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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

  また、当ブログを快適にご覧いただくために、
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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2019年02月19日

門人随想 「日の出」

                  by 拝師正式門人  西 川 敦 玄



 平成31年が始まりました。平成最後の年で新しい年号が始まる年です。筆を走らせている今、いささか時期を逸しているのですが、歳の瀬から年始にかけての風景を眺めてみます。

 毎年年が明けると清々しい気持ちになります。家族、親族、人によっては友人と、あるいは一人で夜半を過ごし、歳を越し、翌朝には初日の出を拝みます(私は実際には上がってしまった日を拝んでいるのですが)。一年の区切りをつけて、新しい一年に向けて思いを新たにします。では、お正月とは特別な一日なのでしょうか。

 日の出という現象は、ご存知のように地球の自転によって太陽光が東より差し込む現象です。地球を俯瞰する視点に立てば、日が出るとの表現は正確ではありません。日が出る(昇る)というのは、自分という視点から入光を表現したものです。初日の出とは北半球において考えると、地軸が太陽と遠ざかるように最大限に傾いた太陽と地球の関係(冬至)から、地球が9回ほど自転した時期において、ある時点での太陽光の照射開始時とでも言えば良いでしょうか。こうしてみると、太陽暦の1月1日に天文学的視点で特別な意味はなさそうです。
 それでも、私たちは地球が太陽のまわりを一周回った記念のひとして、次の公転にむけて気持ちを新たにしているわけです。
 一方で、文化的な側面に向けてみれば、1月1日が特別な日であることに異論を唱える人は少ないはずです。 日の出は日常で繰り返される現象ですが、大晦日から正月にかけてのそれは、世界中で非日常的な一日として過ごすことが多いのではないでしょうか。
 しかし、10年、20年と月日が経てば、幼少期には非日常の風景であったものが、年中行事として予定された行事、日常のイベントの一つとなります。一生を考えると何十回となく経験するわけですし、同じ民族でいえば、何百回となく経験してきている日常の風景とも言えます。
 お正月の行事、初日の出、初詣が非日常ではないとすると、日常や非日常といった考え方も簡単には捉えられないものと思ったほうが良いでしょう。

 では、反対に日常の生活を決まったように送るということは、日常的なのでしょうか。
ここで、いささか極端な例を思いだしました。
 ドイツの哲学者にカントという人がいます。著作はあまり読んだことが無いのですが、学術的業績のほかに、規則正しい生活習慣で知られた人です。
 有名な逸話だと思いますが、彼の日常は細部まで日々同じように送り、散歩の道まで決まっていたそうです。そして、散歩の道沿いに住んでいる人はその姿をみて時計の狂いを直したと言われているエピソードがあります。
 日常の生活が日々を決まったように過ごすことと仮定するならば、これなどは、もっとも毎日を日常的に生きていると言えると思います。しかし、これを誰も真似できませんし、私達の生活では規則正しく毎日物事が進むことはありえない訳です。
 このようにカントの如く日常を過ごすことは、私たちにとっては非日常と言えると思います。しかし、強制的に時間を整えることに鍵があるわけではないでしょう。そこを非日常の要点とみると、日常性と非日常を取り違えそうです。
 それでは、何が日常を非日常たらしめているのでしょうか。そこには、意志の力、積極的に自己を日常に関わらせていく力の働きがあるのだと思います。そして、面白いことに、まるで型にはまるような日常性のなかでの意志の発露こそが、非日常性を発揮する要点のようにみえます。

 では、私たちの日常生活はどのようなことで成り立っているのでしょう? 、日々の生活では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。
 ・・ん?!、 もしかして、以下のように言いかえても不自然ではないかもしれません。
 私たちの稽古では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。そうです。いつもの稽古です。私達が四苦八苦している、あの稽古です。
 元日をお正月の特別な一日として過ごすことをしてみても非日常とはならないように、稽古を特別なイベントとして行っても、非日常にはならないでしょう。つまり、稽古に出たときに(平日に対するお正月のように)、特別な歩き方をすることが非日常の歩き方ではないと思います。先ほど見たように、そこに意志の発露があることで、非日常性を発揮するのだと思います。
 しかし、如何に意志の力の発露が大事とはいえ、稽古にでている特別な環境が、意識を非日常に向かわせてくれることに変わりはありません。また、一年の節目になる日も同様に特別な環境です。

