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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2022年09月30日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その64

  『子供の自分と、大人の自分』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古中によく指摘される事柄に、「頭で考えるのではなく、体を使って動く」という点があります。最近の稽古でも、道場内に色々な障害物を設置して、そこを移動するというサーキットトレーニングが行われることがあります。
 このトレーニングでは、どのように障害物を越えようかと考えている暇はなく、とにかく体を使うことしか解決手段がない、という状態が設定されます。このトレーニングを行うと、みんな一様に身体の状態が良くなり、足は軽くなり、足で蹴る、落下するといった普段注意される状態が、少なくなっているかと思います。トレーニングの効果があったのだといえばそれまでかもしれませんが、ではなぜ、普段からその状態でいることが難しいのでしょうか。

 『かのアインシュタインは、「子供に説明できなければ、理解したとはいえない」と言った』・・・と、師父や玄花宗師が我々に言ってくださったことがあります。
 我々が稽古において宗師にしていただく説明は、非常に明瞭簡潔であり、専門用語を使わずに説明すれば、小学生の子供が聞いても難しくて理解できないということはないと思います。
 実際に、当時まだ小学生だった門人が、指導を受けて大の大人を軽々と吹き飛ばすという風景が道場で見られることがしばしばありました。
 そしてその横で、大人が相手を崩すことが出来ずに四苦八苦、という状況もありました。
 これはいったい、どういうことなのでしょうか。

 この問題を考えるには、最初に挙げた「頭ではなく、体を使う」という点により深く入っていかなければならないのだと思います。
 稽古で適切な指導をしていただき、細かな点まで修正を行い、動けるようになってきました。そして、いざ対練になると・・・やっぱり体が動かない。これは、自分が理解したと思っていることでも、本当は体はまだ理解できていないのではないか、と思います。

 人間の体の命令形は、単純化すれば、脳から神経を経て体全体に張り巡らされています。
 大まかな説明ですが、脳の構造は中心部から脳幹、小脳、大脳で構成されており、それぞれが生命維持、運動機能、高度な命令を出す司令塔といった役割を担っています。
 我々が「体が動かない」という問題に直面しているとき、それを司っているのは脳の領域でいえば、脳幹、小脳にあたる部分でしょうか。野外で動く、障害物を使ったサーキットトレーニングを行う時など、普段とは違うイレギュラーな状況に置かれたとき、脳はその中心部に近い領域が、本能に導かれて活性化するのかもしれません。その結果、体が動くようになります。

 ところが、普段の稽古で「聞いたことで理解したつもりになってる状態」というのは、聞いた内容はまず高次機能を司る大脳で処理されますが、そこで得た情報が、さらに下の小脳、脳幹のほうにまで届いていない、あるいはそれらが理解できていない状態といえるのではないでしょうか。
 では、なぜ小脳や脳幹は、大脳からの情報を理解してくれないのでしょうか。自分の体の一部なのに、自身に反旗を翻しているのでしょうか?

 大脳の内側から小脳にあたる部分は、いわば人間の本能に直結した領域を担当しているといえます。本能による行動といえば・・・野外で走り回る、腹が減ったら食べる、眠くなったら寝る、喜怒哀楽を隠すことなく表現する・・・などがパッと浮かびましたが、いわば野性的な状態でしょうか。
 さて、人間の成長の過程において、一番野性に近い期間はいつにあたるでしょうか。
 それは、とりもなおさず子供時代ではないかと思います。

 私は仕事で接客業をしているのですが、子供連れの家族が買い物に来るのを毎週末見る機会があります。しっかりした親御さんはもちろんいるのですが、それでも、子供の面倒を見ずに暴れさせっぱなしという親も居るものです。まるで体の大きな子供が小さな子供を連れてきているような状態で、子供のしつけがなっているようには見えません。
 と、ここでは現代社会のモラルの低下を嘆きたいのではなくて、子供というのは適切にしつけられていないと、他の人がいる公共の場所でも、まぁ遠慮なく暴れるし大人の言う事を聞かない、という点に注目したいのです。

 子供をしつけるには、親が子供と同じ目線に立っていては、対等な立場になってしまい、ただぶつかるだけになってしまいます。親は大人として、子供を見ることが出来なければ適切にしつけられはしないと思います。かといって、大人にだけ分かるような理屈を子供にぶつけても、やっぱり子供は理解してくれません。
 大人は大人の立場として、子供にもわかるように子供を方向付けてあげないと、しつけは成功しないのではないかと思います。

