Welcome to Blog Tai-ji



  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

  また、当ブログを快適にご覧いただくために、
  ウェブ・ブラウザは「Safari」または「Firefox」をお勧めいたします。



            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2018年02月13日

練拳Diary #81「常識を越えて」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私はこれまでに、稽古で示される「散手」などの非接触系の対練に対して、頭を悩ませてきました。
 課題は、相手との間合いの取り方や、こちらの滞りない攻撃などに始まり山ほどありますが、何より師父と同じように動けずに、足が居着く、身体を回してしまうなど、太極拳の要訣が守れない自分の身体の状態が課題になっていました。

 師父の動きの特徴は、第一に「どこに向かって、どのように動いているかが分からない」ことだと言えます。途切れることなく動き続けていて、尚かつ相手に向かって前進し続けるだけの動きではなく、稽古によっては相手は攻撃を繰り出させては貰えるものの、あらゆる攻撃は空しく中を切り、その瞬間には師父の攻撃が相手に確実にヒットしています。
 ちなみに、師父との散手の稽古では「痛めつけられる恐怖」というものが存在しません。
 これは、他門から入門してきた人が最も不思議に思える事のひとつのようですが、対練や散手の稽古中には、師父から顔面、首、後頭部、胸、腹、足など、ありとあらゆる部位に攻撃を受けても、軽く打たれるだけなので、痣(あざ)などが残ることはまずありません。防具を着けての散手なら、よほど下手な受身でもしない限り、怪我をする事はまず有り得ないと思います。
 ただし、その代わりに、「これが実戦だったら確実に殺されているという恐怖」が常にあります。相手を痛めつける為の稽古ではないので、攻撃の威力は小さくとも、攻撃に至るまでの遣り取りで、師父の攻撃成功率は100%、それに対してこちらは0%であることがはっきりと認識させられるのです。まさに「手も足も出ない」とはよく言ったもので、決して速い動きではないと思えるのに、此方は為す術もなく容易に追い詰められていきます。
 それはあたかも、四方を敵に囲まれている状況で足場がどんどん崩れていき、やっとの事で立って居るかのような状態だと言えます。だからこそ、稽古では敢えて強大な打撃力を相手に与える必要がないのでしょう。

 自分が何ひとつ動けない中で感じる恐怖の大きさは、単なる ”打撃力” に対する恐怖などとは全く比較にはならず、正直なところ生きた心地がしません。大袈裟ではなく、手足をもがれて地面に転がされているところに迫って来ているような状況に思えるのです。
 一体何がそう感じさせるのか─────それを認識し修得できない限りは自分なりに戦い方をどう工夫しても所詮は ”ドングリの背比べ” であり、いつまで経っても太極拳の戦い方にならないことは明白です。
 道場で師父の動きを見て真似をし、家で師父の動きを動画で観ては検証することを繰り返し、また稽古に反映させていきますが、なかなか師父のような、こちらが主導権を取れている散手にならない日々が長く続きました。

 ある時、師父にひとつのヒントを頂きました。そのヒントとは、今までに聞いたことも無いような新しい内容ではなく、今まで教わってきたことの「表し方」が異なるだけでした。
 けれども、それは言い換えれば自分がどれほど表現しようとしても出来なかった内容で、そのヒントを頂いたときの衝撃は、まさに頭を銃弾で撃ち抜かれたかのようであり、しばらくの間は立ち直れなかったほどです。しかも、衝撃はその時だけでは収まりませんでした。

 画面に穴が空くほど繰り返し観ていた師父の散手動画ですが、あらためて観てみると、頂いたヒントのお陰で今までよりも動きが明確に見えるようになりました。
 そして私は、『なるほど、相手が打ってきても当たらないのは、こういうワケだったのか』と独り納得をし、重要なことが見えたつもりになって、見えたものをそのまま再現しようと稽古で散手を行ったのです。
 しかし、思うようには行きませんでした。今までの散手と比べて確かに手応えは違うものの、まだ相手が自由に動ける時があり、それは大抵は自分の身体に無理が掛かっている動きのときだったのです。
 自宅に戻り、もう一度同じ映像を観たとき、それまで見えていなかった ”違い” が今度ははっきりと分かりました─────身体が動けていなかったのです。師父の動きを真似ているつもりが、実際には何もかもが足りない・・それどころか、身体の質そのものが違うようにさえ思えました。
 動き自体は決して難しいものではないのです。太極拳を学んだことがあれば誰でも知っていると思われる、ごく一般的な見慣れた歩法です。けれども、動けない。
 ショックを受け、半ば呆然と動画を観ていた私は、思わず呟きました。

