2009年08月

2009年08月28日

連載小説「龍の道」 第25回




 第25回 臺 灣 (たいわん)(4)



 何日もの間、洋上で潮風に揉まれ続けた身体に熱いシャワーを浴び、テラスで涼んでいると、点心が運ばれてきて、ボーイがお茶を淹れてくれる。
 このホテルには「金龍廳餐廳(チンロンティンツァイティエン)」つまり、ゴールデン・ドラゴン・レストランという名の、季節感に溢れる最高級の広東料理を調理するレストランがあり、台湾に来る国賓クラスの客も必ず訪れるという。
 そのレストランから届けられた点心は、宏隆が好物の粽(ちまき)と、五彩鮮粉果(五目蒸し餃子)、生煎花枝餅(イカとエビの揚げ餃子)、蜜汁叉燒酥(チャーシューのパイ)、そして、このレストランの名物で、宿泊客は誰もが必ず食すると言われる、絶品の香芒凍布丁(マンゴー・プディング)が運ばれてきた。
 味は賞賛されるだけあってなかなか美味で、今度は飲茶ではなく、ディナーをゆっくり味わいたいと宏隆は思った。


 腹拵えが済むと、そろそろ張大人を訪問する時間が迫ってくる。
 紺のダブルのブレザーに、フレンチブルーのストライプのシャツ、シックな赤を織り込んだ絹のネクタイ、そしてプレスをしたばかりのグレーのズボンに着替え、よく磨かれた黒のトラッドシューズを履いて、陳さんと約束をした18時よりも10分ほど早めにロビーに降りていく。
 宏隆はどんな旅行に出かけるにも、このような服装の用意を怠らなかった。
 外に出たときに恥を掻かぬよう、また他人様に失礼の無いよう、たとえ南国のリゾートで休暇中であろうと、必ずインフォーマルの支度をしておくべきだと、父から厳しく躾けられていたのである。
 日本中が “一億総中流階級意識” などと言われ、あまり服装の区別も気にされなくなった昨今だが、人間の礼儀や作法が時代によってそう簡単に変わるものでもない。目上の、それも初対面の人と面会するのに、気軽なカジュアルの恰好で良いわけがなかった。

 玄関に向かうと、外に居たドアマンが、サッと重厚な扉を開ける。
 表に出ると、ちょうど真白いロールス・ロイスがアプローチから玄関前に滑り込んできた。
 宏隆の顔を憶えている先ほどのベルボーイが後ろのドアを開け、「どうぞ」と黙礼して、ドアを閉めながら、また日本語で「行ってらっしゃいませ」と慇懃に言った。

「・・やあ、お待たせしましたか?」

「いえ、いま下りてきたばかりです。迎えに来て頂いてありがとうございます。
 ずいぶん早く来られたんですね・・・」

 すでにホテルの丘を下りはじめているクルマの中で、宏隆が言うと、

「ははは・・・この際、私が遅れるわけにはいきませんからね」

 陳さんが笑って応える。

 真白いロールス・ロイスは、ホテルから中山北路を南に向かって走って行く。
 しばらくすると、陳さんが、この右側の道の突きあたりが、現在の台湾の「総統府」ですよ、と教えてくれた。

 総統府・・・それは、かつて清国から割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された日本の官庁、「台湾総督府」が存在したところである。

 台湾は、1624年から40年間も続いたオランダの植民地時代と、その後の「反清復明」を唱える鄭成功の政権による初の漢民族が支配する歴史を経てきたが、鄭政権は清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、三代に及ぶ23年間の統治に幕を閉じる。

 清朝支配後の台湾には、対岸に位置する中国の福建省や広東省から多くの漢民族が移住してきたが、もともと台湾を「化外(けがい)の地」としていた清朝の統治力は弱く、太平天国の乱を皮切りに、「欧州列強」の勢力の進出と内乱の嵐が吹き荒れた19世紀の中国では、その影響が少なからず台湾にも及び、1840〜1842年の阿片戦争時にはイギリス海軍が基隆に攻め込み、1858年にはアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結して、基隆港や安平港が列強に開港されることになった。

 やがて1894年に日清戦争で清朝が敗北し、翌1895年の講和会議で調印された日清講和条約(下関条約)に基づいて台湾が日本に割譲され、日本の領土として「台湾総督府」の統治下に置かれることになる。
 「眠れる獅子」と畏れられた清が日本に敗北するのを見た欧州列強は、ここぞとばかりに勢力分割を行い、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランス、長江流域をイギリス、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシアの勢力圏とした。また、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスは広州湾、ドイツが青島、ロシアが旅順と大連を租借地として、各々に要塞を築いて東アジア進出の拠点としたのである。

 当時の、そのような複雑な歴史の推移はさておき、祖父の隆興(たかおき)が、台湾統治時代に日本政府の高級文官としてここに赴任していたのだと思うと、宏隆にはとても感慨が深かった。
 その建物は、日本が建てたそのままの姿で、今も中華民国の「総統府」として使われている。もしかすると陳さんは、宏隆の祖父がここに赴任していたことを知っていて、総督府の場所を “現在の” と表現して、さりげなく教えてくれたのかも知れなかった。


 ロールス・ロイスは、総統府の正面の交差点を東に折れて仁愛路に入り、仁愛路の二段あたりで右折して、街路樹の多い静かな住宅街に入っていく。
 仁愛路と、もう一本南側にある信義路や、森林公園との間に挟まれたところにある住宅街は、台湾でも有数の、閑静な高級住宅街として知られていた。

 車は、その中でもひときわ背の高い、垢抜けたデザインのマンションの前に停まり、監視カメラの付いた門柱のインターホンを鳴らして陳さんが何かを告げると、しばらくして高さが3メートルもある瀟洒なアイアン・レースの門扉が電動でスライドして開いた。
 地下の駐車場へ下りるゲートには、大きな金色の龍のレリーフが施されている。
 クルマを停めた地下から建物のエレベーター・ホールに入るにも、再び傍らのインターホンを鳴らし、確認してから、ようやく扉のロックが開かれる。
 エレベーターに乗ると、陳さんはポケットから鍵を取り出し、階を示すボタンの並んだプレートの上部にある鍵穴に差し込んで回し、一番上の「PH」と書かれたボタンを押した。
 そうしなくては、そのボタンを押すことはできない。これは「PH」、つまり最上階のペント・ハウス専用のセキュリティー・キーなのであった。

 14階の、そのまた上にあるので、最上階のペントハウスは15階ということになる。
 エレベーターが停まってドアが開くと、少し先に大きな黒い扉がある玄関ホールが見え、天井には監視カメラが2台も付いている。
 扉の前には、銃こそ身に付けていないが、徽章付きの帽子を被り、腰には特殊警棒と大きなナイフを提げ、手にも五尺ほどの棍棒を持ったカーキ色の兵服を身に纏った門衛が立っている。
 門衛は陳さんの顔を見ると敬礼をして無線で内部と連絡を取り、しばらくするとドアのロックがガチャリと音を立てて解除された。
 扉の中からは、きちんとスーツを着た体格の良い男が二人現れ、姿勢を正して陳さんに敬礼をする。この二人も軍人のように頭髪が短く刈り込まれている。
 表のアイアンレースの門からこの玄関まで、セキュリティー・ロックは合計で4個所ということになる。神戸の家でも、さすがにそれほどまでの用心は無い。

