2010年01月

2010年01月27日

歩々是道場 「站椿 その1」 

                     by のら (一般・武藝クラス所属)


 拝師弟子でも研究会の所属でもない、単なる一般門人の末席に過ぎない私が、「站椿」に関してそう多くを知り得るはずもないのですが、師父が基本功や套路の稽古を指導される中で、『これこそが ”站椿” の意味するところだ』と語られるたびに、未熟ながらも站椿という練功の奥深さを垣間見ることができ、学問としての太極拳へのさらなる興味を感じずにはいられません。

 師父は常々、太極拳を学ぶには「考え方」を変えなくてはならない、長年に亘る「日常」の繰り返しの中で自分に染みついた考え方のままでは全く役に立たない、と仰いますが、私にとって「站椿」とは、まさにその太極拳を学ぶための「考え方」をダイレクトに教えて頂けるたいへん有意義な練功となっています。

 これは、正しく武術を学ぶ人々の誰もが知るであろう武術の基礎知識の域を出ないものであり、単なる個人の覚え書きの類いに過ぎませんが、日々の稽古に於いて自分がどのように站椿を捉え、どのように学ぼうとしているのかを今一度振り返るためにも、此処に書き綴ってみようと思います。
 
 また、この拙ない稿が、新しく入門された方々が学習する際の、何らかのヒントにして頂けるのであれば望外の幸せです。


   *  *  *  *  *


 さて、そもそも、「站椿」とは、いったい何なのでしょうか・・・
 站椿という練功が何を練るために存在し、それが有るのと無いのでは、練ると練らぬとでは何がどのように違ってくるのか、その練られたものが何の役に立ち、何ゆえにそれを練らなくてはならないのか・・・

 初心者が「站椿」と聞いて真っ先に想い浮かぶものは、球を抱えるような姿勢で長い時間をじっと立ち尽くすものですが、いったい、あの格好で何をするのか?
 いかにも辛そうで、難しいのか、単純なのか、分かり易いのか、分かりにくいのか、凡そ実戦的な武術の極意がそこに秘められているとは、にわかには信じ難いものです。
 站椿は、門派によっては最も重要な練功とされていますが、太極拳のように独自の動きを有し、長い年月を掛けてそれを練り続けるイメージの強い拳術が、何ゆえに、まるで彫像のように固まって見える静止した状態から始めなくてはならないのでしょうか。
 しかし、誰もが思うに違いないその疑問は、もし正しい指導を受ける幸運さえあれば僅かな時間の内に消え失せ、優れた学習システムの奥深さに身震いするほどの感動を覚えることになります。


 まず初めに識(し)るべきことは、站椿は【 静 】から始められる、ということです。
 站椿以外の練功では、基本功にせよ、套路にせよ、それらユニークな太極拳の動き、つまり「動」の中で自分の構造を見つめて行かざるを得ませんが、站椿功に於いては「静」を基調とする環境の中で精神活動と身体構造の統御や改革が行われ、自ずと武術に必要な命令系が確立されて行き、「太極拳の構造」を持つ身体へと正しく整えられて行くように独自の学習体系が整備されています。

 なお、中国語の「静」は、日本語のそれとは少々ニュアンスが異なります。
 「静」と聞いて日本人がイメージするのは、「静か・静けさ・静謐・静寂」などですが、中国語で真っ先に挙げられる「静」の意味は【 動きが無いこと 】です。

 そして、対としてその反対側に「動」、つまり【 動きが有ること 】が存在します。
 これは、陰陽、天地、表裏、善悪、男女、昼夜、内外、因果・・などと同じく、元来ふたつに分かれているものではなく、反対の性質を持つふたつの要素や現象がひとつになっているものとして表され、その片方だけが語られる場合も、「対(つい)」となっているものの相反する要素を表すものとして捉えられます。

 従って、太極拳でお馴染みの「虚実、開合、蓄発、起落・・・」等についても同じことが言えます。それらは元々片方だけで存在するものではなく、その片方だけを取り出して練るなどということも全く有り得ません。有り得ないというよりは、そもそもそのような「考え方」自体が存在していないのです。

 站椿を学ぶには、予めこのような事をよく識る必要があります。さもなくば、日本人向けにアレンジされた中華料理を「本場の味」と錯覚するようなことが、太極拳にも多々起こり得るに違いありません。


 さて、站椿では単に身体に「静」を求めていくのではなく、まず身体を「静」の環境に置き、その中で「動」を求める、いわゆる『静中の動』と呼ばれる、大変ユニークなアプローチを試みていきます。
 何故わざわざ、そんな回りくどいことをするのかと言えば、そのような環境ゆえに、
【 意によって身体が動くこと 】が比較的容易に体験され、その結果、太極拳で最も重要とされる【 用意 ( yong-yi ) 】の訓練が初めて可能になる、という理由に他なりません。

