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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2018年06月14日

JAZZYな、太極拳を。 第2回

  あんた、JAZZYの何なのさ。
   〜 ちょっと前なら憶えちゃいるが・・♪ 〜
 

                         by 春日 敬之
  


 それではっ、みなさまぁ、ご一緒にぃ〜!!

 はいっ、♪ミ〜ナトのヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカぁああ〜〜♫・・・
 🎶 ジャジャジャジャンジャン、ジャジャジャジャンジャン・・(伴奏の音スね)

 ・・と、言うことで、ご唱和ありがとうございました。
 はい、懐かしかったですねぇ、ご存知、神奈川県のご当地ソング。
 ♫ これっきりこれっきり〜もぉオォ、コレキリ〜ですね〜♪ と同ンなじですねぇ〜♪
 港のヨーコは、今世紀に入ってからも、横浜ギンバエがカバーしてます。  
 え、そんな昔の話はちと分からネーなって?
 あ、そ。。。何のコトか分からない人は、すぐググりませうね。
 嗚呼、昭和は遠くなりにけり。。(^_^;)

 エニワイ(anywayのオーストラリア発音スね、ともかく)、
「髪のあるオトコだって、ここにゃ沢山いるからねぇ〜」ってのは、われらがスゲー館でもおなじですなぁ (^ ^)。。
 円山館長は無論、研究会を中心に、なぜか軍人カットやボーズ頭(ハゲ頭とは言ってませんよ!)の多いスゲー館ですが、やはりそれなりに皆さん ”カレンダー映え” してますねぇ、わはははは。
 ま、イカにリアル軍人の玄花さんでも、流石にボーズ頭ってワケにはいかないッスよね。
 ・・え?、「G. I. ジェーン」のデミ・ムーアはスキンヘッドぢゃないかって? (゚o゚;;
 ♫ ズビズバ〜・・やめてケーレ、ゲバゲバ・・・

 しかし、もしケニーGみたいな変なヘアの見学者が来たら、名前を訊ねる前にきっと、
「♪ワリぃなぁ、ほかを当たってくれヨ・・アンタ、太極拳の何なのさ?」なんて、事務局の怖〜いオバさまに言われるカモです。
 さて、あンまし古い話ばかりしてると「JIZZY(ジジィ)な太極拳」になりそうなんで、このくらいにして────(^◇^;)


 このへんで本題に入りませう。
 この新しいカテゴリーが「JAZZYな、太極拳を。」と題された事には、ボクのカルクッチィ(イタリア語で ”軽い食事” の意←ウソ)な中身ではチト申し訳ないほど、もっと深〜い意味がありそうです。

 ちなみに「JAZZY」というのを辞書で引くと、ジャズを思わせるさま、だとか、
 ジャズ風の、活発な、華やかな・・なんて意味がいろいろと出てきます。

 ジャズというのは、皆さんもご存じのとおり、19世紀末から20世紀の頭にかけて、アメリカ南部で「黒人の民俗音楽」と「白人の西欧音楽」が融合して出来た音楽のひとつの形式、つうワケですが、早い話が、オフビートの独自のリズムで行われる、即興演奏が特徴のミュージック、それがジャズである、というワケですね。

 ところが「ジャズ」とひと口に言っても、その種類や範疇はとてもとても多くて、近ごろじゃ、何でもかんでもジャズと呼んだりするんで、ホントに混乱します。

 ついこのあいだなんかも、

 「春日さん、JAZZがお好きなんですってね ♡」
 「は?、ええ、まあね・・コテコテのヤツより、割と軽めのが好きだけど」
 「でも、おウチにジムなんかも備えてるなんて、スゴ〜くマニアックぅ♪」
 「いや、ウチは小さなマンションなんで、ジム用具なんか置いてないっスよ」
 「やぁーね、そのジムじゃなくって、JBLのこと、スピーカーの」
 「それを言うなら ”ジムラン(James B. Lansing)” じゃないの?」
 「ん?・・そういえば、そんな名前だったかも〜、あはは」
 「でも、よくそんな古い言葉を知ってるね(キョービ僕らも使わンで、ホンマ)」
 「ジツは私、最近、JAZZにどどぉおーんとハマってしまって ♡」
 「はは、どどーんとねぇ・・ ε-(´∀`; ) で、因みにどんなの聴いてるの?」
 「主に、ケニーGとか、ZAZ(ザーズ)なんかですけど」
 「へ?・・・へにーちぃー?」

 な〜んて会話があったりしましたです、はい。。⊂( ̄(エ) ̄;;)⊃

 ま、ケニーGも、ZAZも、確かにジャズ系の曲を演るし、サックスは見事だし、ザーズのフランス語が分からなくても、ココチ良いので、ボクもたまにゃあ聴くけどさ。。
 でもね、まるでカラオケみたいに、パソコンで他の楽器演奏を打ち込んだものをバックに録音して、堂々とレコードとして売ってるケニーGなんかは、ジャズだけに限らず、音楽そのものを愛する人間としては、やっぱり、ウゥ〜む、何だかなぁっっっ。。と思ってしまいますですね。やはりユダヤ系は商魂タクマスいと言うか。
 たとえアルバムの累計売上げ枚数が世界一多いジャズアーティストとしてギネスブックに載ろうと、本部のカワヤマさんなんかバック無しで「兄弟船」を唄うってんだから、ケニー爺(62歳)より根性あるよね。

 だから最近は、いったい、どっからどこまでがジャズなのか。
 何をもってジャズと名乗れるのか、あるいはジャズと呼べるのか。
 ジャズの音楽が好きで、たとえレコードを山ほど持っている人でも、ジャズレコードのプロデューサーでも、それをビシッと定義できなくなりつつあります。