 陳さんが何か中国語で少し言葉を交わすと、その一人が奥のリビングルームに案内し、もうひとりが何処かへ去っていく。

 マンションとは思えないほど、室内は驚くほど広い。
 ここは最上階なのだが、天井が高く、吹き抜けに造られていて、部屋の中から更に上階に上がる階段がある。

 宏隆が住んでいる神戸の屋敷の内部とは、また雰囲気が違っている。
 置かれている家具や、飾られている書画や大きな壺にも、異なる民族の、異なる文化の香りがそこかしこに感じられ、しかもそれらの趣味が良く、その上品さとモダンな建築デザインとが巧みに調和している。

 案内の男に、背もたれに立派な透かし彫りのあるソファを勧められて座り、陳さんと共に、しばらくの間そこで待つ・・・
 窓はゆったり大きく取られていて、広いテラスの向こうには台北の町並みが広がって見える。双眼鏡を使えば、宿泊している圓山大飯店の部屋から、このペントハウスを見つけることが出来るかも知れなかった。


 やがて、陳さんがスッと立ち上がり、宏隆も階段の上から降りてくる人を見つけて、椅子から少し離れて、その人を待つ・・・

 まるで、時間の流れがそこだけ違うかのように、ゆっくりと、軽くステッキを突きながら、その人は宏隆たちの方に向かって歩いてきた。

 陳さんがその人にお辞儀をして、「カトー・ヒロタカさんをお連れしました」と、日本語で言った。

 その人は陳さんに頷くと、宏隆に向かって、

「遠いところを、よく来られましたね・・・私は張と言います」

 この人もまた、流暢な日本語で、そう言った。

「初めまして、加藤宏隆と申します。
 王老師のご指示で、こちらにご挨拶に参上させていただきました。
 どうぞよろしくお願い致します。」

 ・・・深々と腰を折って、丁寧に挨拶をする。
 自分が陳氏太極拳を学んでいる王老師の恩人であり、王老師が所属する組織の長老である人への、それは当然な礼儀である。
 そして、宏隆のお辞儀は、茶道の師匠でもある母に厳しく教えられただけあって、どれほど深く腰を折っても尻が突き出ない、端正なものであった。

「おお・・・近ごろの若者にしては、なかなか礼儀正しい、立派な挨拶だ。
 さあ、そこに掛けなさい。いまお茶を持って来させましょう」

 ・・と、笑顔でそう言い、腰掛けながら宏隆に席を勧める。

 しかし、宏隆は、その人が席に着くまで立ったまま待っている。
 そして、腰掛けたその人が再び宏隆に席を勧め、傍らの陳さんにも目で促されて、ようやくそこに座った。その人は、さりげなく、そんな宏隆の動きを見守っている。


「こんな所に連れてこられて、少し不思議に思っているかもしれないが・・・」

 その人が、宏隆に向かって話し始める。

「はい、王老師のご指示のままに、ここまで来ましたが、実は、まだその意味がよく分かっていません」

「ふむ・・・正直でよろしい」

 張大人、と呼ばれるその人は、七十の坂を少し超えたくらいの上品な紳士に見える。
 真夏の盛りにもかかわらず、きちんとベージュ色の麻のジャケットを着用して、織りの良い水色のシャツを着ている。白い頭髪は全部後ろに流し、彫りの深い顔には、右の顎の辺りに深い傷跡があり、目の奥の眼光の鋭さが、さらに得体の知れ無い雰囲気を感じさせている。
 また、座っている時にも常にステッキの銀製のダービー・グリップから離れない手は、まるで長年百姓仕事でもしてきたかのように、よく働き、よく使い込まれたことを思わせる手であった。

 ふと気がつくと、入り口のそばと、向こうの壁際に、いつの間にか先ほどの二人の男たちが別々に立っている。


「君は、武術が好きかね・・・?」

「はい、好きです」

「王くんに学んでいる、陳氏太極拳については、どう思うかね・・」

「とても奥の深い、高度な武術だと思います。初めて王老師と手合わせして頂いたたときには、勢いよく拳を突いていった僕が、フワリと浮かされるように、そのまま何メートルも吹っ飛ばされて、ひどい目に逢いました」

「・・おお、そうか・・そうか・・・」

 張大人の顔が、少しほころんでいる。

「・・王くんの練習は、楽しいかね?」

「太極拳を学ぶ事はとても楽しいですが、指導される内容はとても厳しいです。
 それに、体力よりも、知性や感性を多く必要とするので、武術というよりも、絵画や音楽に近いものを学んでいるような気がします」

「ほう・・・なるほど。
 ・・で、その陳氏太極拳は、これからも、もっと学んでいきたいかな?」

「はい、もちろんです!」

「・・では、君が陳氏太極拳を学びたい理由とは、何なのだろうか?」

「陳氏太極拳は、自分がこれまで経験したことのなかった、高度な武術だからです」

「世界中に、高度な武術は、他にもたくさんあるが・・・?」

「・・・王老師は、太極とは宇宙を意味しており、この武術は天理自然の宇宙の原理を現しているものだと言われました。宇宙の原理を理解し、それを体現できなければ太極拳を大成することは出来ない、と・・・
 それは徒(いたず)らに人に勝つための武術ではなく、自己と向かい合って磨き、人間として成長していくための、大いなる道なのだと・・・
 その、人間としての成長の中でこそ、初めてそのような高度な武術も身に付くのだと・・
 そう聞いたときに僕は、これこそが自分の求めていたものだと、確信しました」

「ふむ・・・・・」

「僕は小さい頃から・・・漠然としたものですが、人間として、まず自分自身ときちんと向かい合う必要があると、ずっと思い続けていたような気がしています。
 自分とは何であるのか、人間とは何であるのかを、他の何よりも優先して知る必要があるのではないかと・・・ですから、それが何であれ、人間として生まれてきた以上は、その本質を探求していきたいと思います。そして、王老師が教えて下さる陳氏太極拳には、その答えがあるように思えてならないのです・・・」

「ふむ・・・・君は、まだ若いのに、なかなか立派な考え方を持っているね」

「ありがとうございます・・・でも、それを求めていく気持ちだけは強いつもりですが、実際には、やっと套路を学び始めたばかりだというのに、とても難しくて、何度も音(ね)を上げそうになってしまいます」