 「静」を武術の訓練として用いることは、普通は余りにも馴染みが無いものです。
 人は睡眠時や入浴時に決して活動的にはなれないように、通常は身体が「静」となればすべてが「静」となってしまい、その中で「動」を求めようとすることは、たとえ「陰陽」を発想した中国人であっても、そう簡単ではないに違いありません。
 たとえば、睡眠中の「静」と、站椿の訓練で求められる「静」とは、一体何が異なっているのか・・・站椿に於ける「静」や「動」の考え方は、私たちが想像するほど単純なものではありません。「静」を武術訓練の環境として用いる前に、私たちは先ず、何が自分の身体を支配しているのかを充分に知っておく必要がありそうです。

 例えば、私たちの練習法にある『起き上がり腹筋(*註1)』に於いて、初めての人は必ずと言って良いほど、床に尻が着く前後に身体が「緩んで」「落下」してしまいますが、その為に、ある瞬間にはまるで睡眠中とほとんど変わらないような身体の状態になり、次の「起きる」という運動には「拙力」を以てそれに充てるしかない、という悪循環を繰り返してしまいます。

 もちろん、そのような動きのシステム・・言ってみれば、
 【 下に行くときは落下するしかなく、上に起きるときには蹴り伸ばすしかない 】
 ・・というような日常的な運動が、高級武術の訓練として使える筈もありません。現に私たちの太極拳では、『二起脚(*註2)』でさえ、「踏まない、蹴らない、落下しない」ということが基本となり、徹底的に拙力に起因しない運動構造が求められているのです。

 そのような拙力の悪循環は、太極拳として正しくない構造であるがゆえに起こることですが、それは単に「起き上がり腹筋」の練功に留まらず、基本功や套路の大本となる「馬歩」の構造や、そこから生じる基礎的な運動に於いても、同じように顕著に現れてきます。
 どのような学習もそうであるように、初めに何を学び、それをどのように認識したかということが大変重要になって来ますが、太極拳の身体構造が「拙力」を否定したものであることを充分学ばずに「拙力を助けとする構造」への練功を重ねてしまうと、永遠に不毛な原理への努力を捧げることにも成りかねません。

 太極拳が「拙力」を否定するのは、それが決して「勁」とは成り得ないからです。そして重要なことは、太極拳ではその拙力が「全面的に」否定されている、ということです。

 推手で相手を崩すときや発勁のときにきちんと「勁」を使えれば、それ以外の時には少しくらい拙力を使っても良い、などということは絶対にありませんし、架式や歩法それ自体が拙力の構造でありながら、発勁されたものだけは正しく勁力となる、などということも決して有り得ません。

 「拙力(せつりょく)」というのは、一般的・日常的な力のことで、文字どおり、
 【 非武術的な構造から発生する稚拙な力の運用 】のことを指していますが、そのような日常的な力や、それに起因する類の運動システムからは、どうあがいても太極拳の「勁」は生み出されません。
 そして、その認識なしには、站椿であれ、套路であれ、何ひとつ学習を始めることは出来ません。太極拳の運動のすべては「勁」によって為されるものであることを、私たちは片時も忘れてはならないのです。

 太極拳修行者は、誰もがこの「勁」を得るためにこそ、ありとあらゆる練功に汗を流し、あるいは悩み、己の理解の至らなさに気付いては嘆くことになるわけですが、「拙力」を捨て去って「勁」を得るためには、ただ闇雲に目先の技巧や作用の成果を求めることなく、先ずは「勁」が生じるための【 非拙力の構造 】を、時間を掛けてじっくりと学んで行かなくてはなりません。

 そして、それをダイレクトに教えてくれるものが、太極拳には存在しています。
 それこそが、この「站椿」に代表される「基本功」に他なりません。

 太極拳の基本功は、今も昔も変わることなく全ての練功の礎となっており、その根本である「站椿」は、基本功の構造を『動きが無いこと』から順序よく教えてくれる、大変有意義な練功であると思います。


                                 (つづく)



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 (*註1)起き上がり腹筋

   太極武藝館で行われている、二人ひと組で行う補助練功の一つ。
   足を肩幅に開いて並歩で立ち、パートナーに自分の足の甲を押さえてもらい、
   そのまましゃがんで尻と背中を床に付け、そこから再び元の立った姿勢まで
   上がってくる。
   動作は始めから終わりまで一動作でゆっくりと行わねばならず、身体の柔軟性
   や勢いを使わずに元の姿勢に戻ってくることが要求される。
   「腹筋」と名が付けられているが、実は腹筋運動ではなく、身体をトータルに
   使うことが高度に求められ、正しく行うのは決して容易ではない。


 (*註2)二起脚(er-qi-jiao)

   陳氏太極拳の套路で練られる「着(zhao=技法動作)」のひとつ。
   低く地面を突くような姿勢から一転し、飛び上がって空中で二段蹴りをする。

2010年01月25日

「站椿」シリーズ 掲載のお知らせ

 
 太極武藝館の門人が随想を綴る「歩々是道場」では、「站椿(たんとう)」を題材にした記事を新しく連載していくことになりました。

 この稿は元々、ソーシャル・ネットワークサイト ”ミクシィ” の「のら」さんの日記に、「站椿」というタイトルで、2008年の6月から11月までの間に、9回にわたり合計4万字を超えるボリュームで掲載されたものです。