 その定義の難しさというのは、ジャズが元々表現形式が自由なものであることに加えて、各時代ごとの歴史がずいぶん影響しているわけですが、ココでそれをボクが書くとエラ〜く長い話になりそうなので、興味のある方はご自分でお調べください。


 ────ただし、もちろんジャズの「定義」は、あります。

 ごく簡単に言ってしまえば、早い話が、「ブルース&スウィング」であるかどうか、
 というのが、それを決めるガイドラインとなります。

 つまり、その楽曲が「ブルース」という12小節の独自の節回しで造られた旋律で、
「ブルーノート・スケール」と呼ばれる、メジャー・スケール(長音階)に、E(ミ)、
G(ソ)、B(シ)の音を半音下げた(♭にした)音を加えて演奏するもの。
 あるいはまた、マイナー・ペンタトニック・スケールと呼ばれる、五音階で出来たものを用いて即興で演奏される特徴的な音階を持つもの。

 ペンタトニックなんて聞いたら何だかエラく難しいものに感じてしまいますが、そんなに特別なモンじゃなくて、たとえばFメジャーのスケールなんかは、誰もがよく知る「赤とんぼ」や「海」「ふるさと」など、童謡のメロディにも多く使われているものです。

 これらが「ジャズ」という音楽の心臓部、クルマで言えばエンジンに当たるものです。
 そしてそれを、まるでアルファロメオみたいに官能的な走りにしてくれるのが、
「スウィング」という味付けです。それはクルマで言えばシャシーの造りや、ステアリングの切れ、アクセルのレスポンス、と言ったところでしょうか。
(またまたクルマの話ですンません。新しいジュリア、欲スいなぁ・・^^;)


 しかし、そんなことは(カスガのアホな呟きを含めて)、ホンモノのジャズにとってはどうでも良いことなのです。

 つまり、ジャズにとって本当に大切なコトは、その「スピリット」にあるぅ〜っっっ!!

 泣く子も黙るジャズの帝王、モダンジャズのドンとまで呼ばれた、かのマイルス・デイヴィスは、『オレの音楽をジャズと呼ぶんじゃねぇ!』と、言い切りました。
 嗚呼、さっすがだねぇ〜!、そう言えるのは、やっぱり天才。彼はすごいっスね。

 『もしウチの纏絲勁が◯家と違うって言うんなら、別に◯氏太極拳って名乗らなくってもイイのさ。そんなチンケなコトはどうでもいい。けどな、この世に纏絲勁ってのはコレしかないんだ』・・って断言し、実際に弟子をキリモミで飛ばしちまうどこかの館長と、どこか似てるかもです (^_^;)

 確かに、マイルスの音楽は伝統的なジャズには留まらず、ブルース、ロック、ヒップホップなんかも取り入れた、独自の世界を醸し出していますね。まあ、天才と言われるような人が皆んなそうであるように、彼の優れた音楽性はジャズという、音楽というハンチューには到底収まりきらないものなのでしょう。

 そして、逆説的ですが、オレの音楽をジャズと呼ぶなという、このマイルス・デイヴィスの言葉こそが、これぞジャズの魂・スピリットだと言えます。

 つまり、端的に言えば「アウト」であるということ─────
 ジャズはアウトなのだ、と言うと、多くの方が首をかしげるかもしれませんね。
 いやいや、「アウト、セーフ、ヨヨイノ、ヨイッ♪」って野球拳のコトぢゃなくつて、  
(え、そんな拳法があるのかって? ヤだねぇ。アンタ、平成の怪人東京バリーちゃん?)

 アウトってのは、アウト・ローとか、アウト・オブ・アフリカの「アウト」です。
 文字どおり「外れてる、それ以外、出る、離れる、終わる、ダメ、失敗」ってコト。
 だから Out-low は法に外れた無法者。因みに Out of Africa はメリル・ストリープと、ロバート・レッドフォード主演の映画で、邦題は「愛と哀しみの果て」です。

 映画の話が出たので、またまたジャズとは何の関係もないハナシですが (^◇^;) 、
 どうしてニッポンじゃ、わざわざ洋画に変な日本語のタイトルを付けるンだろね?
 80年代は「愛と哀しみの果て」だけじゃなくて、なぜか「愛と〇〇のナンタラ」といった邦題の映画が流行りましたが(愛の水中花ってのもこの頃だったっけ?)、「愛と青春の旅立ち」は An Officer and a Gentleman、「愛と追憶の日々」は Terms of Endearment、まったく元のタイトルと違ってますよね。
 因みに、Out of Africa は、正しくは「アフリカを後にして」といった意味で、原作であるカレン・ブリクセンの小説でも邦題は「アフリカの日々」です。
 この小説は作者のアフリカでの経験を元にしたものですが、この人は2009年まで、デンマークの50クローネ紙幣の肖像にもなっていました。(デンマークの夏目漱石?)

 「Die Hard」が上映された時は、そのままダイハードと訳されてて、なんだかホッとしました。しぶとい(奴)とか、中々死なねェ、という意味ですが、もし「厳しく死んでネ」とか、「ヒッジョーニ・キビシ〜」なんてタイトルになってたら、日本人としてはもう、絶対に楽には死ねませんですね。(そんな題になるワケないやろ)
 ちょっとボク好みの「ラスト・ターゲット」や「裏切りのサーカス」なんかも、原題とまったく違うのでビックリしますが。「ダヴィンチ・コード」や「コロンビアーナ」には変な邦題が付かなくて良かったなぁ、とつくづく思います。
 いやぁ、映画って、ホントに素晴らしいモンですねぇ!


