2009年02月

2009年02月28日

連載小説「龍の道」 第7回




 第7回 南京町(2) 


 コーン、コーンと、足音だけが響く薄暗い地下の通路は、思ったよりも入り組んでいて、曲がったり、狭くなったり、違う方向に伸びていたりもしている。

 時おり、どこからともなく中華料理の匂いが漂ってくるのは、明らかにここが南京町の真ん中であることを改めて宏隆に思い出させたが、地上の食事客や観光客たちは、彼らがぶらぶらと歩く足下に、このような通路が秘められていることなど、もちろん誰ひとりとして想像できるはずもなかった。

 通路の幾つ目かの角を曲がったところに、落ち着いた朱色に塗られたドアがあり、表面には何かの文字か記号のようなものがひとつ、そこがどのような部屋であるかを示すかのように、浮彫に描かれている。
 案内をしてきた金剛力士のような男は、その扉の前で足を止め、鍵を開けて入室を促し、二人に席を勧めると、黙礼をしてそのまま何処かに立ち去っていった。

 部屋の中は意外に広く、天井もそこそこの高さがあって、地下に秘められた部屋であるような息苦しさを何も感じさせない。
 天井際の、僅か20センチほどしかない小さな天窓からは、戸外の光が柔らかく漏れていて、ここが確かにどこかの建物の地下であることが想像できる。
 しかし、部屋の中にも、外の通路にも、上の階に上がる階段がないので、実際にはその建物からはこの部屋に入れないのかも知れない。おそらく、この中国人街の幾つかの建物に秘密の入り口が設けられてあり、そこからこのような通路に通じているのではないか・・そしてこの地下には多くの秘密の部屋があるに違いない、と宏隆には思えた。
 この天窓にしても、こんなに小さな灯り取りでは、まるで建物の装飾のように思えて、外から見て気付く人は滅多に居ないかも知れない。天窓には植え込みのような影も映っているから、尚のことだと思える。

 部屋の床には、西域のホータンのものらしい、絹で織られた見事な毛氈が敷かれており、その上には、螺鈿が美しく鏤められた中国製の円卓と椅子が置かれ、傍らには深々とした皮張りのソファまで置かれている。
 美しい彫刻が施された華奢な飾り台の上の、大振りの見事な青磁の花器には、艶やかな生花がたくさん飾られており、壁には誰の筆によるものか、よく読めば老子の「道徳経」からの引用かと思われる、達筆な書の扁額が掛けられていた。

 しかし、わざわざ秘密の通路を造ってまで、いったい誰が、何の為に、このような部屋を設けているのだろうかと訝しくも思えるが、ともかく、そこは意外なほど静かで、ゆったりと落ち着ける部屋になっていた。


 やがて間もなく・・・碧玉のような色のシルクのチャイナドレスを身に纏った美しい女性が、黒檀の瀟洒なワゴンを押して中国茶を運んで来た。
 その女性は丁寧に一礼し、自分たちが座っている螺鈿の卓に並ぶようにワゴンを置いて傍らに腰掛け、中国式に薫り高いお茶を淹れて、笑顔で勧めてくれる。

 日本には茶道や煎茶道があり、厳格な作法や礼法が定められているが、中国には茶道は無く、その淹れ方にルールや規範はない。しかし近頃、特に70年代に入ってからの台湾では、それがひとつの作法、つまり「茶藝」として見直され始めていると聞く。
 その茶藝に於いては、茶器の載ったお盆に敷かれた白く四角い布は「素方」と呼ばれ、お茶を淹れるときの心構えである「正」を表しているという。心と姿勢を正しくして、その茶葉に適正な方法で淹れる一杯のお茶は、人の心を癒し、寛がせて、新たな活力となるに違いない。

 目の前でその「茶藝」の美しさに見とれ、お茶が薫る高い香気に、それまでの緊張が徐々にほぐれていくような気がするが、宏隆にとっては、その洗練された端整な美しさを眺めているだけでも、何やら心が寛ぎ、和らいでいく心地がした。

 やがて、その女性は慣れた日本語で「少しお待ちくださいませ」と言って、席を立った。
その淀みのない発音から、この人が小さい頃から日本に居住していることが想像される。
 K先生は、にこやかに「謝謝」と中国語で返してから、美味そうにお茶を飲み、まだ些か緊張の面持ちのまま硬くなっている宏隆を見て、ちょっと悪戯っぽく笑い、彼に「喫茶去」と言ってお茶を飲むように勧めた。喫茶去とは、趙州禅師の問答にある、「お茶を一服おあがり」という意味の禅語である。
 宏隆は、見慣れない作法で供された中国茶をうやうやしく飲んだが・・しかし、小さな茶碗に注がれたその薫り高いお茶は、猫舌の宏隆には少々熱すぎて、慌てて茶碗を置いた。


 K先生は、居合や柔術の師範ではあるが、武道の教授を生業としているのではなく、今も東京に本拠を置く、「東亜塾」という有名な政治結社の長であった。
 それは、かつて「東亜塾が動く時には昭和維新が決起される」とまで囁かれた、右翼、左翼の別を問わず、また、日本のみならず、近隣アジア諸国の政治にも極めて大きな影響力を持つ団体であり、政治関係者に限らず、一般市民にもその名は知られていた。

 東亜塾は、政治だけではなく、国学や和歌などの研修施設を東京に建て、国学の研究を行い、歌道の専門誌を発行するなど、戦後の日本で忘却されつつある、それら文化面の活動も盛んであり、政治家や作家も多くその会に名を連ねていた。
 宏隆は父の光興(みつおき)を介して、何度かその歌道会や万葉集の研究会に招かれたことがあった。