 今年も例年と同じように年が明けて、新しい年が始まりました。
 平成最後の歳の始まりを、私は新鮮な気分で、厳かに、希望をもって迎え、前に進んでいきたいと思っています。

                                  (了)


2019年02月07日

練拳Diary #83「スピード」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 前回の練拳ダイアリーでは「非日常」に着目し、それが、自分から遠くかけ離れたところにあるものではないことを私の視点から述べ、そこから師父の日常の所作一つ一つが非日常的であることをご紹介させて頂きました。
 普段はあまり語られることのない師父の日常の所作については、多くの方が興味を持たれたようで、記事を出した後は師父が作られる料理などについても、訊かれる機会が増えました。

 さて、今回はタイトルの通り「スピード」について、考えてみたいと思います。
 スピード、つまり「速さ」について考えるきっかけとなったのは、あるとき師父が、

 『君らに全く足りていないのはスピードだ。高度な武藝としての戦闘技術をトータルに修得したいなら、早急にスピードという事を理解する必要がある』

 ・・と、仰ったことです。
 単純に、戦闘に必要な動きとしてのスピードを身につけるだけなら、”スピードを理解する必要がある”とは言われないはずです。ここで指摘されている「スピード」とは何であるのか、またそれを理解することで何が変わるのでしょうか。

 スピードについて考えたとき、やはり最も厳しい規律で統制されている「軍隊」のことが思い浮かびます。
 規律とは、改めて言うまでもなく、物事の正しい順序や人の行為の基準として定められたものを指しますが、軍隊でのそれが厳しい理由は、一言で言えば命の危険を伴う仕事だからです。
 何かを守ること、そのために命を賭して戦うことは当然リスクが高く、ともすれば人生を失うことになります。どうすれば危機を回避できるのか、或いはリスクを低減できるのかを考えてみれば、結局のところ、自分勝手な解釈や判断をせずに、物事がどうなっているのかを冷静に見極めること、それに尽きるのだと思えます。
 危機とは、往々にして自分の浅はかな考えやちっぽけな想像の範囲など遥かに超えていることを思えば、厳しい規律は、自分勝手な解釈や判断を戒め、正しい判断力を養うという点において、とても役に立ちます。
 規律というものには「細かく」「窮屈」で「不自由な感覚」と言ったイメージもありますが、これを反対に考えてみて、「大雑把」「安楽」「自由な感覚」でも良いとされたなら、規律なしで一体何が身につくのか、自分は何を守れるのか、誰でも疑問に思うところではないでしょうか。

 さて、その軍隊で、一般社会から参入した私が真っ先に受けた洗礼とは、まさに「速さ」でした。最初に所属したところでは、集合は決められた時間の2分前には完了していなければならず、装具の着脱は無論最速で行い教官より早いことが当たり前、武器その他の点検も最速確実が要求されますし、報告などは短く要領よく、食事は長くて15分、お風呂も実質15分、洗面、洗濯、アイロン、靴磨きは、数少ない道具を大勢で効率よく時間内に回さなくてはならない・・などなど、訓練中に求められる動作から隊舎生活の全てにまで「速さ」が要求されます。
 最初は、何か説明をする教官の言葉も速くて聞き取れないほどでしたが、やがて、そこで要求される速さの中でなんとか合わせようとしていると、”どのようにすれば間に合うのか”という、一つの法則が見えてきました。その法則こそが、「ただよく見て、ただよく聞くこと」だったのです。なんとシンプルなことでしょうか。
 よく見てさえいれば、教官が次に何をしたいのかが分かり、視野も広くなるため、様々なことに対して心の準備が整います。よく聞いてさえいれば、次に何を指示されるかが分かるのです。
 それは、あらかじめヤマを張って備えているのとは違い、瞬間瞬間に合わせ続けることで見えてくるものです。ヤマを張っていると、外れた時に大幅に遅れますが、合わせ続けていれば外れることはありません。
そしてもう一つ大事なことは、要求される速さの中では、自分勝手に考えたり動いたりする余裕が微塵も入らないということです。つまり、先ほど述べた最も危機に対応できると思われる「自分勝手な考えが入らない状態」が養われるのです。