 『──────────鬼だ!』

 師父の動きが、実は並大抵の練習によって得られたものではないことが、私はこのとき初めて解ったのです。この動きは歩法を「鬼のように」練習しなければ得られないのだと。
 それまで、いとも簡単にヒョイヒョイ歩いて見えていた動きが、反対に、もの凄い内容を含んでいる途轍もない動きに一変しました。師父の動きと比べると、自分の歩法など文字通りの付け焼き刃に思えてしまいます。
 なぜ、今までそのことが見えなかったのかと問いかければ、稽古中に師父が常々仰っていた言葉が聞こえてくる気がします。

 『いつも常識的な頭で見て、常識的な頭で考えて、動こうとする。だから君たちは、いつまで経っても太極拳が理解できないんだよ。もっとアタマに染み付いた常識を捨てなさい』

 私たちの稽古では、相手との接触・非接触に関わらず、相手を抵抗なく倒せても、或いは大きく吹っ飛ばせても、それが「太極の理」に適っていなければ無意味だと指導されますし、それは散手の攻防でも同じで、こちらの攻撃がいくら有効でも、原理が異なれば『そんなものは太極拳ではない』と一笑に付されます。
 それは、稽古の目的が「相手を倒せること」というような単純なものではないからであり、たったひとつの対練でも、そこに太極拳の全てが表現されているからであると言えます。
 人は、すぐに成果を欲しがりますし、目の前にいる相手を倒さなければ武術ではない、と考えがちです。けれども、そんな薄っぺらな意識の持ち方ではこの太極拳は到底理解できないものであり、もっと観て、感じて、理解しようとして、自分自身を高度に「鬼」として変容させない限りは、その片鱗にさえ触れることが叶わないのだと、今回つくづく思い知りました。

 これまでに、師父の動きを見て「すごい」と思ったことは数えきれないほどありますが、それを「超常的である」と思えたのは今回が初めてのことです。そして、この「鬼神」とさえ思える動きこそが、師父が伝承されてきたことなのだと、つくづく感じ入りました。
 また、何かを伝承することとは、決して特別な秘伝書を渡されることなどではなく、「それそのものになること」なのだと、このとき身を以て実感したのです。
 太極拳の奥義を識ることではなく、太極拳そのものになる─────つまり、鬼神ほどに稽古をして、この身に鬼を宿すことこそが伝承と呼べるのだと思いました。
 もしかしたら、それは「鬼」と言うよりも「龍」と表現した方が、適当なのかも知れません。
 そして、目の前の龍をどれほど真似しても決して龍にはなれず、それはただの龍の物真似に過ぎないのです。そのことを私たちは明確に認識する必要があるのだと思います。

 さて、今回頂いたヒントによって自分の稽古が一変したことは言うまでもありませんが、それと同時に見えてきたことは、師父の超常的な身体の使い方や稽古の次元の違い、そして伝承の意味だけに留まらず、音楽を聴いたり絵画を観照すること、そしてささやかな料理を作ってみたりする、それら芸術に関わる世界の見え方までもが、これ迄とはすべて変わってきました。
 今までは、世界を前にして自分で理解しやすいように「枠組み」を作り、その枠の中の世界を一生懸命見ようとしていたのだと思います。もちろん、まだ自分で気付いていない枠組みが有るかも知れませんが、そのような心積もりで今後も観て行きたいと思います。

 今回私が気がついたような、太極拳を学ぶ上でとても大事だと思えることは、本当に貴重な、この上ない宝物ではありますが、それを得られたことに手放しで喜んではいられないという危機感が、同時に存在しています。
 それは、その宝物が、あたかも夜明け前の野に密やかに降りた、一滴の露のようなものに感じられるからです。
 日の出を間近にして空が白んでこなければ、野に降りた露を探すことはできません。けれども、日が昇ってしまえば辺り一面の朝露は消えてなくなります。野原一面に降りた露を集めようとしているときに、たった一滴の露で喜んではいられません。それは、その日、その時限りでしか、手に入らないものなのです。