 K先生の父親は、かつて右翼の大物として内外にその名を轟かせた人であり、特務機関員を育てた陸軍中野学校にも深く関与し、多くの政治的事件にも陰で関わりを持ったとされる謎の多い人物であったが、日本が敗戦した際には、皇居を望む陸軍練兵場跡地の丘で、一門の有志十数人と共に見事に割腹して果て、憂国の志士の心意気を示した剛毅な人でもあった。

 子息であるK先生自身もまた、その父の志を継いで、今の世の中を・・・ようやく「戦後」も過ぎ、学生運動も下火となって、表向きは平和そのものに見える、「昭和元禄」などと呼ばれる現在の日本を厳しく見守りながら、同じ憂国の志を持つ塾生たちと共に、一旦緩急有ればの時に備え、日夜心身を研ぎ澄ませている・・・
 東亜塾で研鑽されている武道は、そのための入魂の居合道であり、柔術であった。


 K先生は、数年前から、東京から神戸に居を移して来られた。
 その理由は宏隆には分からないが、こんな南京町の秘密の場所と縁があるのだから、この神戸もまた、K先生にとって重要な拠点なのだろうと思える。

 父の勧めで参加した「日本文化研究会」で初めてお目に掛かったとき以来、K先生は、近づいてみればみるほど、意外なほど自分の立場に拘らない人であり、主義主張を他人に向けたり、押しつけたりするようなことも何ひとつとして無かった。
 宏隆から見れば、K先生は政治結社の長というよりは、ただ自分の信じる道を淡々と歩んでいる人といった印象の方が強い。国粋主義でもなければ、単なる民族主義でもない、むしろ反対にそのような会の席では、若者たちに真の国際人になるべく、外国の文化をよく研究し、彼らの長所を学ぶことを勧めた。
 そして同時に、日本の文化や歴史が示すところの、日本人の考え方や長所短所を正しく学び、国際人である以前に、まず日本人である自己を認識する必要がある、と諭すのであった。

 そんなK先生は、宏隆にとって、折に触れては偏りなく、彼の知らない世の中の広さや人の営みの何たるかを教えてくれる、本当の意味で「良き師」と呼べる、人間としても尊敬できる人であった。

 ・・・しかし、南京町の地下の、このような秘密の場所にごく当たり前のように案内されることは、やはりK先生が決して普通の人ではない、一般の人たちには知り得ない「陰の社会」に深く係わっている人であることを、あらためて宏隆に実感させた。


 その地下の部屋で、十分ほども待った頃・・・

 やがて、音も立てずに、スーッと、入り口の扉が開いた。




   



2009年02月26日

資料映像集 #3「陳清平の忽雷架 その1」




    





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2009年02月24日

美し店・美し宿 「 蛸 長(たこちょう)」

 旅に出て、その見知らぬ土地に到着した日の夕餉に「おでん」を食べる、などという機会は、まず、あまり無いかも知れないと思える。
 少なくとも私にとって「おでん」というのは、自分が棲み、働いている街で、仕事が終わってからヒョイと立ち寄って、安酒を一杯引っ掛けながら熱々をつまむものだ、などと勝手に定義をしていた。

 しかし、京都の「蛸長」を知ってからは、「おでん」に対する考えが全く変わってしまった。 
 何が変わったのかというと・・・

 まず、生粋の関東生まれの関東育ちである私が、京都のオデンなんぞ、味が薄くて、しょっぱいだけで食べられないだろうと思っていたことと、京都のことだから、多寡がおでん屋のクセにやたらと亭主が偉そうにしていて、「ご紹介者はおありでっか? 一見さんはお断りどすけど」
とか何とか、例の気分の悪いセリフを平然と言ってのけるかも知れないぞ、とか・・・

 たとえ運良く店に入れても、地元の常連ばかりが周りを占めて、旅行者の自分などはロクすっぽ相手にしてもらえないかも知れないし、下手をすると、おでんを食べたいと言っただけで、
「ウチのおでんは、まずこの懐石コースを食べてもろて、その後で特別にお出ししてますけど、どないしまひょか・・・」などと、客を小馬鹿にしたようなことを平然と言うんじゃないだろうか・・・もしそんな事を言われたら、星一徹や海原雄山のように、テーブルをバーンとひっくり返して出て来てやろうか・・・

 ・・などといった種々の妄想が、すべて、ものの見事にはずれてしまったからである。


      


 初めて「蛸長」を訪れたのは、折しも冷たい比叡降ろしが四条河原に吹き荒れ、その風に雪さえ混じってきた、とても寒い冬の夜だった。
 以前から師父よりその店の話を伺い、また、案内書やネットなどでも予め確認しておいたその店は、少なくとも外観からは自分の想像していたような敷居の高さなど全く見えず、文字通り、道路とガラス戸一枚で隔たれているだけの、ごく普通の「おでん屋」であった。

 「蛸長」と染め抜かれた暖簾をくぐると、店主と思しき人から「おいでやす」と声が掛かる。
 こちらも「こんばんは」と返し、「あの・・良いですかね・・?」と恐る恐る訊くと、サッと奥の席を指して、「はい、こちらへどうぞ・・・」と勧めてくれる。
 この店にはカウンターしか無い。それも、せいぜい十数人も入れば、熱いおでんを食べるにはいささか暑苦しいのではないかと思える程の広さなのである。
 しかし、店主が私に勧めてくれたその席は、おでん屋のすべての仕事を目前にできる、銅製の見事なおでん鍋の真ん前であった。

 普通、こんな席には常連さんが陣取って、新聞なんぞを広げながら徳利を傾けているものだ。
 旅をして、他所の土地の店に入って、何の気なしにそんなところに座ってしまうと、主人から「ああ、其処はダメ、こっちへどうぞ・・」などと言われ、ちょっとムッとしながらその他大勢の席に座らせられる・・なんてことは往々にしてある。