 この日記は、ミクシィの友人の方々に好評を博しましたが、当館の門人も目にしていない人が多く、そのままミクシィで終わることなく、広く公開して欲しいという声も門の内外に多くあり、この「ブログ・タイジィ」に掲載する運びとなりました。

 なお、この稿は筆者である「のら」さんが、ミクシィへの掲載を終えてからさらに一年半ほどの稽古を経て、新たに得られた実感や知識をもとに、元の原稿に多少の筆を加えて書き改められたものです。


                          ブログ・タイジィ編集室

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2010年01月20日

門人随想 「蜜柑の樹」

                       by Blog Tai-ji 編集室


 ミカンが嫌いだという日本人には、あまりお目に掛かったことがない。
 風花が舞うような寒い夜に、コタツに足を突っ込み、ミカンの皮を剥きながら家族と肩を寄せ合って談笑し、「これは甘い」「これは酸っぱい」「これには種が入っていた」などと言いながらミカンを頂くというのは、日本人のほとんどが経験していることに違いない。

 ミカンの故郷は、中国南部からインド北部周辺にかけての照葉樹林帯である。
 ここに分布していた様々な野生の柑橘類が、交雑や自然の変異などによって、レモンやオレンジ、柚子や温州みかんなど、各地の気候に適った品種として生まれ変わってきた。
 因みに、「柑橘類」という言葉の「柑」とはミカンのことであり、「橘」はタチバナを意味している。

 日本史に登場する最も古い柑橘類は、ミカン科の常緑小高木、橘(たちばな)である。
 古事記には、垂仁天皇の命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(とこよ)の国から持ち帰った「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」が橘である、と記されている。
 京都御所の紫宸殿には平安時代から現在に至るまで、変わることなくその橘が植えられていて、「左近の桜、右近の橘」と古来から呼び親しまれてきた。
 橘は「永遠」という意味に通じる常葉木(ときわぎ=常緑樹)で、六月頃に咲く可憐な五弁の花は日本人に親しまれ、元は桜のデザインであった文化勲章も、昭和天皇が「文化というものは永遠であり、咲いて散る桜ではなく、永遠という意味に通じる常緑の橘を使おう」と希望されて橘になった。
 古代からの有力な氏には橘という姓氏もある。橘の葉と実を組み合わせた家紋は、天平九年(737年)に元明天皇が葛城王に橘姓を下賜し、橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗ったことに始まるが、それから千年以上経った江戸時代でも九十家余りの旗本に用いられている。
 これもまた、「橘」が古来より尊ばれた所以であろう。

 日本では、蜜柑を食べると風邪をひかない、蜜柑湯に入ると身体が丈夫になる、などといった民間伝承がある。外国のフルーツが多く輸入されるようになった昨今でも、蜜柑は日本人が最も多く食べている果物であり、一日に2個ずつ食すれば厚生労働省の食生活指針が示す健康のための果実摂取量をほぼクリアーするほどの栄養もある。

 蜜柑は、その昔には大変な貴重品であった。落語に「千両蜜柑」というのがあって、季節はずれの蜜柑一個に千両という大金を出す噺(はなし)であるが、江戸時代には蜜柑がとても貴重品だったことが分かる。
 紀伊国屋文左衛門は、紀州から江戸まで「蜜柑船」を出した逸話で知られるが、当時の江戸で十一月八日に行われていた「鞴(ふいご)祭り」という、鍛冶屋や金物商の祭礼で蜜柑を盛大に市民に撒く慣わしに合わせて運んだものだという研究もある。蜜柑は江戸時代に最も恐れられた火事の災厄を払い除ける ”火伏せ” のチカラがあると信じられていた。火を仕事に使う鍛冶屋には、そのお祭りは欠かせないものだったに違いない。

 筑波にある「独立行政法人・農業食品産業技術総合研究機構」の「果実研究所」によれば、温州蜜柑には副交感神経を活性化させるシネフリンという成分が他の柑橘類よりも沢山含まれているという。漢方薬にある陳皮(ちんぴ)もシネフリンの薬効と考えられるので、風邪薬の処方に適っている。
 蜜柑に含まれているβ-クリプトキサンチンには、癌、リウマチ、糖尿病、動脈硬化を抑制する働きがあるが、あらゆる食べ物の中で最も多く含まれているのが温州蜜柑だという。
 因みに、西洋オレンジには温州蜜柑の十分の一の量しかそれが含まれていない。ましてや、発ガン性の高い防かび剤をたっぷりと浴びせた米国産の輸入オレンジなど、食べ物以前の問題であろう。

 その研究所が蜜柑の産地三ヶ日で地元民約千人に対して行った疫学調査の結果では、蜜柑は肝臓機能を保護し、高血圧や糖尿病にも多大な貢献をしていることが明らかになり、よく蜜柑を食べる人は生活習慣病になり難いことがわかった。ミカンの中には食欲を増進させるクエン酸や、腸内環境を整える食物繊維も多い。
 このような優秀な果物に恵まれた日本で、蜜柑が美味しい季節に蜜柑を食べない手はない。まさに、よくぞ日本人に生まれけり、である。