                                  (了)




2018年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その34

   「 小能く大を制す」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 旧約聖書にも記されてる神話の時代、鎧で身を固めた巨人ゴリアテを倒したのは、ちっぽけな羊飼いの少年、ダビデでした。
 彼は、河原でひろった石を、向かってくるゴリアテの額に命中させ、彼を倒します。
 そして、ダビデは持っていなかったので、ゴリアテの剣を奪うと、ゴリアテの首を落としてしまいました。

 小能く大を制す、柔能く剛を制す。
 歴史は時に、とてもちっぽけな存在が、あまりに強大なものを打ち倒す姿を、我々に見せつけてくれます。
 盛者必衰、驕れる者は必ず天から罰せられるとでもいうのでしょうか。
 大きいものはたしかに優れた面を持っているかもしれません。ところが果たして、大きければ大きいほど良い、と言い切れるものでしょうか。

 先程もあげたとおり、歴史は我々が思うのとは違った姿を見せてくれます。大陸のほとんどを制するに至った大国が、いまでは影も形もなく姿を消してしまうということは、歴史上ざらにあります。かつて地球上を歩き回っていた恐竜たちも、今ではわずかな痕跡を残すのみとなってしまいました。

 一体、こういったことは何故に起きてしまうものなのでしょうか。とはいうものの、その理由は考えても仕方がないのかもしれません。原因はひとつではないでしょうし、それらの原因もおそらく複雑に絡み合っていて、単純に説明できるものではないはずだからです。

 憶えておかなければならないのは、長大で、強大になればなる程、外部から受ける影響は数を増し、また、それ自身の内側から来る影響も、大きさを増していくという事でしょう。
 大きなものが身を滅ぼす原因は、天から与えられたものではなく、たったひとつ、「それが大きかったから」なのかもしれません。

 ゴリアテは大きく、全身を鎧で固め、故に動きが鈍かった、などと解釈されています。
 本当のところはわかりません。とどめを刺すための剣すら持たないダビデに、自身の剣でやられたとすれば、それは皮肉以外の何者でもありません。
 ゴリアテは大きく、戦いに必要なものはすべて備えていた。ゆえに、彼は命を落としました。ダビデは何も持っていなかった。そして最後には勝利しました。

 これらの出来事や、歴史的事実などを思ったとき、僕の頭によぎったのは、やはり太極拳のことでした。
 力の弱く小さな者が、なぜ強くて大きな者を制することができるのか、でした。
 そこには、力を制する技術や戦闘法などを越えて、もっと根本的な原因、作用が潜んでいるのではないかと思ったのです。

 稽古をしていると、身体の使い方に関して、むしろ普通では使う必要のないところまで身体を、まるで「大きく」使うことが求められます。

 しかし、先人は、それらの使い方を「小架式」という言葉で残しています。
 もちろん、自分ではその片鱗に触れられるレベルにすら至っていないというのが実情ですが、しかし、それを「小さい」と表現したことに非常に興味をそそられます。

 まるで常識では考えられないことに取り組む場合、発想の転換がせまられます。
 小能く大を制すとは、小さいもの「でも」大きいものを制することが「できる」、というのではなくて、小さいもの「でしか」大きいものを制することが「できない」、と言えるのかもしれません。

 ささいな表現の違いに思えますが、これは実は論理的命題として、数学・科学的にも非常に大きな意味を持っている分野です。

 なぜかというと、こういった論理を、人間の頭はうまく扱うのが苦手だからです。

 たとえば、「四両撥千斤」という言葉があります。
 平たく言えば(先人の皆様、くだけた表現を使うことをお許し下さい)、力を使わなくても相手は吹っ飛ぶ、というところでしょうか。

 これを、「相手を吹っ飛ばすのに力を使ってはいけない」というのと、
「相手を吹っ飛ばすのに力を使う必要がない」というのでは、我々の受ける印象は大きく違ってしまうのです。