 そのとき、店は混んでいなかった。
 まだ時間がやや早いせいだろうか、奥の方に京都人であることが丸判りの中年の夫婦と、入り口の前に、これまた京都弁丸出しの仕事帰りの”男はん”が二人・・・
 とすれば、これからのゴールデンタイムに常連さんがやってくる可能性は大いにあり、独り旅の余所者である私などは、まず、入り口の前にでも置いておくのが常套かと思える。
 しかし、この店は、いかにも常連の好みそうなその席を・・・ひと目で旅行者と判るはずの、しかもどう見ても東戎(アズマエビス)にしか見えない私にわざわざ勧めてくれたのである。

 予約は受け付けていない。女性週刊誌などの情報によれば、それゆえに、今夜のような寒風の吹きすさぶ中、開店を今や遅しと待つ人の列が四条大橋に至るまで(?)連なることさえある、という。
 幸い私は、ここに来る前に四条通りの突き当たりの祇園さん(八坂神社)にきちんとお参りをしてきた甲斐があってか、寒空に肩を窄めつつ空席を待つこともなく、しかも初訪にも関わらず良い席にまで恵まれたのであった。

 
      


 さて、カウンターに落ち着くと、ようやくそのカウンターの凄さに気付かされる。
 これは明治初期の創業以来、永年に亘って使い込まれた、この店の主客が織りなす歴史の染み込んだ、見事な「檜」のカウンターなのであった。
 その檜の手触りと、目の前に温かな出汁の湯気の立ち上っている、よく手入れをされた銅鍋にしばし心を奪われていると、ご主人の方から「一本お付けしましょうか」と訊いてくれる。
 こういった商売の人は、その客が呑ん兵衛かどうか、顔を見ただけで判るらしい。
 根が酒呑みで、三倍醸造やミテクレだけのウソ酒以外なら内外を問わず何でも呑む私は、
「うれしいねぇ、寒い中、鴨川沿いをスタコラ歩いてきた甲斐があるってものじゃないか・・」などと心中で想いつつ「お酒は何ですか?」と訊くと、「ウチはごく普通の白鶴です」と言う。
「ほぅ・・ごく普通の、ね・・こいつぁ益々面白くなってきたなぁ・・」と思った。
 
 名の知られた店などに行くと、矢鱈と「名酒」が並んでいて興醒めすることがある。
 日本列島、北から南まで、有名な酒が見事に勢揃いしているのは大迫力で誠に結構なのだが、その店が何を飲ませたいのか、その店の料理には何が合うのかが、こっちには全く判らない。
 で、「今日の料理にはどれが合いますか?」と店主に訊くと、アンタ、そんな、ウチにあるのは全部すごいサケだから何でも合いますよ、って、こんな酒知ってますかと言わんばかりの答えが返ってくる。
 いやいや、そも、サケってのはそういうモンじゃないだろっ、今日ビ、パリの有名店だって日本酒がメニューに載っていて、Sake au Japon est très bonne ! ・・なんて、料理に合わせてソムリエが選ぶ時代なんだよ、日本人がそんなテキトーでどうするの、って・・・
 そんなアホな店ばかりが多くなって飽き飽きしていたところ、この店じゃ「普通の白鶴」しかないと来たので、ほ、これは面白いな、と思ったのである。

 その ”普通の酒” をお燗してもらっている間に「おでん」を注文しようと思ったが、目の前のナベをどれだけサラのようにして探して見ても、この店の看板である「蛸」が入っていない。
 うーん、タコ・・タコ・・・肝心の蛸ちゃんはイズコ・・・?

 ・・で、折角タコチョウまで来て、タコがなかったらどうしようかと、ちょっと慌てて、
ご主人に「まずは蛸が食べたいな・・やっぱり明石のでしょ?」と訊くと、
「はい・・でも、蛸はちょっとお時間をいただきますんで、先に何か召し上がりますか?」
・・という答えが返ってくる。

 なるほど、そうか、やっぱり古都は文化が違うなあ・・・考えてみりゃぁ、朝から蛸をずっと鍋に入れっ放しじゃ、茹だりすぎてドロドロになっちまう、ってぇもんじゃあねぇかい・・
 ふむ、明石の蛸はすでに仕事をしてあって、それをこの銅鍋で仕上げるってェ寸法だな・・
などと、ネイティブ・アズマエビスニアンの私は勝手にそう思いつつ・・

 「それじゃ、先にこの豆腐下さい 」

 「はい、豆腐ね・・」

 因みに、京都の豆腐は、日本一旨い。 
これは、もう、絶対であり、この事実は疑う余地もない。
 これは、自他共に許す無類の豆腐好きの私が、日本全国津津浦々をウロウロ巡り歩いた上で、その土地々々の豆腐を食べ尽くし、本当に、心からそう思えたことである。

 私は、国内はおろか、蘭、仏、独、米、豪、などの Tofu なるモノまで食べてきたが、こんな旨い豆腐を創るクニは他に無い。
 彼の国々には Futon(フートン=布団)や Tofu(トーフー)が大好きだという人も多いのだが、彼らに一度この京都の豆腐を食わしてやりたいと、何度思ったかしれない。
 出張で京都に行くと、コレ幸いとばかりに豆腐屋に駆けつけ、ビジネスホテルに持って帰って夜食にする。醤油はいつも上等のヤツをバッグに持参している。
 近ごろはカップ酒でも純米の良いのがあるが、「招徳」や「富翁」なんぞをフラスコに入れていってチビチビと飲れば、もう、何も言うことがない。
 他に何も要らないのだ・・・豆腐だけで酒が呑める、これが京豆腐の実力である。