 頭を掻きながら、恥ずかしそうに宏隆が言う。

「ははは・・・そうか、そうか・・・
 ・・で、その套路は・・十三勢は、どこまで進んだのかね?」

「まだ学び始めたばかりで、第二勢の終わりまで・・・
 二度目の “金剛搗碓(Jin-gang-dao-dui)” のところ迄です」

「おお、中国語で套路の名前を学んでいるのだね・・・
 では、学んだところを、ちょっと其処でやって見せて貰えるかな?」

 ・・そう言われて、宏隆はちょっと困ったような顔をしたが、

「残念ですが・・・それは、できません」

 ・・・すぐに、そう答えた。

「ほう・・・それは、何故かな?」

 宏隆の顔を覗き込むようにして、その人が訊いてくる。


                               (つづく)




  
    台湾総統府(旧・台湾総督府)


       
         アイアンレースの門扉のあるマンション

2009年08月24日

練拳 Diary #20 「腰相撲(こしずもう) その2」

 「太極拳」といえば、やはり「馬歩」である、とつくづく思います。
 なぜならば、太極拳で最初に理解されるべき「站椿」が、弓歩や独立式(片足立ち)などではなく、単純に足を肩幅に開いただけの「馬歩」から始められるからであり、他の站椿で取られる形や、そこから変化していく半馬歩、側馬歩、弓歩なども、全ては「馬歩」を基本とした同じ構造であるのだと、日頃の稽古で感じられるからです。

 また、人間がごく普通に立ったときの自然な状態を考えると、「馬歩」と同じように足が身体の左右に付いている形そのものですから、その時の身体の状態と機能を正しく認識することによって、初めてヒトが今以上に高度な身体機能を追求し、手に入れることができるのではないかと思えます。

 なぜ「腰相撲」が馬歩ではなく弓歩から始められるかと言うと、ひとつには相手に対して足を横に開いた馬歩よりも、縦に開いた弓歩で行う方が ”押されること" に対して不必要な恐怖を持たずに居られるということ、もうひとつは、物理的に弓歩より遥かに押されやすい馬歩で、押されまいとして耐えることによって架式が崩れたり、基本の要求が失われてしまうことを避けたいからです。
 馬歩で足を左右に開いて立った状態では、当然ながら前後からの力にはかなり弱いので、《武術=強靭=確固不抜=押されてはならない》という考えが頭の中に出来上がっていると「立ち方」や「架式」に対する意識は、いとも簡単に失われてしまいます。
 その点、弓歩対弓歩で、相手と対等の形で向かい合うことから始められれば、心や身体にゆとりが生まれ、押されることによる自分自身の変化と、数々の太極拳の要求の意味をその中でじっくりと紐解いて見つめて行き易いように思えます。


 さて、その馬歩での腰相撲は、普通は、一横脚(いちおうきゃく=足先から膝までの長さ)の幅に開くか、それに拳(こぶし)ひとつ分か二つ分を加えた足幅で行われます。
 丁寧に足を開いて身体を整え、慎重に腰を下ろして、馬歩の姿勢を確認します。
 この時点で注意されることは、足のつま先が外へ開かず、正しく正面を向いていることと、膝がつま先の位置より前へ出ないこと、そして身体が極端に前傾しないことなどです。

 馬歩の架式で前方から押されるような場合には、ほぼ例外なく誰もが足先を外旋して立ち、力の来る方向に対して寄り掛かって、自重を前方に落下させて、相手に大きく預けるような傾向が見られます。
 しかし、前回の「腰相撲」でも述べた通り、「勁力」は正しい架式によって生じるチカラですから、そこに相手がいなければ倒れてしまうような、寄り掛かって自分独りでは立てないような状態では、正しくチカラが生じるはずもありません。
 身体を整えていこうとするときには、そこに自分の都合を一切挟まずに、ひたすら架式への要求に意識的に向かい合い、それを正しく持続できることが求められます。


 正しく「馬歩」で立つことができたら、相手にゆっくりと腰を押してもらいます。
 押す側の架式は、前回と同様に弓歩の形を取っていますが、相手の腰が低くなった分だけ押す位置が低くなるので、押す人は前足の外側に胯(クワ)が流れないようにし、真っ直ぐ水平に力を伝えようとすることが大切です。
 押されている方は、自分で馬歩が崩れていないことを確認しますが、見た目の架式が整っていても、そこに正しいチカラが生じていなければ、ただの馬歩の格好をしたマネキン人形と変わらぬ状態になってしまい、だんだんつま先が浮き始め、膝やお尻が出てきて、最後には押されてしまいます。つまりそれは、まだ十分に立てていなかったということです。

 馬歩の腰相撲で、相手に軽く押されてしまったり、押し切られなくとも正しく返せない時には、誤った姿勢と架式が、師父や教練の手によって直接修正されていきます。
 それが修正されると、誰もが自分の取った姿勢と修正後との違いに驚きますが、その際は口々に「こんな位置ではとても立っていられない気がする」とか、「この方が簡単に押されてしまいそうだ」・・といった感想を洩らします。
 私自身も、かつて最初に姿勢を直して頂いた時には、何かとても頼りなく、これで押されたら数秒も立っていられないと思えましたが、鏡でその姿勢を確認してみると、意外にも、それほど不安定な姿勢に見えなかったことが不思議でなりませんでした。

 そして修正された後に相手の力が加わってくると、まず、押してきた力の負荷が自分の足に来ないことに驚かされます。
 相手は腕が震えるほど押して来ているのですが、強く押しているはずのその力が此方にはそれほど感じられず、それどころか、相手の力のお陰で、自分の体軸がより一層確立されてくるようにさえ思えるのです。
 このことによって、相手の押してくる力と、自分が立って受けている力は、明らかに種類の異なるものであるように思えますし、すでに「立つチカラ」が働いている自分の身体には拙力で影響を与えることは非常に困難であることが分かります。

 これが「弓歩」による腰相撲であれば、後ろ足を支えにして耐えたり、筋力で押し返すことも可能かもしれませんが、この「馬歩」の腰相撲では、どれほど体格が優れていても、すでに押されることに不利な体勢から始めているわけですから、押してくる力と同質の力で立っていれば、簡単に押されてしまうのは目に見えています。


 「馬歩」の架式が確立されてくると、押されている最中でも、その場で足を上げて四股を踏んだり、足踏みをしながら相手を飛ばし返すことも可能となります。足を動かすことができれば即ち歩法が生じているので、そのまま相手を押しながら前に歩いていくことも可能になります。
 しかし、それらの現象はすべて「馬歩」が正しく整えられた為の結果であって、それができること自体は、決してこの訓練の目的ではないと注意されます。
 これは、腰相撲に限らず、私たちが行うどのような対練の稽古であっても同じことであり、結果が目的となってしまうと、押され負けない事や、人を派手に飛ばせることばかりを求めてしまい、それらの工夫になってしまった稚拙な動きには、すでに太極拳の基本原理は存在しないからです。
 そのことを各自が正しく認識できるように、私たちの稽古に於いては、「結果ではなく、学習の過程がすべてである」と、繰り返して何度も指導されます。