 特に、その言葉によって “目的地を探している場合には” 、です。

 少しわかりやすく例えてみます。
 まだ知らされていない目的地に行くために、「車を使ってはいけない」と聞いた場合と、「車を使う必要がない」と聞いた場合では、その目的地がどこにあるのかという印象が大きく変わるのではないでしょうか。

 幸いにも、本部道場は駅のすぐ近くにあり、目の前にはバスの停留場もあります。本数は少ないですが…。タクシーもすぐにつかまえられそうです。
 いやちょっと待てよ、バスもタクシーも「車」か?いやいや電車も大きいくくりでは車の一種だし、はたまた…。
 この際わかりやすく、条件は「自分で車を運転してはいけない」として考えよう。
 だとすれば公共の交通機関はOKとして、最近では自動車の相乗りサービスもあるし、レンタル自転車も探せばあるよなぁ。まてよ、飛行機で行くのが早いのか?

 「車を使ってはいけない」とした場合、このようなことがぱっと浮かんできたのではないでしょうか。
 “本来は” 車を使うべきところを、それを禁じられてしまったので、代替手段として、他の乗り物を探す、ということがです。

 では、「車は必要ない」といわれた場合は、どうでしょうか。
自然と、歩いてすぐ行ける近くとか、車がなくても行ける場所なんだな、と思いませんか?
あとはせいぜい、駅からすぐ近くの場所、などでしょうか。

 両方とも、条件は同じ、「車は使わない」と示しているだけなのにこれだけ違ったように感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

 もしも、伏せられていた目的地が、(道場にいたとして)本部道場の入ったビルの上の階だったとしたらどうでしょうか。
 上の階に行くには、階段を使ってすぐです。

 目的地を知っている人からすれば当り前なので「まぁ、車は使わないよね」となります。当り前なのですが、車を出すあたり少し罠の匂いがしますね。嘘は言ってないんですが。

 それはともかく、目的地を知らされていない人たちの間では、こうしている間に様々な解釈が生まれてきてしまいました。

 車は使わない! 目的地に行くためには車は使ってはいけないということなんだ!
 では他にどのような手段があるだろうか?と。ちょっとしたお祭り騒ぎです。

 ある人は時刻表を調べ始め、効率的な移動を模索します。今の時代、スマホは便利でなんでも調べられますね。またある人は、では車でなければいいんだな、などと言いはじめ、画期的な新しい乗り物を発明しだしたりするかもしれません。人が乗れるドローンとか大流行りですね。

 その中で、もっともシンプルに考え、あるいは言った人のニュアンスを読み取れた人だけが、「ああ、車はいらないんだな」などと呟き、言った人とちらっと視線を交わし(その人はなぜか人差し指を立て、天井を差して笑っていました)そっと部屋を出て行くわけです。

 果たして、どちらが知的な姿でしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その35」の掲載は、3月22日(月)の予定です

2018年01月17日

JAZZYな、太極拳を。 第1回

  〜The Days of Wine and Jazz〜     by Taka Kasga


 久しぶりに生のジャズを聴きたくなって、日本でライブ・レストランを予約した。

 世界のトップアーティストが、入れ替わり立ち替わり毎夜ライブ演奏をする、よく知られたナイトクラブが東京にある。もとはニューヨークにあった店で、常にチェックをしていないと、タッチングなアーティストが来た時や人気のセットだと、アッという間に席が一杯になって、なかなか良い席を確保できない。

 音楽は、やっぱりライブに限る。
 ぼくは球場や武道館のような巨きな会場ではなく、アーティストの息遣いまで聞こえてくるような、こじんまりとしたライブハウスが好きだ。ニューヨークには10ドル札を握ってフラッと入って、それでチケットを買うとウイスキーが1杯付いて来る、客が肩を寄せ合うようなちっぽけなジャズハウスもあった。そんな処でナマのジャズに触れると身もココロも浄化され、また新しい明日が来るのを確信できるような気持ちになれる。

 東京のナイトクラブは、幸いにもステージにほど近いボックス席が取れたので、大切な人と一緒に、ちょっとお洒落をして、気の利いたお酒と料理を摘まみながら、迫力のある生演奏に触れて来ることにした。