 そして、京都には「名店」と謳われるような豆腐屋が、其処らにゴロゴロとある。
日本の何処を探しても、そんな土地はたぶん他にはない。
 しかも、それぞれの豆腐屋毎に微妙に味が違う。各々水が違うし、造りも違うのだ。
いや、豆腐を造る際の水さえ「名水」と讃えられるようなものを平然と使って造っている。
 原料の大豆が国産、何てのは当たり前である。もしも、それら名店の豆腐屋が輸入大豆を使うようになったら、もう世も末だと思った方がいい。
 大体、豆腐を生で食べるような国民が、どうしてわざわざ余所の国の薬だらけの大豆を輸入して、それを作らなきゃならないのさ。味噌も醤油も納豆も、日本のものなのに・・・

 そして、そのような名店を訪ねてみれば、信じられぬほどごく普通のちっぽけな店で、入り口からすぐに豆腐の製造場があって、これがホンマに名店なんやろーかと怪訝に思えるような外観なのである。洒落た名前やパッケージの立派さだけで売っている、昨今流行りのモダン豆腐どもは、ちったぁ、この心意気を見習って欲しいもんだね。

 この、一般庶民たちが毎日食する物のレベルの高さこそが、京都が誇る文化レベルの高さであり、外つ国と比べての日本文化の高さそのものなのであると、私は思える。
 そしてそれは、奈良、神戸、金沢、仙台、博多などへ行っても、同じことが感じられる。

 私は、何処へ行ってもまず市場に行く習慣がある。どんな土地でも、そこの市民が毎日通う市場に行けば、その土地の文化レベルがすぐに見えるものなのだ。
 たとえスーパーでも、その土地の人間が何を考え、何を生きているのかが、食材が並んでいるところを観れば大体見当がつく。
 京都の「錦小路」に行けば、あの狭苦しい細長い路地に、季節の野菜や魚、漬け物、鰹節、煮干しなどが、料亭に卸せるようなレベルで所狭しと揃っていて驚かされる。
 錦の市場の中には美味い鯖寿司や穴子の棒寿司、蒸し寿司などを喰べさせる庶民的な寿司屋まで在り、近所の奥さん、オジさん、お婆さんなんかが買い物の序でにそれを食べている。
 そして、もっと驚くのは、それを有名な旅館や料理屋の板前さんから、その辺の主婦のおばさんまでが同じように肩を並べて買い出しに来ていることである。これは、この地が今日でもなお高い文化レベルを維持している事のひとつの証しに他ならない、と思う。

 ・・・豆腐を待つうちに、錫製のとっぷりした銚釐(ちろり)に入ったお燗が来る。
 先ほどからカウンター越しにご主人の仕事を眺めていると、やはりお燗の仕方に静かな気合いが入っているのが分かる。
 だいたい、飲み屋はお癇の見極めがモノを言うのだ。ロクなお燗も付けられないような店は、出てくる酒肴だって多寡が知れているので、その不味い一本をひと口で止めてしまうか、勿体なければ無理矢理呑むかで、どちらにせよ早々に退散するしかないと私は思っている。
 バイトの女の子に燗を任せているような店は、たとえそのコがどんなに可愛くても・・・
絶対に入ったりしない。

 この店のお燗はなかなか上手いな、と思えた。考えてみれば、おでんとお酒がメインなのだから、燗付けが巧くなくては、舌の肥えた京都の客が来てくれるはずもないのだ。

 よく使い込まれた錫の銚釐で、一杯、もう一杯、と気持ち良く飲っているうちに・・・

 「はい、お豆腐、お待ち遠さまです・・」

 ・・・スッと豆腐が差し出された。


        


 まず、その大きさに驚く・・・
 何処かの田舎で見た、大型豆腐の一丁分は軽くアルんではないかいな、と思える。
 京都というと、一般的には懐石料理のような、品の良いしおらしい料理を想像するのが普通なので、そのイメージからかけ離れたタネのボリュームには驚かされてしまう。
 お皿もそれに合って大きくて、ズシリとしている。

 また、嬉しいことには、そこに九条葱の刻みがたっぷり載って、七味が彩りに掛かっている。
 京都ほど、この「薬味」にこだわる土地も無いのではないだろうか。七味の好みのブレンドをしてくれるような店は、もう東京にはほとんど無いが、この京都にはそんなものはいくらでもあるし、「お香煎」と言って、辛くない薬味を薬研で擦ったものを小さな霰と一緒にお湯に浮かべて飲む、なんていう文化もある。その専門店が祇園の前に大きな店を構えて繁盛しているくらいなのだ。
 
 その豆腐の載ったお皿には、これぞ極めつけの、高く香り立つ、独自の「出し汁」が、うんと注がれていて・・その大きな豆腐の一角を箸でつまみ、口に運ぶ・・・

 これですよ、コレ・・・!!
 いやあ・・・これはもう、脱帽するしかないね、ホント。
 豆腐そのものの味が、何も毀れていない。
 そして、出汁はあくまでもその豆腐の味を引き出すための、引き立て役に徹している。

 東京にある有名な和食料理屋の殆ど全てが、関西に本店を持つものだということを考えれば、
日本の味の基本は、やはり平城京と平安京で創られたんだな、と思える。

 関東産の私は、生まれてこの方、ずっと醤油と煮干しがコッテリ利いた濃い味に慣らされて、関西の昆布と鰹の利いた上品な薄味をどこかで軽蔑していたようなフシがあったのだが、この出汁を味わうと、ああ、本来はこれこそがダシの基本なんだろうなと思わざるを得ない。これだから和食板前の見習は、みんな近畿の料理屋に行って無給でも良いから、と言って修行させてもらうのだろう。

