2009年10月

2009年10月03日

練拳 Diary #22 「腰相撲(こしずもう) その4」

 当門で行われる練功の数々は、すべて「太極拳とは何であるのか」ということを各自が認識し、各々の段階で明確に理解するために用意されています。
 そして、それを理解していく必要がある、という意識を持って稽古に臨むのと、そのような意識を持たずに、ただ示された練功を毎回の稽古で繰り返しているのとでは、同じ時間、同じ稽古をこなしていても、身に付くことが大きく異なってきます。

 特に、他の格闘技や武術を経験してからここに入門した人は、どうしても自分がこれまでに学んできた学習スタイルの延長線上に「太極拳」もあるものだと思いがちで、稽古に対する正しい意識がなかなか芽生えず、「太極拳のシステム」を理解するのが難しいようです。
 反対に、ごく普通の主婦やサラリーマンなど、武術と縁が出来たのは太極武藝館が初めてで、それも三十歳、四十歳を過ぎてからの入門、という人のほうが、指導内容の飲み込みが早く、太極拳を根本から理解していくための軌道に乗りやすいことが多く見られます。

 「腰相撲」ひとつを取り出して見ても、それは実に様々なバリエーションで行われていますが、どのような架式とスタイルで稽古していようとも、示されている原理はひとつであり、何種類もの「腰相撲」を通して、太極拳の発想や考え方、稽古の取り組み方などを学ぶことによって、ようやく「太極拳とは何であるのか」ということを実感していくことができるのです。
 その原理を理解するためには、武術経験の有無に関係なく、また、自己の学習スタイルを持ち運ぶことなく、日々新しい気持ちで謙虚に稽古に臨み、常に探求し、真摯に学び続ける姿勢が大切ではないかと思えます。


 さて、今回の腰相撲は、「蹲踞(そんきょ)」の形で行われました。
 稽古方法は、これまでに述べてきた腰相撲と同様に、蹲踞の姿勢を取り、パートナーに前から腰を押してもらうというものです。
 相手にある程度強く押されても立っていられることが確認できたら、それを返すことも行いますが、返すことよりは架式が崩れないことを、そして、正しく架式が取られていれば、容易には押されず、相手を軽く返すことができるという、その仕組みを学んでいきます。

 実際にやってみると、押されたり返していくこと以前に、蹲踞の姿勢がどれほど正しく取れるかどうかを、そして蹲踞の姿勢を取る意味がきちんと理解されているかどうかが、真っ先に問われているのだということを、誰もが実感するようです。
 「蹲踞」の取り方は、まず両足の踵を合わせて直立し、つま先を軽く開き、そこから腰を下ろすようにしてお尻を踵に近づけていき、同時に、脚はつま先立ちになるというものです。
 このように、蹲踞の姿勢を取りに行く動作そのものは、取り立てて難しくないのですが、上級者と初心者の完成姿勢を見比べてみると、立つことに対する理解の違いが明らかに「姿勢の違い」として顕れており、正しく架式を整えることの難しさを感じます。

 因みに、太極武藝館では、事情により稽古に遅参してきた場合には、更衣室で支度を整えた後、道場に入場して壁に向かって蹲踞の姿勢を取り、稽古参加の許可が下りるまで黙想して待つことになっています。そして、その時の蹲踞の姿勢が正しくない場合には、その場で修正され、さらにそのまま待つことになります。
 人によっては、一回の蹲踞で二度、三度と繰り返し修正を受ける場合もあり、稽古参加の許可を待つ時点から、その人の稽古が始まっていると言えます。

 なぜ、その「蹲踞」を使って腰相撲が行われるのでしょうか・・?
 初心者は、長時間その姿勢を取っていると、すぐに足の力みやつらさを訴えます。
 つまり、馬歩や弓歩の架式に比べて足を多用しやすく、そのために、無極椿で整えられた身体の構造が、いとも簡単に崩れてしまうというわけです。
 言い換えれば、蹲踞のようにつま先立ちになるような姿勢になっても、馬歩や弓歩で確認できた身体の状態を変わらずに正しく取れるかどうかを見ていくという、その機会を与えられているのだと言えます。

 蹲踞の姿勢は、他の腰相撲に比べて接地面積が少なくなり、見た目もとても不安定です。
 しかし「馬歩」が正しく理解されていれば、例え膝が深く曲げられていても、つま先立ちになっていても、馬歩は些かも乱れることが無く、ちょっとやそっと押されたくらいでは、ビクともしません。
 そのように馬歩が確立されている人を押していくと、とても蹲踞をしているようには思えず、まるで弓歩で立っているところを腰相撲で押して行ったときのような、とても押せないけれども、足で耐えている力感がまるで無いように感じられるのです。