 実はこれと同じことが、「自分の中」でも起きているのではないかと思うのです。
 我々の脳の運動・体の動きを司る部分がいわば原始的で本能に直結した部分にあるとして、そこに対して大脳がどれだけ立派な理論を上から押しつけても、子供に近い理解力の小脳たちは、何を言っているのか理解出来ず、結果、小脳=運動機能がうまく働いてくれない、「頭で考えた」動きしか出来ない、という構図になるのではないか、と思うのです。

 太極拳を頭で理解したつもりになっても出来ないのは、体(子供に近い性質を持った自分)が感覚として理解できていないから、といえるのではないでしょうか。
 つまり、子供に難しいこと言ってもわからない、のではないかということです。

 太極武藝館では、一人前の大人、一人の人間として立っていないと太極拳は理解していけない、と指導して頂きます。太極拳の技法だけをただ習得したいと思ってもそれは叶わず、かならず自身の存在に行き当たり、人間性や在り方という問題に、誰しもそれぞれがぶつかっているのではないかと思います。

 大人になるということは、子供時代を経てはじめて到達できるものです。
 人間には、大人である面と、子供である面、その両方が備わっているのではないかと感じさせられます。
 その上で、子供を正しくしつけていけるのは、大人の人間性を持った人だけではないかと思います。自分を律していける人というのは、自分の中に居る子供の面をしっかりとしつけられ、律していける人ではないかと思うのです。
 道場においても、玄花宗師はもちろんのこと、太極拳がどんどん上達している先輩たちと接していると、彼らはみんな、人間として大人であると感じるところがあります。律するところはきちんと律し、それでいて人の心を思いやる温かみとユーモアも兼ね備えている・・・それはまるで、師父にも感じられたものと同じもののように思えるのです。

 そして、そういう人たちはみな一様に、体が動くようになっている・・・果たしてこれは偶然でしょうか? いや、そんなことはあり得ません。

 自分の稽古の取り組み方として、体で動くと称して、まるで自分の体に対する支配力を強め、命令を実行させようとしている部分があったように感じます。これでは、自分の中の本能に近い部分は、なぜ命令されているのかも理解できないまま、あたかも叱られて萎縮してしまっている子供のようになってしまい、結果、体は自由に動いてはくれない、という状況になっていたのではないか、と思いました。
 叱りつけ、怒鳴りつけ、動くよう命令し酷使する、それでは体を大切にしているとは言えませんし、本能はそれを嫌い、どんどん動くのを怠る、勝手に暴れるようになるのではないかと思います。

 かといって、しつけが行き過ぎて大人の命令がないと動かない子供というのもまた、その在り方としては不自然なものではないかと思います。
 子供は、大人がどれだけ言って聞かせようと、自分にとって楽しいことがないと主体的には動いてくれません。逆にこれは、美点でもあるのだと思います。
 好きなこと、楽しいことに熱中し、周りのことも耳に入らず情熱的に取り組む姿勢は、子供が持っている素晴らしい性質だと思います。
 玄花宗師は、一人の大人として在りながらも、まるで誰よりも子供のように、興味深いことに情熱を傾ける姿勢を我々に見せてくださいますし、稽古においては誰よりも楽しみを見出し、本気で楽しんで遊んでいるようにさえ感じる時があります(そして、そのような時の稽古は、我々にとっても、すごく劇的に効果があるのです)。

 そういう、両面性とも思える性質を人間は併せ持っていることを知り、付き合っていくことで初めて、一人の人間として正しく在ることが出来るのではないか、と感じます。
 はめをはずしすぎてもダメだし、しっかりしなければ、と硬くなるだけでも物事は片手落ちで、うまく回ってはくれないように思うのです。

 また、人間同士に生じる争いの原因も、根っこの部分では、人間として未熟な、さながら子供のようにすぐに感情的になることで生じている部分が大きいのではないかと思います。
 それをまるで子供の喧嘩のように冷静に見つめられるのが大人の在り方だと思いますし、武術としても、力と力のぶつかり合いを一歩離れたところから見つめ、御することが出来るのが、太極拳の技法としても通じるところがあるのではないかと思います。
 そして、技法としてそれを習得するためには、自分の中にあるものを知り、律していける状態であることが、必要となっているのではないかと思います。

