2010年02月

2010年02月25日

Weekend Dinner その7 「ほんまもん」

                   by そむりえ・まっつ (拳学研究会所属)



 立春を迎えた週末・・・
 一年で最も寒い峠を越え、春に向かい始めたその日の宴は、
 かってないほどに「凄味」に充ちた世界を拓いてくれました。

 ありとあらゆる物事に値札が付けられ、圧倒的な速度で流れていく現代にあって、
 「本物」である事とは、如何なる意味を持っているのでしょうか?
 巷ではデジタルの時流に乗ってフェイクやコピーがあらゆる領域を埋め尽くしています。
 そんな時代でも「本物」を伝える人たちは、己が利得を省みず、
 粛々と道を歩み続けています。

  「一流を身に付けるためには、一流を味わわなければならない・・・」

 常々、師父は述べられます。

 武藝館で供される食饌(しょくせん)は、常に「本物」が吟味されています。
 その中にあってもこの日の食卓を彩った逸品は、ひと際、深い余韻を残してくれました。
 小生の拙い筆では、その真価をお伝えするには甚だ心許ないのですが、
 せめてその一端でもお伝えできればと思います。

 久々のウィークエンド・ディナー・・・
 「ほんまもん」の世界をご賞味(見)下さいませ。


   *  *  *  *  *  *


 立春寒波が列島を吹き抜けた週末・・・
 深深と冷え込んだその日の稽古は、深夜の一時半にまで及びました。
 稽古で火照った心身には、寒気も涼気と覚えるほどです。

 身支度を整えて師父のお宅を詣でますと、常とは違う居間の佇まいに一寸驚きます。
 どうやらリビングに隣り合う和室が今宵の宴席のようです・・・

 座敷の奥には三分咲きの紅梅が活けられ、 
 壁には古色を帯びた大和歌(やまとうた)の短冊が掛けられています。
 凛然として見事な空間に、身の内の引き締まる感覚を覚えます。

  筆者:「牧水・・・? これは若山牧水の直筆ですか?」

  師父:「そう、姉から譲り受けたんだ。家の蔵に眠っていたそうでね・・・
      意外と柔らかい字を書く人だったようだね・・」


  【 何となきさびしさ覚え山さくら花ちるかげに日をあをぎみる 】


  師父:「本来、大和言葉は、語頭に濁音や半濁音はなく、濁音を読むときにも
      軽く柔らかく読んだのだよ・・・試しに詠んでみなさい」

  筆者:「なにとなき/さひしさおほえ/やまさくら/はなちるかけに/ひをあをきみる」


 確かに・・・本来の日本語の響きとは、なんとも柔らかく繊細な味わいに充ちています。
 旅と酒を心底から愛した歌人、その春を言祝ぐ心情が木霊する・・・
 そんな心境に誘われます。


  師父:「さて・・・、今日の主役はこちらでね・・・」



  



 いずれも、古都・奈良大和が誇る老舗の逸品・・・

 「今西本店 純正奈良漬」と、「嬉長 純米酒」です。


 果たして、これが本当に奈良漬なのか・・?
 色は照り映えるような射干玉(ぬばたま)の黒。
 あまりにも雅やかな色艶に驚きます。

 日本酒も香りが素晴らしい!
 力強くて芳醇。
 嬉長、つまり「嬉しい事が長く続くように」と名付けられた通りの、生命の水です。

 瓜、胡瓜、西瓜・・・漆黒に輝く香の物に箸を伸ばします。
 その味わいは・・・例えるならお酒の精気を凝らせて一塊と成したら、
 斯くの如く成ろうかと云う程に、純粋で鮮烈な味感です。
 事前に奈良漬と知らなければ、未知の食べ物と判じてしまうほど、
 既知の奈良漬とはその在り方がまったく異なります。

 奈良漬の余韻の残るまま「嬉長」を口に含みます。
 舌に沁み込む味わいの深さ、鼻を抜ける鮮やかな香気に眼を開かされます。
 ただ美味しいだけでは無く、何かに芯を揺さぶられる心地です。

 漬物と日本酒だけの食卓ですが、なんと深い衝撃に充ちている事でしょうか!


  師父:「これが、 ”ほんまもん” の奈良漬と、日本酒だよ・・!!」

  S先輩:「あぁ・・・ウーン・・・(もぐもぐ・・・無心)」

  玄花后嗣:「どこか懐かしさを覚える味ですね・・・」

  師父:「大和の地は、祖先(藤原氏)とは縁の深い地だからね。
      何かが響き合うのかもしれない・・・」

  筆者:「純粋な味ですね・・・」


 そう・・・奈良漬の頭に付く「純正」は伊達ではなく、
 現在の日本で「純正」を名乗る事を公に認められた唯一の奈良漬なのです。

 奈良漬とは蔬菜の塩漬けを酒粕に漬け込んだ漬物で、
 奈良朝の時代から「糟漬(かすづけ)」として貴顕の珍重を得てきました。

 素材は野菜と塩と酒粕だけ。
 幾度も新しい酒粕に漬け替えて作られる・・・なんとも手間暇の掛かる漬物です。
 昨今では中国産の野菜を添加物と漬け込み、一年も経ずして世に出回る物が多いようですが、この「今西」の奈良漬には、一切の手抜かりもありません。

 厳選された素材のみを用い、漬け替えること六回以上、
 漬ける期間は十年(!)にも及びます。
 そうして始めて、古より伝わる本来の奈良漬と成るのです。

 日本に唯の一軒のみの「本物」となってしまった現在・・・
 「果たしていつまで続けられるものか・・・」
 そう言いながらも、古式の製法を守り伝えておられるのです。

 そしてまた、今宵の日本酒「嬉長」も古式を守り伝える酒蔵の銘品です。
 古来より「奈良流は酒造り諸流の根源なり」と言われる奈良は、
 日本清酒発祥の地であるとされています。
 その古の都、平城(なら)の、生駒山を仰ぎ見る地で酒造りに勤しむこと四百有余年・・
 生駒の地に湧く神水と、伊勢神宮の御神米を造る水田の米から醸される銘酒です。

 以前に武藝館にご縁のある方より師父に贈られて、
 皆その味わいの奥深さに感じ入ったとの逸話もある品で、
 今回、満を持しての登場となりました。

 「現代の名工」にも選ばれた杜氏の山根氏は、
 『自分が守り通していくという気概を常に持って後進の育成も手がけたい』
 と、気を吐きます。

 この両者に共通する気概は何処から生じるのでしょうか?