 太極武藝館が所在する静岡県は、お茶だけでなく、全国有数のミカンの産地でもある。
 愛媛や和歌山もよく知られるミカンの産地だが、先述の浜名湖を囲む丘陵地帯で作られた「三ヶ日みかん」などは、ミカンの農地面積、出荷量、生産額、共に日本一であるし、温州ミカンの傑作と讃えられる甘くてコクのある「青島みかん」は、昭和の初め頃に静岡市に住む青島平十という人のミカン畑で誕生したものだ。

 太極武藝館では、毎年師走になるとお世話になっている方々に蜜柑をお送りしている。それも、毎年決まって同じ生産者の、同じ蜜柑をお送りしている。
 ひとりの門人が、師父にお歳暮として持ってきた蜜柑が、その始まりであった。
 その蜜柑は、古参門人のTさんの友人で、浜名湖を取り巻く丘陵地帯で蜜柑農家を営んで居られる渥美さんという方が作ったものなのだが、これがまるで蜜柑の原点のような、昔からの懐かしい蜜柑の味がして美味しいと、師父がとても気に入られ、以来、年末になると十箱以上は必ず確保して頂き、その方の農園から直接、あちこちにお送りしている。

 初めの頃は、無知にもそれを「ただの美味しいミカン」だと思っていた。
 日本一と折り紙を付けられるような「三ヶ日みかん」と同じ土地の、浜松の丘陵地帯で獲れるのだから当然美味しいのだろう、という程度に、安易に考えていたのである。
 しかしそれが全くの無知に過ぎず、生産者に対してとても失礼な話しであるということが門人のTさんから毎年いろいろと話を聞くうちにようやく明らかになってきて、私たちスタッフは文字どおり汗顔の至りとなった。

 まず驚かされたことは、これが、そのミカン農家がただ収穫し、出荷するためにどんどん箱詰めしたものではない、ということであった。
 おそらく誰もがそう思うように、ミカン農家なのだから、早い話がミカンを作って収穫して出荷する訳で、もちろん仕事としてそれなりの手間暇は掛かるのだろうけれども、システムとしてはただそういうものだと、勝手にそう思い込んでいた。

 ・・・ところが、この蜜柑に限っては、そうではなかった。
 まず、この蜜柑は「太極武藝館のミカンの樹」に生(な)った蜜柑なのである。

 何と、太極武藝館の、ミカンの樹・・・!!

 門人の友人であるその農家の方が、初めに私たち武藝館用に蜜柑の樹を何本か選び、一年の間、手間暇を掛けて花を咲かせ、美味しい実を結ぶように、丹精を込めて育てて下さっているのである。それを伺ったときには、私は心底驚いた。

 普通、私たちがミカンを買ったり他人様に送ったりする時には、デパートやスーパー、青果店などに行って箱入りの物を買う。それが当たり前だ。そしてそんな所で売っている蜜柑は粒も甘さも値段と量に応じて大体揃えられていて、客はその時その人に相応しい物を買う。・・・それが普通であり、そのこと自体を疑ったこともなかった。

 一般的にミカンは、農家が収穫したものを農協が買い取り、選別所でまとめて選別をする。
 その時点で、色々な農家のミカンが混じり合う。これはお米でも野菜でも同じことだ。
 そこで大きさと糖度をセンサーに掛けて分類する。S、M、L、LLと分けて粒を揃え、糖度も光センサーで極甘、大甘、中甘、小甘、まあ許せる甘さ・・・と、そんな風に甘さの度合いで分けて箱詰めされていくのだ。もちろん、中くらいの食べやすい大きさでカタチが良く、より甘いモノの方が、市場での値段が高くつけられることになる。
 高級青果店に卸されるミカンは、例えばこの辺りでは三ヶ日町のどこそこの山のどの斜面で採れた誰それのミカン、というのが大体決まっている。大概は驚くほど甘くて、食べやすい大きさで、形(なり)が良くて見栄えがする。それらは青果店と直接契約しているので、売れ筋である糖度と形にこだわって生産されているのは当たり前のことと言える。


 私たちがお願いしている蜜柑は、初めに何本かの「武藝館のミカンの樹」を選ぶことから始まっていた。ミカンの樹は、一本ごとに個性があって味が違い、同じ樹でも実の生る場所によって、また味が違う。
 生産者の渥美さんは「ただ甘いだけのミカンは、本当の蜜柑ではない」と考えて居られるようで、変に人工の手を加えず、その土地に生る蜜柑の個性を壊さぬよう、きちんと甘さも酸っぱさも程よく混じった、昔ながらのミカンを職人気質で丁寧に作ることを誇りにされて居るのだと思える。
 そして、円山館長が「これは美味しい!」と仰ったのは、そのような蜜柑の味がきちんと守られている故であり、生産者の渥美さんもそれを師父に分かって貰えることをとても喜んで下さったのだと思う。