 このように感じるところがあり、稽古において「自分の体の声を聴く」ということを見つめ直した結果、それまでになかったことにいくつか気づけたことがありました。
 立ち方という点において、恣意的にこう立つと決めつけるのではなく、体が本当はどこに立とうとしているのか、が以前より感じられるようになり、変化した部分がありました。
 このようなことをきっかけとして、太極拳の稽古としても、また一人の人間としてももっと変化していけるところがあるように感じられました。
 問題が目の前に出てくる時、それはその問題を解決できるチャンスなのだと思います。
 自分に、まだまだ成長の機会があるのだ、と天が与えてくれているようにさえ感じられます。もっともっと、それらの機会に自分から積極的に向かっていき、本当の意味で動けるようになっていきたい、と思いました。

                                (了)




☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!



2022年09月12日

門人随想「歌と詩と」

                    by 拝師正式門人 西川 敦玄



 太極武藝館で太極拳の練功をしていくことは難しい・・・と思う。多分、門人の多くはそう感じているはずである。当門の門下生のブログや、そのコメントをみればよく分かる。そこには、自己の至らなさ、反省の弁がそこかしこに表現されている。もう反省と決意が銀河の星のごとくに連なっている。もちろん、僕もその星々を形成している。ブログのコメントを遠くから眺めてみる。どのブログのコメントにも同じ夜空が広がっている。
 皆はそうは思わないかな・・・・。
 判で押したようなコメントを皆が片手間に書いているのか?そんなことはないと信じる。皆、真剣にコメントを書いて、結果同じ夜空となっている。
 稽古で、注意され、注意されても、改善しない。師父に易しく噛み含めて指導されても、理解できない。自分の問題だと指摘されて、必死に自己を変革しようと試みる。毎回、反省の弁とともに決意を述べる。我々は一体なにを反省しているのだろう。自分の理解が進まないことに真剣に浸ってみるといい。勿論浸るだけでは変わらない。苦しまなければ。自分の力ではどうしようもないところまで苦しまなければ。

 最近、師父の言葉が、ふっと入ってくることがある。そうして腑に落ちるようになってきた。
 そういえば、今年いただいた太極武藝館のカレンダーは師父の言葉で満ちあふれていた。其れを観ていると、私たちに対して言われたことが甦ってくる。

 「本物の音楽を楽しみなさい。」
 「料理もしてみようか。それは、残り物を使ったような発想でするのではないよ。」
 「芸術に親しみなさい。」
 「どんな絵が好きかな。」
 「コーヒーはどんなのが好きかね。」

 僕は知らなかった。自分の好み嗜好を聞かれているのかと勘違いをしていた。「自分の好みがはっきり理解できているか」と問われているのかとさえ思った。また、絵を描いたり楽器を奏でたりすることが太極拳の上達の秘訣であるとも思い、絵心や音楽センスがない自分に絶望したりもした。
 そうして、反省という名のもとに自責の観念だけが増えていく、満ちていく。ダメだダメだと自分を苦しめ、家族を苦しめる。周囲に迷惑を振りまく。もう限界であると思った。家族も壊れていって、全てを捨ててしまえと思った。太極拳がそうさせているのかと疑った。僕の自我は膨らみ破裂寸前であった。早急になんとかしなければ、自分が壊れるか、周りが壊れるか。
 僕には太極拳は捨てられない。自我を安心させるためには、自分が思いこんでいる太極拳のようなもの以外の全てが崩壊してしまうかもしれなかった。幸い僕は、踏みとどまることができた。漸くそこで、自我と異なるところに目を向けることができた。いままで、必死に自分であると思っていたものにではなく、自分ではないところに真実があると実感することができた。
 芸術は、その場所でこそ花開く。音楽もそこに流れている。料理もそこでされるのだ。自我が入り込む余地がないのではないのだ。そもそも関わりが無い場所なのだ。いや、自我は関わってはいるか。勿論お互いに影響はされるだろう。しかし、芸術が花開く土壌は自我という土壌ではない。この年になって漸くその事に気付かされた。
 とっても不思議なことに、自分が変わったわけでもないのに。その事に気付いただけなのに、人間関係も変化が起きてくる。自分が変わるのかもしれないが、相手も変わる。本当に実感として相手が変わる。周囲が変わる。
 でも、そこで有頂天になってはいけない。生きて働くその場所は、自分の好きな様にすることはできない。そして、同様に自分自身をも好きな様にすることができないことを知る。太極拳も同様である。それらを、ぼくが好きな様にはすることができないことが、漸く僕の腑に落ちた。
 好きな様なことが出来ないそれ、そこへのアプローチを表現する方法はないか・・・・。そこにある、そこで生きているという事への分かりやすい表現はないか。言ってみれば、それは自然である。道である。建築物であり、光であり、音である。はっと思う。私たちは古来、短歌俳句をもってそれを言葉として表現してきたのではなかっただろうか。詩人のみならず、高名な僧侶もそういったものを残している。
 カレンダーの中に師父の詠まれた俳句がある。師父は書もされるし、俳句も詠まれる。僕は俳句をはじめとする詩は、その場所に生きている事、そして自分を歌として表す芸術だと理解した。そうする事で、初めてその芸術を楽しみ、また真実に生きる事ができると思った。そう、そこで生きる事は創造性に満ちあふれている。
 