  師父:「やはり、永い歴史を経てきた土地の人間は気骨が違うな・・・
      無名の職人でも実に見事な作品を造るから、驚いてしまうよ」

 手酌でご愛用の備前のぐい飲みに日本酒を注がれ、
 恐懼する我々にも手ずからに杯を充たして頂きます・・・
 その仕草、その拍子がはっとするほど綺麗で、眼を惹きつけられます。

  師父:「月下独酌・・・というのも、私は好きだがね」

 莞爾(かんじ)と笑みを零(こぼ)され、掌中の杯を口元に運ばれます。

  師父:「でも、こんな繊細な文化は、中国には無いな。
      大和し美し────────この国の文化というのは、本当に凄いものだ・・」


 ・・・確かに、
 日本の文化には徹底して余分を削ぎ落とし、
 繊細に純度を高めていく方向性があるように思われます。
 今夜の宴で供された、酒食も、器も、書も、一見質朴ながらも、
 深い文化の香りに充ちています。

 平生、師父は述べられます。

  『太極拳は ”引き算” なのだ・・』

  『余分を捨てて、もう引けるものが何も無いところに、太極拳の原理がある・・』

 師父の表現からは、日本の文化に通底する香りが感じられます。
 その表現自体、師父が日本人である事から発されているようにも思われます。

 純度を高め、既に物事の本質に到達している状態であれば、
 畢竟、何か手を加える事が出来るのでしょうか?
 窮まった在り方、模索の尽きた最果てに辿り着いているのなら・・
 その先は守るしかない。
 その追求は古くて、常に新しい。
 「本物」は、人の時間とは無縁です。

 「本物」とは何か?

 何故、守り伝えられるのか?

 それは聞いても、眺めても分かりませんが、
 直に触れて味わえば、否応無く納得できるものでした。
 その生の感動が、人をして「本物」に向かわせるのだ・・・
 そう沁み沁みと実感した夜となりました。


                                  (了)

2010年02月20日

歩々是道場 「站椿 その3」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 ある日、師父から、割り箸と輪ゴムと針金を使って、二種類の模型を作るように依頼されました。拳学研究会の人たちの教材として用いる、太極拳の構造の「核心」を表す模型だということです。

 不思議な図形が描かれたスケッチを渡された私は、その後何時間もかけて何本もの割り箸や輪ゴムと格闘した末、どうにか師父が希望された模型を作ることが出来ました。
 初めはその模型を見ても、作った私自身、それが何なのだか、何を表しているのだかさっぱり分からず、果たしてこんな割り箸のジャングルジムのようなもので、高度な武術構造の核心が表現され得るのだろうかと、少々疑問に思えていました。

 しかし、ようやく完成したその模型を師父が手にし、その末端をゆっくり動かすと・・・
 摩訶不思議!・・・割り箸の模型は、何とも絶妙に揺蕩(たゆた)う動きを見せながら、全体が同時に動くではありませんか!!

 ・・・近ごろ、こんなに驚かされたことはありません。
 自分で作った物に、こんなに感動したのは初めてのことでした。
 そして、それを目の当たりにしたことで、私の内にある ”確信” が生まれてきました。
 それは、これこそが「站椿」で認識されるべき構造そのものである、という確信でした。


 太極拳の構造とは、まずは何を措いても「順体」であるということでしょう。
 いや、ことさらに「太極拳の構造」などと言うのは大袈裟かも知れません。何故ならそれは私たち人間が本来誰もが持っている自然な構造であり、そもそも「順体」という言葉自体が、文字どおり「自然で正しい、ヒト本来の身体構造」という意味を表しているからです。

 中国武術に「順体」という術語は見当たりませんが、趙堡の或る名の知られた門派に伝わる拳譜には、その門派独自の八種類の要訣の中に「順」というものが見られ、七項目にわたって「順であるところの身体」が求められており、

 《 太極拳は自然に沿うこと(順逐)が最も重要である。 拳架は、順身、順腿、
   順手、順脚であることが求められる。 順とは自然に帰することである 》

 ・・などと、詳しく解説されています。

 私たちの稽古でも「順体」や「順身」という言葉が幾度となく出てきて、「これが順体」「だから順体」「こうなるが故に順体」などと言われる度に、何となくニュアンスが感じられるのみで、私にはその「順体」ということの実際の意味が一向に理解できませんでした。

 割り箸のジャングルジムに驚かされたのは、入門以来、長年の懸案であった「順体の謎」が、その模型の不思議な動きを見ただけで、あっという間に解けたような気がしたからです。
 「順体」に対する私の考え方は、まったく間違っていました。

 ひとつには、「構造」とは、あくまでも動くための構造であり、これは「静」のための構造、これは「動」のための構造、というように区別されてはいないということ。

 もう一つは、まず「静の構造」を得なければ、決して「動」は理解され得ないということ。
 これは、太極拳は如何に動くのか、太極拳は如何に戦うのか、つまり太極拳とはどのような武術であるのか、という大きな問題に関わってくる、非常に重要なポイントです。

 さらには、拳論に『一動無有不動、一静無有不動』と説かれる、

  《 ひとつが動となれば動でない処はなく、ひとつが静となれば静でない処はない。
    動に於いては全身が動となり、静に於いては全身が静となる・・・ 》

 という事が、この割り箸の立体モデルのお陰で、明確に理解することができたのです。

 そして、太極拳では拙力を捨てて「勁力=非拙力」を身に付けていくのではなく、站椿で理解される「動」は、初めからすでに「非拙力」であるということ。
 站椿を「静」から練っていくことの意味は、この「非拙力」、つまり「勁力」を理解するためにこそあったのだと思えました。

 「構造」については、昨年6回のシリーズでブログに連載した「甲高と扁平足」でも、脚(ジャオ)の構造を題材に思うところを述べましたが、その最終回で触れた「誰も語らなかった太極拳の構造」は、紛れもなくこの「順体」の中にあり、この割り箸の模型が示すところの「構造」そのものである筈なのだと思えます。

 「順体」は、それ自体が「纏絲勁」を生み出す容れ物となります。
 纏絲勁は、陳鑫老師が「太極拳纏絲精論」や「太極拳纏絲法詩四首」などで詳しく述べているように、陳氏太極拳の精華の在処であるわけですが、進退、左右、上下、裡外、大小、順逆、の六種の組み合わせが錯綜する、筆舌に尽くし難い拳理奥妙であるとしても、それを導き出す「身体の在りよう」は ”ただひとつのこと” であると、私は考えています。