 丹精込めて育てた樹を何本か選び、毎日手入れをしながら実が生るのをひたすら待つ。 
 そして、一番美味しい時期を見計らって、美味しくなった実だけをひとつずつ手で摘み、そのまま箱詰めをするのである。
 摘む日のタイミングを見計らい、どれを摘むかを選ぶには長年の経験が要ると思われるが、お歳暮の進物用にお願いしていても、蜜柑がきちんと美味しくなるまでは、たとえ暮れが押し迫ろうと、決して摘まないのだ。今日か、明日か、午前か、午後か・・・それはミカン次第なのであって、それを決して人間サマの都合などで摘まない、という精神には、ひたすら敬服する。

 しかも、手詰みである・・・ミカンは手で摘むのが当たり前じゃないか、と思われるかもしれないが、これは、ただ単に手でもぎ取って摘まれたものではない。
 爪を立てて傷つけないように、うっかり落としてしまわないように、手のひらでそっと包むように、愛しむように、ひとつずつ、我が子の成長を喜ぶように、愛情を込めて丁寧に摘まれた物なのだ。
 そして何よりも、その日その時に最も熟して味が良くなったものを見分けながら摘まれるのである。そして、自分が丹精込めて育てた果実を大切にするのは生産者の人情だとしても、それをわざわざひとつずつ手詰みにすることには、もっと深いワケがある。

 『ミカンは、15センチの高さから落としても駄目になる・・・』
 これは「千疋屋」という、日本橋室町に本店がある、天保五年(1834)に創業の、高級フルーツ専門店で番頭さんをしていた人の話である。
 その人は、何と15センチ以上の高さから落とされたミカンと、そうでないものとを完全に区別できる。果物は生きている、果実は生き物であり、わずかなショックを受けても味が落ちてしまう。それを見分けられてこそ果物屋だ、と断言されるのである。

 普通のミカンは、多数の農家から出荷されて集まってきたミカンの選別所で、カタチと大きさと糖度がセンサーに掛けられる際に、何処の誰が作ったどんなミカンであろうと、もうゴチャ混ぜに、すべて一様にベルトコンベアーに載せられ、ゴロゴロと転がされながら個別に区別してヒュンヒュンと跳ねられ、またしてもゴロリと転がって、各々のサイズと糖度のカゴに入れられる。その様子たるや、とても「15センチの高さが云々・・」どころの話ではない。

 美味しく実った物から順に、ひとつづつ丁寧に手詰みをして、たかが15センチほども決して落とさぬよう、転がさぬように、その場で箱詰めをする・・・そんな具合に扱われた蜜柑を頂ける贅沢は、近ごろちょっと無い。
 もちろん大きさもマチマチで、形(なり)もまったく揃ってはいない。
 素人が箱を開けて一瞥しただけでは、下手をするとスーパーのひと山幾らのミカンに見えるかも知れないが、実際に手に取り、食べてみれば、その手触りのふくよかさや、味の美味しいことには驚くばかりである。
 何よりも、師父が言われるようにきちんとした ”蜜柑の味” がするし、信じられないほど皮が剥きやすく、中のスジが一本も残さず綺麗に取れてしまう。


 何でも自分自身で確かめなくては気の済まない性格である私は、ピンからキリまで、色々なミカンを食べ比べてみた。
 浜松の有名な高級青果店にも足を運んで、その中でも一番美味しいミカンを買って食べてみたし、新宿のタカノのミカンも、近くのスーパーで箱が山積みされて売っているミカンも、高級な商品が置かれる新興住宅街のシックなスーパーのミカンも、共にウチの蜜柑と食べ比べてみた。
 しかし、やはりその蜜柑に勝るものには、なかなかお目に掛かれない。何よりも、味や食感、手に取って皮を剥くときの感触までが違っている。
 それに、このミカンがとても傷みにくいということに気がついた。冷暗所に保管していても、生もの故に気候が温かくなるにつれて、だんだん萎(しな)びて傷んでくるのは仕方がない。しかしこのミカンに限っては、何週間経ってもなかなか傷んでこないことに加え、たとえひとつが傷んでも、その近くのミカンに傷みが移らない。一般的なミカンは、ひとつが傷めばすぐに飛び火して周り中がどんどん傷み始めるのが普通である。作り方や摘み方でこれほどまでに違ってくるものなのかと、本当に驚かされてしまう。

 確かに、タカノや千疋屋など、高級青果店の高級蜜柑は美味しい。
 何しろ普通のスーパーに並んでいる「甘い」と大書されているものに比べて数倍の値段がするのだから、そりゃウマイに決まっている。
 けれども、そのウマイ蜜柑は、よくよく味わってみると、ただ「甘い」ことばかりが強調されているような気がする。かつて紀伊国屋文左衛門が蜜柑船で運んだ蜜柑は、結構酸っぱかったそうだ。甘いばかりの高級ミカンは、蜜柑本来の、酸っぱさと甘さが絶妙に混じり合った、冬の寒さを感じている身体の五官に働きかけてくる、あの絶妙な味わいが希薄なのである。
 それに、ただ甘いだけなら、メロンでも、スイカでも、ジュースでも良いじゃないかとも思える。本当に蜜柑らしい蜜柑を食べ慣れてくると、売れ筋の「甘さ」ばかりを追求して本来の味を無くしてしまった蜜柑たちは、まるで流行に追われて長いマツゲを張り付け、夏だというのに暑苦しそうなブーツを履いて、流行歌手とそっくりの恰好をして歩いている若い子供たちのように、何の個性もなく、知性や品性まで喪ってしまったものに思えてくる。