 師父宅で御馳走になった和食も、その出汁の取り方が見事で、呻るしかなかった。
レッキとした藤原ブラッドをお持ちの師父は、DNAにヤマトの味が組み込まれて居られるのか、決して味に妥協されないのはウィークエンド・ディナーに見るが如くである。

 武藝館の専属シェフに伺うと、日高か利尻辺りの太くて幅広の上質の昆布を一晩水に浸けたベースに、これでもかっ、と思えるほどの上質の鰹節を放り込み、それが沈むのを待って、あっという間に引き揚げてしまうのだという。
 関東の人間にとっては、そんなダシの取り方は、ひたすら勿体ないように思えてしまうが、
「蛸長」のような「おでん」を一度でも食べてしまうと、もう、勿体ないなどとは口が裂けても言えないようになる。多寡がおでんで、この出汁の味なのである。この味が再現できるのなら、私もケチらずに良い昆布と良い鰹節で、手間暇掛けて出汁を取ってみたくなる。

 この店の出汁は、毎日、造っては足し、造っては足して、すでに百数十年を超える。
 京都では百年を超えた店だけがようやく「老舗」と呼ばれると聞くが、一口に「おでん屋」と言っても、親から子、子から孫、孫から曾孫へと、このダシの味を維持し、極めようとしてきた代々の主(あるじ)たちの努力には心から敬服せざるを得ない。この心意気が千二百年も続いているからこそ、平安の都には高い文化が育ったのだろうと思える。

 口中に広がる、熱々の大きな京豆腐の味わい・・・
銅ナベの中で、さらに磨きのかかった素晴らしい出し汁と相俟って・・・

 これは、私が知る「おでん」を、遥かに、遥かに、超えていた。
ああ、寒い中、この店に来て良かったなぁと、その時、しみじみ思えたものである。

 私は、おでんは、一度に一品だけを注文する主義である。特にこんな寒い夜は、皿の上で冷めてしまうと上等のおでんに申し訳がないので、面倒でも、必ず一品ずつ注文して食べる。
 まず、先に猪口で口中を潤し、種に溶き芥子をちょいと付け、頬張って、ゆっくりと味わう。
それから、おもむろに、そのダシを飲む・・・


        


 飲むと言ったって、お皿で出されているのだから、皿ごと抱えて吸うのである。
行儀の悪いコトこの上ないが、こんな旨いダシを頂かない方がよっぽど失礼だと思える。 

 案の定、さっき入ってきた若いカップルの女の子の方が、次のタネを注文するときに、皿にたっぷり残ったまま、新しく出汁が取り替えられているのを見て、
「あ、すんまへん、うち、勿体ないから、今度から全部飲んでしまうわ」と言っていた。
 ご主人は何も言わず、ニコニコしている。

 銅ナベのタネは季節によって変わるそうだが、それから先、目の前にコトコトと煮えている美味しそうなものを、明石蛸は無論、大根、宝袋、ひろうす、海老芋と、旬の食材を手当たり次第に頼んでは食べ、”普通の白鶴” の燗を何度も替えては呑みつつ、また食べた・・・

 その間、一見サンの旅行客といったような差別扱いなどは微塵も無く、また、わずか十数席のカウンターに徐々に増えてきた地元京都の人たちと一緒に、まるで旧知のように肩を寄せ合い、楽しく会話しながら、その寒い夜を温かく過ごすことが出来たことは、東夷の旅人である私にとっては何よりの幸せであった。


          


 永い刻の中で擦り減って使い古された檜のカウンターに向かい、そこで堪能した古都のおでんは味わい深く、歴史や文化などといった敷居の高さなどに関係なく、気まぐれな旅人の心まで、はんなりと、大らかに包んで温かくしてくれたのであった。

                                 (了)

2009年02月21日

練拳 Diary #9 「ボール乗り・その3」

 ボールの訓練が、心身両面にその核心に迫ってきた頃になると、すでにボールに立てる門人にとっては、次の段階である「手を使わずにボールに立つ」という新たな課題に直面します。

 しかしながら、試しに、手を使わずにボールに立つつもりで、目の前にあるボールに片足を掛け、そのままもう一方の足を乗せるつもりになるだけで、それが如何に困難であるかを全身に感じることになります。
 きっと、「これは、不安定なんてものじゃない・・・」と、誰もが思えることでしょう。
 
 すでに手を使わずにボールに立てる門人は、自分の経験から、
「ボールが ”動かない物” だとイメージするんですよ・・」などと、にこやかにアドヴァイスしてくれますが、手を使ってしか立てない人にとっては、どう見てもボールは ”自由に動く物” としか映りません。
 ましてや、運動神経がところどころ冬眠している私にしてみれば、手を使わずにボールに飛び乗る、などということは、地上4,000メートルの上空からパラシュートを背負って飛び出すより遥かに難しいものに思えました。

 さて、どのようにしてそれに取りかかろうかと、ボールの上でゆらゆらと「膝立ち」をしながら思案していたとき、師父がドッヂボールほどの大きさの、軟らかくて軽いボールを持って、私の前に立たれました。
 そして、「これでキャッチボールをしようか・・」と、仰るのです。
 
 いつものコトながら、いったい何処からそのような発想が出てくるのか・・・
 凡人の我々にはトンと見当も付きませんが、様々な方向から、角度や速さを変化させて投げられるそのボールを、足元がぐらつきながらも、キャッチしてはまた投げ返すことを繰り返すうちに、身体の感覚が少しずつ変わってくるのが感じられ、徐々に面白くなってきました。