 そして、その「ただひとつのこと」を端的に表しているのが「站椿」なのだと思えます。
 当然ながら、武術とは「動く」ものであり、戦闘では動けなくてはお話になりませんが、その根本である高度な構造を解くには、動いていては決して解らない・・・
 だからこそ、初めに「静」ありき、「無極椿」ありき、となるのでしょう。

 この「無極椿」は、おそらく全ての太極拳門派で、その内容がほぼ等しく指導されているところのものと思われます。従って、それを基礎とし、それを根本として練拳に励めば、誰もが等しく太極拳の構造原理を習得することが出来るはずのものです。

 しかし、現実的には、何ゆえに斯くもそれが難解で、ほとんど誰にも理解できないようなものになってしまうのか・・・金剛搗碓や単鞭どころではない、套路を練らんとして初めに立った時の姿さえ原理とはほど遠いようなことが、どうして実際に起こるのか・・・・

 第一には、それを正しく伝える人が極端に少ないこと。

 第二には、その実際を正しく伝えてもなお、その正しい「在り方」が難解であること。

 第三には、それが門派や個人の都合によって猥雑なものへと歪められてきたこと。

 第四には、それをそこまで極めようとする学習者が著しく少ないこと。

 ・・・それらの理由によって、その根本が見えにくくなっているのだと思います。
 

 太極拳の練法は【 以意行気、以気運身(意を以て気を動かし、気を以て身体を動かす)】ことに拠るとされます。しかし「意」や「気」を以て動かすと言われても、同じ漢字を使う私たち日本人でも、いや、実際には当の中国人でさえも、その ”意” とするところが分かるような、分かっていないような、雲を掴むような内容に思えてしまいます。

 しかしながら、構造から読み解いて行こうとすれば、それは自ずと明らかになってきます。
 正しい構造からアプローチしていけば、そこに「意」や「気」という言葉が用いられた理由が、実はこの「構造」ゆえのことであったのだと、つくづく思えてくるのです。

 正しい構造を身に付けるためには、それを理解している門派や老師のもとに弟子入りして、ひたすら教えを乞う以外に方法はありません。


 では、それが「正しい構造」であるということをどうやって見分けるのか・・・?

 それは、実はそれほど難しいことではありません。
 それが「動き」ではなく「構造」によるものであるという目でそれを見た上で、


 まず、その門派の学習体系を明確に、具体的に学習者に提示できるか、

 それが明らかに体系的に優れたものであると、学習者が実感できるものであるか、

 それが西洋式の体育運動理論とは明らかに異なったものであるか、

 太極勁の種類とその内容を、それぞれ明確に解説することが出来るか、

 基本功や套路が太極拳の基礎的な要求どおりに正しく行われているかどうか、

 無極、馬歩、弓歩などの架式が、型どおり、要求どおりに行われているか、

 難度の高い動作や、大きな方向転換の動作が身体構造として正しく説明されているか、

 推手や散手の発勁が力みではなく勁力で行われ、僅かな動きで大きな力を出しているか、

 対練に於いては接触、非接触に係わらず、常に相手が御され、著しく崩されているか・・


 例えば、そのようなチェックポイントをよく観察すれば、それが「正しい構造」によって行われているかどうかは、自ずと明らかになるはずです。

 そして、正しい構造が提示され、それを完成させていくことが拳理拳学の要点であることをきちんと教えて貰える門派や老師であれば、誰もが納得した上で、深遠な太極拳の学習を喜びに満ちて学んでいけるに違いありません。


                                 (つづく)

2010年02月15日

連載小説「龍の道」 第39回




 第39回 武 漢 (wu-han)(11)



 リングの周りで戦いの成り行きを固唾を呑んで見ていた兵士たちも、まだ静まり返っている。この戦いで宏隆が初めて拳を出したその一撃で宗少尉がリングに沈んでいったことを、誰もが信じられないような面持ちで、じっと見守っているのだった。
 
 おそらく、それほどのダメージは無い・・・・
 それをもっと効かせるように打てたかもしれないが、利き手で打ったわけではなく、もとより宏隆もダメージを効かせることを目的としてはいなかったに違いない。
 しかし、宗少尉はこのこと自体がまったく信じられないように、ポカンとしてリングに仰向けに寝転んだまま、まだ立ち上がろうとはしない。
 
 
「・・・よし、それまでっ!!」

 陳中尉の鋭い声が、ホールに響く。

 宏隆が宗少尉に駆け寄って行き、その傍に膝を着いて、

「・・・ありがとうございました、とても勉強になりました。
 そんなに強く打たなかったけど、大丈夫ですか・・・?」

 そう声を掛けると、

「今のは・・・何をしたの・・・?」

 寝転んだままで、如何にも不思議そうに尋ねてくる。

「まだ自分でもよく分からないのですが・・・・
 ほんの少しばかり、解けてきたような気がするのです」

「・・・解けてきたって、いったい何が・・・?」

 宗少尉には宏隆が何を言っているのか、よく分からなかったが、

「何か、とても大切なことを、体験したようですね・・・・」

 代わって陳中尉が、微笑みながら声をかけてくる。

「はい・・でも、まだほんの少しなのですが・・・・
 宗さんと手合わせして頂いたお陰で、知りたかった事がやっと見え始めてきました」

「それは素晴らしい! 
 何であれ、そのきっかけを大切にすることです。
 どのような偉大なことも、始まりはすべて、そのようなささやかなものであるに違いありません。それを大切に出来るかどうかで、その後の成就が決まるのです。
 それを大事にして、もっと明確な理解になるよう、追求し続けることですね」

「はい、ありがとうございます」

「ヒロタカ・・・何だかよく分からなかったけど、今日は私の完敗よ!!」

 宗少尉がようやく立ち上がり、握手の手を差し伸べて、そう言う。

「あなたは決して ”坊や” なんかじゃない・・・失礼なことを言ってごめんなさい。
 今の突きは、まるで槍で体を突き抜かれたみたいだった・・・・
 あれじゃ、防具やグローブを付けても、まったく意味がないでしょうね!」

「いや、完敗だなんて、そんな・・・・」

 いささか照れながら握手を交わして、

「だいいち、僕はまったく勝ったなどという気がしていません。
 むしろ、宗さんが正確な ”軸” で攻撃して来てくれたお陰で、自分の勉強ができて、これまで暗闇の真っ只中にあった疑問に、少しずつ光が見えてきた感じなのです」

「疑問・・・・?」

「はい、そもそも、なぜ相手が自分に有効な攻撃を加えることができるのか・・・
 そして反対に、なぜ此方からは全く攻撃が通じないようなことが起こるのか。
 以前、王老師と手合わせをして頂いて、コテンパンにされた時に・・」