 それは、腰相撲で言えば、たとえ相手に押されてしまっても良いから、「馬歩とは何か」「構造とは何か」を理解する為にこの対練を用い、それを経験することであると言えます。
 そしてその為には、必要であれば相手に押す力の強さや速さを注文してもよく、自分が最も馬歩を理解できるような状況を整えることが最も大切であり、そのようにしてようやく、稽古が成り立つわけです。
 もちろん、自分の分かりやすい力と速さだけで稽古するのではなく、時には、相手に思いきり押してもらったり、押す人数を増やしたりもします。そうすることによって自分の馬歩がどれほどのものであるかを正しく知ることが出来ますし、ただ単純に待ち受けるだけの、相手との関係性を無視した稽古になっていないかどうかを確認することも出来るわけです。

 「腰相撲」は、まさに「力」に対するイメージを、日常から非日常へと一新することができる、優れた練功であると思います。そのために何種類もの「腰相撲」が用意され、各々のスタイルで「太極拳の構造」を理解できるように、学習体系として確立されているに違いありません。

 そして、それを正しく理解するためには、架式と基本に忠実に、過程を大切にした稽古が積み重ねられることが必要であり、そこを正しく通過せずに、結果として生じる現象だけを追い求めていては、何も見えては来ないのだと思いました。

                                (了)



  【 参考写真 】

        
  
   *体重80キロ以上の男性が、小柄な女性門人を目一杯押しているところから
    返されていく様子です。押されている方は、相手への寄り掛かりが全く見られません。



        

        

   *稽古では、男性がフルパワーで向かってもなかなか年上の女性門人を押せず、
    ついには反対に飛ばし返されてしまう光景がよく見られます。



        

   *馬歩の腰相撲、多人数(4人)掛け。
    全員、声を呻らせ、顔に青筋が立つほど頑張って、真っ直ぐ前に力が伝わるように
    押しているのですが、正しく馬歩の原理を得ることが出来れば、その場で足踏みを
    したり、足腰を伸ばしてそのまま棒立ちになれる余裕さえあります。

2009年08月18日

連載小説「龍の道」 第24回




 第24回 臺 灣 (たいわん)(3)



「こ、こっ、これは・・・大変失礼いたしましたっ!」

 宏隆は慌ててその深いシートから飛び起き、浅く座り直し、背筋を伸ばしてそう言った。

「あははは・・・いやいや、何も失礼じゃありませんよ。
 あなたはまだ、正式に拝師入門していないことですし、それに、同じ門の中で学ぶ者は、みんな家族と同じなのですから、何の遠慮も気兼ねも要りません。
 それより私の方こそ、つい身分を申し遅れました。これからも宜しくお願いします」

 陳さんは笑いながら、いたって謙虚に、気軽に宏隆に接してくれる。

「こ、こちらこそ・・・しかし、兄弟子に運転までして頂いているロールス・ロイスの後部座席に、賓客になったような気分でふんぞり返って・・・本当に申し訳ありません」

「いやいや、これは任務、つまり張大人のご命令ですから、気にしないでください。
 それより、滅多に乗れないクルマなので、よく味わっておくと良いですよ」

「ありがとうございます・・・でも、そう聞いては、たとえロールス・ロイスでも、何だか落ち着いて乗っていられません」

「ははは・・・あなたはクルマがお好きなようですね」

「はい、父がいろいろと所有していて、僕もいつの間にか興味を持つようになりました。
 このロールスロイスは、陳さんの愛車なのですか?」

「いえ、そうだと良いのですけど・・この63年式のロールス・ロイス・シルバークラウドは、残念ながら私のものではありません。これは張大人のお車です。
 もっとも、こうして愛用している時間は遥かに私の方が多いので、実質的には私のクルマみたいなものですけどね! あはははは・・・」

「はははは・・・」

 陳さんの冗談に、宏隆は心が和んだ。できるだけリラックスさせて、旅の疲れを労おうとしてくれる、異国の先輩の暖かな心遣いを、宏隆はありがたく思った。


 基隆の港から3〜40分も走っただろうか。ロールス・ロイスは、話しをしているうちに、いつの間にか台北の町中を抜けて、右手の小高い丘の上へと向かっていく。

 丘の上には、まるで中国の ”紫禁城” を思わせるような立派な建物があり、正面の巨大な中華門の上には、「圓山大飯店」という文字が見える。

 「大飯店」というのはレストランのことではなく、ホテルの意味である。
 「圓山」というのは、ここの地名をいうのだろうか。日本では、円山と言えば文字どおり王族の墳墓そのものを意味したり、その名前自体も古墳に葬られた古代王族から生じた姓でもあるので、この地にも、そんな謂われがあるのかも知れなかった。

 そんなことを考えながら・・・

「何だか、すごいホテルですね。台湾にこんなホテルがあるなんて知りませんでした。
 もしかすると、僕は此処に泊まるのですか?」

 陳さんに訊ねると、

「そう、これは現在、台湾では一番のホテルですよ。
 お金持ちの一般人も、外国から来たVIPも、マフィアも、みんな此処に泊まります・・」

「マフィア・・・・?」

 そんな話をしているうちに、車はもう、アプローチのカーブから広い玄関に滑り込むように入っていく。貴婦人のような真白いロールス・ロイスが現れたとあってか、制服姿のドアマンが二人、慌てて駆けつけて来る。
 白い手袋で恭(うやうや)しく後ろのドアを開け、中の宏隆の顔をチラリと見ると、「いらっしゃいませ・・」と日本語で言った。

 背が高く、よく日に焼けた宏隆の顔は、欧米ではあまり日本人には見えないらしく、ヨーロッパの街中などでは白人観光客に道を尋ねらることも度々あるが、さすがにお隣の台湾では、ただの一瞥だけで日本人に見えるらしい。

 陳さんは、自分でドアを開けて、運転席から降り、

「さあ、行きましょう、荷物はベルボーイに任せて・・・」

 そう言って、乗ってきたロールスロイスや宏隆の荷物には目もくれずに、どんどんホテルの中に入っていく。
 
 フロントのある一階の内装も呆れるほど豪華に造られていて、厚く敷かれた緋毛氈は足音をよく吸収して、ロビーに独特の静けさを生み出している。
 朱色に塗られた太い円柱と、凝った装飾を施した華やかな天井から吊されている提灯が煌めき、紫禁城も斯(か)くありしかと思わせるが、侘び寂びの美意識を持つ日本人の目からは、その豪華さは随分と派手で、華美なものにも感じられる。


 陳さんが、慣れた様子で宏隆のチェックインを済ませて、此方に来る。

「それでは、18時にお迎えに上がって、張大人のところにお連れしますので、それまでの間シャワーでも浴びて、寛いでいて下さい」

「それから・・日本との時差はマイナス1時間です。
 もしまだでしたら、手許の時計を正しく合わせておいてください」

 そう言って姿勢を正し、サッと包拳礼をすると、再び玄関の方に歩いて行った。
 
 確かに宏隆は、昨夜の襲撃事件の興奮も覚めやらぬまま、まだ日本時間のまま時計を合わせてはいなかったのだが・・・思わず腕の時計を眺めながら、よくそれを見抜くものだと、つくづく感心した。そして「もし未だであれば・・」と付け加えた言葉にも、その人の余裕が見える。
 また、時間を”18時”と、24時間制で表現するのは、船乗りや軍人など、昼夜の別なく働く立場の人が、誤りの無い時間を確認する方法であった。
 陳さんの、大股で歩いているにも拘わらず、身体が左右にブレず、頭が全く上下に揺れない後ろ姿を見送りながら、この先輩はただ強そうに見えるだけの人ではない、と思えた。


