2009年02月11日
門人随想 「ボール乗りの練習」
by のら (一般・武藝クラス所属)
ボール乗りの写真を撮っていると、自分が練習している時とは違って、それまでに見えなかったことがいろいろと分かってきて、とても勉強になった。
たとえば「膝立ち」という、膝だけを使ってボールの上に立つ練習では、上手く立てない人はまず、股関節のところを ”くの字” に曲げ、身体を縮めるように使いながら、膝と脛と足首を巧みにボールに接して、サーフィンでもしているような恰好でバランスをとって立とうとするか、或いはまた腰を反り、鼠蹊部を伸ばすようにして、ボールの前や後ろに転がり落ちていく・・・
それはおそらく、一般の人が普段の生活の中で行っている、ごく普通の、日常的な身体の在り方なのだろうと思える。
・・いや、実際に、私もそうであった。
単にボールに「乗る」とか「立つ」と言っても、実に様々なアプローチがあり、完成の度合いも色々であろう。しかし、私たちは武術的にボールに乗り、太極拳的に立とうとしているのだから、巷で見るボール・エクササイズのように、単に弾んだり、乗ったり、立てれば良い、というワケにはいかなかった。
この、何処にでも勝手気儘に転がろうとする、極めて不安定なボールの上に、そこに膝だけで立とうというのだから、よく考えてみれば、これは大変なことである。
そんな身体の状態が必要となる状況は、普段の生活の中には、たぶん存在しないだろう。
もし要求どおりに、ボールの上で上半身を立て、膝を真っ直ぐに伸ばそうとすれば、私たちはヤジロベエのようには手が長くないので、安定できるところなど、何処にも在りそうにない。
その恰好でボールから転げ落ちないようにするには、腿の力を弛め、膝を伸ばさず、腰を折って、上半身を出来るだけボールに近づけるようにしながら、転がろうとする反対の方に巧くバランスを取るしかないように思える。
もちろんそれは、太極拳の要求とは大違いなのだが、いつしかその誤りに慣れ、それを続けながら、ついつい何となく乗れているような、立てているような気持ちになってしまうのだ。
ところが、ウチの道場で指導されている「ボールの乗り方」は全く違っている。
膝で立つときには、脛を使わず、膝から頭までを一直線に真っ直ぐ立てて、自分が吊り下げられているかのように立つことが求められ、膝とボールの接点などは「あるか無いかの如く軽く」造られなければならない、とされる。
そこで、私たちは文字通り悪戦苦闘しながら、一体どのようにすれば拳学研究会の先輩たちのような、見とれてしまうほど綺麗に、ほとんど揺れもせず膝だけで乗れるのか、なぜボールの上にあのような狭い歩幅で立てるのか、そして、まるで奇跡のような・・動いているボールに飛び乗ったり、その上でバウンディングをすることがなぜ出来るのかと、全く不思議に思えてしまうのである。
それは、ひたすら「武術的な」身体の構造ゆえであるという。
では、「武術的に」乗れる、立てる、というのはどういう事なのだろうか・・・
ひと言で云うなら、それは「構造が変わる」ということである。
つまり、日常生活に馴染んだカラダの構造が、非日常的に、劇的に変化をし始めるのだ。
・・・それも、ある日、ある時、勝手に・・・それが起こるのである。
それを「やる」ことはできない、と師父は仰った。
それは「起こる」ことであって、自分で「起こす」ことはできないのだ、と。
この、武術的に裏付けられた、優れた学習体系だけが導き得るところの「非日常性」こそが、まさしく「武術的な身体」に他ならない。
「日常性」ではダメなのである。そんなものでいくら頑張っても、それで乗れたり立てたりしても、高度な太極拳の身体を得る訓練としての「ボール乗り」には程遠い、とされる。
それは、何もボール乗りに限ったことではない。
早い話が、ちょっとその辺りを数歩ばかり歩いてもらっても、その人の武術性、武術度?、
武術率?・・が判明してしまう。階段を昇降したり、プールで水中を歩いてみれば、もっと容易にそれが見えるかもしれない。