 身体が最も不安定になるのは「ボールを受け取った時と、投げ返すその瞬間」で、一体何が不安定を生み出しているのかと言えば、それは明らかに「足の蹴り」が使われたときであることが判りました。
 こんなに軽いボールを受ける時でさえその衝撃が足に来てしまい、投げ返すのにも足の反動を用いてしまっているのなら、「腰相撲」で腰を押されているときや「散手」で相手を打っていくときなどにも、「アシのケリ」を当たり前のようにガンガン多用しているに違いないではありませんか。

 つまり、「踏まない、蹴らない、落っこちない」が全く出来ていない・・・
これが軽いボールだから良いようなものの、それが1kgや3kgもあるメディシン・ボールだったら、一体どうなることやら・・・
 これは、先日お伝えした「足幅」に引き続いての、大発見でした。


 そして、「はい、次は、立ってキャッチボール・・」と、言われ、頭の片隅にちょっぴり不安を残しつつ挑戦してみれば、これはもう、先ほどまでの「膝立ち」とは比べものにならないほど「アシのケリ」が顕著に表れました。そのために、一回受け取ってはバランスを崩し、一回投げ返してはボールから落ちる、ということになってしまいます。

 また、師父がボールを持って前に立っただけでバランスを失い、キャッチボールをする以前にボールから落ちてしまうようなことも見られましたが、それについて師父は、それは身体のバランスの問題ではなく、心のバランスの問題だと指摘されました。
 自分ひとりなら要求通りに綺麗に立てるのに、相手と向かい合っただけで心が乱されてしまうのなら、いくら武術的に優れた身体を養っていても、実戦ではその実力の半分も出せなくなってしまう・・と。

 その話を聞いて、ふと思い当たることがありました。
 それは、キャッチボールをしていたときに、それが、まるで「自分ひとりの問題」として捉えてはいなかっただろうか、ということです。
 ボールの上に立ち、投げてくるボールを受けては投げ返すという一見遊びのような稽古でも、そこに「相手」が含まれていなければ、やはり自分しか存在しておらず、投げる方が「陽」で、受ける方が「陰」とすれば、自分はそのうちの一方だけを、一生懸命工夫していたことになり、それでは、たかがキャッチボールといえども、上手くいくはずがなかったのです。
 そのような基本的な事に気がついてからは、ようやく相手とのキャッチボールが「武術的」に成立するようになり、ボールの上に居ながらも、お互いに相手との間合いや軸の関わりが見えてくるようになりました。

 そのことを強烈に感じられたのは、多人数で行うキャッチボールでした。
 初めは5人で輪になり、「膝立ち」を使って行われましたが、先ほどの1対1と違って、今度は、全員がユラユラと揺れ動くボールの上にいるので、それだけで、いつ自分にボールが来るのかが察知しにくくなります。
 このような状況では、誰にボールが渡っていても、全体を感じられていなければ、いざ自分にボールが飛んできたときに、十全な身体の状態で受け取ることが出来ません。

 それは、対練での「多人数掛け」とよく似ています。
 「多人数掛け」とは、「肩取り」や「散手」などに於いて、一人に対して複数で行われる稽古法ですが、自分が複数を相手にする場合は勿論のこと、反対に複数の中で一人を崩しに行く場合にも、常にその場の「全体」が感じられていないと、自分ひとりの勝手な行動となり、そうなると、多人数である故に優勢であるはずの効果もそれほど発揮されなくなるのです。

 そして、その「常に全体を感じられる」ということこそ、武術で言うところの「間合い」の初歩的な感覚であり、同時に太極拳の「合 (ごう)」という概念に繋がるのではないかと思いました。

 私が多人数のキャッチボールで感じられた「合」とは、その場にいた全員とのトータルな関わりであり、それはまるで空気中ではなく、まるで水や油の中に居るような感覚で、人と自分とはすでに別の物ではなく、全体でひとつの状態となり、ひとりが動けば、それが瞬時に全員に伝わっているような、正に「合っている」状態でした。
 不思議なことに、その感覚が得られた後には、目でボールを追う必要がなくなり、肌身で全体の動きが感じられるようになったのです。

 そのとき、「合」について、かの陳金先生が説かれた言葉が脳裏に浮かんできました。

 『非但合之以勢、宜先合之以神。
   (・・合は動作だけで行うのではなく、まず神を以て合となるようにする)』
 

 キャッチボールをすることによって生じた「合」の感覚は、更に自分とボールとの関係でも、同じことが言えるのではないかと思いました。
 ボールに乗ることは、ボールを制御することではなく、ボールを感じることである、とは理解できても、ボールと「一体になる」ということには、考えが及んでいませんでした。
 
 ボールとひとつになる・・即ち、ボールと「合う」こと。
 
 もちろん、私の「合」についての理解は未だ浅く、拳理の「合」の意味は深く、それ以外にも広く存在するので、更なる研鑽を積んでいかなければ、その要訣の真に意味するところは到底捉えられないものだと思いますが、この意味に於ける「合」が正しく理解されれば、ボールでも、レンガ歩きでも、推手、散手であっても、こちらの意のままに、お互いにひとつとなって動くことが出来、しかもこちらが主導を取れるという、武術的に優位な関係性になるのではないかと思われます。

 そのことに思い至ったとき、この日に行われたキャッチボールの訓練は、手を使わずにボールに立つための心身の構造、或いは、対象は何であれ、新しい未知のことに対面した際ににどのようにして謎を解いていけば良いのかという、その「理解のシステム」を学ばせて頂けたのだと、ようやく納得できたことでした。

 「ボールの乗り方」ではなく、ボールを用いて「理解のシステム」そのものを学ぶこと・・・
 これでまた、今後の課題に向かいながら、実のある稽古が出来そうな気がしました。