 そして丁度そんな時に、新しいカテゴリーを開設したいから、何か書いて貰えないかという依頼が、すげー館の事務局から来た。
 「龍の道」だけでも手が一杯で、それでなくても本業が忙しくて、いつも原稿がギリギリのアップであっぷあっぷしてるのに、新しい記事なんかとても書けるワケはない、と思ったのだけれど、「まあ、これも稽古だと思って楽しんで、気合いで書いて行きましょう ♪」などと、化勁で巧みに崩すように言われ、とうとう書くハメになってしまった。

 ブログの新しいカテゴリーは、「JAZZYな、太極拳を。」なのだという。
 何でも良いから、春日サンが思いつくまま、自由気儘に書いてくれれば良いです。
 別にジャズの中身には拘らないし、掲載日を決めなくてもかまわない。
 ジャズソウル、ジャズフュージョン、アダルトコンテンポラリー、シャーデー、ザーズは言うに及ばず、ケニーGだってアリ、何でもヨキに計らってケッコーです・・・と仰るので、ほ、それならばナンボでも─────と、気楽に書くことにいたしましたのです、ハイ。


 でも、どーして、なんで今、すげー館で「ジャズ」なのヨ?─────と聞くと、
 「師父はジャズがお好きですからね」、だって・・・あはは。
 でも、いくら何でも、それだけの理由じゃないでしょうと、よく聞いてみると、
『そもそも、Alfa Romeo を駆るときにジャズはよく合うし、ワインとジャズも、ウヰスキーとジャズも、ビールとジャズも、太極拳とジャズも、とてもよく似合う。だから、武藝館のブログに、ジャズカテがあっても、イイじゃないか!』
・・などという、「グラスの底に顔があっても岡本タロー(古っ!)」みたいな、師父のご意見があったといいます。
(不明な人はググってください。僕もそのグラスを持ってます ( ^ω^ )

 因みに、アルファを駆る時にジャズというのは、実際にはちょっと難しいのです。だってエグゾーストノートが余りにもやかましい・・いや、アルファサウンドと呼ばれるほどの、とても心地良い響きなので、BOSEだろうがカロッツェリアだろうが無理、本来不可能なのです。
 でも、アルファにジャズってのは大賛成ですね。新しいジュリエッタなんか室内が静かそうで、すごく合うんじゃないかな。ジュリエッタ、ほすい。。(。-_-。)


 ついでですが、そもそも太極拳の套路を演じる人は、どうしてみんなサテンのパジャーマーズみたいな服を着て、申し合わせたみたいに喜多郎の「シルクロード」をバックにかけながら遣りたがるンだろうか─────ぼくはそのコトが、ずっと不思議でした。

 別に喜多郎の曲がマズいってワケじゃない。ぼくは彼のアルバムはほとんど全部持っているし、まだシルクロード・デビューする以前の、つまり彼が売れないヒッピーの頃の、遥か昔のアルバムも、ヤフオクにも出さずに何枚か持っているし、日本武道館のハレのライブに行ったことだってあるのだから、彼を貶(けな)すつもりなんか毛頭ない。
 確かに、ちょいとリズム感が悪いかな、というキライはありますけどね。♪(´ε` )

 ただ、誰も彼もが「シルクロード」を掛けながら、ランチャーイー、ダンビエン、とやっているのが、ぼくにはチト不思議なのです。(ランザツイとか、タンベン、ゲホココ、なんてゆーのは、もっと不思議ですが)
 喜多郎のシルクロードは、とてもハートフルな佳い曲です。
 同名のNHK番組のテーマ曲をはじめ、シリーズの全曲を担当していて、彼の曲のお陰で、あのテレビ特集の映像が、視聴者にどれほど悠遠に、神秘的に、幻想的に映ったかは、計り知れないと思うのです。
 ただし、ですな・・・日中共同製作であるNHKの「シルクロード」という番組と、その舞台となった支那(China/チャイナ)に関しては、アレコレ言いたいコトが山ほどある。だけど、ここでは場違いなので、グッと堪(こら)えて、いつかバッコーンと爆発する時に備えての 蓄勁にしときましょう。押忍っ。