そもそも、正しい武術を何十年も、正しい練習方法でこなしてきた人は、決して日常的に動いているようには見えない。歩く姿も、椅子に座る姿も、食事をしている恰好も、靴を脱ぎ履きする姿勢も、クルマを運転している姿勢も、そして、そのドライビング自体も・・・
何もかもが、吾々のような一般人の日常性で出来てはいない。
つまり、よく観れば、変な恰好をしているし、有り得ないような構造で立っているのだ。
少々武術の心得がある者から観れば、本物のマスターたちは皆、変な恰好で立ち、変な恰好で動き、歩いていることが分かる。
しかし、私たちは、どうやってもそのような「変な恰好」にはならない。
まさにそれが「日常」のまま生活をしているとされる所以であるが、反対にズブの素人から観れば、マスターたちは普通のオジサンと何も変わらないように見えるのだろう。
此処での指導を受け続けていると、日常の固まりだった私たちにも、やがて発見が始まる。
いや、発見と言うよりも「新しい考え方」が生まれる、という表現の方が的確かも知れない。
その「新しい考え方」とは、取りも直さず、ようやく常識で固められた私たちのアタマの片隅にも芽生え始めた「未知なるもの=非日常性」と遭遇できたことに他ならないのだが、さらにその活動が盛んになるにつれて、それまでに何の反応もせず、まるで動かなかったカラダが、ある日突然、奇跡のように動き始めるようになってくる。
つまり、長い時間をかけて様々な「太極拳の基本」を叩き込まれ続けてきたカラダが、ボール乗りという非日常の状況に触れて、ようやく目覚めようとしているのだ。
先日も、ひとりの一般門人が、見事に「武術的に」ボールに立つことが出来た。
それは、武術的にほとんど完璧な立ち方と言うことであって、日常の観点から見れば、何やら頼りなさげに、未完成に見えるかも知れないが、観る人が観れば、それが高度な立ち方であることが分かるのだ。
ともあれ、それまで全く乗れなかった人が、基本の稽古で「正しい構造」を指導され続けて来た故にその構造が実際にはたらき始める場面を目撃するのは、本当に感動的である。
もう、その人は「日常的に」乗ろうとはしていない・・・
いや、日常的には乗れないのである。そして、普通の考え方なら、そのようなやり方ではとても乗れないと思えるようなアプローチで、ヒョイと乗り始める。
そうなったら、もうボールはフラフラ動かないし、その人の足がブルブルと力みで震えることもない。何より、ボールを制御しようという意志が、そこには微塵も見られない。
このレベルは高い・・・
果たしてこれが一般の人、一般門人クラスのレベルなのだろうか、とさえ思える。
そして、さらによく観れば・・・
それまで胯(クワ)が開かなかった人が緩やかに開き、お尻の小さかった人が大きく見え・・
股関節がまるで動かなかった人がユルユルに動き、膝に力みがなく、脚がきちんと使われ、
胸や背中の硬かった人が球状に動くのが見え、外三合がものの見事に、自然に一致している・・
それは、普段から私たちが学んでいる太極拳の要訣の、その内容が、ありありと見えるようなものばかりであり、日頃から指導され続けている「踏まない・蹴らない・落下しない」という、太極拳の高度な身体の使い方そのものであった。
(了)
* 一般クラスでの「ボール乗り・膝立ち」の練習風景です *



ボール乗りの写真を撮っていると、自分が練習している時とは違って、それまでに見えなかったことがいろいろと分かってきて、とても勉強になった。
たとえば「膝立ち」という、膝だけを使ってボールの上に立つ練習では、上手く立てない人はまず、股関節のところを ”くの字” に曲げ、身体を縮めるように使いながら、膝と脛と足首を巧みにボールに接して、サーフィンでもしているような恰好でバランスをとって立とうとするか、或いはまた腰を反り、鼠蹊部を伸ばすようにして、ボールの前や後ろに転がり落ちていく・・・
それはおそらく、一般の人が普段の生活の中で行っている、ごく普通の、日常的な身体の在り方なのだろうと思える。
・・いや、実際に、私もそうであった。