                                 (了)



* 写真は、ボール上での「キャッチボール」の練習風景です *


      



      



      



      



2009年02月18日

連載小説「龍の道」 第6回




 第6回 南京町(1) 


 去年・・・ 
 つまり、昭和46年(1971年)の初夏・・・

 いつも通り、居合いの稽古にたっぷりと汗を流した後で、東亜塾のK先生が、突然、

「君は本当に武術が好きなようだね。それに、なかなかスジも良い・・・
しかし、世の中には、もっと様々な武術があることを知っているかな?」

 ・・・そう訊かれるので、

「はい、柔術や杖術なども、色々とやってみたいと思っていますが・・」

 と、答えると、

「いや、大陸のことだよ。大陸にも武術があるのを知っているかね?」

「・・大陸とは、中国のことですか?」

「そうだ。中国には、とても強力な武術がたくさんあるのだよ」

「沖縄に渡来した唐手の、その元になったようなものでしょうか?」

「それもそのひとつだ。しかし、それはほんの一部分に過ぎない。
中国に存在する武術の数は・・・そう、日本の百倍くらいは、軽くあるだろうからね」

「・・そんなに! それは、日本の武道のように強いのでしょうか?」

「おお、強いとも!
私など、手も触れないまま、飛ばされてしまうほどだからね」

「手を?・・・触れずに、ですか?」

「そうだよ。聞いただけでは、ちょっと信じ難いだろうが・・・
それは人間の意識と、身体の構造の問題だ。
つまり、純然たる科学なのであって、仙人が用いるような神秘的な技法ではない」

「科学的に説明がつく、ということですね」

「そう、私たちが学ぶ剣も同じだ。相手が刀を抜かないうちに、此方は斬ることができる。
相手が抜かないうちに素早く斬るのではなく、相手が刀を抜けないのだ。
 無刀と云って、相手が斬りかかってきても素手で対応出来る技法もある。
それらは、避け方や捌き方といった単体の技法ではなく、それ自体が、武術としての、
究極の在り方なのだ・・」

「無刀・・・」

「長年正しく修練していると、そのようなことが解ってくる・・・
相手に触れずに吹っ飛ばす技にも、そのような確かな学習体系があるに違いない。  
・・ハハハ、目が輝いてきたな・・・どうかね、興味があるだろう?」

「はい、すごい話です。高度な武術には国境も何も無い、というか・・・
・・・その方は、その達人は、中国に居られるのですか?」

「いや、つい最近、この神戸に来られたばかりだ。
もし君に興味があるのなら、その中国武術の達人に紹介してもいいが・・・・」

「・・え、自分にですか? ちょっと畏れ多い気がしますが・・」

「いや、才能のある武術好きの日本の若者が居れば、ぜひ会ってみたいというのだ。
まだ当分の間、中国は駄目だから、と仰ってな・・・」

「はぁ・・・?」

「ちょうど、南京町に行く用事もある・・・
もしよかったら、次の日曜日に、私と一緒に来ないかね?
 しかし、君の人生を変えてしまうようなことが起こるかもしれない。
そこから先のことは私にも保証し兼ねるから、それで、君が良ければの話だが・・・」


 人生を、変えてしまう・・・
 そうK先生が仰ったことは、宏隆にはどうにも意味を測りかねたが、それでも、自分の中の何かが、その誘いに身を委ねるべきであることを主張しているようにも思えた。
 それは、何か素晴らしいことが待ち受けている予感、などというようなものでは決してなかったが、まるでアンテナが新しい周波数を受信するように、持ち前の感受性や好奇心が騒いでならず、時が経つにつれ、だんだんその日が待ち遠しく思えてならなかった。



 その日曜日・・・

 K先生に連れられて、いよいよ今日は凄い中国武術の達人に紹介されるのだ、と、高ぶる気持ちを抑えつつ南京町に行くと、K先生は、『祥龍菜館』という、神戸では名高い高級広東料理の店にヒョイと入っていった。
 よほどのお得意様なのであろうか、店員たちはみな、爪先まで足を揃え、頭を低くして慇懃にK先生を迎える。

 この店には、何度か家族で来たことがあった。
 『祥龍菜館』は、洒落たテラス席まである、三階建ての立派な店で、外国の要人が神戸に来るとお忍びで立ち寄るような店でもある。
 入口の左右にある紅い柱には一対の龍が彫られてあり、店内は緋毛氈が敷き詰められ、一階は大小の個室席、二階は飲茶のための広間、三階は特別な高級料理が賞味できるような豪華な部屋が幾つか造られている。
 室内装飾や調度も中々の凝りようだが、日本人向けに・・いや、外国人の多いこのハイカラな街に合わせてか、ギラギラした中国趣味を避けて垢抜けた装飾にしてあり、訪れる人はまるで上海辺りの高級ホテルに来ているような錯覚さえ覚える。

 ・・・なるほど、ここで会食か、と宏隆は思ったが、意外にも、店員は三階にある上客用の席には案内せず、そのまま一階の通路をどんどん奥へ進んで、突き当たりの「RESERVED」という札の掛けられた、窓も無い、忘れられたような陰気な小部屋に入っていく。
 そして、一体何のつもりか・・・その店員は奥の壁を三回、ドン、ドン、ドンと、まるで何かのマジナイのように強く叩いたかと思うと、席を勧めようともせずに、そのままぶ厚い扉をバタンと大きな音を立てて閉め、さっさと行ってしまった。

 出迎えの慇懃な挨拶とは打って変わって、客を客とも思わない店員の失礼な態度に、宏隆はちょっと気分を悪くしたが、日頃から礼節を重んじるK先生が、不機嫌そうな顔ひとつせず・・
何故か、少し緊張の面持ちで、たった今閉められた扉に歩み寄って、自分で内側からガチャリと鍵をかけ、円卓の席には座ろうともせず、まるで何かを待つように立っている・・・