「コテン・・パン・・?」

「あ、失礼・・えーっと、He beat me completely・・・ん、soundly かな? 」

「ああ、なるほど・・・コテン、パン、ね?」

「そう、その時に、なぜそんな一方的な事が可能なのか、とっても不思議に思えたのです。それ以来、ずっと頭の中にそのことがあって、片時も離れませんでした」

「オォ・・戦いというのは互いに激しく攻防を応酬し合うことだと思っていたけれど、そうではない世界を、王老師は陳氏太極拳で示されたということね?」

「そうです、僕にすれば、ほとんど奇跡か超能力のように思えましたが・・・」

「・・いや、それは奇跡でも何でもなく、本来は武術で最も基本とするべきところの在り方なのです」

 陳中尉が、きっぱりと言う。

「ヒロタカが宗少尉に対した構えは、拳法ではなく、日本の ”居合” ですね?」

「あ、はい、よくお分かりですね・・・!」

「イアイ・・・・・?」

「ああ、宗少尉は知らなかったかな?
 居合は、日本のサムライが修行する、カタナを使った武器術のことだよ」

「カタナ・・・オォ、サムライ・スオード!!」

「そう、日本刀で、抜き打ちの一太刀で斬る、とても高度な身体の使い方だ。
 私は日本の武術も少し研究しているけれど、サムライが居合で養う ”中心” というのは、とても強力なものだね。防具を着けて互いに打ち合う練習ばかりしていると、つい、その ”中心” の訓練がおろそかになってしまうものだが・・・」

「僕はいつも、巧みに躱して隙を見て打つ、ということよりも、どうすれば打たれないのか、どうすれば一方的に打つことが出来るのか、という事ばかり考えてきました」

「それが正しい・・・武術とは、決して相手に打たれないことです。
 そうでなくては、戦場ではいとも簡単に殺(や)られてしまいますからね」

「そして、自分が打てば必ず当たること・・・ですね?」

「そうです、そうでなければ、戦場では武術として成り立ちません」

「そして、当たれば、必ず相手を屠れること・・・・」

 宗少尉がつぶやくように言う。

「そのとおり、何度打っても相手がまた起き上がってくるような攻撃は、戦場では何の役にも立たない。相手といつまでも打ち合っていられるのはスポーツの試合だけです。
 ところが、一撃で相手を屠ることも、相手から一発も当てられないことも、実際にはとても難しい・・・・」

「・・そうです、僕はそこのところを、小手先で巧く打ち合えるテクニックではなく、王老師のような絶対的な戦闘原理として理解し、自分のものにしたいのです」

「うん・・ヒロタカなら、きっと、その原理を見つけることが出来ますよ!」

「私もそう思うわ、何しろ、たった一発で私を倒したのは貴方が初めてだし・・・
 しかも、それが高校生だっていうから、驚きね・・!!」

「いえ、さっきのは、ほとんどマグレのようなものです。
 自分でもよく分かっていないので、もっと研究しないと使えません」

「よし、それじゃ、まずは前途を祝して・・・・」

 そう言うと、宗少尉は宏隆の右手を取って、リングの周りで静かに彼らの話を聞いていた兵士たちに向かって、その手を高々と挙げて見せた。

 大きな拍手がホールに響きわたった。そして、そこに居る誰もが、この日本の少年が見せた戦いぶりに賞賛を惜しまなかった。


「さあ、もう今日の稽古はお終いにしましょう。
 町に出て、ヒロタカが私たちの家族になる前祝いをしなきゃ!!
 ・・・・ね、そうしましょうよ、陳中尉!」

「おお、そうだな、雨も上がったようだし、今夜は武漢班がヒロタカの歓迎会をしよう!!」

「・・うわぁ、ホントですか? 町に出て台湾の料理を食べたかったんです!!」

「ははは・・・円山大飯店の正統ディナーは、お口に合わなかったかな?」

「いえ、とても美味しいのですが、路地裏の店にも行ってみたくて・・・」

「・・ほう、路地裏の店に・・・? 
 生粋のフジワラ・ブラッドを持つ御曹司にしては、意外なことを言いますね」
 
「ぼくは何処へ行っても、下町の、人間の暮らしの匂いのするところが大好きで、必ずそんな所をウロウロと徘徊するクセがあるんです・・・」

「台湾の料理はまずハズレがありませんよ。どこで何を食べても、とても美味しい。
 庶民レベルの食事がこんなに美味しい国は、世界のどこを探しても、ちょっと無いんじゃないかな・・・!」

「・・あら、陳中尉、きっとフランス人もベトナム人も、みんな自分の国のコトをそう思っているんじゃないかしら!!」

「・・あ、そうか・・きっとそうだな! あはははは・・・・・」

「あははははは・・・・・」



 その夜、宏隆は、陳中尉と宗少尉に連れられて、雨上がりの台北の街に繰り出した。
 場所は「士林(シーリン)」という、夜市で有名なところである。
 ついさきほど、リングで宗少尉と戦った武漢班の三人の男たちも一緒だ。

「ヒロタカ、今夜はあなたの歓迎会だから、何でも自分の好きな物を食べてね。
 でも、歓迎会に夜市の屋台料理というのも、どうかと思うけど・・・・」

「・・いえ、いまの僕には、高級中華料理よりも、コレがいちばん似合っているような気がします」

「・・そう? それなら良いけれど」

 迷彩の軍服を脱いで、平服に着替えた宗少尉は、ちょっと見ただけではとてもその人だとは分からない。長いスマートな脚にピタリとフィットした黒のズボンを履いて、光沢のあるTシャツの上にジーンズのジャケットを羽織っただけの姿なのに、賑やかな街の灯りにも似合う、美しい女性に見える・・・何気ない笑顔まで、輝いて見えるのだ。
 そんな宗少尉の美しさに、宏隆はつい、ボーッと見惚(と)れていた。

「・・どうしたの? 何だかボーッとしてるけど・・・」

「あ・・いや・・・ その・・ちょっと見惚れて・・・・」

「見惚れるって・・何に・・・?」

「・・い、いや、何でもありません・・・いやぁ、士林は賑やかなところですねぇ!
 神戸の南京町より賑やかかもしれないなぁ・・・・!!
 ・・えーっと、基本的に僕は食いしん坊ですから、何でも食べます!!」

