2009年02月08日

連載小説「龍の道」 第5回




 第5回 兄 弟(5) 


 異国情緒あふれる、ハイカラな街として知られる神戸の歴史は古い。
 昭和42年(1967年)には「神戸開港100年」の記念式典が行われたが、
それは鎖国が解けた後の、近代になってからの話で、実際にはもっと遥か以前・・・

 かつて平安の昔から、この地は京の都から瀬戸内海と九州を結ぶ海上交通の要衝として栄えており、それを重視した平清盛が、今の神戸港の一部である「大輪田の泊(おおわだのとまり)」を改修して中国・宋との貿易を行い、中国大陸や朝鮮半島との交流の港として存在し続けてきたのであった。

 また、神戸の福原という土地には、一時は京都から首都が移転されたこともある。
つまり、かつて神戸はこの国の「都」であった時期さえある、ということになる。
 この地の歴史の深さや、開放的な文化が育まれてきた背景が窺える話であるが、やがて江戸時代の長い鎖国政策を経て、開港後には外国人居留地が設けられ、あらゆる面で欧米の文化や生活がこの地に持ち込まれ、いちはやく文明開化の洗礼を受けることになった。

 現在でも、世界中のありとあらゆる文化や人種を見ることが出来るこの街の風土は、
実は、清盛の時代から、すでに始まっていたと言って良い。


 ・・・そんな街で、宏隆は生まれ、育った。

 住居は、神戸の街と港を見下ろす、山の手の高台にあった。

 華厳の滝や、那智の滝といった、よく知られる名瀑布と並んで、「日本三大神滝」と称される「布引の滝」の東麓に位置するこの屋敷は、この辺りの高級住宅地の中にあっても少々格の違う豪邸で、表通りからは中の建物の屋根さえ見えず、地図を見ると、道を挟んだ隣りにある高等学校の校庭を含めた広さと、ほぼ同じくらいの広大な敷地を有していた。

 家は坂道の途中にあるので、敷地を平らにするために、その長く急な坂道の傾斜の分を城のように高く石垣を積み上げてあり、初めてそれを目にすると、一体こんな大きな石を何処から運んできたのだろうかと思える。

 この家を訪う人は、門柱に「通用口」と達筆に墨書された木の札が掛けられているにも係わらず、大方は入口を間違えて、ご用聞きが出入りするその入口で呼び鈴を鳴らすことが多かった。
 もっとも、普通の人なら、まず正門にしか思えないほどの、立派な屋根まで付いた通用口なのだから、無理もないことかもしれない。

 正門はずっと離れた坂道の上の方にあり、なるほどこれが正門かと、改めて頷けるような、
厳かではあっても何の傲慢さも感じられない、穏やかな屋根が載った大きな門が見える。
 そして、ひとたびその門を潜ると、それまでの市井の喧噪から完全に隔絶された、嘘のように閑静な世界の広がりに、誰もが心を洗われるような気分を味うことになった。

 門を過ぎて、心地よいカーブのつけられた、よく手入れの行き届いた疎竹の林間を縫うように砂利の小道を抜け、さらに散策でもするように、緩い石畳の坂道を歩いていくと、やがて幾つかの大きめの飛び石が、苔生す緑の中に美しく配置されている。
 さらにその向こうには、清々しく水の打たれた霰崩し(あられくずし)の敷石が現れ、緑錆に彩られた銅の深い庇の下に、黒瓦が整然と敷かれた、侘びた趣の玄関がその奥にひっそりと待ち受けている・・・

・・そういった風情に、細やかに設計されてあった。

 そして、その、まるで京都の茶匠宅を想わせるような、畳敷きの清々しい玄関を上がると、
凡そこれが山の手の豪邸などとは微塵にも思えぬ、清楚な佇まいがそこかしこに感じられる。

 戸外から見る他人の興味勝手な予想とは裏腹に、この家には華美に過ぎるものや、その財力を誇示主張するようなものは何ひとつ見あたらず、瀟洒で開放的な異国情緒の街にあっても、ともすれば戦後の経済復興の中で忘れられそうになっている、日本人の魂や美意識の原点が巧みに調和している家であることが感じられ、何やら心の故郷に還ってきたような安心感に包まれるのであった。


 夜ともなれば、ほんのりと雅やかにライトアップされた日本庭園越しに、一千万ドルの夜景と讃えられる、神戸の美しい街が眼下に広がりを見せる。

 別棟には家族が普段生活をする、英国式に建てられた洋館があり、その前には西洋庭園が広がっていたが、宏隆はよく、好んでこの純日本建築の広々とした畳敷きの縁側に座って、何をするでもなく、この街の夜景を飽きることなく眺め続けた。