 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの
      
 有名な高浜虚子の俳句だが、これなど自我の箱庭の中で生きていては詠めないものではなかろうか。棒の如きものは自我の中では生まれてこないものだと思う。それは解釈を拒絶している。
 また、道元禅師の「本来ノ面目」という題で読まれた歌に

 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷し(すずし)かりけり

 という歌がある。題と歌と合わせてみると良いと思う。自然をそのままに認めている。当たり前のところに立ち上がってくるものがある。立ち上がるそのところは、決して自分の中ではない。道元禅師は「これが本来の面目」と言われたのかしらんとも思う。

 最近読み始めた詩集がある。高村光太郎の詩集である。とても、誠実に純情に詩が書かれている。ここで、紹介させてもらえればと思う。


 手紙に添へて
どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかはいい部屋を揃へてゐるのでせう
どうして蜜柑は葡萄でなく
葡萄は蜜柑でないのでせう
世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません
何にも生きる意味は無いときでさへ
この美はあなたを引きとめるでせう
たつた一度何かを新しく見てください
あなたの心に美がのりうつると
あなたの眼は時間の裏空間をも見ます
どんなに切なく辛く悲しい日にも
この美はあなたの味方になります
仮の身がしんじつの身になります
チルチルはダイヤモンドを廻します
あなたの内部のボタンをちよつと押して
もう一度その蜜柑をよく見て下さい


 学生時代の教科書以来か、かれの詩集を本屋でふと手にとってみて、その詩にうたれた。僕には解説する能力もないが、あるいはこの詩にかいてあることが言いたかったのかもしれない。
 そして、もう一つ小学校の教科書にもあるかもしれない有名な詩。今、改めて読んで涙あふれてきた。


 道程 
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


2022年09月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その63

  『稽古への向かい方、整えるということ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年のお盆は、太極武藝館では珍しく(?)、道場での稽古がお休みとなりました。
 私は仕事柄、世間がお休みの日には逆に仕事が忙しくなるので、ほとんど普段と変わらない生活を過ごすことになる・・・かと思いきや、です。
 「道場で過ごす時間よりも、日常の時間のほうが長い」とはよく言われていますが、いざ実際に道場に通わない期間が数日設けられてみると、道場に行かないと時間が思ったよりも長く感じるものだな、となりました。
 稽古がない、やった〜! と遊び呆けることになるかというとそんなこともなくて、いつも体を動かしている時間に何もしていないと、逆に落ち着かずそわそわとしてきて、何かしたくなってくるのは、もはや身に付いた性分となってしまっているのかもしれません。

 せっかくの稽古がない時間を有意義に使う、ではないですが、改めて自分自身の生活を振り返ってみることにしました。
 私は現在、週に5日間道場での稽古に通っています。仕事があってどうしても間に合わない日は遅刻、ないしは欠席させていただいていますが、平日の一般クラスには、仕事を終えて即帰宅、急いで準備をすることでなんとか時間通りに参加させていただいています。
 仕事を終えてから慌てて飛び出していく必要がないというだけで、かなり精神的な余裕を感じられるものです。ところが、その余裕があるというのは、実はいい面だけではないのかもしれません。
 道場という場所と時間が定められた環境があれば、当然その時には稽古するしかないのですが、自分で好きなようにあれもできるこれもできるという状態になると、人は意外と、するべきことをするのが億劫になるという面があるのではないかと思います。
 夏休みの宿題を一向に片づけられない子供と同じように・・・(自分はそういうタイプでした)。