 蜜柑は、きちんと蜜柑本来の味がしなくては、蜜柑とは言えない。
 こんな当たり前のことを、人間は何処かに忘れてきてしまったような気がしてならない。
 身の回りに氾濫する危険な中国野菜や食肉、回遊魚であることを拒否された養殖のマグロやブリ、人間が住む為に造られたとは思えぬ、合板ばかりで出来た、20年と保たない安普請のペラペラの家屋・・・・

 私たちにとって「太極武藝館の樹」に生る蜜柑は、それを育てるために掛けられた信じられぬほどの手間暇と、愛情と、本物を大切にし、その本来の味を維持するために、どれ程の精神力と労力を要するのかを毎年改めて思い出させて頂ける、とてもありがたい蜜柑なのである。

                                    (了)




 【 陽光の中で撓わに実るミカン 】



      

 
                  


      


                  


      (写真は生産者のブログよりお借りしたものです)

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2010年01月15日

連載小説「龍の道」 第37回




 第37回 武 漢 (wu-han)(9)


「・・・いやぁ、参りました、やっぱり少尉は強いですね・・・・
 自分は、あんな技を喰らったのは初めてです。
 まるで八卦掌で打たれたように内臓が波打って、どうなるかと思いましたよ。
 是非また教えて下さい、ありがとうございました・・・」

 たった今、見事に“胡蝶掌”で決められた相手がようやく立ち上がり、宗少尉に頭を下げて、そう云う。

「いいえ、あれこそ、ただのラッキー・パンチ・・・貴方の方がよっぽど強い。
 最後まで“胡蝶掌”を隠していたから、何とか決まってくれたようなものだけれど、それが無かったら今ごろ反対に私がリングに長々と伸ばされていたはずよ。
 半年前までは私が優勢だったけれど、今は貴方の方が確実に強い・・・
 正に “士別三日、即更刮目相待(士別れて三日なれば即ち更に刮目して相待すべし)” という言葉どおりね。今の私は、貴方の八卦掌にはどうあっても敵わない。
 流石は武漢班のナンバー・ワン、と言われるだけはあるわね!!」

 その八卦掌が優れて見事だったことはもちろんだが、武漢班で最も強いとされ、部下からの信頼もあるその男に、花を持たせるように宗少尉が言うと、

「ありがとうございます・・・また目標ができました」

 彼もまた、爽やかに笑って、そう応じる。

 宗少尉がその相手を見送りながら拍手をすると、見物をしていた兵士たちからも彼の健闘を讃えて大きな拍手が起こる。しかし、決め技の胡蝶掌がよほど効いたのか、まだ打たれた脇腹を手で押さえながら、他の隊員に伴われてリングの外に出て行く。

「一見フワリと舞っただけの、軽く打ったように見えるあの華麗な技法は、訓練の延長である練習試合とは云え、これほどのダメージを生むのか・・・」

 陳氏太極拳に限らず、優れた中国拳法は、きっと星の数ほどあるに違いない・・・
 武術という世界の広さや底知れぬ深さに、宏隆は驚嘆せざるを得ない。

 倒した相手をリングの外に見送ると、宗少尉は、今度は宏隆の方を見つめた。
 思えば、ここで宏隆と戦うことが宗少尉の本来の目的であった。

「こうなったら、もう、やるしかないな・・・・・」

 ちょっと諦めるような溜め息をついて、着ていた上衣を脱いで傍らの椅子の背に掛けると、横に四本並んで張られたロープの真ん中をヒョイと潜って、リングに上がった。

 思えば、いつでも、どのような場合でも、「戦い」とは常にそういうものであった。
 小学校に上がる前から数えきれないほどやってきたケンカも、空手道場に入門してすぐ、有段者の先輩の機嫌を損ねて当たらされた組手での激しい死闘も、そして王老師に初めて出会ったときに、身の程知らずにも必死で向かって行ったときも・・・・
 いや、戦いに限らず「やるしかない」と思える事というものは、いつも必然として向こうから訪れて来るものだった。

 それに、 “縁” とでも云おうか・・・この宗麗華という、女だてらに海軍少尉であり、また如何なる経緯(いきさつ)かは知らないが、台湾の秘密結社の要員であり、そして滅法負けん気も腕っぷしも強い、今日、つい数時間前に出会ったばかりのその人が、今では何か、自分と浅からぬ因縁さえ感じられるような気がする。

「・・・そんな相手と、これから、このリングで闘うのだ。
 しかし、どうしていつも、こんな羽目になるのかな・・・・」

 成り行きとは言え、いつの間にか、異国の海軍基地のトレーニング場のリングで見知らぬ人と戦おうとしている自分が、宏隆には少し可笑しくも思えた。

 そして、さっき陳中尉が語った「これは稽古なのだ」という言葉が、宏隆の胸には大切なこととして深く響いている。
 それを思うと、きちんと向かい合わなくてはならない、王老師の門人として、そして張大人が率いる玄洋會・・・義勇を貫くその秘密結社の一員としても、大切に、恥ずかしくないように、この時間を過ごさなくてはならない、と思う。