「・・そう! それじゃ、此処にしかない、美味しい物を食べましょう!!」


 士林夜市(シーリンよいち)は、1910年頃に市場として整えられた、台湾最大のナイト・マーケットである。慈誠宮という寺院や陽明戯院という映画館を中心に、幾つかの賑やかな 通りが交わり、週末は特に大きな賑わいを見せる。
 夜市で売られる各種の「小吃(シャオチー:屋台で食べる一般料理)」は店舗の数にして約五百件。 ”小吃” は直訳すれば、小(軽く)吃(食べる)で、軽食という意味になるが、中華文化の世界では、麺類、餃子、シューマイ、包子(中華饅頭)、粽(ちまき)、炒飯、丼ぶり料理、デザートまで含まれ、何でも揃う庶民的な一品料理の世界が広がる。
 士林夜市は世界中にその名を知られており、台北を訪れる観光客が必ず立ち寄るスポットでもある。


「・・・それじゃ、まず手始めに・・・コレね!」

「えーっと・・・士林名産、大餅包小餅・・・
 つまり、大きな餅で小さな餅を包んだモノ・・・?」

 店先には、揚げた餅がすでに山のように積み上げられている。
 宗少尉は指を三本立てて、店員に早口で何か言いながら三個注文している。
 けれど、冷めている揚げ餅を食べても美味しくないだろうになぁ・・・と思っていると、意外にも、店員はそれを粉々に砕き始めた・・!!
 砕いてどうするのかと不思議に思って見ていると、それを薄い餅の皮の上に載せ、何やらいろいろと振りかけて混ぜ、皮をグルグルっと巻いて、ハイよ、と手渡しをする。

「・・はい、これが揚げ餅よ! 胡麻にココナッツ、紫芋の餡と・・・」

「・・・面白い発想ですね。それじゃ、ココナッツを頂きます。
 あれ? 四つありますけど・・・確か、三つ注文したのでは?」

「三つ注文すると、四つ目はオマケに付くのよ!」

「三つ買うと、四つになる! ・・へぇ、サービスが良いんですね」

「そう、台湾人は、みんな良い人!・・・あはははは・・・・」

 砕いた揚げ餅を薄い餅皮でくるんだものは手のひらより大きく、意外と美味しい。
 しかし、十歩と歩かないうちに、もう、
 
「・・あ、コレ、コレ! これを食べなきゃ、夜市に来たことにならない・・・」

 宗少尉が次の店を見つけて、そう言う。

「えーっ、もう次を食べるんですか? まだ、これをかじり始めたばかりですよ・・」

「いいの、いいの!・・これがまた、美味しいんだから!!」

「えーっと、なになに・・・原上海生煎包・・・
 ゲン・シャンハイ・・ナマセン・ツツミ?・・・何のこっちゃ?」

「ユアン・シャンハイ・シェンジャンパオ・・・ ”肉まん” のことよ!
 私は上海生まれだから、これが大好き!!」

「へぇ、宗さんは、上海の生まれなんですね・・・・
 それじゃ、これは上海風の肉まんなんですか?」

「肉まんは、上海が発祥の地なのよ・・だから ”上海包子” って言うの」

「・・・なるほど、そうなんですか。
 でも、こんなにたくさん人が並んで・・ずいぶん待つんじゃないのかなぁ・・?」

「並んで待つのは私も苦手だけど、アッという間にこの人数が捌(は)けてしまうから、この店は大丈夫よ!
 でも、これは美味しいわよぉー! この美味しさで、一個たったの十元(30円)!!
 僅か十元でこんな美味しい物が食べられるなら、たとえ何時間並んで待っても食べなきゃ損だったと、きっと思えるから・・!!」

「そうですか・・・よしっ、それじゃ、並びましょう!!」

 陳中尉や武漢班のメンバーは、宗少尉と宏隆のやり取りを笑いながら見ている・・・

 品書きは、豚肉入りの「鮮肉包」と、キャベツと椎茸入りの「高麗包」の二つだ。
 直径が50センチもある浅い鉄鍋に、両掌で包むほどの大きさにそれらの具を包んだ包子(パオズ)が綺麗に円形に幾重にも並べられ、四十個ほどが鍋の中に入る。
 それを焼きながら、水を入れ、フタをして蒸らす・・・まるで餃子のような作り方の中華包頭である。
 「生煎包」は普通の包子より少し小振りである。上海発祥の料理なのでその名を付けているが、中国、香港、台湾の何処でも多くの人に食されているのはご存じの通り。
 なお、具を入れたものを包子と言い、具が無いものを饅頭(マントウ)と呼ぶ。
 大陸の江南などの地方によってはその区別をせず、具を入れたものを肉饅頭と称することもある。


「・・・さあ、出来た!! ハイ、お待ちどおさま・・これを食べて!!
 はい、陳中尉! ・・みんなも、食べてちょうだいね!」

「うわぁ、いい香りだ! いただきまぁ〜す!・・・ぅあ、熱っっウ!!」

「あははは・・・・気をつけてね、口の中に火傷をするわよ!」

「はは・・・夢中になって、自分が猫舌なのを忘れてました。
 ・・でも、すごく美味しい!! この味は、神戸の南京町にも無いです」

「美味しさの秘密は、豚肉の上手な冷凍の仕方にあるそうよ。
 そうすると、かぶりついた時に、肉汁がトロ〜リと出てくる・・・・」

「いやぁ、幸せだなぁ・・これ、二十個くらいホテルに買って帰ろうかな!」

「あはははは・・・・・・」

 陳中尉や他のメンバーも、ホクホクした饅頭を両手に抱えて頬張っている。
 地元の人が行列するほどだから、この店の美味しさはよく知られているのだろう。

「・・少し歩きながら、ヒロタカに士林夜市を見物してもらおうか」

 陳中尉がそう言い、皆で上海包子を手に、そぞろ歩きをする。

「ずいぶん広いんですね、神戸の南京町よりも、かなり大きいみたいです・・・」

「まあ、台湾で一番大きなマーケットだからね。台湾の人は共稼ぎが多くて、ほとんど夕食を家で食べないから、屋台料理がすごく発達したんですよ」

「なるほど・・・アジアの逞しい食文化ですね」

「・・・この夜市は賑やかだけど、此処からほんの少し先に、蒋介石総統の秘密の官邸があるんですよ。総統が亡くなった今でも、まだ秘密ですけどね、ははは・・・」

「・・え、こんな処に? 何だか、郊外の方が安全な気がしますが・・・」

「誰もこんな処にあると思えないから、ここに造ったのかも知れません。
 この先の、五分ほど歩いた森の中に、大きな庭園と邸宅が隠されています。子供の頃、近くで遊んでいると突然警備の兵士がやってきて、思い切り叱られたものです」