 なので今回のお盆休みの期間、自分がどのように自分の稽古に向き合うのか、少し見つめてみることにしました。
 自分で稽古をするということは、稽古時間も、するべき内容も自分で判断していかなければなりません。ただ漫然と、柔功、基本功、套路・・・とメニューをこなすように行っていっても時間は経つものの、身に付くことは少ないと思いますし、それが自分と本当に向き合っているとは言い難いのではないかと思います。
 自分の状態をしっかりと把握し、正しい稽古を行う。そうすることで初めて、自分の課題としっかり向き合うことになり、解決へと進んでいけるのではないかと思います。
 道場で指導していただくとき、自分のわからないことが自分ではっきりしていないのでは、何を解決していったらいいかも分からないことになります。ましてやその状態では、自分一人で稽古を行ってくることなど到底不可能ではないでしょうか。
 夏休みの子供のように、宿題を与えられるのを待つのではなく(ましてやそれが出来ないのでは論外です)、自分で課題を見出し、それに取り組めるのが、大人のやり方ではないかと思います。

 そして、自分で課題を見つけ、それにじっくりと向かい合うことで、今回のお盆休みの期間中、私は「寝ても覚めても太極拳」という状態になっておりました。
 生活の地続きとして稽古をする中で、起きてる間中「ああでもない、こうでもない」と太極拳に頭を支配されることとなり(仕事? もちろんしっかりやりましたよ)、結果的に寝ている間中もずっと太極拳のことを考えてたようでした。睡眠から目が覚めた瞬間、まず「立ち方が・・・こうで・・・いや基本が・・・」と夢の世界から続いてきていたのは、その証拠ではないでしょうか。
 頭の中が太極拳で支配されるのは、自分としてはすごくハッピーな状態で、とても楽しいものです。まさに何かにハマっている状態といえるのではないかと思います。
 太極拳をやるのに、何も特別な道具は必要なく、自分さえ居れば、すぐにでも稽古に取り組めます。四六時中熱中できるものがあること、それに制限なく取り組めること。これほど幸せなことはありません。

 そして、連休が明けました。最初の稽古で、玄花宗師が、「整えること」についてお話をしてくださいました。お話を聞いて、太極拳における自分の整え方と、それ以外の整え方に共通点があるのならば、普段の自分の行動を見つめなおすことは、そっくりそのまま太極拳の稽古へと繋がって生きてくることになるのだと、改めて感じました。
 今回の連休中、「道場での稽古」と「自分での稽古」を無意識のうちに分けてしまっていた自分に、改めて気づくことができました。それはたとえ薄く小さな壁だったとしても、壁であることに変わりはありません。あるいは、足元にあった小さな段差、くらいのものだったのかもしれません。
 ただ、小さな段差は油断すると足に引っ掛かり、つまずくことになります。それがあるとないとでは、雲泥の差です。
 思えば学生の頃から、「学校での自分」と「家庭での自分」をきっちり線を引いておきたいという面が自分の中にありました。道場に「通う」という日々の中で、そのような面が知らず知らずに顔をもたげていたのかもしれません。
 太極武藝館で過ごす時間は、自分の家族と過ごす時間よりも濃厚で、本当の自分をさらけ出しているかもしれません。玄花宗師には隠し事など通用しないのですから、線を引いても無駄なことだとあきらめる他ありません(笑)。冗談はさておき、自分自身を隠すことなく、ひとつのありのままの姿で取り組まないことには、太極拳の上達など見込めないというのが本当のところではないかと思います。・・・もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、武藝館では世間一般の他所よりもそれが徹底されています。そしてそれがあるからこそ、仲間と過ごす時間が非常に心地よいと感じられるのではないでしょうか。