 ・・・とても、これから美味い広東料理を味わうような雰囲気ではなかった。
それに、何の為に、中華料理屋の奥の間で、客が内側から鍵を掛ける必要があるのだろうか。
 とても奇妙な感じがして訝しかったが、K先生が黙って立っている以上、弟子である宏隆は、師に倣って、ただそうして居るしかなかった。

 ここは滅多に客を通さない部屋らしく、何となく埃っぽく、それに窓のないせいか、少々カビ臭いような気さえする。
 よくこんな所で食事をする気になれるものだなぁ・・と、半ば呆れながらも、暇つぶしに、
壁際の大きな飾り棚に載せられている明朝の古壺や茶碗だの、大きな赤絵の皿だの、翡翠で造られた精巧な彫刻が施された茶器などを眺めていた。

 宏隆は、その若さに似合わず、茶道具や古美術に興味があった。
 母の実家が茶道美術館を営んでいるような影響もあったし、自宅にも待庵(たいあん)を写した二畳台目の茶室があり、小さい頃から楽や織部の茶碗や大徳寺物の書画といったものにも親しむ機会があった所為でもある。
 そして彼の鑑識眼も、本物ばかりを見慣れてきた故か、年齢に似合わず、直感的にその真贋や優劣を見抜ける資質がすでに備わっていた。

 その大きな飾り棚自体も、繊細な彫刻に螺鈿が施された見事なものであったが・・・
よく観れば、そこに置かれている陶器や茶器は、このカビ臭い部屋には不釣り合いな、蒐集者の人柄が偲ばれるような、上品で格調高いものばかりであり、中でも、鳳凰と花が描かれた明朝の呉須赤絵の大皿は、目を奪われるほど美しく、味わい深いものであった。


 それから、10分ほども経っただろうか・・・
 驚いたことに、その大きな飾り棚が、それごと・・・音もなく、ゆっくりと・・・
壁際で、スーッ・・とスライドして動き始めたので、思わず宏隆は後ずさりをした。

 もう、赤絵の皿に感心しているどころではない。
 その異状さに我が目を疑い、すぐにK先生の方を見たが、K先生は、まるでそんなことは初めから承知していたように、ただ黙ってその飾り棚の動きを見守っている・・・

 しかし・・・さらに驚くべきことが起こった。
 その飾り棚の動きが止まった後の、どう見ても壁にしか見えないところが、まるで壁自体に
穴が空いたかのように、ポッカリと、小さな扉の形をして開かれたのである。

 流石の宏隆も、これには「あっ・・」と、思わず声を上げた。

 その小さなドアの向こうからは、まるで東大寺の金剛力士像のような、明らかに鍛え抜いた体と分かる、厳しい目つきをした中国人の男が、窮屈そうにヌウと出てきた。

 そして、何も語らず・・・ジロリと、宏隆の顔を一瞥してから、K先生に向かって慇懃に頭を下げると、その大きな男はまた、自分からその扉の向こうへと入っていく。


 K先生は宏隆を見て、後を追いて来るよう、目で促している・・・

 ドアの向こうには、薄暗い地下へ下りていく、狭くて急な、鉄製の階段があった。
階段の表面には厚手の毛氈のようなものが貼られていて、足音がまったく響かない。

 宏隆は、ふと、子供のころに行った伊賀の忍者屋敷を想い出していた。
 その忍者屋敷には、廊下の角を曲がったところに従者用の小部屋があり、床の間の畳を剥ぐと地下への階段が隠されていて、裏の空井戸の底に抜ける秘密の道があった・・・

 しかし、この時代に、そのようなものが現実に、この南京街の真ん中に在ること自体が不思議であったが、K先生は慣れた様子で、宏隆が後ろから来るのを確認しながら、足取りも軽く、
トントンと先に下りていく。

 その、十数段ほどの階段を下りきろうとした頃、いま潜ってきた秘密の入り口が、パタン、と閉められる音がした。宏隆は、思わず足を止めて振り返り、その真っ暗になった入り口を見上げて、もう二度とそこには戻れないような、ちょっと不安な気持ちになった。

 階段を下りきると、そこは地下室ではなく、何とか大人がすれ違えるほどの狭い通路が、細長く左右に伸びていた。
 通路の天井はそれほど低くはないが、頭上には様々な太さのパイプやら、電気のケーブルのようなものが何本も這わされており、通風ダクトのような四角い管もある。
 まるで客船のように、壁に小さな灯りが点る通路の向こうには、さらに何処かに通じているような分かれ道や、大きさや色が違う鉄製のドアも幾つか見える。
 所々には、その通路自体を区切る扉が備えられてあり、防火扉のように、それを閉めさえすれば、火も、人間も、そこから先には行けないような工夫が為されている。

 ・・これは、忍者屋敷と言うよりは、地下の秘密の要塞のようにも思えた。

 しかし・・・いったい、何のために、南京町の地下にこのような通路があり、
また、何のために、わざわざあのような秘密の入り口を設けているのか・・・

 小さい頃から怖い物知らずのガキ大将ではあっても、所詮は普通の高校生に過ぎない宏隆は、目の前に展開されている、この非現実的な世界を、まったく理解できなかった。

 しかし同時に、久しぶりに、何か心ときめくものも感じられて・・
 何よりも、持ち前の好奇心がうずうずと騒ぎはじめ、得体の知れぬものへの怖れや不安に慄いているよりも、こうなったらトコトン見てやろう、何でも経験してやろう、という気持ちになっていた。



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