2009年01月19日

美し店・美し宿 「プロローグ」

 人が旅に出るのは、棲み慣れた日常から遠く離れて、その日常とは異なる新しいものと出合うためかも知れない。歌にあるような、どこか遠くの、知らない町を歩いてみたい、というのが旅の原点なのだと思える。

 しかし、私たちが旅に出たときに、旨い酒と肴に舌鼓を打ち、日常生活の疲れを癒す心地よい風呂や寝床を提供する良い店や良い宿にすんなりと巡り会うことは、なかなか難しい。
 もちろん「良い店」や「良い宿」の定義は人それぞれで違うのだろうが、本当に良い店や良い宿屋というものは、誰もがそこで過ごした時間に満足でき、また再びそこに訪れたいと心から思えるものに違いない。

 それなりのお金を払えば、良い宿に泊まれるのは当たり前・・というわけではない。
 「高級ホテル・高級旅館」イコール「良い宿」であるとは限らないのだ。大枚を注ぎ込んでも全くそれだけの価値を見出せない宿もあれば、こんな値段で良いのかと、申し訳なく思えるほどの良心的な宿もある。一泊に五万円払っても不機嫌になってしまう豪華な宿もあれば、わずか数千円の宿泊料で最高の気分に浸れる、寒村の鄙びた温泉宿も在るのである。

 円山洋玄老師は、よく弟子たちに、何に付けても「一流」を体験するよう勧めておられる。
 食事や宿泊に関しても、一流の宿屋に泊まって、一流の店で食事をして、一流の味をその舌で味わって、たっぷりと一流の持て成しを受けて来る機会を持ちなさい、その為に自分の稼いだお金を投資するのだ、そうすれば「一流」というものの何たるかが、少しばかり解ってくる・・・と言われる。

 確かに、常に二流、三流の中で生活しているだけでは、決して「一流」の姿は見えてくる筈もないが、「一流」をきちんと経験しさえすれば、反対に、そうでないものは自ずと見えてくる。
 観る眼が養われるのである。

 ・・そして、それはそんなに難しいことではない。
 早い話が、赤坂の「辻留」に行って懐石を頂いてくれば、そこで過ごす僅かな時間だけで一流の日本文化と日本料理の真髄をたっぷり体験することができるし、「あさば」や「蓬莱」に一泊すれば、ああ日本人に生まれて良かったと、日本とはこんなに素晴らしいクニだったのかと、つくづく思えるはずである。
 「辻留」の夕食は三〜四万円するし、「あさば」の宿泊代も同じくらいする。しかし、そこへ行った誰もが、これほどの満足や感動が得られるのなら、こんな安いものはないと思うに違いない。
 それは、一流のボクサーや柔術家の試合が、たとえ第1ラウンドのゴングが鳴ってから、わずか1分足らずで相手を屠って終わってしまったとしても、その芸術的なまでに研ぎ澄まされた
”生” の試合を、飛び散る汗が降り掛かる最前列で見るために何万円という席料を支払っても悔いが残らない、というのと同じであろう。

 「一流」とは、そういうものである。
 そして、その料理、そのしつらえ、そのサービスによって私たちが体験するところのものは、いささか大袈裟に言えば、人間の営みとは何か、この世界とは何か、生きるとは何であろうかという、ともすれば凡庸で陳腐で煩雑な日常では忘れ去られている、人生の命題にまで想いを馳せさせてくれるものでもある。
 しかし、それは決して高嶺の花ではない。求める意志さえあれば、誰もがそれを体験することが可能な、吾々が起居している、この同じ世界のものなのである。

 ここでは、師父をはじめ、旅行経験の豊かな太極武藝館のスタッフが、そのような思いで実際に感動したり満足することのできた「宿屋」や「食事処」を、国内外を問わず、その体験談としてご紹介していきたいと思う。



  


tai_ji_office at 20:08コメント(0)美し店・美し宿(うましみせ・うましやど)  

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