単にボールに「乗る」とか「立つ」と言っても、実に様々なアプローチがあり、完成の度合いも色々であろう。しかし、私たちは武術的にボールに乗り、太極拳的に立とうとしているのだから、巷で見るボール・エクササイズのように、単に弾んだり、乗ったり、立てれば良い、というワケにはいかなかった。
この、何処にでも勝手気儘に転がろうとする、極めて不安定なボールの上に、そこに膝だけで立とうというのだから、よく考えてみれば、これは大変なことである。
そんな身体の状態が必要となる状況は、普段の生活の中には、たぶん存在しないだろう。
もし要求どおりに、ボールの上で上半身を立て、膝を真っ直ぐに伸ばそうとすれば、私たちはヤジロベエのようには手が長くないので、安定できるところなど、何処にも在りそうにない。
その恰好でボールから転げ落ちないようにするには、腿の力を弛め、膝を伸ばさず、腰を折って、上半身を出来るだけボールに近づけるようにしながら、転がろうとする反対の方に巧くバランスを取るしかないように思える。
もちろんそれは、太極拳の要求とは大違いなのだが、いつしかその誤りに慣れ、それを続けながら、ついつい何となく乗れているような、立てているような気持ちになってしまうのだ。
ところが、ウチの道場で指導されている「ボールの乗り方」は全く違っている。
膝で立つときには、脛を使わず、膝から頭までを一直線に真っ直ぐ立てて、自分が吊り下げられているかのように立つことが求められ、膝とボールの接点などは「あるか無いかの如く軽く」造られなければならない、とされる。
そこで、私たちは文字通り悪戦苦闘しながら、一体どのようにすれば拳学研究会の先輩たちのような、見とれてしまうほど綺麗に、ほとんど揺れもせず膝だけで乗れるのか、なぜボールの上にあのような狭い歩幅で立てるのか、そして、まるで奇跡のような・・動いているボールに飛び乗ったり、その上でバウンディングをすることがなぜ出来るのかと、全く不思議に思えてしまうのである。
それは、ひたすら「武術的な」身体の構造ゆえであるという。
では、「武術的に」乗れる、立てる、というのはどういう事なのだろうか・・・
ひと言で云うなら、それは「構造が変わる」ということである。
つまり、日常生活に馴染んだカラダの構造が、非日常的に、劇的に変化をし始めるのだ。
・・・それも、ある日、ある時、勝手に・・・それが起こるのである。
それを「やる」ことはできない、と師父は仰った。
それは「起こる」ことであって、自分で「起こす」ことはできないのだ、と。
この、武術的に裏付けられた、優れた学習体系だけが導き得るところの「非日常性」こそが、まさしく「武術的な身体」に他ならない。
「日常性」ではダメなのである。そんなものでいくら頑張っても、それで乗れたり立てたりしても、高度な太極拳の身体を得る訓練としての「ボール乗り」には程遠い、とされる。
それは、何もボール乗りに限ったことではない。
早い話が、ちょっとその辺りを数歩ばかり歩いてもらっても、その人の武術性、武術度?、
武術率?・・が判明してしまう。階段を昇降したり、プールで水中を歩いてみれば、もっと容易にそれが見えるかもしれない。
そもそも、正しい武術を何十年も、正しい練習方法でこなしてきた人は、決して日常的に動いているようには見えない。歩く姿も、椅子に座る姿も、食事をしている恰好も、靴を脱ぎ履きする姿勢も、クルマを運転している姿勢も、そして、そのドライビング自体も・・・
何もかもが、吾々のような一般人の日常性で出来てはいない。
つまり、よく観れば、変な恰好をしているし、有り得ないような構造で立っているのだ。
少々武術の心得がある者から観れば、本物のマスターたちは皆、変な恰好で立ち、変な恰好で動き、歩いていることが分かる。
しかし、私たちは、どうやってもそのような「変な恰好」にはならない。
まさにそれが「日常」のまま生活をしているとされる所以であるが、反対にズブの素人から観れば、マスターたちは普通のオジサンと何も変わらないように見えるのだろう。
此処での指導を受け続けていると、日常の固まりだった私たちにも、やがて発見が始まる。