 私たちが道場で学んでいることは、高度な戦闘理論と技術を修得することであり、高度であるが故にその過程では自分を律することが必要とされ、それに伴って人間性や精神性が養われていきます。
 「自分を律する」とは、例えばピアノの調律と同様に、ある秩序に順って自分を整えていくことです。それが武藝修得に必要なことであるために、道場で学ぶにあたっての規約が厳密に定められているわけです。
しかし、どういうワケか人は言われたことをやりたくない、守りたくないという面を持ち合わせています。学生の頃、出された宿題に対して「これは自分に必要な、大事なことだから」と、せっせと取り組んだ人がどれほど居るでしょうか。
 よく考えてみれば、「やりたくない、守りたくない」と思っていることに対して、それをやるように指示されると、人は「延期」します。期限の定められていないことは無期限に、期限が定められているものは期限ギリギリに、という具合に、自分で再設定してしまうのです。
 その理由は?と問えば、余りにもありきたりな「やろうとはしているけれど、中々出来ない」というものが殆どではないでしょうか。
 誰でも、言われたこと全てに対してスムーズにこなせるかと言えば、決してそんなことはなく、誰もが皆必死に、新しい課題をこなそうとしているのです。ただし「やろうとはしているけれど・・」という、まるで自分を肯定するかのような理由を持ち続けていると、当然いつまで経っても出来ません。まずは、「自分はそれをやりたくないのだ」と、はっきり認めることが必要だと思います。

 本来は、自分が「課題」として与えられたことに対して、「やりたい、やりたくない、やろうとしている」ということを挟む余地は一切ないのです。与えられたなら、それは、その時その瞬間に必要なこととして存在するわけですから、その場で直ぐに取り組み始められなければなりません。
 ちょうど、私たちの稽古がそれにあたります。
 稽古で示される、師匠との動きの違いや対練での相手への影響の相違など、「これを理解する必要がある」と言われた時に、その場で分からなかったものは、家に帰ってからも、やはり分からないのです。
 これも「スピード」として考えることができますが、その時に生じている問題に、その場で取り組めるか、ということです。
その際に、「自分はやろうとはしている」という先ほどの言葉を持ってきたらどうでしょうか。或いは、自分や家族が生命の危機に直面している時、果たして同じように「努力はしているつもりだ」と言っている暇があるでしょうか。
 つまり、それを言える間は「余裕」であり、自分にとっては今すぐ何とかしなければならない重要な問題ではない、ということなのです。
この事実を、人はとにかく避けたがる傾向にあります。私自身も、例えば ”ゴミを片付ける” というようなささやかなことでさえ、「後で」と延期し、そしてそれは長いことそのままになってしまいます。
問題は、それがささやかな事柄だから仕方なく、大きな事柄にはきちんと取り組めるのかというと、そうでもないところです。小さなことにきちんと取り組めないと、大きなことにも取り組めず、そして反対に、小さなことにきちんと取り組める人は、大きなことに対しても、自分を何も変えることなく同じ姿勢で取り組むことができるのです。ここに見られる法則は、何を表しているのでしょうか。

 「戦闘」という、まさに危機と隣り合わせであることを稽古として学び、自己成長に繋げたい、という選択をした私たちは、「スピード」ということに対して今一度考えてみる必要があると思います。
 そして先ほども述べたように、「延期」をしてしまうことに対して「自分は本当はやりたくないのだ」という認識と、「課題とは、自分の好むと好まざるに関わらず取り組むべきものである」という二つの認識を、きちんと持つべきだと思います。
 なぜなら、自分の人生における課題はそもそも誰かが与えてくれるものではなく、自分で気がつき、受け取り、理解していかなければならないものだと思えるからです。
 せめて、同じ道を歩む師匠や仲間が自分に分かりやすく出してくれた課題に対しては、誠実に向き合いたいものです。
それができなければ、自分は一体この人生で何を学んでいこうというのか、それ自体が不確かなものになってしまう気がします。