「陳中尉にもそんな頃があったんですね・・・・
 僕は、もっと歴史の勉強をする、と張大人に申し上げました。
 歴史が分からないと、自分たちが何をすべきなのかが見えてこない・・・・」

「そう、そのとおりですね・・・蒋介石総統の事も、色々と言われています。
 1950年以来、四半世紀が経っても台湾の戒厳令は未だにそのままだし、国際連合に”台湾”の名前で留まるようにアメリカが説得しても "漢賊不両立" と拒否してしまい、国際的に承認されなくなりました。
 台湾は東アジアの反共の砦としてアメリカからの支援をもらっていても、ベトナム戦争の恩恵を経済発展にしか活かせませんでしたし・・・」

「・・・ヒロタカ、そんな難しい話より、神槍手(スンチャンソー)をやらない!?」

「・・え? スン・・チャン・・?」

「BAAAANG!・・・射的のことよ!」

 指で宏隆を狙って撃つ仕草をして、そう言う。

「銃で的を撃つの・・射撃の腕前なら、あなたに負けないわよ!!」

「ははは・・・宗少尉の負けん気には、ヒロタカも私も、到底太刀打ちできないね!」


                              (つづく)




    

                 


   

           

    



2010年02月12日

Gallery Tai-ji「螺旋の構造 その1 栄螺堂(さざえどう)」

                          by ブログ編集室



 栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる建築物がある。
 もちろん「堂」というからには、寺院に建てられた仏堂という意味なのであるが、実はこれがただのお堂ではない。何とお堂の内部が、外観からは想像も出来ない「二重螺旋構造」になっているという、世にも希なる仏教建築なのである。

 栄螺堂というのは、江戸時代中期に忽然と姿を現した、二重螺旋の特殊な内部構造を持つ三階建ての観音堂の通称である。
 歴史で確認できる最初の栄螺堂は、江戸の本所(ほんじょ)にあった羅漢寺の境内に建てられた「三匝堂(さんそうどう・ささいどう)」である。羅漢寺の中興の祖、象先(1667~1749)によって構想が始まり、六十数年の歳月を経て安永九年(1780年)に完成した。
 このお堂の様子は、葛飾北斎が富岳三十六景に「五百らかん寺さざゐ堂」として描いており、広重などの浮世絵師もこぞって絵の題材にしている。
 北斎の絵などは、第三層のバルコニーから富士山を眺めている様子が描かれているので、その頃の栄螺堂はちょっとした観光名所のような所でもあったかも知れない。

 現存する栄螺堂と、その建立された時期は、群馬県太田市の曹源寺(1793年)、福島県会津若松の旧正宗寺三匝堂(1796年)、青森県弘前市の長勝寺(1839年)、茨城県取手市の長禅寺(1801年)などで、六堂が残されている。他にも各地に多く存在していたようだが、天災で倒壊したり火事で焼失したりしたまま再建されていない。


 このうち、白虎隊の墓所がある会津若松の飯森山の中腹にある栄螺堂は、「円通三匝堂」と呼ばれていて、参考図のように二重螺旋構造の参拝路を持つ特殊な仏堂として知られている。

 参拝者は入口から堂内に入ると、上りに一回転半、下りは裏の通路から、やはり一回転半をして、初めの入口に戻ってくる。
 つまり、入口から入って三階建ての堂内をグルグルと一回転半上って巡り、下りも一回転半して、最後にはまた同じ所に戻ってくるのだが、同じところを一度も通らずに元の入口に出て来るという、不思議な構造になっているわけである。

 これは仏教の礼法である、右繞三匝(うにょうさんぞう=右回りに三回めぐる)ことで仏陀への礼拝が成立するという考え方に基づいて建造されていて、本来は三匝堂(さんそうどう)と呼ばれるのだが、螺旋の構造や外観がサザエに似ていることから、「栄螺堂」と通称されるようになった。

 堂内には順路に沿って観音札所の各観音が祀られており、ひとつの栄螺堂を参拝するだけで西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番など、多い場合は合計百観音の巡礼に詣でたことになるという、様々な事情で巡礼に行けない人にとっては、実にありがたいお寺であった。


 今日ではヒトのDNAも二重螺旋構造であることが知られている。
 DNA(Deoxyribonucleic Acid=デオキシリボ核酸)とは、ご存知のように、地球上のほぼすべての生物に於いて存在する、遺伝情報を担う物質のことである。
 二人の無名の科学者によってそれが発表されたのはまだつい最近、1956年の出来事で、仏教の「右繞三匝」の礼拝方法が確立された頃の古代インドでは、誰もそんなことを知り得なかったはずであるが、その不思議な一致がたいへん興味深い。

 因みに「螺旋」とは、本来は、立体構造の三次元曲線を意味している。
 螺旋の「螺(ら)」は、田螺(たにし)や栄螺(さざえ)、法螺貝(ほらがい)といったような、巻き貝の貝殻のカタチを指している。

 一般的には、平面的な二次元曲線のことも「螺旋」と言い習わされている事が多いが、本来それは「渦巻き」や「螺 ”線”」と呼ぶべきものであって、数学や物理などの分野に於いては、三次元曲線の螺旋は「弦巻き線」、平面の二次元曲線のものは「渦巻」「渦巻き線」などと区別して呼ばれる。

 英語で立体の螺旋は「Helix(へリックス)」で、平面の渦巻の「Spiral(スパイラル)」とは本来区別されなければならず、化学でいう螺旋や物理学での素粒子のスピン方向などは「Helicity」と呼ばれる。ヘリコプターという名称も、翼が回転しながら上昇する様子から取って、ギリシャ語の「helix(螺旋)」と「pteron(翼)」を合わせて造られたものである。

 「Spiral(スパイラル)」は、主として「螺旋のひと巻き」を表しているが、慣用として「螺旋階段」や「バネの形状」、「螺旋綴じのノート」などの名称に用いられ、競馬場でもコーナーの出口に近づくに順って曲がりがきつくなるコースのを「スパイラルカーブ」などと呼んでいる。経済学では賃金や物価の「連鎖的変動」や「悪循環」を表し、「デフレスパイラル」のように用いられる。

 なお、自然界では気体や液体は「螺旋」となるものは少なく、そのほとんどは重力や圧力によって「渦巻き」のカタチを形成することになる。

 すべての太極拳の源流である、陳氏太極拳の「纏絲勁」もまた螺旋の構造であるが、この「ギャラリー・タイジィ」では内容が煩雑に過ぎるので、他で改めて取り上げたい。


                                 (つづく)