 客室係が来てエレベーターで9階まで案内すると、その階のサービス・カウンターから日本語の出来る年配のバトラーが出てきて、部屋へと案内してくれる。

 用意された部屋はジュニア・スイートで、リビングと寝室が分かれている。
 ベッドは広々としているし、中国風の凝った彫刻の施されている重厚な机や椅子、サイドボードや箪笥などが置かれ、壁には篆書の字が墨痕も鮮やかに大きく描かれている額が掛けてある。
 ふと気付けば、ソファの傍らのテーブルには、メッセージカードが添えられた生花が飾られてあり、「歓迎・加藤宏隆様」と日本語で書かれていた。”歓迎”というのはレセプションでも見かけたので、たぶん中国語でも同じ言葉なのだろう。


 バトラーが宏隆の荷物を解き、箪笥の引き出しに丁寧にひとつずつ入れてくれる。

「・・今夜は、お出掛けになりますか?」

 そう訊ねるので、6時に迎えの車が来る予定だ、と答えると、

「それでは、ズボンをプレスして、靴を磨いておきましょう」

・・と、気を遣う。

 日本にはまだまだ僅(すく)ないが、家族と海外旅行に行くと、このようなサービスが付いた部屋に泊まることがよくあった。神戸の屋敷にも執事や下男が居るので、今回のような独り旅でも、何を躊躇(ためら)うことも、オドオドすることもなく、宏隆にはかえって快適であった。

「・・何かお飲み物をお持ちいたしましょうか?」

 手際よく荷物の整理を終えたバトラーがそう言うので、オレンジとマンゴーのミックス・フレッシュ・ジュースを大きめのグラスで頼んだが、ちょっと小腹が空いているのに気が付いて、好物の粽(ちまき)と、それに合いそうな点心と台湾茶を適当に見繕って持って来るように頼むと、「畏まりました・・」と、深々とお辞儀をして出ていく。

 白い寒冷紗のカーテンを開け、ベッドルームと同じほどの大きさのある広々したテラスに出ると、台北の街が一望できた。

「・・・やぁ、これは良い眺めだなぁ、ここに泊まる人は、まるで王侯貴族にでもなったような気分になるのだろうな・・・いや、実際に各国の元首や、マフィアの親分まで泊まるというんだから、”気分” じゃなく、王侯貴族そのものか、ははは・・・・」

 平安の昔から、千年以上も掛けて日本文化を創ってきたような一族の末裔に生まれ、神戸の山の手に九千坪の敷地を有する豪壮な邸宅に住まいしていても、宏隆にとってはそんなことはどうでも良く、どこかでそれが、いつも他人事のように思えてきた。

 人によっては、豪邸に住んで高級車を乗り回し、有り余る金がありさえすれば自分が偉くなったように思えるような人間も居るが、それは所詮は成り上がりの考え方であり、本当の貴人(あてびと)とは、その人の質や人間性の高さを指して云うのであり、貧富の差や社会的な地位に関わりのない、人間としての魂自体が高潔なものであるべきことを、宏隆は血液としてよく識(し)っている。


「きっと、ここは夜景が綺麗なのだろうな・・・」

 とりあえず、旅の目的地に到着した宏隆は、ふと、神戸の夜景を思い出していた。


                                (つづく)





   
     門から見た台北のホテル「円山大飯店(The Grand Hotel Taipei)」
     かつて米国の旅行雑誌で「世界十大ホテル」に選ばれたこともある。


   
     豪壮な構えの「円山大飯店」のロビー



2009年08月17日

歩々是道場 「甲高と扁平足 その5」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)


 初めてスケート靴を履いて、氷のリンクに立った時のことを思い出した。
 これぞ、まさに非日常的だと思える、たった一本のエッジが縦に付いた変テコな靴(しかもヒールまで付いている!)を履いて、鏡のように磨かれたツルツルの氷の上に、恐る恐る、壁を伝いながら入って行く・・・
 手すりに縋(すが)っているにも関わらず、氷の上に立っただけで、足は勝手に滑って動こうとしてしまう。ようやく勇を鼓して手すりを離れることが出来ても、一体どこを捉えて歩けばよいのかが分からず、腰は砕け、膝は笑い、尻を突き出した惨めな恰好のまま一歩も動けない。もし上手な人を真似て無理に前に進もうものなら、あっと言う間に転んで、尻餅をつく羽目になる・・・

 こんな時、私たちはどのようにして氷の上で歩けるようになり、颯爽と滑れるようになるのだろうか。一般日常的な、気ままに養ってきてしまった凡庸な身体を武術的な高度なものに変容していくには、それと同じようなプロセスが必要とされるのだと思う。

 普通の地面や床で、氷のリンクに立っているような体の状態の人は先ず居ないだろうが、靴のカカトに少しでもヒールの高さが付いていれば、それだけで必然的に「下り坂」を歩むような体軸になる。面白いのは、ほとんどの現代人は、たとえ底がフラットな靴で平地を歩いていても、相変わらず「下り坂」の体軸のままであるということだ。
 もはや現代人には、本来あるべき「ヒトの構造」で正しく歩ける人など、極めて希なのではないか、とも思える。

 その現代人の歩く姿を観察していると、脚のつま先が外側に開き、土踏まずや足指の付け根をベッタリと潰し、膝は曲がったまま上に引き上がらず、胯(クワ)の大転子(だいてんし)の辺りを回転させながら体が左右に振れ、肩を揺すり、やや脊柱が前彎気味に、ちょっと後傾するような恰好で、身体を前に落下させつつ、アシを引き摺るようにして歩く・・・といった特徴の人が多く見られる。 
 男女を問わず、ヒール系の靴を履いている人は、つま先の方に重さが集まるような歩き方をしているが、実は接地時にはカカトにも結構大きな衝撃が来ている。おそらく裸足で平地を歩いてもそのような体軸は変わらず、つま先まできちんと脚を使えないような構造になっているはずである。下手をすると脚の指を動かす事さえ上手く出来ない人も多いのではないだろうか。
 そこでは、落下してくる身体の重さを、太腿の前と外の筋肉、つまり大腿直筋や大腿筋膜張筋で支えながら、脚(ジャオ)の外側の第四趾や第五趾あたりの【アウトエッジ】のラインが多用されて、外踝(そとくるぶし)の骨である腓骨(ひこつ)や、それに付随する腓骨筋(ひこつきん)を頼りに、前に落下する身体を支えては、再び上へ蹴り戻すようにして歩いている状態が多く見られる。
 そう言えば、入門間もない初心者は、よく「外踝に乗っている」と指摘される。外踝に乗ったり、そこにズルズルと重さが流れてしまうことを注意されるのである。

