの問題ではなく、心のバランスの問題だと指摘されました。
 自分ひとりなら要求通りに綺麗に立てるのに、相手と向かい合っただけで心が乱されてしまうのなら、いくら武術的に優れた身体を養っていても、実戦ではその実力の半分も出せなくなってしまう・・と。

 その話を聞いて、ふと思い当たることがありました。
 それは、キャッチボールをしていたときに、それが、まるで「自分ひとりの問題」として捉えてはいなかっただろうか、ということです。
 ボールの上に立ち、投げてくるボールを受けては投げ返すという一見遊びのような稽古でも、そこに「相手」が含まれていなければ、やはり自分しか存在しておらず、投げる方が「陽」で、受ける方が「陰」とすれば、自分はそのうちの一方だけを、一生懸命工夫していたことになり、それでは、たかがキャッチボールといえども、上手くいくはずがなかったのです。
 そのような基本的な事に気がついてからは、ようやく相手とのキャッチボールが「武術的」に成立するようになり、ボールの上に居ながらも、お互いに相手との間合いや軸の関わりが見えてくるようになりました。

 そのことを強烈に感じられたのは、多人数で行うキャッチボールでした。
 初めは5人で輪になり、「膝立ち」を使って行われましたが、先ほどの1対1と違って、今度は、全員がユラユラと揺れ動くボールの上にいるので、それだけで、いつ自分にボールが来るのかが察知しにくくなります。
 このような状況では、誰にボールが渡っていても、全体を感じられていなければ、いざ自分にボールが飛んできたときに、十全な身体の状態で受け取ることが出来ません。

 それは、対練での「多人数掛け」とよく似ています。
 「多人数掛け」とは、「肩取り」や「散手」などに於いて、一人に対して複数で行われる稽古法ですが、自分が複数を相手にする場合は勿論のこと、反対に複数の中で一人を崩しに行く場合にも、常にその場の「全体」が感じられていないと、自分ひとりの勝手な行動となり、そうなると、多人数である故に優勢であるはずの効果もそれほど発揮されなくなるのです。

 そして、その「常に全体を感じられる」ということこそ、武術で言うところの「間合い」の初歩的な感覚であり、同時に太極拳の「合 (ごう)」という概念に繋がるのではないかと思いました。

 私が多人数のキャッチボールで感じられた「合」とは、その場にいた全員とのトータルな関わりであり、それはまるで空気中ではなく、まるで水や油の中に居るような感覚で、人と自分とはすでに別の物ではなく、全体でひとつの状態となり、ひとりが動けば、それが瞬時に全員に伝わっているような、正に「合っている」状態でした。
 不思議なことに、その感覚が得られた後には、目でボールを追う必要がなくなり、肌身で全体の動きが感じられるようになったのです。

 そのとき、「合」について、かの陳金先生が説かれた言葉が脳裏に浮かんできました。

 『非但合之以勢、宜先合之以神。
   (・・合は動作だけで行うのではなく、まず神を以て合となるようにする)』
 

 キャッチボールをすることによって生じた「合」の感覚は、更に自分とボールとの関係でも、同じことが言えるのではないかと思いました。
 ボールに乗ることは、ボールを制御することではなく、ボールを感じることである、とは理解できても、ボールと「一体になる」ということには、考えが及んでいませんでした。
 
 ボールとひとつになる・・即ち、ボールと「合う」こと。
 
 もちろん、私の「合」についての理解は未だ浅く、拳理の「合」の意味は深く、それ以外にも広く存在するので、更なる研鑽を積んでいかなければ、その要訣の真に意味するところは到底捉えられないものだと思いますが、この意味に於ける「合」が正しく理解されれば、ボールでも、レンガ歩きでも、推手、散手であっても、こちらの意のままに、お互いにひとつとなって動くことが出来、しかもこちらが主導を取れるという、武術的に優位な関係性になるのではないかと思われます。

 そのことに思い至ったとき、この日に行われたキャッチボールの訓練は、手を使わずにボールに立つための心身の構造、或いは、対象は何であれ、新しい未知のことに対面した際ににどのようにして謎を解いていけば良いのかという、その「理解のシステム」を学ばせて頂けたのだと、ようやく納得できたことでした。

 「ボールの乗り方」ではなく、ボールを用いて「理解のシステム」そのものを学ぶこと・・・
 これでまた、今後の課題に向かいながら、実のある稽古が出来そうな気がしました。

                                 (了)



* 写真は、ボール上での「キャッチボール」の練習風景です *


      



      



      



      



xuanhua at 23:59コメント(2)練拳 Diary | *#1〜#10 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2009年02月22日 02:30
前回の稽古では、最初は軽いボールで、
その次に、重いメディシン・ボールでキャッチボールをしたのですが、
色々と思うところがありました。むふ。

スカイダイビングも面白そうですねェ。
いずれやってみたいものです。

なんとかとケムリは高いところがどーのこーの。


2. Posted by ほぁほーし   2009年02月22日 05:25
☆ トヨ さん
コメントをありがとうございます。
メディシンボールでのキャッチボールは、なかなかおもしろいですね。
軽いボールより、自分が足の反動を使いたがっていることが、よく分かります。
立った状態でのキャッチボールでは、ボールを受け取る際にも身体が使われていないと、
あっという間にツルリ・・となります。

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