 連休中に行った、自分の稽古の取り組み方を見つめなおすということは、言い換えれば自分の時間の使い方を見つめなおすことであり、それは「整え方」の一つの面を表しているのではないかと、玄花宗師の話を聞きながら感じたものでした。物事というのは、思ってもみないところで繋がっているものです。
 そしてまた、そこで現れた結果も思ってもみなかったことであり、それによって自分はより、稽古に熱中する喜びと楽しみを感じられたのでした。
 散らかった物事を整えていくと、そこにそれまでは見いだせなかった法則性が現れてきます。今回の連休中に自分が取り組んでいたことは、連休明けの宗師のお話があって初めて本当の意味で整頓され、自分の中にしっかりと収納されたように感じました。

 ただ、それで良かった、おしまいおしまい、とならないのが物事の常です。
 私が今まさにキーボードを叩いている自室には、文字通り片づけねばならない課題が山積みとなっております。
 玄花宗師が話してくださった「整える」というお話は、文字通り、「整理整頓」の話でもありました。整理整頓が出来ないのなら、自分の整え方も推して知るべし、と。
 振り返って部屋を見回してみると・・・山積みの本も色々な道具も武器類もわりとまとめて置いてあるから、意外と綺麗に見えるかも・・・? なんて幻想を打ち砕いてくれるような、惨状が目の前に広がります。

 もしかしたら連休中に一番最初に取り組むべき課題は、本当はこうして目の前にあったのかもしれません(遠い目・・・)。
                               (了)




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2022年08月13日

門人随想「沁みてくるもの」

                    by 拝師正式門人 松久 宗玄



「稽古が沁みてきますね・・・」
稽古の終わり際に、とある門人の方が呟かれた言葉には、ハッとさせられる稽古の本質が感じられました。

太極拳の稽古の難しさには、おそらく全ての門人が頭を抱えている事かと思いますが、その中で、その沁みてくる感覚を味わう事が出来ているか、否かには、天地の違いがあると思いました。

師父の伝えられる太極拳の稽古体系は、本来は解釈の余地が無いレベルで完成されていますし、その要訣は明確に提示されているのですが、その教えを表面的になぞってみても、同じ様には再現できず、形を真似れど、その中身は判然とせず、謎は深まるばかりとなってしまいます。

師父曰く、
太極拳は暗号だ。稽古体系と要訣は暗号を解く為のコードブックだ。
太極拳は詩だ。行間を読み解ける詩情がないと理解は難しい。
太極拳は数学だ。論理的に記述が可能な法則性に基づいている。
太極拳は音楽だ。JAZZのアウトで戦うのだ。
太極拳は宇宙の法則だ。自然の「ことわり」なのだよ・・・

その言葉の奔流に圧倒されつつ、益々、謎は深まっていきます・・・

私自身、師父の言葉も、太極拳の稽古体系も、その一つ一つが区別され、分かれたものとして捉え、読み解こうとして、ことごとく挫折してきました。
提示されているのに、見えない、分からない事に悩み続ける状態です。
よく例えに挙げられる、月を目指したい筈なのに、月を指す「指」を気にする錯誤に、何度ハマり込んだことでしょう。

一方、冒頭の「沁みてくる」と語られた門人の方は、「日々が新鮮な驚きの連続です」とも語られていました。
自分の中に発見があり、素直にその味わいを楽しんでいる風情でした。

その両者の違いは何にあるのでしょうか?
その一つの鍵として、「部分」と「全体」があると思います。

科学的なアプローチの起点は、渾然一体としてよく分からない現実世界を、単純な要素に分解して調べることから始まります。「分ける」ことで、差異や作用を際立たせる事が可能となり、要素同士を比較する事で理解を進めることが可能になるからです。
その細かく世界を切り分けていく道具として、言葉が生み出され、大いに発展、発達しました。
言葉で「分ける」ことが、「分かる」= 科学的理解に繋がっているのだと思います。

現代人は、科学者であるかどうかに関わらず、既に科学的に切り分けられた世界に生きてしまっていると思います。
皆が皆、言葉で事物を切り、単純化して物事を理解する作法が身に付いてしまっています。
それ故に、神も、神秘も、全体性も、バラバラにしてしまって、逆に物事の意味や価値が良く分からない状況にも陥っている、とも思われます。

この言葉で切り分けて「分かった」気になれる点が、現代人に太極拳の理解が難しい理由の一つだと思われます。
先の師父の言葉の奔流は、切り分けて単純化するアプローチでは歯が立たない複雑性に充ちています。
また、太極拳を含む芸術の世界では、「高い」あるいは「深い」と表現される、意味や価値の、垂直方向の重層性が認められます。
高くて深い対象を、単純に言葉で「部分」に切り分ける行為は、高きを崩し、深さを埋めて、平坦にしていくアプローチであり、むしろ価値を無価値に近付けているのだと思います。