 さて、底抜け脱線の無駄話にサヨナラ・サヨナラして、ジャズの本題に戻りましょう。

 オヤジ世代の方々にはお馴染み深い「ユーミン」こと、シンガーソングライターの女王、松任谷由実サンは、あの特徴ある、随筆のような曲のコード進行で聴く人を魅了しますが、ボサノヴァやジャズ、或いはシカゴやTOTO、ボビー・コールドウェルなどに代表される「AOR」などの洋楽を知っている人や実際に演っている人にとっては決して珍しいものではありません。

 ユーミンの曲は、転調を自然に起こさせるために、ジャズでは殆どの曲に頻繁に出現する「供V(ツー・ファイブ。ニブイとかヴィジター2じゃなくて)」のコード進行を曲の間に巧みに、リズミカルに挟んで作っているので、聴いてると次のキーが勝手に想像される、というか、アタマ(意識)の中に無意識的に用意されて行くので、聴いてる人にとってはまるで自分のコトのようにどんどん気持ちが良くなって行くわけですね。ハイ。
 うーむむ、ユーミンはまるで荒地の魔女・・いや、ハウルの動く城のようですね。

 だから中央高速なんかもう、「♪ 中央フリーウェイ〜」って歌わないと絶対走れない!
 どんどんシフトアップして行きながら(マニュアル全盛期だったよね。かつてはこの道もそんなに混んでませんでしたし)、♫ 中央フリーウェイ(って言ってもカネ取るけどネ)、右に見える競馬場ぉ〜、左はビール工場ぉ〜(今思えば観光案内?)、このミチは、まるで滑走路、夜空につづくぅ〜♪・・って、唄うんですよね、きっとボクと同じ想いの人も、まだたくさん居るンだろうなぁ・・
(え、オジさんの話ぁちーとも見えねーなぁって? キミぃ、即破門だね)

 でも、フツーのバカボンボン♪、じゃない、平々凡々な人間には、まずあんな具合には曲が作れませんですな。ユーミンの曲はメロディラインから「供V」に変わって、さらに飛んでもないコードに、平気でぶっ飛んで戻ったり出来るんだから、ホントにすごい。
 近ごろちょっと流行った「ひこうき雲」なんかも、コードがいきなり有り得ないところへぶっ飛ぶしね。文字どおり、空を駆けてゆく〜♩ような、すごいブッ飛び方をします。
 やっぱりユーミンってのも、ある意味天才なんだろなぁ。

 というコトで、よーするに武術にとって最も大切なコトが「戦えること」や「闘うためのスピリット」だと言えるように、ジャズにとっては「アウト」と「ブルース」が最も大切な生命(いのち)である、ということなんですね。
 キミぃ、男だっだらね、売られた喧嘩ワ買わナぐちゃダメだヨ、つぅことですね、ハイ。

 しかし、何というテキトーなまとめ方だろう・・ε- (^(エ)^; ふぅ


 はい、それではようやく今回のアルバムの登場です。
 マイルス・デイビスが登場したので、私のお気に入りのアルバムをふたつ。

 まずは、この「デコイ」 。
 目がデカイですが、タイトルは DECOY、です。^^;)


          Decoy_Miles_Davis


 このアルバムは、聴かないうちからジャケ買い。つまり、何よりも、ジャケットの表紙が気に入って買ってしまいました。マイルスはイイ表紙のアルバムが多いスねぇ。

 それに、天才ってのは、やっぱり共通した ”眼つき” をしてますナ。
 岡本太郎、三島由紀夫、土方歳三、棟方志功、ピカソ、ゲーテ、ニコラテスラ、そしてシェークスピアにダヴィンチ・・因みに天才で名高いアインシュタインさんは、目よりも出した舌の方が有名なので、ここにゃあイレません。 ♪(´ε` )


 で、ワインの方は、ってえと・・うーむ、これこそ難しいなぁ。。
 マイルスのアルバムを録音するプレステイジ・レーベルのプロデューサーの名前は、
ボブ・ワインストックなんていう名前だったけど、いくら発音が似てるからって、スペルも違うしなぁ。。(ウチのワインストックも整理せにゃぁね)

 そうそう、面白い話がありました。
 このワインストックさんがプロデュースしたアルバムを録音したある日のこと。
 正確には1954年12月24日、メンバーはマイルス・デイビス以下、ミルト・ジャクソン、パーシー・ヒース、ケニー・クラーク、セロニアス・モンクという豪華な顔ぶれで、誰もがどんな素晴らしいアルバムが出来上がることかと、期待を膨らませていたのです。 
 ところが、マイルスがスタジオに入るや否や、セロニアス・モンクに向かって突然こう言い放ったのです。

 『おい、オレがソロを演ってる間は、バックでピアノを弾くなよ』

 これはもう、お前のピアノは邪魔だと言わんばかり、いや実際にそう言っているわけで、大先輩のモンクに対してモンクをつけるなんてのは失礼にもほどが有る。そのうえモンクはマイルスに負けず劣らずの奇人変人、スタジオ内には今にも殴り合いのケンカが始まるのではないかと大きな緊張が走った・・と言います。
 しかしモンクは黙ってマイルスに従い、マイルスのソロではピアノを弾かず、曲によっては普通のピアノソロさえ弾かずにいました。

 これはジャズの世界では「クリスマス・ケンカ・セッション」として知られていますが、マイルスは自叙伝の中でその時のことをこう言っています。

『モンクのピアノはオレのトランペットのバックには合わないと思ったから、休んでいてくれと言っただけさ。モンクもその意図を分かってくれていた。だいたい、あんなデカくて強そうな奴に、オレみたいなチビがケンカを売るわきゃぁないだろ?・・』