「・・・ヒロタカ、もう、支度は出来た?」

 今や遅しと、宗少尉が声を掛けてくる。

「いつでも結構です、お願いします・・・・」

 しかし、度胸が決まって、いつものケンカ慣れしたエネルギーが満ち溢れてくるかと思えば、まったく然(さ)に非ず・・・意外にも自分の心がとても穏やかで、何の不安も無く、むしろ楽しくさえあることに気が付いて、宏隆はちょっと不思議な気がした。

「二人とも、これを稽古として、きちんと学び合うように。
 ・・・・準備は良いか?」

 陳中尉がリングのロープに両手を掛けた恰好で、ちょっと心配そうな顔を宏隆に向けながら、そう言う。

「僕は結構ですが・・・宗さんは、三人も連続して戦いを終えたばかりなのに、ブレイクを取らなくても大丈夫ですか?」

「あら・・・ご心配ありがとう。
 でも、坊やをタップさせるのに、多分それほど時間は掛からなくってよ!!」

「・・けれど、そんなに汗が出て、まだ息も荒いみたいですし・・・・」

「あはは・・私を怒らせて自分のペースに持ち込もうとしても、そんな手は古いわよ。
 そんなことより、ひどい目に遭わないように、精々気をつけることね!」

「そうします・・・・・」

「・・・・よし、始めっ!!」

 宗少尉はいかにも彼女らしく、陳中尉の号令と共に軽やかにリングの中央に躍り出て、まずは先制の蹴りの大技を、宏隆に喰らわせようとした。

「ケンカの若大将だろうと、王老師や張大人が認めるような人間であろうと、ヒロタカはまだ高校生の少年だ。海軍や秘密結社で武術教練をしているような自分が、実際の戦闘で劣るわけがないではないか・・・・」

 そんな思いが、きっと宗少尉の頭にあったはずだし、見ている誰もがそう思えたに違いない。だから、宗少尉が初めから堂々と大技の蹴りを出して宏隆を威圧した行為は、誰の目にも自然なこととして映った。

 が、しかし・・・・何故か、宗少尉は突然それをやめて、蹴ろうとして勢いをつけた身体を、スッと元に戻した。

 見れば、宏隆は、ケンカ三昧に明け暮れていた頃のような「構え」をとっていない・・・
 かと言って、いわゆるキックボクシングやフルコン空手のような、よくある実戦スタイルの構えでもなく、ここに居る誰もが見たこともないような奇妙な恰好で、足幅をやや広めに、中腰になり、右肩をズイっと前に出して、右の半身(はんみ)で構えている。

 それは、宗少尉の素早いフットワークになどには、とても対応できそうにない恰好であり、そして、この海軍の訓練場の真っ白なリングにはまるで似つかわしくない、まるで初めからドッカリと居着いてしまっているような、何とも不思議な構え方なのである。

「宗少尉はきっと、日本の少年の奇異な構えに、警戒心を持ったのだろう・・・」

 得意の激しい大技での先制攻撃を途中で止めた理由について、観戦している者は皆、そう推測したが、当の宗少尉の心の内は、まったくそうではなかった。

 宏隆のその「構え」が、あまりにも隙(すき)の無いものだったからである。

「これは・・・・迂闊(うかつ)に入って行けば、やられる・・・!!」

 ・・・直感的に、そう思えたのだ。

「この坊やは・・・すごい!!
 やはり、あの王老師に、後継者として認められるだけのことはある・・・」

 確信を持ってそう思えるだけのものが、目の前に立っている宏隆の存在に、ひしひしと感じられるのである。そして、事実、宗少尉は、ある一定の間合いから一歩も宏隆に近づけないままでいた。

 しかし、決して対する宏隆にゆとりがあるわけではない。
 何より、リングの外で見ているのと、実際に目の前で宗少尉と向かい合うのとでは大違いで、お互いの体格とは反対に、向かい合うと少尉が自分よりも遙かに大きく見えてしまって、

「何という強力な軸なんだ、自分より五、六歳は年上の女性だというのに・・・
 こんな人が居るとは・・・まったく、世の中は広い!!」

 ・・・つくづく、そう思わざるを得ない。


 ここで宏隆が取っている「構え」は、決して奇を衒った窮余の一策として用いたものではない。

 自分がこのリングで宗少尉と戦うと決まってから、少尉が次々に倒していく相手との戦いぶりを悉(つぶさ)に見てきて、これまでの自分の戦い方ではとても通用しない、ということが宏隆にはハッキリと理解できた。

 陳氏太極拳は王老師に学び始めたばかりで、站椿と基本功まではどうにか学べたものの、套路などはようやく二回目の金剛搗碓を教わった程度でしかない。
 また、いつぞやの、兄に因縁を付けてきた不良どもを制圧した技巧などは、站椿と基本功で養われ始めた太極拳の軸に、咄嗟にケンカの経験が加味されたものでしかなかった。
 町のチンピラや不良には勝てても、本物の武術を修行して来た人には通じない・・・
 かつて王老師には、まるで子猫でも扱うように弄ばれてしまったし、その弟子の陳中尉も、おいそれとは近づけない、確固とした不動の軸が見えて、自分など及びもつかない。