                                 (了)

2019年01月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その40

  「困難に立ち向かう」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古で新しい課題が示されるたび、それまでの自分ではクリアできないという現実と直面させられます。
 現代人は困ることが足りていない、と師父は指摘されています。たしかに、日々の生活を振り返ってみると、何かの課題に対して困る、ということはほとんどないように感じます。ただ、何か面倒なことがあって困る、せいぜいこれくらいしかないのではないでしょうか。

 昨年から開講されているCQC講習会において、ロープを使った懸垂降下、ラペリングという課題への取り組みが始められています。
 私にとっては、ロープ降下は、生まれてこのかた一度もやったことのないことです。まさか自分がやるとは考えたこともありませんでした。少なくとも自分にとっては全く未知の経験です。
 仮に、いきなりぽんと道具を全部渡されて、手順を説明されたとしても、とてもではありませんができる気がしません。
 しかし、ここ太極武藝館では、そんな取り組み方は決して行われません。見よう見まねでなんとなくできたような形にすることは絶対になく、自分のような初心者を含め誰しもが、確実に理解できるような体系として、師父に細かく指導をしていただけました。

 まずはどういったメカニズムで降下が安全に行われるのか、ロープや道具に関する科学的な説明からはじまりました。その上で、ひとつずつ守るべきプロセスを、課題として段階的にこなしていきます。
 それぞれの段階でうまくいかないことがあったとしても、周りにいる仲間たちも意見を出し合い、当人がきちんと理解できるまで取り組み、示されたやり方を正しく、確実にできるようになっていきます。そうすることで、全くの未経験者である自分たちが、5メートルの垂直壁から安全に降下することができるようになりました。

 困難な課題に立ち向かうとき、そのままでは課題が大きすぎて、どこから手をつけたらいいかわかりません。一見すると解決不可能にも思えてしまいます。
 ところが、その課題を少しずつ細かく見ていくことで、ひとつひとつを解決可能な小さな課題に変えていきます。そうすることで、正しい手順で段階的に解決していき、最終的には、不可能に思えた最初の課題もこなせるようになっていきます。

 これはすごいことだと思いませんか? 少なくとも自分はそう思いました。

 今回の場合は、ただロープ降下の技能を身につけていくというだけでなく、その中にある課題を学習していく中で、何かを新たに学習していくにはどうしたらいいかという、学習法の学習法も示されているように、自分には感じられました。
 ロープワークが、ただ結び方を憶えるのではなく、訓練として行われたのと同様に、ロープ降下も、訓練として行われることで、もっと新しい考え方に気づかされるきっかけを与えていただいたように感じるのです。
 もちろん、ロープ降下を訓練することによって得られる身体の軸は、武術的に動ける身体を養うためにも、とても役に立っていると思います。
 実際に自分で動いているとき、そしてロープ降下の訓練を行った門人と対練をしているときには、とくにそれを強く感じます。そしてそれだけでなく、考え方の訓練としても、大きな意味を持っているように思うのです。

 何かを学習する上で、明確にフィードバックを得られるというのは大事なことです。
 ロープ降下の場合、野外で垂直壁から降りてくることができるという、明確な結果が出ます。そのため、自分の学習へのアプローチがどうだったかを、明確に検証することができるのではないかと思います。

 この、学習プロセスに対する検証過程は、そっくりそのまま太極拳への自分の学習方法を検証することにも使えるのではないでしょうか。
 ロープ降下において最初はできそうにないと思えた課題を、段階的に分けていくことで理解していけることは、すでに経験させていただきました。
 そもそも、太極拳もまた同様に、体系的な学習として師父に指導して頂いていることを、もっと大事に受け止めないといけない、と自分は感じました。どうしても、師父に示していただく太極拳の「結果」があまりにもすごいものに見えて、そこで半分思考停止してしまいがちです。
 それは、いきなり垂直壁で降下しろ、と言われているのと同様なのかもしれません。
 そこに至るまでの過程で、もっと段階的に課題を分けて、問題点がどこだったかを検証してきたときのように、太極拳においても、細かく検証していくことが可能なはずです。

 また、考え方が変わるという点においても、自分の中でも変化がありました。
 たとえば外を歩いているとき、建物の中にいるときなど、自分がどういう場所のどういう高さにいて、周りにどんなものがあるかを、以前よりも気にするようになりました。
 というよりは、以前はまったく気にしていなかったというべきでしょうか。

 それまで気づかなかった危険にも、目を向けるようになってきた!