いや、発見と言うよりも「新しい考え方」が生まれる、という表現の方が的確かも知れない。
その「新しい考え方」とは、取りも直さず、ようやく常識で固められた私たちのアタマの片隅にも芽生え始めた「未知なるもの=非日常性」と遭遇できたことに他ならないのだが、さらにその活動が盛んになるにつれて、それまでに何の反応もせず、まるで動かなかったカラダが、ある日突然、奇跡のように動き始めるようになってくる。
つまり、長い時間をかけて様々な「太極拳の基本」を叩き込まれ続けてきたカラダが、ボール乗りという非日常の状況に触れて、ようやく目覚めようとしているのだ。
先日も、ひとりの一般門人が、見事に「武術的に」ボールに立つことが出来た。
それは、武術的にほとんど完璧な立ち方と言うことであって、日常の観点から見れば、何やら頼りなさげに、未完成に見えるかも知れないが、観る人が観れば、それが高度な立ち方であることが分かるのだ。
ともあれ、それまで全く乗れなかった人が、基本の稽古で「正しい構造」を指導され続けて来た故にその構造が実際にはたらき始める場面を目撃するのは、本当に感動的である。
もう、その人は「日常的に」乗ろうとはしていない・・・
いや、日常的には乗れないのである。そして、普通の考え方なら、そのようなやり方ではとても乗れないと思えるようなアプローチで、ヒョイと乗り始める。
そうなったら、もうボールはフラフラ動かないし、その人の足がブルブルと力みで震えることもない。何より、ボールを制御しようという意志が、そこには微塵も見られない。
このレベルは高い・・・
果たしてこれが一般の人、一般門人クラスのレベルなのだろうか、とさえ思える。
そして、さらによく観れば・・・
それまで胯(クワ)が開かなかった人が緩やかに開き、お尻の小さかった人が大きく見え・・
股関節がまるで動かなかった人がユルユルに動き、膝に力みがなく、脚がきちんと使われ、
胸や背中の硬かった人が球状に動くのが見え、外三合がものの見事に、自然に一致している・・
それは、普段から私たちが学んでいる太極拳の要訣の、その内容が、ありありと見えるようなものばかりであり、日頃から指導され続けている「踏まない・蹴らない・落下しない」という、太極拳の高度な身体の使い方そのものであった。
(了)
* 一般クラスでの「ボール乗り・膝立ち」の練習風景です *



コメント一覧
1. Posted by トヨ 2009年02月12日 02:30
自分ですと、ボール乗りをした直後は多少よくても、
しばらくするとまた日常的な状態で動けてしまうようになります。
ところが師父は普通の平らな床に立っていても、踏まない・蹴らない・落ちない状態で、
なんだかふわふわ浮いているようにも見える…それこそ「変な」状態で居られるように感じます。
そして対錬などで師父の前に立つと、自分が師父に対して感じる「変だ、妙だ」という感覚が
そのままこちらに作用して、日常的にはありえないようなことが起きる…ように感じます。
これこそまさに、構造の妙なのでしょうか。
(これが言いたかっただけデス)
しばらくするとまた日常的な状態で動けてしまうようになります。
ところが師父は普通の平らな床に立っていても、踏まない・蹴らない・落ちない状態で、
なんだかふわふわ浮いているようにも見える…それこそ「変な」状態で居られるように感じます。
そして対錬などで師父の前に立つと、自分が師父に対して感じる「変だ、妙だ」という感覚が
そのままこちらに作用して、日常的にはありえないようなことが起きる…ように感じます。
これこそまさに、構造の妙なのでしょうか。
(これが言いたかっただけデス)
2. Posted by タイ爺 2009年02月12日 09:45
>日常生活に馴染んだカラダの構造が、非日常的に、劇的に変化をし始めるのだ。
・・・それも、ある日、ある時、勝手に・・・それが起こるのである。
いやあ、まさしく功夫ですね。
感覚的には初めて自転車に乗れたときに似てるようですね。