 しかし考え方は色々とあるもので、そのように脚の外側、つまり【アウトエッジ】に乗ることこそが「正しい立ち方」であり「正しい歩き方」であるとして、その体軸で歩くための”革命的な靴” をわざわざ開発した人まで居る・・ということを耳にした。
 その人は、オリンピック選手や野球やゴルフの有名選手たちをコーチし、《足に掛かる衝撃力の方向性や大きさを変えることで、関節や筋肉のアンバランスを解消する目的》で、《カカト、第四趾、第五趾を中心として立つことが出来る》ような靴を造ったということで、”甲高&扁平” を諄々と書いている者としては少々興味が湧いた。
 また、陳氏太極拳老架式の「正しい馬歩」が、それと全く同じシステムであるとする考え方もあるそうだ。そのように、コトが武術や太極拳に関係してくると、たとえ”親戚”の老架式のハナシとは言え、やはり関心を持たざるを得ない。
 もし私たちが、そのような【アウトエッジ】の構造になったら、果たしてどのようなコトになるのだろうか・・・?


 そこで、またまた「実験」をしてみることになった。
 今度は数人のスタッフが対象ではなく、ある日の「一般クラス」の稽古に参加していた、総勢17名の門人たちに協力して頂いた。
 とは言っても、件(くだん)のオリンピック・コーチさんが開発した「特殊な靴」はオークションでも価格が1万円以上するので、実験では【アウトエッジ】を半ば強制的に生じさせることが出来るようなものを、私なりに工夫することにした。

 もちろん、その特殊な靴を履くことで起こる現象と、今回私が工夫して生じた体軸が同じであるとは限らない。しかし、そこで造り出した体軸は慣れない【アウトエッジ】で歩くことをとても自然に生み出してくれたし、普段では有り得ない「大転子(だいてんし)」の軸を造って歩くことも可能となった。
 これは、そのコーチさんが言われる《大転子の垂直下に膝関節と外踝が並ぶコト》と近いので、まあ、中らずと雖も遠からず・・ではないかと思える。
 この「大転子」とは、股関節のすぐ下側の、大腿骨の上端が角度を付けて外に出っ張っている部分のことである。

 なお、実験に協力をお願いした門人たちに先入観を与えないように、何を実験するのかという事も、何の為にやるのかという目的も一切明らかにはせず、正誤や良否の観念も全く与えないように心掛けた。そして、目的は後で説明するので、ただひたすら黙って実験に協力してもらいたい、とお願いをしたのである。


 まず初めに、各自が初心に戻った体軸で、勝手気儘に歩いてもらってウォーミングアップをする。特に武藝館で学ぶ太極拳の軸を意識せず、入門前の普通の人に戻って、ごく普段の、散歩や買い物でもしているような気分で、できるだけ無意識に歩いてもらった。
 予め自分で実験内容を試してみた結果、そうしなくては、普段の稽古の軸が過剰反応して、とても実験にはならないと思えたからである。

 次に、添付写真の如く、足指の又に挟んで指の間を開く、ウレタン製の「足指くん」とかいう名の健康グッズを、指一本分ずつバラバラに切ったものを用意する。
 これはドラッグストアなどで数百円程度で売っているものだが、何でも外反母趾や水虫にまで効果があるらしい。

 バラバラに切ったそのパーツを、両方の脚の、第四趾と小趾の間にひとつずつ着ける。
 そして、門人たちに先入観を与えない為に、『コレを、ただ指の間に挟んでください』とだけ告げた。
 これで準備は整ったので、まず手初めに独立式(ドゥリー)、つまりその場での片足立ちをやってもらう。立つ方の足は膝をピンと伸ばし、身体を弛ませず、キチンと立つ。

 さーて、お立ち会い・・・
 実際に試して頂ければ分かるが、たったこれだけのことで、立ち易いはずの「利き足」でも、片足ではとても立ち難くなり、すぐにもう一方の足を下ろしたくなってしまう。
 人は誰しも片足で立ち易い方と、立ち難い方があるものだが、この場合、普段から立ち難い方の足など、膝を伸ばせと言われても伸ばすことさえ儘ならず、四苦八苦でどうしようもない。
 道場では、『エエ〜ッ?』『た、立っていられないっっ・・』『アレ?、何故だ・・!』『何だ、コレは・・?』『・・あ、駄目ですねコレは』などという嘆きの言葉が飛び交い、ちょっと騒然となる。


 お次は、それを指に挟んだままで、歩いてもらった。
 ちょうど、そのウレタンの切れ端を足指に挟んだ所から、スケートのエッジがカカトの方に伸びていることをイメージしてもらって、そのエッジに乗る気持ちで歩くのである。
 これぞ、まさに【アウトエッジ】である。

 すると・・・嗚呼、道場は、まるで「アウストラロピテクス」や「北京原人」の群れが行進しているかの如く、みな腰を反り、お尻を突き出し、胸を張り、或いは背中を丸めて尻を巻き込み、つま先を外側に開いて、たっぷりと大腿直筋や大腿筋膜張筋、腓骨筋などに乗りながら、ロクに膝を上げることもせず、重心を前に落下させながら、ヨタヨタ、フラフラ、ノッシノッシ、と歩くではないか・・・!!

 いや、決してオーバーに書いているのではない。この実験の様子はすべてビデオで録画してあるが、何度見ても、ちょっと信じられないような光景である。
 門人たちが、まるで示し合わせたように猿人や原人になったような恰好がこの道場で見られるとは・・・太極武藝館が始まって以来の珍事・・『猿の惑星・すげ〜館編』であろうか。
 観ているスタッフは笑いを堪えきれないが、当の門人たちは自分たちを襲った思わぬハプニングに苦笑しながらも、それを楽しみつつ、一生懸命マジメに歩いてくれている。


 次の実験では、もっと極端なことをやってもらった。
 それは、前々回にご紹介した「足半(あしなか)」を使って、その鼻緒を、先ほどと同じく、両脚の第四趾と第五趾の指の股に挟んで歩いてもらうのである。

 これは、予想したとおり、もっと大変なことになった。
 今度は、まるで「ネアンデルタール人」の群れが、下り坂を転がらないように気をつけながら、ノッシノッシと歩いているような光景に見える。
 スタッフの誰かが『これぁ、まるで、花魁(おいらん)道中みたいでありんスねぇ・・』と感想を漏らし、皆が笑う。・・なるほど、オイラン道中とは言い得て妙であるが、これでは悩み多き「ナヤンデルタール人」と言うべきか。