 …などと思って道場に稽古に行くのですが、そこで師父に簡単な課題を出されて、
「いま自分がどの方向に何歩歩いたか憶えているか?」
 と質問され、ぜんぜん何にも気を配れていない! とハッとさせられる、そんなことの繰り返しばかりです。

 今年に入ってから、稽古の質が以前にも増して、より洗練されて高度になっているように感じます。
 これまでも、おそらく他では得られない高度な内容を指導されていたかと思いますが、稽古に参加させて頂いていて、より新しい取り組みが行われているのではないかと感じるところがあります。
 より洗練された内容でどんどん進んでいくので、のろまな自分も大慌てで、「これは大変だぞ…!」と、目を覚まされて、なんとかついていこうと必死になっているような状態です。

 太極武藝館の稽古においては、自分の考え方をどんどん変えていかないといけない、と思います。それまでの考えなど、本当は通用しないのだということを、一瞬にして自覚させてもらえるという経験は、なかなか味わえないかと思うのですが、稽古においてはそれは日常茶飯事です。
 それだけ、日常に溺れ切った自分の発想では生き残れないという甘さの表れであり、日常とはかけ離れた考え方、物の見方で師父が過ごされているということなのだと思います。
 より高度になっていく内容に伴って、自分にとっては非常に難しく、困難な課題も出てくるかと思いますが、

「逃げない、晴れ晴れと立ち向かう」

 という言葉を、師父に倣って自分も胸に刻み込んで、着実に課題に取り組んでいきたいと思います。

                                   (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その41」の掲載は、3月22日(金)の予定です


2019年01月01日

謹 賀 新 年

  明けましておめでとうございます
  本年もどうぞよろしくお願いいたします 



日頃よりブログタイジィをご愛読いただき、誠にありがとうございます。
昨年は満を持して門人待望の「野外訓練」が行われ、参加者は丸一日を掛けて実際の非日常の中で不便な「衣・食・住」を体験し、危機管理についての認識を新たにすると共に、普段とは異なるストレスの中、団結と協力といったチームワークの重要性が身に染みて実感された、実り多き訓練であったと思います。

また、拳学研究会クラスを中心に、軍隊式の緻密な「ラペリング(降下)訓練」が高度なレベルで行われており、昨年末には研究会のメンバー全員に実際に野外の垂直壁での降下訓練が課せられたとのこと、より高度な武術的身体の開発と太極拳修得に不可欠な発想の転換が大いに期待されます。

玄門太極武藝館が本物の武術性とスピリットを何処までも追求し研磨し続けるなか、私ども「ブログタイジィ」も門人の皆さまの躍進に遅れをとらないよう、内容を充実させて行きたいと思っております。
本年も「ブログタイジィ」を、どうぞよろしくお願いいたします。


    平成31年  元旦

                   太極武藝館 オフィシャルブログ
                  「Blog Tai-ji 編集室」スタッフ一同

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2018年12月06日

CQC/危機管理講習 Level-2 〜野外特別訓練に寄せて〜


                     by 太極武藝館 事務局

                     

 寒さも増してきた11月の半ば、少しばかりの怖れはあるものの、門人の誰もが期待に胸を膨らませてきた野外講習会がいよいよ行われました。

 場所は掛川駅から北に十数キロほど入った山の中。市が管理する森林公園の一角、ちょっとしたデイキャンプに適したような風情ですが、手前に大きなキャンプ場が在るせいか、滅多に人も来ない、森あり山坂あり、小川ありの、訓練講習には打って付けのところです。