 まあ、人の噂話と言うのは尾ヒレ葉ヒレが着くものですが、だんだんオーバーな噂になって行ったというコトかも知れません。

 さて、その時の、問題の録音がコレ。


「BAGS GROOVE / MILES DAVIS PRESTIGE 7109」

   _SY355_


 ま、機会があったらぜひ聴いてみてください。


 ほい、ワインを忘れるところだった。

 マイルスの生誕地はイリノイ州オールトンでしたが、その生涯を閉じたのはカリフォルニア州サンタモニカでした。享年65歳。
 ビバリーヒルズからクルマで10分も走ると、サンタモニカの風を感じる海に出ます。
 彼がなぜそこを終の住処として選んだかは分からないけれど、きっと大好きなフェラーリで風を楽しみながら海岸をぶっ飛ばしていた事でしょう。


 そこで、今回はこのワイン。


 【L’ERMITAGE BRUT 2011 / Roederer Estate】

  エルミタージュ・ブリュット、ロデレール・エステート、です。



           Pasted Graphic 2



 フランスで「シャンパーニュ / メゾンN0.1」に輝いたルイ・ロデレールがカリフォルニアで手がけるスパークリングワイン専門のワイナリーが、この「ロデレール・エステート」。
真夏でも平均気温が23℃という気候で産み出される、本家のシャンパンに勝るとも劣らないとても上質なスパークリングは、マイルス・デイビスもきっと気に入ったはず。

 あのアメリカで、今じゃこんなアワが飲めるのかぁっ!!
 ・・と、泡を食ってしまうような素晴らしいワインです。

 ジャズの似合う夜に、ぜひ一度お試しあれ。

                               ( Cheers!)




 *L'ERMITAGE BRUT(エルミタージュ・ブリュット) 2011*

2004年のヴィンテージが、アメリカのワイン評価誌「Wine Enthusiast」で世界中のすべてのワインで年間第1位に輝いた逸品。Enthusiast 誌は『非常に精巧なスパークリングワイン。フレッシュ感と見事な酸味が口一杯に広がるとっておきのワインだ』と評した。
  <参考価格/2011年 750ml 6,500円(税抜)>

2018年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その36

  「整えるということ・暗号・真似をする」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


【整える】

 太極拳では正しく立つことが重要視され、身体のみならず、精神の軸もきちんと律していかないと習得は難しい、と言われています。
自分も、半ば盲目的に「整えなければ・・・」と思い稽古に取り組んでいたのですが、あるときふと、整えるとはどういうことだろう? と疑問に思ったのです。

 整える、ということは情報の観点でいえば物事の秩序の度合い、と解釈できますが、ではその度合いとはいったいどこから生じるのでしょうか?

 部屋の中で散り散りになった本を本棚に片付けるとき、そこには一定のルールが必要になります。本のサイズで分ける、著者で分ける、内容の関連性で分ける・・・それぞれの好みもあるかと思います。ただランダムに棚に収めるだけでは、それはしまっただけであり、整えたことにはならないといえます。

 では、人間の体も同じように整えることができるかというと、そうはできません。
そもそも人間の体はひとつにつながっていて、バラバラにならず、順番はすべて決まっています。
そうしてみると、人間とはすでに整ったものだと言えます。

 すでに整っているはずのものを、バラバラだと感じて、では整えようと好き勝手な基準を考える。それが、じつは人間の傲慢な考え方なのではないだろうか、とふと感じたのです。
 それでは、太極拳で言われているような「整える」とはどういうことか、自分の中で、最初から考える必要性が出てきました。


【暗 号】

 「太極拳とはコード、すなわち暗号を解くことだ」と、師父は常々言われています。
 色々指導されている中で、あるときふと、何かが分かることがあります。暗号の正解のひとつにたどり着いたということでしょうか。
 ですが、そのひとつがわかったからといって、暗号のすべてが理解できたわけではありません。せいぜい、知らない言語体系の中の単語ひとつの意味がわかった、くらいの解釈でしょうか。その言語が習得できたとはとうてい言えません。
 暗号のひとつを解くことによって、ひとつのヒントは理解できたかもしれませんが、暗号の普遍性を解いて、完全に理解したわけではないのです。

 ここで太極拳から離れて、いわゆる一般的な暗号を解くことを考えてみます。

 暗号とは、ある特定の変換法則によって、文章を別の状態に変えて、解読表を持たない人間には理解できないようにするものです。
 なにもヒントのない状態から暗号を解くには、その中に繰り返し現れる部分に着目し、それがなにを意味しているかを特定することから始められることが多いです。
 知らない言語を理解する、たとえば古代エジプトのヒエログリフを解読する場合でも、繰り返し現れる文字列がなにを意味するかわかったことが、解読のきっかけになりました。

 知らない街で知らない言葉を使う人々を観察していて、人々が知り合いだと思われる人と会うごとに「ンダバ!」と言っていたら、それはあいさつなんだろうなと推察する、というようなものです。「ンダバ」は適当に考えた言葉ですが。

 太極拳の暗号を解読する場合にも、それと同じ手法でアプローチできるかと思います。
 基本功や套路の中に繰り返し現れる要素を見極め、それが指導されていることとどう共通しているか、それを見極めるのです。

 そうすると、まるで関連がなかったかと思われるような動きの中に、共通の何かが、次第にみえてきます。そうしたら、それをヒントに考えていくことが可能なはずです。


【真似すること】

 さて、その上で、真似をすることの大切さについても考えてみたいと思います。
 真似をすることは、もちろん学習する上での心構えとしても大事なのですが、そことは少し観点を変えて、戦略として、数字の上でどれだけ有利かということを考えてみようと思います。