正しく練習してひたすら功がなるのを待ちます。
でもボールの上で座ったり正座をしているとなにやら後頭部のあたりがもやもやしてきます。
力んでいるつもりは無いのですが・・・・
・・・それも、ある日、ある時、勝手に・・・それが起こるのである。
いやあ、まさしく功夫ですね。
感覚的には初めて自転車に乗れたときに似てるようですね。
正しく練習してひたすら功がなるのを待ちます。
でもボールの上で座ったり正座をしているとなにやら後頭部のあたりがもやもやしてきます。
力んでいるつもりは無いのですが・・・・
3. Posted by のら 2009年02月12日 15:21
☆トヨさん
「構造の妙」と「妙な構造」とは、違うんでしょうねぇ、やっぱり・・(笑)
師父の「変な」状態は、長年に渡る、弛まぬ練功によって、
もはや日常に戻ることが有り得ない、日常がそっくり非日常と入れ替わったような、
そんな妙な・・いや、玄妙なカラダを手に入れられたのだと思います。(コホン・・)
「構造の妙」と「妙な構造」とは、違うんでしょうねぇ、やっぱり・・(笑)
師父の「変な」状態は、長年に渡る、弛まぬ練功によって、
もはや日常に戻ることが有り得ない、日常がそっくり非日常と入れ替わったような、
そんな妙な・・いや、玄妙なカラダを手に入れられたのだと思います。(コホン・・)
4. Posted by のら 2009年02月12日 15:25
☆タイ爺さま
コメントをありがとうございます。(^^)
そう、まさしく功夫ですね。
それがやがて自然に「起こる」ということと、
そのために正しい功を積む、というのは、とても象徴的なお話でした。
>なにやら後頭部のあたりがもやもや・・・
ある拝師門人などは、「脳下垂体がグルグル回り出す」と言っておられましたが。
どうも、アタマが使わされる状況になると、いろいろなコトが起こってくるようです。
コメントをありがとうございます。(^^)
そう、まさしく功夫ですね。
それがやがて自然に「起こる」ということと、
そのために正しい功を積む、というのは、とても象徴的なお話でした。
>なにやら後頭部のあたりがもやもや・・・
ある拝師門人などは、「脳下垂体がグルグル回り出す」と言っておられましたが。
どうも、アタマが使わされる状況になると、いろいろなコトが起こってくるようです。
5. Posted by ほぁほーし 2009年02月12日 17:28
>何もかもが、吾々のような一般人の日常性で出来てはいない。
そのような人は、立ち居振る舞いだけではなく、身の回りの物に手を触れられた後も、
「ビシッ」と音が響くほどに規矩に沿ったものとなり、見た目に美しく、整然と感じられます。
特に、無造作に掛けられた上着や揃えられた履き物など、一見しただけで「軸」が感じられます。
これは、真似しようと思っても、決して一朝一夕にはできないものですね。
日々の小さな積み重ねが、
触れればたちどころに斬られるような鋭さを生み出すような気がします。
そのような人は、立ち居振る舞いだけではなく、身の回りの物に手を触れられた後も、
「ビシッ」と音が響くほどに規矩に沿ったものとなり、見た目に美しく、整然と感じられます。
特に、無造作に掛けられた上着や揃えられた履き物など、一見しただけで「軸」が感じられます。
これは、真似しようと思っても、決して一朝一夕にはできないものですね。
日々の小さな積み重ねが、
触れればたちどころに斬られるような鋭さを生み出すような気がします。
6. Posted by のら 2009年02月12日 18:05
☆ほぁさま
日常の師父の動きを拝見させて頂いていると、全く常人とは異なっていることが分かります。
それは、よく観なければ何も気付かずに見過ごしてしまうような事なのですが、
私のように、毎日のように師父のお側で仕事をしていると、その動きに目が慣れてしまい、
他の人の動きが目に入ったときに、「嗚呼・・何と違っているのだろう」と思えてしまいます。
最近、特に思うのは「クルマの乗り降り」です。