これらの事から、意味や価値は「部分」には少なく、「全体」にこそ属することも見えてきます。
人間の優れた点は、バラバラにする事も出来れば、それらを繋げて再構成する事も出来る点だと思います。
言葉においても、文字一つ、単語、文、文章と、繋げることで意味性が高まります。
「部分」が法則性を持って「再構築」あるいは「統合」される事で、その「関係性」の中に意味や価値が宿るのだと思われます。
この「全体」を「再構築/統合」する働きが、我々には圧倒的に足りないのだと思います。

冒頭にある「沁みてくる」ものを味わう事が出来る感性は、「全体性」が働く中で生きられているからではないかと思われました。
「全体性」の中で「分かる」ことが起これば、その「全体性」はより高く、より深く、より複雑な「関係性」を生じ、その新たな「関係性」の中に、新たに立ち現れる意味性こそが、「沁みてくる」味わいではないかと思われます。

師父が「太極拳は大人の拳法だ」と述べられた事も思い起こされます。
この意味は、人生の辛酸も舐め、清濁合わせて呑み干し、酸いも甘いも噛み分ける事が出来るまで成熟しないと、いつまでも人間は「部分」を追いかけて、「全体」に目が向けられないもの、と今ならその言葉を味わうことが出来ます。

先ずは”違いがわかる男”を目指して、日々、日常においてこそ、味わい深いものとして物事に関われるよう、日々の生活を整えていきたいと思います。
                              (了)


2022年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その62

  『アシよさらば ー誰が為にアシでケる?ー』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「それは足の入力で蹴っていますね」
 ある日、道場での稽古で、基本功をやっていた時のことです。宗師にこのように指摘していただいた私は、自分の状態を見返してみました。
(あ、足で蹴っている・・・?)
稽古の中で繰り返し、本当に繰り返し散々注意していただき、当然自分でも気をつけていながら、それでも度々現れてくる、足での入力、蹴りという状態。
 これは相当に根深い問題だぞ・・・と、認識を改めなければならないと遅まきながら悟った私は、本腰を入れてこの問題に介入していく決意を固めました。
 とはいえ、ではこれまでの稽古を通して「足で蹴る」問題を見て見ぬフリで過ごしてきたかというと実はそうでもなく、普段の生活を通して自分の状態がどうなっているかということを注意してきてはいたのです。注意してきた結果がこれなのです!
 事ここに至って初めて、注意してきただけでは足りない、問題の根の深さに目を向けることになりました。そして同時に、その問題に目を向ける、その眼差しのあり方にまで、目を向けざるを得なくなってしまったのです。

 太極武藝館では、歩法の稽古に多くの時間が割かれ、以前在籍していたある門人からは、「いつまでやるんですか」という声も聞かれた程、とのことです。
 いつまでやるんですか? それはもちろん、出来る様になるまででしょう!
 稽古の中で指導して頂いている内容は、非常にわかりやすい言葉で説明していただけるので、それを聞くと、頭ではあたかも理解できたような気持ちになります。ですが、聞いてわかったつもりになるのと、それを自分の体を通して実践出来るかというところは、全くの別物に感じます。自転車の乗り方を人から聞いて教わってわかったつもりになっても、すぐに乗れるはずがなく、自分で実際に自転車に乗る練習をすることでしか、身につける方法はありません。
 太極拳の稽古においても、全く同じことが言えるのではないかと思います。
「足の入力を使わない」という説明は、おそらく誰でも何を言われているのかわかるかと思います。
 ところが、それを実際に自分の体でやろうとすると、そう簡単にはいきません。
 先日も宗師に、『聞いたことで理解したつもりになっていることと、実際に自分ができていることのギャップを認識しなければならない』と、指導していただきました。
 稽古をしていく中で、自分達が超えていかなければならない壁がここにあるのではないかと思います。
 一般的な普通の考え方では、「そのように言われるものの、足を使ってしまう。きっと、それが出来ないのには自分が聞いていない秘伝が関わっているに違いない!それさえ教えてもらえれば、指導してもらっていることは出来るはずだ!」となるかもしれません。
 武藝館で稽古をさせて頂いていると、その認識が全く間違っているのだという現実に、嫌でも直面させられます。武術の武の字も齧ったことのないような、それまで主婦をやってこられたような普通の女性が、正しく修正されただけで、体重80キロを越す自分のような男を、簡単に吹っ飛ばし、転がすようになってしまいます。
 では、その人は誰も聞いていないような秘伝を聞いたのかといえば、そうではありませんでした。
 稽古で毎回のように指導して頂いている整え方を、改めて宗師がその場で指導して下さっただけでした。
 たったのそれだけです。だとすれば、その整え方こそが秘伝と言えるものだと思いますし、もし稽古で行き詰まりを感じたのだとしたら、それを自分がちゃんと守れているか、それが問われているのだと、見つめ直す必要が生じてきます。