 暗号を解く上で、現れている繰り返しに着目せず、総当たり的に文字を当てはめて、意味がつながる文章が出てくるまでやる、というやり方ももちろん可能です。

 パスワードを解くとき、たとえばそれが四桁の数字でできる暗証番号だとしたら、
0000〜9999までの10,000個の数字の組み合わせの中に必ず正解があります。頑張ればなんとかなるかもしれません。
 では、それが7桁の数字だとしたらどうでしょう。
0000000〜9999999までの10,000,000個の数字の中に正解が含まれています。気が遠くなる数字です。
 そこにアルファベットまで含むとしたら、もうどうしようもないですね。
 だから普通、他人のパスワードを盗みたいクラッカーは、多くの人が使いやすいパスワードのパターンを使って攻めることをします。1234567など、わかりやすいパスワードは危険と言われる所以です。

 真似をすることの大切さとは、ひとつにはそれだけ、試行回数を減らすことができるからです。
 ランダムな数字をあてもなく入力していくのではなく、たとえばある特定の数字(誕生日など)が含まれている、とヒントがあれば、それだけ解けるまでにかかる回数は減ります。

 師父に模範を示していただくことは、極端にいえば、隣でパスワードを入力している様子を見ていることに近いのかもしれません。
 それはもう、ほとんど正解を示されているといっても過言ではないかもしれません。

 そこまで極端でなくとも、暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文を、目の前で指し示していただいて、ここにも、ほら、ここにも・・・と教授されているようなものでしょうか。

 真似できない状態というのは、それらのヒントを一切顧みず、自力で総当たりによって暗号を解読することだとすれば、真似したときとしないときで、一体どれほどの労力の違いがあるか、一目瞭然だと思います。


【ふたたび整える、そして暗号】

 いくつかのことをざっと見てきましたが、最初の疑問に戻って、整えるということについて考えてみたいと思います。

 冒頭で、人間とはすでに整っているのでは、と書きました。そして暗号の話に続いたわけですが、ここでふと疑問がよぎります。
 自分はそれまで、太極拳が暗号だと思っていたところがあったのですが、もしかしたらそれは少し違うのではないだろうか、ということです。

 暗号は解読表があれば、読み解けるものです。
 自分が一番わからなければいけないのは自分自身、広く言えば、対峙する相手や周りの環境まで含めた、人間のことなのではないでしょうか。
 だとすれば、暗号というのは太極拳のことではなくて、広く人間全般のことを指し示していて、太極拳とは、暗号=人間を理解するための、解読表という意味があるのではないか、と思ったのです。
 しかし物事は単純ではなく、太極拳という解読表もまた暗号によって記されているとすれば、二重三重に理解しなければならないことがあるというのも、腑に落ちるものです。

 整えるということは、すでにそこにある暗号で記された自分から、どれだけ意味のある言葉を正しく解読できるかといえて、それは本棚を整理するときのように、好き勝手な基準で言葉を並び替えるのとは意味が違うといえるはずです。

 そして、暗号を解読するために繰り返し現れる言葉に着目するというやり方を、暗号という二元的な世界から離れて、時間や動きまで含めた動的な現象で表現すると、真似をすることと言えるのではないかと思います。
 イメージが平面から動的な立体になるので表現が難しいですが、まず真似をしないことには、そもそも疑問となっている解読したい暗号が立ち現れてこないと言えるのかもしれません。

 真似をすることは、もっと根源的なものであり、本質に迫るための手段とさえいえるのではないでしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その37」の掲載は、7月22日(日)の予定です


2018年03月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その35

   「 思い悩むことなく」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 なにかに行き詰まったとき、まったく関係ないと思っていたきっかけによって、ぱっと視界が晴れ渡り、遠くが見えるようになることがあります。何かがひらめく分からなかったことが理解に結びつく、誰しも経験があると思います。
 その変化は、劇的な一瞬で起こることもありますが、時間をかけてじわじわと起きている変化、その一見わかりづらい変化こそが、実は本当は重要なものだという気がします。

 毎日、太極拳の稽古をしていると、自分が理解できていないことがたくさんあることに気付かされます。その度に、なぜ自分には理解出来ていないのだろう、と思い悩まされることもしばしばです。
 やっぱり、生活が便利になった「現代人」にはわかりづらいことなのだろうか、だとすれば何を見直さなければいけないのだろうか・・・。

 そう考えていたとき、武術とは関係のない本を読んでいていくつかの記述に行き当たったのです。それは、「まったく、最近の若者は・・・」と、ブツブツと文句を言っているおじさんの姿の描写でした。
 現代のおじさんではありません。古代ギリシャ時代のおじさんの話です。

 文献が残っている、古くはギリシャの時代から、中世ヨーロッパや江戸時代の日本、はたまた現代のSNSの中にまで、最近の若い奴に文句を垂れるおじさんは存在していたのです!
 つまりどの時代の、どの時間を切り取っても、その現在時から見れば常に世界は「もっとも変化に富んだ時代」に見えて、その時々に「特別な激動の時代」であり、そして振り返れば、過去に失ってしまった大切な何かがあった、というふうに見えるのです。

 時代と人は、常に変化し続けている、考えてみれば当たり前のことなのです。
 人々の意識や考えは当然、時代によって変わりますし、生活様式の変化も起こります。だけど、変わっていないこともまた同時に、数多くあるのです。

 つまり、何が言いたいかというと、武術に関しても、もし理解できないものがあったとしても、それは決して現代という時代のせいではなくて、どこまでも徹底的に、自分自身の責任だといえるのではないか、ということです。
 というのも、もしいつかはわかりませんが、「昔」の時代性が武術の真伝を理解する助けになっているのだとしたら、もっと達人がたくさんいてもいいはずです。
 道を歩けば達人に当たる、という世の中だとしたら、相対的に武術はより高度に奥深いものになり、そもそも基礎的な武術の嗜みは当たり前のものとして、生活の中に根付いていてもおかしくありません。

 それに似た時代が、昔の武家社会だった日本にはあったのかもしれません。
 しかし彼ら、武術を嗜んだ武家の人たちにしても、特権的な身分階級の中で、幼少期からの鍛錬で身につけた技芸であって、その時代性ゆえに容易に身についたものだとは決して言えないはずです。
 中には、「武芸で身を立てようとするも技を修めるに至らず・・・」というように志半ばで道を外れた人も、当然いたわけです。その人は、当時としては珍しい人だった、ということでしょうか?