 しかし、その歩き方は何処かで見たような覚えがあった。そう、それは、初めて氷のリンクでスケート靴を履いた初心者が、ようやくヨチヨチと歩き始めた時の恰好と似ている。
 初心者はスケート靴のエッジを真っ直ぐに立てるのが難しく、膝を寄せるように内股になって、エッジが内側に寝てしまう。それが何故なのか、これまでに考えたこともなかったが、今回の実験によって、それが太腿の前面や側面の筋肉が緊張した為に、アウトエッジに乗ってしまった故だということがよく分かった。
 アイス・スケートのエッジは鼻緒のライン、つまり「インエッジ」に付いており、アウトエッジに乗ってしまうと、それこそアウト・オブ・エッジで、その真下には何も支えるものがなく、そのラインでエッジに立とうとすると、必然的に靴は内側に傾いてしまう。
 また、そこで立ったままでは前に進みにくいので、普通はちょっと胸を落とすように前に出して、重心を前方にずらすようにして進もうとしたくなるのである。

 さて、下り坂の「オイラン・ナヤンデルタール人」たちは、まず身体に普段の稽古の伸びや張りが見られない。そして見た目にも全く弸勁(ポンジン)が感じられない。全身が弛んでモモに乗るか、上半身が緊張したままモモに乗るか、いずれにせよモモに乗ることが強調されて見える。
 その恰好は、全員、足のつま先が開き気味になり、アウトエッジに寄り掛かるように、その軸を頼りに、アウトエッジという名の杖にすがるように歩いている。先ほどのウレタンのカケラを足の小趾に挟んだのが効いているのか、特にそのエッジを意識して歩いて下さいとお願いしているワケでもないのに、まるでそこにはそのエッジしか無いような歩き方をしているのだ。

 そして、誰もが普段よりも足の横幅を大きめに開いて、なぜか腕を大きく振り、X脚のようなアシで歩いている。もう「開寛屈膝」の要訣などは何処へやら、胯(クワ)や骨盤、尻は見事に縮み、転腰などは全く効かず・・・というか、それ以前に腰そのものが動いておらず、特にクワは外へ外へと流れ、股関節ではなく「大転子(だいてんし)」にしっかり重さが掛かっているように見える。
 実は、この「大転子」のすぐ側には「大腿筋膜張筋(だいたいきんまくちょうきん)」という、凡庸な日常の運動構造には常に影のように寄り添う、初心者がたっぷり使ってしまうお馴染みの筋肉がある。
 余談ながら、師父はこの「大転子」を用いた体軸のことを ”マイケル” と呼び、稽古中にジョークを交えながら度々言及される。


 最後に、馬歩(ma-bu)で「站椿」をしてもらった。
 老架だろうが、小架だろうが、陳氏太極拳を学んでいる人には、これほどお馴染みのポーズも無いだろう。

 私たちの馬歩では、脚(ジャオ)は平行に前方を向く・・・はずであったが、普段と違って、だれも脚を平行にしていない・・・いや、できない!
 それどころか、キチンと馬歩になって下さいと言った途端に、何人かが馬歩の恰好のまま、突然、後ろに走り出したり、飛び上がったりしてしまった!!
 つまり、立てないのである。正しい軸が立たない、と言った方が正しいかも知れない。
 実験をしてくれている門人からは、さすがに悲鳴が出る・・・

 しかし、心を鬼にして、更にそれに【アウトエッジ】を意識して立ってもらう。
 脚(ジャオ)の第四趾と第五趾からカカトに到るエッジを意識してもらい、そのラインに乗って馬歩の架式を取ってもらうのだ。
 すると、走り出す人は、やはり後ろに走り出し、飛び上がる人はひどく飛んでしまうが、何とか立つことを保っている人も、普段の馬歩とは見た目がまるで違って見える。
 懸命にその軸の中で「馬歩」の構造を整えようとしているのだが、腰が反って尻を突き出し、胸を張り、胯(クワ)は閉じ、肩はイカり、肘は上がって、いつもの稽古の恰好にはほど遠い。普段では考えられない自分のヘンテコな恰好に、もう誰もが笑っている。


 ・・・そこで、今度は、
「その身体で、最も楽だと感じられる、最も立ちやすいところで立ってみてください」
 と、お願いしてみた。

 すると皆、自分がその馬歩の中で楽な姿勢を探し始めて・・・
 やがて、しばらくすると、全員が見事に同じような恰好になったので驚いた。

 その恰好は、やや胸が張られ、骨盤を巻き込み、膝を前方の下に落とすように出し、大腿四頭筋や腓骨筋に重さが集まるような恰好で、地面に杭を打ったように立っている。

 しかしそれは、どこかで目にしたコトのある、見覚えのある「馬歩」であった。


 すべての実験を終えて、みんなに感想を聞いてみた。

 以下は、撮影ビデオからテープ起こしをした、門人たちのありのままの感想である。
 少々長くなるが、貴重なナマの意見なので、ここに載せることにした。

 『馬歩を取ろうとすると、大腿部の外側が突っ張って安定しないので、膝の内側で支えて、バランスをとろうとする。深い馬歩になれない。骨盤が締まるような感じで、膝が内側に入って、お尻を突き出してしまう』

 『何をやるにもシックリこないので、足や腕でバランスをとって操作するしかなく、ひどく疲れた。この実験は、大腿部の外側を多用せずには、何ひとつ出来なかった』

 『馬歩をとろうとすると、胯(クワ)が開かず、大切なポイントが全く使えないので、大腿四頭筋で支えるしかない。下半身の筋肉の充実感はあるが、歩法の時は足だけで進んでしまって、上半身が何をしていいのか分からない。大腿筋膜張筋の辺りが痛い。
 脚(ジャオ)は小指側に乗って、親指側が浮いてしまうほどだった』

『ダメな体軸の見本のようだ。このまま続けたら、明日が大変なことになると思う。
 まるで身体の中が空っぽになったような感じだ』
 
『馬歩をとった時に、馬に跨るというよりも丸木に跨っているようで、膝が外へ出よう出ようとしているのを、なるべく内側へ保とうとするので、膝が緊張して疲れた。
 骨盤や仙骨の周辺も、緊張してひどく疲れてしまった』

『馬歩の時に、脚の裏側(大腿二頭筋)が全く使えなかった・・』

『せっかくこれまで稽古で造ってきた軸が、今日で全て壊れてしまいそうです』

『骨盤が固まったような感じで、いつもの馬歩をとろうとすると、重心がズレて後ろへ崩れていくしかない状態になる。つま先は外旋したがるが、外旋しないように平行にするとますます骨盤周辺が固く締まって、胸が張ってくる』

『全ての動きがやりにくかった。外側のエッジが強調されたことで、大腿部の外側(大腿筋膜張筋)を使ってしまうのだが、これまで体験したことのない、一種の球のような張りが出てくるような感覚がある。一見、弸勁(ポンジン)と思えるようなものが出てくるので、大変な勘違いをしてしまう人も居るのではないだろうか。
 アウトエッジに乗っては片足で立つことは難しく、脚から股関節に至るところが全く捉えられず、中心というものが生じない』