   【 参考資料 】

     
      葛飾北斎 富岳三十六景「五百らかん寺さざゐ堂」



     
      栄螺堂 透視図



        
        会津若松の「旧・正宗寺 三匝堂」



                
     
                DNA 模型

2010年02月08日

歩々是道場 「站椿 その2」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 お馴染みの「開合勁」を例にとってみましょう。
 現存するすべての太極拳には「開」と「合」という概念が存在しています。これは、太極拳独自のチカラである「勁」の種類として説明され、他の勁とともに「太極勁」という言葉で表されるもののひとつです。
 「開合勁」は、陳氏太極拳における「十大勁」の内、ふたつを占める重要な勁であり、かの 陳鑫(ちんきん)老師(*註1) が【 開合虚実即為拳経(開合虚実、即ち拳経を為す)】と言われるように、それは文字どおり「太極拳の核心」であると言えます。

 開合は、説明上「開勁」と「合勁」として分類されていますが、前回の稿で述べたように「対(つい)」でひとつとなっているので、ひとたび武術の構造として起これば「開合勁」となり、連綿として途絶えることのない循環するチカラとして生じ、そのシステムのなかで太極拳独自のチカラが「蓄」えられたり「発」せられたりすることになります。

 太極拳に必要なのはこの「開合勁」ばかりではありませんが、前掲の「起き上がり腹筋」のように太極拳の補助練功として考案されたものでも、拙力の構造が否定されて「勁」のみが働いていなくてはならず、間違っても「拙力の使い方の工夫」でそれをこなすのではなく、開合勁を始めとする勁が間隙なく用いられた故に、すべての運動が為されなくてはなりません。

 もちろん、この「起き上がり腹筋」のトレーニングにも開合勁が使われています。
 使われているというよりも、開合のシステムが発揮されなくては、太極拳の練功としては何ひとつとして動きようがないのです。
 ここでは、腰を床まで沈めていく始まりの動作にさえ、その開合勁が隙間なく使われていなくてはなりません。そうでなくては、たちまち日常の運動となり、拙力の運動となってしまうのです。

 重要なことは、そこには「拙力」が入る余地はまったく無い、ということです。
 繰り返しますが、「勁」は「間隙なく用いられるチカラ」なのです。つまり、言い換えればそれは、間隙なく用いられる「性質」のものであると言えます。
 したがって、たとえそれが部分であれ、全体であれ、身体が緩んだり、落下したり、脱力したり、膝をカックンと抜いたりしてしまったら、もうオシマイです。
 何故なら、それらはすべて「拙力」を構成する要素に他ならず、間隙なく用いられるチカラには決して成り得ない要素であり、そのような要素は「勁」というものには全く含まれておらず、站椿の構造にも存在していないからです。
 それらについては、すでに小館のホームページの『太極拳を科学する』でドクターバディが基本的な解説を述べているので重複を避けますが、このように「開合勁」ひとつを取ってみても「拙力」との違いは明らかになってきます。

 「勁」は、正しい「構造」から生じるチカラなので、練功では初めにチカラそのものを求めることは有り得ません。太極拳として整っていない構造から発せられる力は全て拙力となってしまうので、まずはひたすら「正しい構造」を求め、その構造を変えることなく行われる練功、すなわち「基本功」によって養われる身体こそが、そこに求められるべきなのです。
 そして、その「正しい構造」を維持しながら練功が行われれば、徐々に身体が造り替えられて行きます。ただ床に寝転がって再び起きてくるだけの、単純極まる【 起き上がり腹筋 】の運動は、そのことを端的に現しています。

 試してみれば誰もがすぐに理解できますが、ここでは「正しい構造」がなくては、容易に起きあがってくることは出来ません。
 その構造を得ていない人は、実に様々な拙力によるアプローチを試みることになります。
 腹筋を力んで上がろうとしたり、起き上がるための勢いをつけたり、立とうとする瞬間に足で蹴ったり、身体を縮めたり前方に弛めたりしてから立ち上がろうとしたり・・・
 そのような「拙力」でも何とか起き上がれなくはありませんが、誰が見てもそれが拙力であることは明らかなものです。
 拙力を廃するためには「起き上がること」を目的とせず、その体勢から正しく起き上がることの出来る「非拙力の構造」を見ていく必要があります。

 指導者は、どこがどのように拙力であるかを分かりやすく指摘し、拙力の構造が何で出来ているかをその場で実感させます。そして開合勁を中心に、正しい勁の「構造」を示して、学習者が未経験の「新たな構造」でそれを試みるように導いてゆき、「やり方」ではなく「構造そのもの」を理解させていきます。

 ・・・すると、やがて「理解」が起こりはじめます。
 正しい構造で出来たときには誰もが非常に驚き、興奮し、信じられないような顔で、皆一様に『不思議だ・・何の抵抗もなく起ち上がれた!!』と言います。
 それまでの苦労はどこへやら、さんざん腹筋や背筋、大腿四頭筋などに抵抗のあったこの難儀な運動が、何の苦労も無しにヒョイと起きあがれ、なおかつチカラが有り余っていることを体験したときには、誰もが信じられぬほど不思議な感覚にとらわれます。

 起き上がれただけではなく、そのまま天井まで飛んで行けそうなこのチカラ・・・
 なぜこんなチカラが、何のリキミもなく、身体に生じているのか・・・

 それは、取りも直さず、「非拙力の構造」を体験したことに他なりません。

 かつて拝師弟子にしか教授されなかった【 身体を造り替えるための練功 】は、太極武藝館に於いては、現代人・・・つまり、戦後より精神文化を半ば喪失し、身体能力の低下に悩み、軟弱で鈍感になったと言われる現代日本人に、より太極拳の本質を理解し易いようにと、文字通り手を替え品を替え、或いは名を替え、スタイルを替えて、どんどん一般弟子にも教授されるようになってきました。
 そのお陰でしょうか、太極武藝館では入門して半年も経てばほとんどの人が正しい構造から正しいチカラを出せるようになってきますし、種々の練功の中でも難度が高いと言われている「起き上がり腹筋」も、ほぼその日から出来る人も居ますし、初級者でも十数回ほどの稽古の中で八割以上の人がそれを徐々に熟(こな)せるようになってきます。
 それは、多くの人がこの道場で短期間に「勁」を正しく体験しているということでもあり、その後の基本功の訓練にもたらすであろう影響や恩恵は計り知れません。


 話を「站椿」に戻しましょう。
 太極拳を学ぶためには、まず「勁」の概要をつかみ、基礎練功によって拙力を離れて武術の構造を学び、「用意」の訓練によって構造から導かれる動きを高度なものにしていく必要があるわけですが、もし「站椿」の訓練を抜きにして、套路だけでいきなり「用意」を訓練することになったら、初心者ならずとも、それはとても大変なことかもしれません。