 古今東西、達人のエピソードは枚挙に暇がないですが、流派や技法はともかくとして、彼らに共通して言えることがあります。
 それは、彼らは「とてつもなくたくさん稽古していた」という、身も蓋もない事実です。
 武術の真伝を知るには、まず稽古をしなければ話になりません。
 もし仮に、現代性を理由に武術が理解できないと言いたいのだったら、その原因は多分、しっかりとした稽古をする時間が不足しているからだと思われます。

 生活のためにどうしても時間を取られる、というのはもっともな理由ですが、歴史に名を残すような達人は、そもそも生活そのものをまるごと武術の稽古に充てられるような生活スタイルを選んで送っているような人たちです。
 現代の戦士であるプロの職業軍人、特殊部隊の人たちも、戦闘技術のトレーニングを絶えず行えるような生活を送っており、その逆の状態・・・生活ありきでトレーニングする時間がない、という状態とは、そもそも根本の発想からして違っています。

 生活があるからそこまではできない、と思ってしまうようだったら、そもそも本当にそこまでできないということなのかもしれません。どれだけしっかりとした稽古の時間を取れるか、それは本当に自己責任であり、逆に言えば、きちんと努力をすれば、もっと武術を理解することができるということだと思うのです。

 個人的には、稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。

 うまくいかない → 練習に熱が入らない、だんだん嫌になってくる → 余計にうまくいかない →・・・というフィードバックループができてしまい、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうものです。
 逆にうまくいっている(と思っている)時には、手応えを感じる → 練習に熱が入る → また手応えを感じる →・・・というフィードバックが起きているのだと思います。

 僕自身、かなり気分で浮き沈みがあるほうなので、「これはいけない」と、改めて自分のことを見直してみました。
 そうすると、面白いことがわかりました。
 うまくいっていると思っている時と、全然ダメだと沈んでいる時、やっていることの結果(わかりやすい例として言えば、対練での成否でしょうか)そのものは、別に大差ないのです。言ってみれば両方とも同じくらい成功も失敗もしているのに、ある時はうまくいっていることに目が向き、正のフィードバックが働き、ある時はうまくいかなかった方に目がいって、よりできなく、動けなくなってしまっているだけだったのです。

 自分がどんな状態でも、同じようにわかっていて同じようにわかっていなかったのです。
 しかし、最初のささいな違いの積み重ねで、フィードバックの仕方が変わってしまうのだとしたら、果たして、どのようにしていったらいいのでしょうか。

 僕はある時から、難しくてわからないと感じても、できるだけ思い悩まないように心がけるようにしてきました。
 うまくいっていてもいかなくても、考えることは考えるけど、結果については思い悩まない。これもまた、自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。
 うまくいってないときは、何がいけないのかわかるまではとにかくやるしかありません。
 どちらの場合も、人からは妙に自信満々に見えるようで、何かわかったのか聞かれると、
 「わかりません!」と自信満々に答えるのでずっこけられます。
 まぁ、それはそれ、です。

 ただひとつ、自信を持って言えるのは、自分ごときでは武術をわかったとか理解できたとかいえるようなところまで、稽古が全く足りていない!ということです。

 たしかに、一見平和な現代の日本では、武術を修得することはむずかしいのかもしれませんが、それは実際のところ、どれだけそれに自分を没頭させられるかの度合いの問題ではないでしょうか。身近に、隣に戦いがある、ない、といったことは、本当はただの理由づけにすぎないのだと思います。
 戦争をしている中でも、勇敢に「戦わない」人間というのも、いるものです。だとすればやはり、太極拳が理解できるかどうかは、周りのせいになどできず、ひとえに自分にかかっているのだと思います。
 しかしこれは、本当にそれを知りたい人間にとっては、福音なのではないでしょうか。
 自分の努力次第で得られる可能性があるのですから。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その36」の掲載は、5月22日(月)の予定です


2018年02月13日

練拳Diary #81「常識を越えて」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私はこれまでに、稽古で示される「散手」などの非接触系の対練に対して、頭を悩ませてきました。
 課題は、相手との間合いの取り方や、こちらの滞りない攻撃などに始まり山ほどありますが、何より師父と同じように動けずに、足が居着く、身体を回してしまうなど、太極拳の要訣が守れない自分の身体の状態が課題になっていました。

 師父の動きの特徴は、第一に「どこに向かって、どのように動いているかが分からない」ことだと言えます。途切れることなく動き続けていて、尚かつ相手に向かって前進し続けるだけの動きではなく、稽古によっては相手は攻撃を繰り出させては貰えるものの、あらゆる攻撃は空しく中を切り、その瞬間には師父の攻撃が相手に確実にヒットしています。
 ちなみに、師父との散手の稽古では「痛めつけられる恐怖」というものが存在しません。
 これは、他門から入門してきた人が最も不思議に思える事のひとつのようですが、対練や散手の稽古中には、師父から顔面、首、後頭部、胸、腹、足など、ありとあらゆる部位に攻撃を受けても、軽く打たれるだけなので、痣(あざ)などが残ることはまずありません。防具を着けての散手なら、よほど下手な受身でもしない限り、怪我をする事はまず有り得ないと思います。
 ただし、その代わりに、「これが実戦だったら確実に殺されているという恐怖」が常にあります。相手を痛めつける為の稽古ではないので、攻撃の威力は小さくとも、攻撃に至るまでの遣り取りで、師父の攻撃成功率は100%、それに対してこちらは0%であることがはっきりと認識させられるのです。まさに「手も足も出ない」とはよく言ったもので、決して速い動きではないと思えるのに、此方は為す術もなく容易に追い詰められていきます。
 それはあたかも、四方を敵に囲まれている状況で足場がどんどん崩れていき、やっとの事で立って居るかのような状態だと言えます。だからこそ、稽古では敢えて強大な打撃力を相手に与える必要がないのでしょう。