運転席に乗り降りするのは、オフィスの椅子に立ち居をするのとは違い、その人の身体操作が
モロに出てしまいますが、師父のそれは、まるで身体が浮いているように滑り込み、
その姿勢で運転席に座りに行けること自体が、不思議に見えるものです。
・・他にも、蜜柑の皮の剥き方や、お酒のグラスの持ち方、酒の注ぎ方、お箸の持ち方など、
挙げたらキリがありません。
大切なことは、私たち門人が如何にそれを学び、活かすか、ということでしょうか。
日常の師父の動きを拝見させて頂いていると、全く常人とは異なっていることが分かります。
それは、よく観なければ何も気付かずに見過ごしてしまうような事なのですが、
私のように、毎日のように師父のお側で仕事をしていると、その動きに目が慣れてしまい、
他の人の動きが目に入ったときに、「嗚呼・・何と違っているのだろう」と思えてしまいます。
最近、特に思うのは「クルマの乗り降り」です。
運転席に乗り降りするのは、オフィスの椅子に立ち居をするのとは違い、その人の身体操作が
モロに出てしまいますが、師父のそれは、まるで身体が浮いているように滑り込み、
その姿勢で運転席に座りに行けること自体が、不思議に見えるものです。
・・他にも、蜜柑の皮の剥き方や、お酒のグラスの持ち方、酒の注ぎ方、お箸の持ち方など、
挙げたらキリがありません。
大切なことは、私たち門人が如何にそれを学び、活かすか、ということでしょうか。
7. Posted by マガサス 2009年02月12日 19:30
ある日、宅急便で届いた荷物を、何気なく師父から手渡されたとき、
それがすごく重くて、驚いたことがあります。
師父は全然それを重そうに持っていらっしゃらなかったので、
まさかそんなに重いものだとは思えず、ついヒョイと受け取ったのですが、
余りの重さに、思わず落としそうになったのを覚えています。
また、反対に、いかにも重そうに持っておられた物を渡されたときに、
予想と違って余りにも軽かったので驚いたこともあります。
とにかく、いつも予想を裏切られるような事ばかりで・・(笑)
武術のマスターの身体構造というのは、一体どーなっているんでしょうね〜???
それがすごく重くて、驚いたことがあります。
師父は全然それを重そうに持っていらっしゃらなかったので、
まさかそんなに重いものだとは思えず、ついヒョイと受け取ったのですが、
余りの重さに、思わず落としそうになったのを覚えています。
また、反対に、いかにも重そうに持っておられた物を渡されたときに、
予想と違って余りにも軽かったので驚いたこともあります。
とにかく、いつも予想を裏切られるような事ばかりで・・(笑)
武術のマスターの身体構造というのは、一体どーなっているんでしょうね〜???
8. Posted by のら 2009年02月13日 11:39
☆マガサスさん
実際の戦いの中では、その「いつも予想を裏切られる」ことこそ、
勝利や生還に繋がる、重要な要素なのでしょう。
重い軽いもそうですが、早い遅いもよく感心してしまうことがあります。
ちっとも急いでいるように見えないのに、ものすごく早い、とか・・
特に対練では、周りで見ている人からはゆっくり動かれているように見えても、
その相手にとっては物凄く早い、ということがよく言われることですが、
何にしても、私たちの常識や日常性では測れない、非日常の世界であることは確かですね。
実際の戦いの中では、その「いつも予想を裏切られる」ことこそ、
勝利や生還に繋がる、重要な要素なのでしょう。
重い軽いもそうですが、早い遅いもよく感心してしまうことがあります。
ちっとも急いでいるように見えないのに、ものすごく早い、とか・・
特に対練では、周りで見ている人からはゆっくり動かれているように見えても、
その相手にとっては物凄く早い、ということがよく言われることですが、
何にしても、私たちの常識や日常性では測れない、非日常の世界であることは確かですね。
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