 私の経験では、正しく「站椿」を経験した後では、それはとても効率が悪そうなことに思えました。「站椿」の経験を経ずにいきなり套路の動作を学んでしまうと、場合によっては、何によって身体が動かされるのかという肝心なポイントが曖昧になるかもしれず、「用意」の本質をつかむのが難しくなってしまうかも知れないと思えたのです。
 そもそも、すでに身体が動いている「動」の環境の中では、「動」そのものに関心が向けられてしまい、肝心の「意」が認識しにくく、「意によって身体が動く」ことを習得することが難しいであろうことは誰にでも想像がつくことです。
 それは、まさに反対側からのアプローチになってしまうのです。
 初心者にとって複雑怪奇にさえ映る套路動作の中でそれを取っていくことは、かなり無理があるに違い有りません。套路を学習する以前に必ず「站椿」が指導されるべきであるとされるのは、そのような理由にもよるのでしょう。


 站椿では、「静」が整備された後に【 静中の動 】というものを求めていくわけですが、いったん身体を正しい「静」に置くことさえ出来れば、その中に起こってくる活き活きとした「動」の性質を認識したり、積極的に「動」を呼び起こしたりするのはそう難しいことではありません。
 但し【 静中の動 】を、もし『静けさの中で動かず、 "動" が起こるのをじっと待つ・・』などというニュアンスで捉えてしまうと、いつまで待っても全く何も起こらないかも知れません。

 この【 静中の動 】というのは、「じっと静かに立ち続けてさえいれば、やがて何処からか訪れて来るに違いない ”動” 」・・というような意味ではありません。
 もしそのような感覚で「静かに」待っていると、意に反して「想念の動」が起こることが往々にしてあります。身体を安静に保とうとすればするほど想念は活発に働きつづけるものなので、全く何の意味のない支離滅裂な想念が次々にやって来て、アタマの中は非常に混沌とした状態に陥るかもしれません。

 それは丁度、座禅に於いて、初心者が精神の静寂の境地を求めながらも、それを求めるが故に反対にありとあらゆる妄想に悩まされてしまうという、あの状態が同じように「站椿」でも起こり得るのです。
 いや、それだけで済めばまだ良いのですが、その想念が身体に反応を起こして、ケイレンや麻痺、ワケの分からぬ”自発動”などを繰り返すようになってしまうと、ちょっと厄介です。
 何が厄介かというと、本人はその”非日常的”な現象を結構気に入って、それこそが「動」が生じているコトに違いない、などと思いたがってしまうからです。

 「静」とは「静かにしていること」ではなく、【 動きが無いこと 】です。
 その認識の違いは、それ以降の訓練に大きな差異をもたらすことになります。

 それでは、「動きが無いこと」とは一体どのようなことなのでしょうか。
 動きが無いことというのは、自分で身体を動かそうとしていない「動きが無い環境」という意味です。しかし、それは決して、静けさの中で何かを待ち続けている状態ではありません。

 では、どうするのか・・・

 学習者はそこで初めて「用意」、つまり【 意を以て構造を調整し続けること 】という大きな課題に、実際に直面することになります。

 站椿で求められるものは、あくまでも武術的な「静」であり「動」なのであって、武術的な「静」を求めていく意味というのは、あくまでも「構造そのもの」を求めること以外には無いと私は考えています。
 何故なら、それがどのような構造であれ、先ずは【 静 =不動 = 動きが無いこと 】が整備された環境の中でこそ、その精度が認識されるはずであり、その「静」の状態が高まるほど構造の精度もまた高められ、その「構造」の精度が高まれば、まさにヒトの構造上、そこに自ずと「動」の環境が生じると思われるからです。

 そして、もしそうであれば、如何なる站椿も「静」から始められなくてはならないという理由はそれ故である、ということになるでしょうか。
 そして、太極拳が【 用意不用力 】を奥義や術理としている以上、「静」である站椿から始めなくては何も理解できないということになります。

 太極拳は「無極」という最も基本的な構造への理解から始まり、まずは徹底して動きを廃した「静=不動」の環境から「静中の動」を見つめて行かなくては何も始まらない・・・

 站椿こそが、最も重要な練功であるとされるのは、それ故ではないでしょうか。


                                   (つづく)
 


  =・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・==・=・=・=・=・=


 (*註1)陳鑫( ちんきん・Chen Xin・1849〜1929 )

   陳氏太極拳小架式・第十六世伝人。字(あざな)は品三。
   陳鑫は仲甡の次子で、兄の陳垚(ちんぎょう・Chen Yao)は ”武” を、次子
   の陳鑫は ”文” の道に進むことを命じられ、陳垚は十九歳で軍校に入り、陳鑫
   は『貢生』となった。

   「貢生(こうせい)」とは、明・清の時代の科挙制度に於いて、府・州・県よ
   り推薦され、首都の最高学府であり最高の教育管理機関でもある「国子監」の
   入学試験に合格し、科挙の「郷試」の受験資格を許された、晴れて「秀才」と
   呼ばれ賞賛される学生を指す。
   科挙の試験の競争率は非常に厳しく、時代によっても異なるが、およそ3,000
   倍とも言われている。それ故か、最終合格者の平均年齢も36歳と非常に高いも
   のであった。

   しかし、陳鑫の著作の序文の中には「武に生きる者には将来が広がっているが、
   文に生きれば成就すべきものがない」という記述が見られる。
   陳鑫は幼少から父の仲甡や兄の垚に就いて拳を学び、明確な理法を身につけた
   ため、その太極拳は精微を尽くし妙を得たものであり、兄が ”武” によって多
   くを成就したことに発奮し、 ”文” の才能を活かすことによって陳氏世伝の太
   極拳理法を解き明かす偉大な著書を著して後世に遺したのである。

   陳鑫の著作には『陳氏太極拳図説・全四巻』『太極拳引蒙入路・全一巻』及び
   心意拳譜をもとに編纂された極秘伝書である『三三拳譜』がある。

   『陳氏太極拳図説』は、十二年もの歳月を費やして著された、百数十万字の内
   容から成る著書である。
   本来は後代嫡孫の研究に益する為に陳氏小架の奥義を文字に遺したものであり、
   陳氏小架式の真伝を正しく学んだ者以外には難解な内容も多いが、今なお門派
   や国境を超え、太極拳の聖典として、また第一級の資料として研究され続けて
   いる。

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