 蹲踞の姿勢では、例え前傾して重心を最大に前に出したとしても、つま先立ちをしているという構造上、前から押される力に対抗するには限界があります。
 そして、前傾の傾向にある人ほど、ほんの僅かな力で、花瓶を傾ける為に指でトンと突くような力でも、簡単に、コロリと倒れてしまう光景が見られます。
 反対に、比較的押されにくい人の姿勢を見ると、むしろ身体は真っ直ぐであり、身体に角度が付いていたとしても僅かなもので、とても寄り掛かりとしては利用できないくらいの傾斜なのです。
 
 何故、蹲踞のような姿勢で押されない事が可能になるのかと言えば、それこそが太極拳を学ぶ上で、最も理解されなければならないことのひとつである、「化勁」の作用によるものだと指導されます。
 「勁力」そのものが、正しく架式を整えられたことによって生じるチカラであるように、蹲踞の架式を、馬歩を崩さずに全身をピタリと一致させて取ることが出来れば、化勁という力の働きによって、相手の力が大きくても小さくても、全て無効にされてしまいます。
 押して行く側にしてみたら、押している力はどんどん増やしているのに、相手を動かすことが出来ないため、さらに力を込めますから、結果的に身体は居着いて不自由な状態になってしまいます。

 この、押している力は増えているのに相手に影響のない状態については、誰もが、「どこまでも、押して行けそうな気がしてしまう」・・と、表現しています。
 つまり、化勁によって押して行った力が無効にされると言っても、それは、こちらよりも強く大きな力で阻止された為に「押していけない」と感じられるような種類のものではない、ということになります。
 相手を押していったときに、力がぶつかることによって阻止されたものであれば、それ以上の力を加えたり、多人数で押していけば、動かせることが分かります。
 しかし、「どこまでも押して行けそうな気がする」ものに対しては、なかなかそれ以上の力を出せないものです。それは例えば、レールに乗ったトロッコを押して行くときに、始めに押して動かせた力以上に増やす必要がないことと、似ているかもしれません。

 そして、ここからが太極拳の面白いところだと思うのですが、相手を押していくときに、相手の身体に両手がようやくピタリと密着したというくらいの、ごく小さな力で関わった場合にも、こちらは見事に居着かされ、相手の意のままに返されてしまいます。
 つまり、こちらの力の大小に関係なく、相手に向かった力は全て無効にされてしまい、こちらの出した力以上の影響が返ってくることが「化勁」の本質だと言えるでしょう。
 そして、それを可能にしているのが、正しく架式を整えることによって生じる「弸勁(ポンジン)」だと教示されるのですから、何故にあれほどまでに「站椿」が重要だとされているのかも、自ずと見えて来る、というものです。

 例えば、「散手」などの稽古では、基本を理解している人に対して突いていくと、こちらの突きが逸らされる・・・つまり無効にされる、ということが起こります。
 それは突きに限定されたことではなく、蹴りでもタックルでも、果ては床に正座をしているところを様々に攻撃して行っても、やはり当たらず、逸らされてしまうのです。
 避けられたわけでも、移動しながら突きを受け流されたわけでもないのに、突いて行ったその先に、相手が居ないのです。

 試しにスローで突いていくと、突きが逸らされてから、まるで受ける形を取ったように手が沿わされていることが分かります。これを素早く行えば、傍目にはまるで腕や手で受けたように見えるのですが、突いた方にしてみたら、こちらが完全に突ききったときには、受けられた感覚がないまま相手の手がそこに来ているわけですから、いつの間にか相手の手の内に居るという、誰が見ても、非常に不利な状況だと言えます。
 このような現象もまた、化勁の作用によるものだと言えます。

 もちろん「化勁」は太極拳独自の高度な戦闘技法であり、「腰相撲」は初歩的な化勁の体験に過ぎないのですが、それでも、自分より遙かに有利な体勢から押されても、その力に少しも影響を受けず、また力んで耐える必要もなく、それどころか反対に相手を居着かせて、不自由な状態にしてから意のままに返すことが出来るという、その事実と体験は、やがて推手や散手などの実践技法を理解していく上で、確実に有益な宝物となるでしょうし、太極拳という、私たちが慣れ親しんだ日常とは発想も方法も全く異なる武術を学ぶための、重要な鍵のひとつになるに違いありません。
 また、そのような「鍵」によってこそ、「太極拳とは何か」という未知なる扉が開かれるのだと、つくづく思えるものです。

                                  (了)



 【 参考写真 】

        

  *体格の大きな人が、かなり強い力で押してきているところを正しく受け、
   さらに返している様子です。
   押されているときと返した後の姿勢が、ほとんど変わりません。



        

  *こちらも良く立てている例です。
   脛や足首の緊張が無ければ、身体の自由度が更に増えると思います。



        

  *揺るがずに受け、返せてはいますが、わずかに相手への寄り掛かりが見られます。
   自分の力で立つことが出来れば、骨盤の巻き込みや大腿部の力みが解消されるはずです。



        

  *身体は伸びやかですが、前傾姿勢で耐えているため、返すことができず、
   結局は押されてしまった例です。



        

  *こちらも返せなかった例です。前傾姿勢ではないのですが、押されてきたことに対して、
   受け身で、ただ待っていた状態だと言えます。



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