 ・・・その加藤邸に、兄弟して、こっそりと帰ってきた日の夜。

 兄が、宏隆の部屋の扉を、辺りを憚るように声を潜めて、そっとノックした。

「・・宏隆・・・おい、居るか?」

 返事を返すより先に、すぐにドアを開けた宏隆は、
兄の顔がまだ腫れ上がったままになっているのを見て、心配顔で訊いた。

「大丈夫かい? 夕食の時より、ずいぶん腫れてきた・・」

「なあに、これくらい・・・ 
 僕だって、ケンカのひとつやふたつ、したことはあるよ」

 そう言いながら、傍らの大きな皮のソファにドッカリと腰を下ろして、

「・・おお、やっぱりジムランは良いなぁ・・うむ、音楽は、こうでなくちゃいかん!」

 ジムランとは、JBLという米国製スピーカーの創業者である天才エンジニアの名前、
“James B. Lansing” をもじった、マニアックな呼び名である。
 その宏隆自慢のJBL4320という、直径が38センチもある大きなウーファーを備えたスピーカーから、彼の好きなバラードがやや音量を上げ気味に流れていたが、すぐにボリュームを落として針を下ろし、兄の好みのコルトレーンのジャズに盤を替えながら、こう言った。

「・・そうか、でも、父さんが帰ってきたら、心配するだろうな」

「いや、何も言わんだろう・・あの人は、そういう人だよ。
 ・・それよりも、昼間のことを、早く教えてくれないか?
 何だか気になって、ロクにメシも喉を通らない感じなんだ。
 もっとも、口の中をそこらじゅう切って、痛い所為でもあるけどな! ハハハ・・」

 ・・そう言って笑う兄に、

「今日のエビフライは、思ったほど不味くはなかったけどね・・」

 宏隆は、軽い冗談のつもりで言ったのだが、
兄は、昼間の話題に繋がらないので、ちょっと真面目な顔になって、

「そうじゃなくって・・・
 お前が習っているのは中国産のアヤシイ武道で、
 師匠はとても危険そうな人間だ、という話の、続きをしに来たんだよ。
 ・・いつから習ってる? その、中国の・・タイキョクとか、何とかいうヤツを・・・」

「もう、ちょうど一年くらいになるかなぁ・・」

 アーチ型の出窓に寄り添うようにして置かれた、古風なランプが灯る瀟洒なカフェテーブルの椅子に腰掛けながら、暢気な声で、弟が言う。
「父さんの勧めで、僕が高校に入る前から通い始めた “日本文化研究会” っていう団体が
あるんだけど・・」

「・・ああ、あのノーベル文学賞候補の天才作家、平岡威夫が主宰しているやつか。
ウチの大学も講演に招いたが、作家にしてはなかなかホネのある人物だったな・・
 東大の講演じゃ、全共闘たちを前にして、
“私は生まれてから一度も暴力を否定したことはない” なんて言ったそうだが・・」

「そうそう・・で、そこの常任講師の、
“東亜塾” のK先生が、居合をされていてね。
すごい武道の達人で、塾生たちに居合いや
柔術を教えているって・・・」

「居合いってのは、日本刀を振り回すアレ
だろ? エイ、ヤァーッ!って・・」

 兄の隆範は、ソファに座ったまま、大袈裟に刀を振る真似をする。
「まあ・・そうだね。その研究会でお会いしてあれこれお話ししているうちに、K先生の道場に招かれて、僕も居合道を学ぶようになったんだ」

「・・ああ、覚えているよ。お前、よく庭先で真剣を振り回していたよな。
ハハ・・危険なヤツだ。しかし、カタナはやはり、日本人の魂だよな。
妖しく光る白刃を見ていると、こう、何というか、魂のいちばん奥の方がムズムズしてくる。
・・・そう、それで?」

「そのK先生が、去年の夏休みの前に、面白い人物を紹介しようかって仰ったんだ」

「・・おっ、それが、そのアブナイ人物だったってコトか?!」

「まあ、慌てずに聞いてよ・・
 ・・で、面白い人って、どういう人なんですか、ってお訊きしたら、
君の人生をガラッと変えてしまうかもしれない、とても怖ろしい人だ・・って」

「そーらみろ! やっぱり、怖ろしい人物なんじゃないか!」

「お願いだから、最後まで聞いてくれないかなぁ、もう・・
・・それで、僕はその、自分の人生を変えるかもしれない、と言うことと、
その人が怖ろしい人だということに、とっても興味を持ったんだよ」

「うーん・・お前はやっぱり、父さんの血をたっぷり濃く受け継いでいるんだな。
オレだったら、怖ろしければ、そんなヤツには絶対に近寄らないところだが・・・
 うん、それで?・・それで、どうしたんだ?」

「・・とにかく、お会いすることになったんだ。
初めてお会いしたのは、南京町の “祥龍菜館” だった・・・」

「ほう・・? あの有名な、高級中華飯店で会食か。
広東料理だったかな? 広東料理は野菜がウマイ、っていうが・・・
しかし、逃亡中の人物にしては、ずいぶん目立つ店に来るものだなぁ・・」


 ・・兄の隆範には、話しても差し障りのないことだけを選んで、簡単に語ることにしよう、
と宏隆は思った。

 コトは、図らずも自分が関係してしまった特別な社会に通じていることであり、もしも口外すれば多くの人に迷惑が掛かり、自分や家族もただでは済まないことは、高校生の宏隆にも十分理解できていたからである。

 しかし、この物語を進めるためには、そこで宏隆が体験したことのすべてを、読者にお話しておかねばならない・・・

taka_kasuga at 20:31コメント(0)連載小説:龍の道 | *第1回 〜 第10回 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