 話題は変わりますが、自分が通わせて頂いている床屋のご主人から聞いた話です。その方は、学生時代に部活動で卓球をやっており、今も学生さんを相手にボランティアで週に何度か指導をしているとのことです。その話になったとき、ポツリと「基本がちゃんとやれていない子は試合で勝てない」と言っておりました。
 自分は卓球を知らなかったので、卓球で基本に当たることは何ですか?と尋ねたところ、ラリーを何回出来るかが一つの基準になると仰っていました。県の大会でも勝って行ける子は何百回と続けられるそうで、負けてしまう子はそれが続かない。イコール、基本が身についていないのだそうです。
 磐田には、オリンピックでメダルをとった水谷選手が所属していたチームもあるそうで、そこの練習は、同じ体育館でやっていると他の選手も注目をするような、一味違った練習をしているとのことでした。メダルを取った水谷選手や伊藤選手ともなると、ラリーが5000回以上(!)も続くとのことで、そのレベルでなければ世界で勝っていくことなど無理なようです。

 その話を聞いたとき、自分の太極拳への向かい方はどうだろうかと、改めて反省を促されたように感じました。言い方は悪いですが、学生の部活動のレベルでさえ、基本をしっかりと固めることで基礎を培い、実力を伸ばしていくという指導が行われているというのは、ある意味衝撃的ではあります。ましてや、世界で戦っていく選手となると、その上でさらに磨きをかけていくのが当然のこととして要求されます。
 太極拳を稽古するにあたり、「他にない、凄いものだ」と言いながら、取り組み方は学生の部活動の方が高度な訓練をしていました、などとなっては笑い話にもなりません。
 余談ですが、静岡県西部の卓球のレベルは、世界でメダルを獲得する選手を輩出するだけあって、かなり高いもののようです。とはいえそれは、何の気休めにもなりません。
 一流のものとして太極拳をやっていく為には、一流の意識で取り組み、訓練もそれに沿うものでなければならないはずです。床屋のご主人の話が頭に蘇ります。
「自分の経験の中で、自分が教わった理論が正しいことは証明されてきました。あとは、それを子供たち一人一人に合わせて、正しく指導してあげる必要があります。どこまで行っても勉強だね」
 これ卓球の話ですよね!?あなた本当に床屋のご主人ですか!?
 カットをしてもらいながら店内の壁をふっと見ると、理容師の大会で優勝している賞状が何枚か、控えめに飾ってあります。
 本当に腕のある人は自分からは何も言いませんし、何をしていても取り組み方が変わらないのだと、痛感させられました。
 教わっている太極拳の内容は高度でも、指導を受けている我々の質によって、それは二流にも三流にも簡単に変わってしまいます。それは教授して頂いた内容ではなく、我々個人個人の質そのものが現れてしまうからではないかと思います。
 であれば、太極武藝館が高度な学習体系を有していると本当に言える為には、我々が高度な功夫を体現している必要があるはずです。
 足で蹴ってしまう・・・このような問題は、早急に解決していく必要があります。
 問題の解決方法はすでに示して頂いていますし、あとは、自分がその方が便利だと勝手に思い込んでそうしてしまっているという現実と、しっかり直面する必要があるかと思います。

 誰が為にアシでケる・・・?それは他でもない、自分自身の為にそうしてしまっています。
 だからこそ、その問題を解決することが出来るのは、他でもない、自分自身のはずです。

 ・・・アシよさらば。
                             (了)





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