 自分が何ひとつ動けない中で感じる恐怖の大きさは、単なる ”打撃力” に対する恐怖などとは全く比較にはならず、正直なところ生きた心地がしません。大袈裟ではなく、手足をもがれて地面に転がされているところに迫って来ているような状況に思えるのです。
 一体何がそう感じさせるのか─────それを認識し修得できない限りは自分なりに戦い方をどう工夫しても所詮は ”ドングリの背比べ” であり、いつまで経っても太極拳の戦い方にならないことは明白です。
 道場で師父の動きを見て真似をし、家で師父の動きを動画で観ては検証することを繰り返し、また稽古に反映させていきますが、なかなか師父のような、こちらが主導権を取れている散手にならない日々が長く続きました。

 ある時、師父にひとつのヒントを頂きました。そのヒントとは、今までに聞いたことも無いような新しい内容ではなく、今まで教わってきたことの「表し方」が異なるだけでした。
 けれども、それは言い換えれば自分がどれほど表現しようとしても出来なかった内容で、そのヒントを頂いたときの衝撃は、まさに頭を銃弾で撃ち抜かれたかのようであり、しばらくの間は立ち直れなかったほどです。しかも、衝撃はその時だけでは収まりませんでした。

 画面に穴が空くほど繰り返し観ていた師父の散手動画ですが、あらためて観てみると、頂いたヒントのお陰で今までよりも動きが明確に見えるようになりました。
 そして私は、『なるほど、相手が打ってきても当たらないのは、こういうワケだったのか』と独り納得をし、重要なことが見えたつもりになって、見えたものをそのまま再現しようと稽古で散手を行ったのです。
 しかし、思うようには行きませんでした。今までの散手と比べて確かに手応えは違うものの、まだ相手が自由に動ける時があり、それは大抵は自分の身体に無理が掛かっている動きのときだったのです。
 自宅に戻り、もう一度同じ映像を観たとき、それまで見えていなかった ”違い” が今度ははっきりと分かりました─────身体が動けていなかったのです。師父の動きを真似ているつもりが、実際には何もかもが足りない・・それどころか、身体の質そのものが違うようにさえ思えました。
 動き自体は決して難しいものではないのです。太極拳を学んだことがあれば誰でも知っていると思われる、ごく一般的な見慣れた歩法です。けれども、動けない。
 ショックを受け、半ば呆然と動画を観ていた私は、思わず呟きました。

 『──────────鬼だ!』

 師父の動きが、実は並大抵の練習によって得られたものではないことが、私はこのとき初めて解ったのです。この動きは歩法を「鬼のように」練習しなければ得られないのだと。
 それまで、いとも簡単にヒョイヒョイ歩いて見えていた動きが、反対に、もの凄い内容を含んでいる途轍もない動きに一変しました。師父の動きと比べると、自分の歩法など文字通りの付け焼き刃に思えてしまいます。
 なぜ、今までそのことが見えなかったのかと問いかければ、稽古中に師父が常々仰っていた言葉が聞こえてくる気がします。

 『いつも常識的な頭で見て、常識的な頭で考えて、動こうとする。だから君たちは、いつまで経っても太極拳が理解できないんだよ。もっとアタマに染み付いた常識を捨てなさい』

 私たちの稽古では、相手との接触・非接触に関わらず、相手を抵抗なく倒せても、或いは大きく吹っ飛ばせても、それが「太極の理」に適っていなければ無意味だと指導されますし、それは散手の攻防でも同じで、こちらの攻撃がいくら有効でも、原理が異なれば『そんなものは太極拳ではない』と一笑に付されます。
 それは、稽古の目的が「相手を倒せること」というような単純なものではないからであり、たったひとつの対練でも、そこに太極拳の全てが表現されているからであると言えます。
 人は、すぐに成果を欲しがりますし、目の前にいる相手を倒さなければ武術ではない、と考えがちです。けれども、そんな薄っぺらな意識の持ち方ではこの太極拳は到底理解できないものであり、もっと観て、感じて、理解しようとして、自分自身を高度に「鬼」として変容させない限りは、その片鱗にさえ触れることが叶わないのだと、今回つくづく思い知りました。

 これまでに、師父の動きを見て「すごい」と思ったことは数えきれないほどありますが、それを「超常的である」と思えたのは今回が初めてのことです。そして、この「鬼神」とさえ思える動きこそが、師父が伝承されてきたことなのだと、つくづく感じ入りました。
 また、何かを伝承することとは、決して特別な秘伝書を渡されることなどではなく、「それそのものになること」なのだと、このとき身を以て実感したのです。
 太極拳の奥義を識ることではなく、太極拳そのものになる─────つまり、鬼神ほどに稽古をして、この身に鬼を宿すことこそが伝承と呼べるのだと思いました。
 もしかしたら、それは「鬼」と言うよりも「龍」と表現した方が、適当なのかも知れません。
 そして、目の前の龍をどれほど真似しても決して龍にはなれず、それはただの龍の物真似に過ぎないのです。そのことを私たちは明確に認識する必要があるのだと思います。