『かつて柔道や空手をやっていた時のように、自然にガニ股で歩いている。
 胃腸が重苦しいような感じで、とにかく身体が重い。馬歩では前傾しないと立てない。
 自分は、柔道ではこうやって相手と組んでいたのだと思える。そういえば、当時は靴の外側ばかりが減っていた。
 後ろ向きで走ってみると、坂道を後ろ向きで走っているように、勝手に後ろへ進んでしまうので、怖くて仕方がない。真っ直ぐに立てず、大腿四頭筋がバンバンに張ってしまった。
 勝手に脚が動くので、上半身は無くてもいいような感じで、身体がひとつにならない』

『歩くと、胯が動かない。馬歩をとると、後ろから押されるように前傾してしまう。片足では絶対に立てない。外側の感覚が強くなり過ぎて、内側が感じられない』

『扁平足だった頃のように、ベタッと脚を潰して歩いている。頸椎や腕が重く、特に親指の付け根が重い。骨盤周辺と大腿部の外側(大腿筋膜張筋)が重だるく、脛が緊張している。
 馬歩では骨盤が開けず、膝が内側に入ってしまい、後ろに倒れてしまった。
 片足では立とうとすると、軸が後ろの外側にズレてしまって、非常に立ち難い。膝が常に折れた状態で、特に小走りすると、肩胛骨と骨盤がズレてうねってしまい、脚と上半身がバラバラに動くようだ。後ろ向きに歩くと、徐々に内股になってしまう』

『脛が力んで、仙骨周辺が緊張して、全身が緊張して歩き難い。
 前に歩き難いので、手を大きく振って、その力で脚を進めていこうとした。
 馬歩では、大腿四頭筋から膝へ内側に向かって捻られるようだ。片足になっても、身体を捻って立たなくてはいけないので、長く立つことはできない』

 ・・・等々である。



 さて、実際にはこの実験は多岐に亘って行われ、ここに書かなかった内容も沢山ある。
 それらの実験では、実に多くの驚くべきことが発見されたが、当門の秘伝に関わるコトも多々含まれている、と注意を受けたので、ここで公開するわけにはいかなくなった。

 この実験を行ったのは、【アウトエッジ】で立って歩くことが正しいかどうかを確かめたかったからではない。人には様々な考え方があるが、それを否定するのではなく、それに学ぶべきだと私は思っている。
 今回、私が知りたかったのは、《私たちがアウトエッジで立ち、動くとどうなるか》ということであった。それ以外に他意は無い。
 私は、自分が学んでいる事以外の考え方を頭から否定する気は毛頭ない。
 たとえそれが私たちが学んでいる事と全く異なるものであっても、敢えてそれ故に、その事に学べることを心から願うばかりである。
 そしてそれは太極武藝館の開門以来、円山洋玄師父が貫かれている姿勢であり、この道場で真摯に学ぶ門人たち全員の、変わらぬ姿勢でもある。


 しかし、それとは別に、ヒトの構造の実相は、確かな事実として存在している。
 例えば、武術的・太極拳的にどうであれ、「外踝」にはヒトの重さは落ちてはこない。
 「考え方」の問題ではなく、それは紛れもない ”構造上の事実” なのである。

 骨格図を見れば誰にでも分かることだが、外踝は脛骨の外側に位置する腓骨という細い骨の下部にあり、その下側には何も無い。外踝は、本来そのすぐ後方を走る腱に対して滑車のような役目をしている。その滑車自体に重みを掛けていけば、その働きはどうなるのか・・
 元々重さが掛からない所に、わざわざ重さを掛けることによって生じてくる現象は、今回の実験でも自ずと明らかになった。
 また、腓骨は脛骨の補助をする役割として存在しており、歩く度にそんな細い骨に重さを掛けていては、ヒトの構造上、大変なことになってしまうはずである。

 『アウトエッジの軸では、太極拳の最も重要な、或る ”構造” が失われてしまう・・』と師父は言われた。
 また、それでは ”站椿” を練る意味など何も無くなってしまう、と言われるのである。
 具体的にそれが何を指すのかは説明して頂けなかったが、アウトエッジの実験で門人たちがこれほど大変な思いをしたことを見ても、その構造が如何に重要であるかが分かる。

 高度な武術の構造は、決して人間の「本来あるべき構造」から離れてはいない。
 その「在り方」・・・立ち方も、動き方も、ヒトの本来の構造から、微塵も離れていないのだと私たちは教わり、稽古ではそのことをひたすら実感する日々を送っている。


                              (つづく)






      

         上のイラスト:教科書を思い出します。




          
 
         写真上:一個ずつ指に挟めるように切って、こんな風に着けます。
         写真下:「足指くん」本体。



          

         写真上:足半(あしなか)の鼻緒を小指に着けて馬歩を取ったところ。
             初めからまともに立つことが出来ず、ひどい格好に。
         写真下:十秒もしないうちに、もう立っていられなくなりました。



          

        「足半(あしなか)」の鼻緒を小指に挟んで歩いているところ。
         写真では判りにくいですが、なぜか腕を大きく振って、
         ”落下と推進” でノッシノッシと歩いてしまいます。



             

          分解写真にすると判りやすくなります。
          これぞ「オイラン・ナヤンデルタール人」



             

          アシは軽くなったような気がするが、中心が空っぽ、体軸はブレる、
          ・・というのが、皆に共通する感想でした。



             

           「北京原人」のオイラン道中・・・?

2009年08月12日

お知らせ

 昨日の地震に於きましては、発生直後より、多くの方々から安否を気遣うご連絡を頂戴し、まことにありがとうございました。
 皆さまのお心遣いを、心より感謝申し上げます。

 既にご存じのように、昨日、8月11日午前5時7分、静岡市三保の松原の南、約12kmの海上、深さ20kmの地点で、マグニチュード6.6、震度6弱の地震が発生し、震源地からおよそ47km離れた掛川市内では、震度5弱の強い揺れが起こりました。

 太極武藝館道場、および師父宅、市内に住居する門人の家は凄まじい揺れに襲われ、ビルの三階にある事務局では、重さ420kgの温水器が吹き飛び、家具が倒れ、重い食器棚全体が30センチほど移動し、食器が飛び出て来て壊れ、内外の壁に亀裂が入り、大人が二人でようやく持ち上がる植木鉢が飛び上がって壊れるような状態で、歩くのがやっとの大きな揺れとなりました。

 近隣では屋根瓦が剥がれたり地面に亀裂が入ったところも多くあり、近くの東名高速道路が一部陥没するなどの被害があり、太極武藝館では約12時間に亘って断水が続きました。
 現在でも、まだ体感できる小さな余震が続いておりますが、本日午後1時を以て市内各地に設けられた給水所も終了し、東名高速道路が不通になっている以外は、ほぼ正常に戻っております。

 皆様には大変ご心配をおかけ致しましたが、幸いにも門人や関係者には大きな被害がありませんでしたので、どうぞご安心下さいますよう、ここにお知らせ申し上げます。

 この度は、多くの方々から温かいお心遣いを頂戴し、誠にありがとうございました。


        平成21年8月12日   

                      太極武藝館 事務局

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