 そんな程度の実力しかない自分が、軍隊や秘密結社で格闘技の指導者という立場で居られる女(ひと)と、対等になど、渡り合えるはずがないではないか・・・・

 ・・・素直に、そう思えたのである。

 そして同時に、「ならば、これしかない・・・」と思えるものが宏隆の中に閃いた。
 それこそが、いま宏隆が見せている、この独自の構え・・・・

 それは、「居合(いあい)」の構えであった。


「居合」とは、もちろん日本武道の、あの「居合術」のことである
 居合とは、鞘に収めた日本刀を一気に抜き放って相手を斬る技術を中心に構成された日本独自の武術で、武藝十八般にも「抜刀術」の名で存在している。

 居合いを武藝の技術として集大成したのは、室町時代末の林崎甚助という人で、父の仇を討つために幼少の頃から武芸に精進し、生国である出羽国、楯山の林崎(現・山形県村山市楯岡)の「林崎明神」に参籠し、祈念を続けて居合の極意を神託として受けたという。その林崎明神には林崎甚助自身も祀られていて、現在では「林崎居合神社」と呼ばれている。

 居合について書かれた新田宮流の伝書「所存之巻」によると、
 『弥和羅(やわら=柔術)と兵法(剣術)との間、今一段剣術有る可しと工夫して、刀を鞘より抜くと打つとの間髪を入れざることを仕出し、是を居合と号して三尺三寸の刀を以て、敵の九寸五分の小刀にて突く前を切止る修業也・・・』とある。
 つまり、接近した間合いでは不利となる長刀で、すぐ抜ける小刀を持った相手に如何に対することが出来るかという工夫から、居合いという武術が誕生したのだという。

 宏隆は、その「居合術」をK先生に学んで、もう何年にもなる。
 居合術は剣道のように互いに打ち合う練習が無く、ひたすら抜刀の型をくり返し稽古する。それは、「ケンカの若大将」などと綽名される宏隆には似つかわしくない、如何にも地味な訓練のように思えるが、K先生に出会って間もなく、『喧嘩も良いが・・ひとつ、君自身を斬る修行をしてみないか・・』と言われ、道場へ見学に誘われるままに入門し、それ以来、至って真面目に居合の術を学んできた。
 父の光興(みつおき)などは、ケンカ三昧ばかりの宏隆がようやくまともな武藝への入門を果たしたとあって大いに喜び、その祝いに、祖父の形見である土佐山内家伝来の備前長船(びぜんおさふね)の一振りを宏隆に贈ったほどであった。

 無論、宏隆は大喜びで、K先生の道場へはその長船を手に提げて通い、名刀の魂に導かれるように、黙々と稽古に励んだのである。

 それから二年ほど経った或る日、居合の稽古の帰りに、街でチンピラにからまれた時に、宏隆が自然に、スッと、居合の構えを取る恰好をしただけで、相手が怖れて逃げて行ったことがあったが、これには当の宏隆の方が驚いてしまった。

 宏隆は、ふと、その時のことを思い出していた・・・
 今の宏隆にとって、太極拳よりも、空手よりも、遙かに長く学んできたものは「居合」であったのである。

 そして、宗少尉の強さを・・海軍の兵士でもある秘密結社の猛者たちを相手に、彼らを手玉に取る少林拳の技の冴えをさんざん見せつけられた挙げ句に、自分にはこれしかない、と思えたのだ。


 ・・・もう、どれほどの時間が経っただろうか。
 リングの上では、宏隆と宗少尉が、まだ互いに同じ構え、同じ間合いで向かい合ったままピクリとも動かない、静寂の刻(とき)が続いていた。

 見物の兵士たちも、ようやくこれがどのような状況であるのかを理解したのだろうか・・誰もが皆、固唾を呑むようにして、その成り行きを見守っている。


 そして、遂に・・・・
 その静寂(しじま)を破って、宗少尉が動いた。


                               (つづく)





  【 参考資料:土佐山内家伝来・備前長船兼光(無銘)】

    
 
         
 
         
 

2010年01月12日

資料映像#20「陳清萍の騰那架 その2」

 陳氏太極拳 第15世 陳清萍伝
 李作智系「騰那架」伝人・劉盘老師
 

      



  劉盘老師は1947年に、河南省温県北冷郷西南冷村で、劉喜重の子として生まれた。
  幼い頃から武術を好み、十三歳で秦作書に拝師し、師が亡くなるまでの十数年間、
  騰那架を学び、第四代伝人となった。
  伝承系統は、陳清萍〜李作智〜李鎬〜秦作書〜劉盘となる。

  陳清萍の編み出した「騰挪架」は、あまり世間に知られて居らず、先に掲載した
  黄集体老師と共に、貴重な映像と言える。

tai_ji_office at 18:49コメント(0)資料映像集?この記事をクリップ!
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