 ちなみに、ぼくは独りで套路を練る時には「ENIGMA 3」なんかをかけます。
 ・・というか、その曲が掛かっているときに(執筆中なんかに)套路をやりたくなる。
 5曲目の「Why !」、6曲目の「Shadows in Silence」なんか勝手に体が動いてきて、うおおっ、コレが十八球だ!、いや、幾つにも割れるから「ちかいの魔球」だ!、いいや、軽くて飛びそうだから「オバ球(Q)」かな?、それっ、♬ 8キロ、10キロ、50キロ・・なんて、ひと休みするまで思えてくるのです。(最古〜っ)


 えぇ〜っと・・・違った、ジャズだ!、ジャズの話だった─────
 これは地の糧、オンドレ・ジイド・・
 いやいや、ジャズ・カテの話だっけ。オンドレは、ナ二考えとんぢゃいっ!
 おっと、すんません、初回からつい極道言葉が入っちまいました。。(^0^;)
 ENIGMA はジャズじゃないっスね。
 喜多郎と同じような、ヒーリング・ミュージックの部類に入れる人もいますけど。
 余談ですが、豪州ではKITAROは、カイタローと呼ばれています。



 さてさて、ようやく本題。
 記念すべき、第1回目にご紹介するアルバムは────────

 そうね・・・うん、

 「Easy to Love / Roberta Gambarini 」

 にしましょう。

 
 ロベルタ・ガンバリーニ。
 1972年生れ。イタリアのピエモンテ州、トリノ出身の女性ジャズシンガー。
 12歳の時からクラリネットを習い、17歳からジャズクラブで歌い始め、翌年からキャリアを磨くためにミラノに移り住み、数々の国内フェスティバルに入賞。
 その後、1998年に活動拠点をニューヨークに移し、セロニアス・モンク・インターナショナル・ジャズボーカル・コンペティションで3位に入賞。本格的にジャズシンガーとしての道を歩み始めました。
 2005年(33歳)に、『Easy to Love』でアルバムデビュー。


 ─────いやあ、これは昨今の、やたらと色気やムードだけで売り込んでいる薄っぺらなジャズシンガーとは全く異なる、久々のホンモノです。
 この「Easy to Love」は、2007年のグラミー賞のベストジャズアルバム部門にノミネートされた大傑作です。ぼくはこのアルバムが彼女の「デビュー作」だと聞いて、本当にビックリしました。ぜひ、この素晴らしいアルバムをじっくりと聴いて、本物の深みを味わってください。

 このアルバムのピアノ奏者、Tamir Hendelman(タミール・ヘンデルマン)はオスカーピーターソンも太鼓判を押すほどの実力者。15歳の時に「合歓の郷」のジュニア・オリジナル・コンサートに来日出場した経歴も持っています。

 2008年には、そのタミール・ヘンデルマンと共に来日しました。
 ロベルタは、20014年の春にも来日して、先述の東京のジャズクラブでもライブをしたそうなんですが、ああ、いちど日本でナマで聴きたいなぁっっ・・!!

 エラ・フィッツジェラルドや、サラ・ボーンの再来とまで言われているロベルタさん。
 あの偉大なカーメン・マクレエを彷彿とさせるような、本物の実力派です。
 貫禄の歌いっぷりには、ただひたすら、脱帽するしかありません。
 この人が21世紀のジャズに大きな足跡を残すことは、もはや疑いようがありません。
 まだご存じない方は、ぜひぜひ、聴いてみることをお勧めします。


CDジャケット


     

     



 ついでに───────
 このアルバムに似合うワインは?

 ・・って、なんでワインまで話が飛ぶんだいっ!・・とお思いでしょうが、
 この記事のサブタイトルが "The Days of Wine and Jazz"(サケとジャズの日々)なのよね〜 ^_^;

 で、すげー館の「そむりえ・まっつ」さんにでも訊こうかと思ったんだけど、
 ええい、オイラだって酒呑みの端くれ、いっそ自分で選んじゃえっ(呑んじまえっ)、となりまして・・ハハ



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 この、GAJA MAGARI(ガヤ・マガーリ) 2011 ROSSO ─────
などは如何でしょうか?・・まずまずのオススメだと思います。


 イタリアワインの帝王といわれるガヤさんがピエーヴェ・サンタ・レスティトゥータの
 次に手に入れたのが、ここ、トスカーナのポルゲリ地区にある「CA' MARCANDA」。