 街灯など全く無いその場所はイノシシやカモシカも出てくる所で、スタッフが下見に行った時には日暮れ間近になると急激に気温が下がり、あっという間に周囲が何も見えない真っ暗闇となり、山の斜面の下から小川の流れる音がだんだん大きく響いてきました。
 何とかトイレこそ男女ひとつずつあるものの、キャンプ場のような水場も無く、小川からポンプで汲み上げた水を手洗い用に流しているだけです。
 帰り道では、暗闇の向こうに何やら黒い固まりがヘッドライトに映し出され、慌ててスピードを落とすと、カモシカが川に水を飲みに降りて来たところでした。

 そんな場所で、いよいよ野外講習が始まりましたが、心配された天気も、運良く雨雲の通る時間がズレて気持ちの良い冬晴れとなり、総勢22名、10歳から72歳までの参加者たちは皆やる気満々で、初めに師父からの訓示を受け、班編成を発表されて、ブーツやヘルメット、ヘッドライトにグローブを用意して、意気揚々と訓練に臨みました。

 まずは四名ずつ、5つの班に分かれ、各班にはリーダーとサブリーダーが置かれます。
 課題に取組んでいる最中には、師父が合図のホイッスルを吹かれ、リーダー集合、サブリーダー集合、総員集合など、鳴らし方で区別されたホイッスルの音を聴くたびに、皆がテキパキと無駄なく素早く動いて、全員が訓練としての意識で臨むための良いきっかけとなりました。

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 訓練のメニューは、緊急避難用の「シェルター」を張れるようになる事、その為にも、また様々な事にも役立つ「ロープワーク」を数種類マスターすること。そして大災害にも効果を発揮する本格的な「降下訓練」。最後の課題は夕食ですが、師父が組み立てたメニューで、自分たちで薪を集め、小型のウッドストーブと普通の焚き火の二つの火を焚いて夕食を作ります。

 シェルターは予め研究会の人たちによって幾つか見本が張られ、それをじっくりと観て、イザという時には自分でも作れるように、班ごとに詳しく学びます。師父からは木や草だけで作るシェルターの詳しい説明もありました。それは非常に居心地が良いそうで、雨風も凌げ、研究会の野外訓練では実際にテント代わりに作って、その中で過ごす予定だそうです。

 降下訓練は、町に暮らす私たちは、うっかり下りていくと転んでしまいそうな、自然のままの結構急な斜面にロープを降ろし、即座に装着できるように訓練を積んできたロープハーネスとカラビナやエイト環を使って、谷に向かって20メートルほど降下する練習です。
 元々プロフェッショナルである師父や玄花后嗣は、数十メートルの垂直壁や吊り橋、ヘリコプターなどからもわずか数秒で降下をしてしまうそうですが、道場で念入りに訓練を積んで来た研究会の面々も今では中級者の実力。皆が安心してアドバイスを受けられます。

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 夕食はワイルドストーブに鍋を掛け、もうひとつの火には小麦粉を少量のぬるま湯と油、塩と砂糖などでこねて小枝に巻いてパンを焼くためという、ワイルドな趣きの調理法。鍋の中身は、かつて師父が述べ数ヶ月の放浪中にイヤになるほど作ったという、ツナ缶のキャベツカレー。
 簡単にできてボリュームも満点。パンは自分でこねて発酵させ、木の枝に巻きつけて焼いて食べる師父直伝の本格派。どの班にも同じ材料が配られましたが、どう上手く作るかはウデ次第。大変面白く、楽しい試みです。
 真っ暗闇の中で、焚き火の明りとヘッドライトを頼りに、地べたにしゃがみ込んで作る夕食は、普段の生活とは何もかも違い、チームワークも大きく要求される本日のメインエベント。リーダーの器量は元より、チーム全員の理解度や協調性が大きく問われるものです。

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 さてさて、参加された皆さんがどのような想いで一日を過ごしたのか、寄せられた感想文を以下のコメント欄に掲載しますので、参加者は当日の様子を思い出し、都合で参加できなかった方は想像を膨らませながら次回の野外訓練に備え、どうぞお楽しみください。
   ♪( ´▽`)

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* * * ご 注 意 * * *

今回は皆様の提出した感想文がコメントとなりますので、
これ以外のコメントは受け付けられません。
どうぞご了承ください。

************


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