 熟した黒系果実の味としなやかに感じられるタンニン、ボルゲリ地区で注目品種である、カベルネフランを主体に、カベルネソービニヨン、プティヴェルドを加えたボルドーブレンドで、フローラルな芳香が満ちて、骨格もしっかり、酸味とまろやかさが備わったエレガントな味わいです。
 デイリーワインには贅沢ですが、ちょっとした記念日や気分を変えたい週末に、大切な人とふたりで、キャンドルを灯して味わうにはピッタリな一本でしょうね。
 
 ワイナリーの名前である「CA' MARCANDA(カ・マルカンダ)」というのは、
 ピエモンテ地方の方言で「望みのない家」という意味。

 オーナーのガヤさんは、このワイナリーの土地を手に入れるために所有者に何度も交渉を
 しましたが、何回行っても断られ続け、何と18回に及ぶ交渉の末、ようやくこの土地を
 譲り受けたといいますが、交渉に行くたんびに断られるので、奥さんから
 「アナタ、懲りもせずにまた ”カ・マルカンダ(望みの無い家)” に行くの?」
 と、呆れられていたので、それをワイナリーの名前にしたのだそうです。
 ボクだったら、「へ・マタイクンダ」なんて名付けるところですけど σ(^_^;)

 さあ、皆さんも、極上の一杯を飲りながら、ホンモノのジャズを聴いて・・

 稽古をいくらやってもマルカンダ(上手く行かない・望みがない)なんて言わずに、
 たぶん、きっと、parhaps, maybe・・(MAGARI の意味です)、
 望めばきっと手に入る!、と信じてあきらめず、しっかりとガンバリーニ!!


                              ( Cheers!)



 *GAJA MAGARI (ガヤ・マガーリ) 2011 ROSSO
  イタリアワインの帝王ガヤがトスカーナのボルゲリで造るシリーズ。
  ガヤの実力が如何なく発揮された、世界中で高い評価を受けるプレミアムワイン。
   <参考価格/2015年 750ml 6,300円(税抜)>

2018年01月12日

新連載!ブログ記事のお知らせ

新春にふさわしい、楽しく爽やかなエッセイの連載が始まります。
筆者はご存知、春日敬之(Takayuki Kasga)さんです。

ご多忙が続き、大人気連載中だった「龍の道」の執筆がなかなか思うように進まない状況となった事を憂慮され、これでは読者の皆さまに大変申し訳がないと、以前から事務局より依頼されていたジャズとワイン(サケ類全般?)のエッセイを既に何話分かストックしてあるので、読者へのお詫びとしてブログに出してほしいと仰り、この度の掲載の運びとなりました。

ご覧になればお分かりのとおり、読んでる端から音楽(モチろんJAZZ !!)が聞こえてきそうな、なんとも軽快で、たっぷりのユーモアやエスプリを利かせた、JAZZの好きな人も、そうでない人も、ヒトがなぜ音楽やお酒を楽しむのかがじんわり解けてくるような、奥行きのある豊かさを感じられるエッセイです。皆さまの功夫上達のエネルギーの一助にして頂ければ、とても嬉しく思います。

それでは、間もなく始まる、JAZZYな香り高い "カスガ節" のエッセイを、どうぞお楽しみください !!

                        ♪ Blog Tai-ji 編集室 ♬




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2018年01月01日

謹 賀 新 年

  明けましておめでとうございます
  本年もどうぞよろしくお願いいたします 



日頃よりブログタイジィをご愛読いただき、誠にありがとうございます。
太極武藝館では昨年、新しい拝師正式弟子の入門式と披露宴が執り行われました。
人類の偉大な文化遺産である太極拳の、秘められた拳理拳學の真伝が継承されていく貴重な瞬間に、時を同じくして道場で学ぶ機会を得られることは、門人全員にとって真に有り難いことであり、自己成長と功夫上達のための大きな助けとなることは容易に想像できます。

また、今年は何もかもが一新されるような、素晴らしい年となるような予感を受けて、
太極武藝館オフィシャルブログ「ブログタイジィ」は、今後ますます内容を充実させて行きたいと思っております。
本年も「ブログタイジィ」を、どうぞよろしくお願いいたします。


     平成三十年  元旦

                   太極武藝館 オフィシャルブログ
                  「Blog Tai-ji 編集室」スタッフ一同



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