 さて、今回頂いたヒントによって自分の稽古が一変したことは言うまでもありませんが、それと同時に見えてきたことは、師父の超常的な身体の使い方や稽古の次元の違い、そして伝承の意味だけに留まらず、音楽を聴いたり絵画を観照すること、そしてささやかな料理を作ってみたりする、それら芸術に関わる世界の見え方までもが、これ迄とはすべて変わってきました。
 今までは、世界を前にして自分で理解しやすいように「枠組み」を作り、その枠の中の世界を一生懸命見ようとしていたのだと思います。もちろん、まだ自分で気付いていない枠組みが有るかも知れませんが、そのような心積もりで今後も観て行きたいと思います。

 今回私が気がついたような、太極拳を学ぶ上でとても大事だと思えることは、本当に貴重な、この上ない宝物ではありますが、それを得られたことに手放しで喜んではいられないという危機感が、同時に存在しています。
 それは、その宝物が、あたかも夜明け前の野に密やかに降りた、一滴の露のようなものに感じられるからです。
 日の出を間近にして空が白んでこなければ、野に降りた露を探すことはできません。けれども、日が昇ってしまえば辺り一面の朝露は消えてなくなります。野原一面に降りた露を集めようとしているときに、たった一滴の露で喜んではいられません。それは、その日、その時限りでしか、手に入らないものなのです。

                                  (了)




2018年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その34

   「 小能く大を制す」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 旧約聖書にも記されてる神話の時代、鎧で身を固めた巨人ゴリアテを倒したのは、ちっぽけな羊飼いの少年、ダビデでした。
 彼は、河原でひろった石を、向かってくるゴリアテの額に命中させ、彼を倒します。
 そして、ダビデは持っていなかったので、ゴリアテの剣を奪うと、ゴリアテの首を落としてしまいました。

 小能く大を制す、柔能く剛を制す。
 歴史は時に、とてもちっぽけな存在が、あまりに強大なものを打ち倒す姿を、我々に見せつけてくれます。
 盛者必衰、驕れる者は必ず天から罰せられるとでもいうのでしょうか。
 大きいものはたしかに優れた面を持っているかもしれません。ところが果たして、大きければ大きいほど良い、と言い切れるものでしょうか。

 先程もあげたとおり、歴史は我々が思うのとは違った姿を見せてくれます。大陸のほとんどを制するに至った大国が、いまでは影も形もなく姿を消してしまうということは、歴史上ざらにあります。かつて地球上を歩き回っていた恐竜たちも、今ではわずかな痕跡を残すのみとなってしまいました。

 一体、こういったことは何故に起きてしまうものなのでしょうか。とはいうものの、その理由は考えても仕方がないのかもしれません。原因はひとつではないでしょうし、それらの原因もおそらく複雑に絡み合っていて、単純に説明できるものではないはずだからです。

 憶えておかなければならないのは、長大で、強大になればなる程、外部から受ける影響は数を増し、また、それ自身の内側から来る影響も、大きさを増していくという事でしょう。
 大きなものが身を滅ぼす原因は、天から与えられたものではなく、たったひとつ、「それが大きかったから」なのかもしれません。

 ゴリアテは大きく、全身を鎧で固め、故に動きが鈍かった、などと解釈されています。
 本当のところはわかりません。とどめを刺すための剣すら持たないダビデに、自身の剣でやられたとすれば、それは皮肉以外の何者でもありません。
 ゴリアテは大きく、戦いに必要なものはすべて備えていた。ゆえに、彼は命を落としました。ダビデは何も持っていなかった。そして最後には勝利しました。

 これらの出来事や、歴史的事実などを思ったとき、僕の頭によぎったのは、やはり太極拳のことでした。
 力の弱く小さな者が、なぜ強くて大きな者を制することができるのか、でした。
 そこには、力を制する技術や戦闘法などを越えて、もっと根本的な原因、作用が潜んでいるのではないかと思ったのです。

 稽古をしていると、身体の使い方に関して、むしろ普通では使う必要のないところまで身体を、まるで「大きく」使うことが求められます。

 しかし、先人は、それらの使い方を「小架式」という言葉で残しています。
 もちろん、自分ではその片鱗に触れられるレベルにすら至っていないというのが実情ですが、しかし、それを「小さい」と表現したことに非常に興味をそそられます。

 まるで常識では考えられないことに取り組む場合、発想の転換がせまられます。
 小能く大を制すとは、小さいもの「でも」大きいものを制することが「できる」、というのではなくて、小さいもの「でしか」大きいものを制することが「できない」、と言えるのかもしれません。

 ささいな表現の違いに思えますが、これは実は論理的命題として、数学・科学的にも非常に大きな意味を持っている分野です。

 なぜかというと、こういった論理を、人間の頭はうまく扱うのが苦手だからです。

 たとえば、「四両撥千斤」という言葉があります。
 平たく言えば(先人の皆様、くだけた表現を使うことをお許し下さい)、力を使わなくても相手は吹っ飛ぶ、というところでしょうか。

 これを、「相手を吹っ飛ばすのに力を使ってはいけない」というのと、
「相手を吹っ飛ばすのに力を使う必要がない」というのでは、我々の受ける印象は大きく違ってしまうのです。

 特に、その言葉によって “目的地を探している場合には” 、です。

 少しわかりやすく例えてみます。
 まだ知らされていない目的地に行くために、「車を使ってはいけない」と聞いた場合と、「車を使う必要がない」と聞いた場合では、その目的地がどこにあるのかという印象が大きく変わるのではないでしょうか。

 幸いにも、本部道場は駅のすぐ近くにあり、目の前にはバスの停留場もあります。本数は少ないですが…。タクシーもすぐにつかまえられそうです。
 いやちょっと待てよ、バスもタクシーも「車」か?いやいや電車も大きいくくりでは車の一種だし、はたまた…。
 この際わかりやすく、条件は「自分で車を運転してはいけない」として考えよう。
 だとすれば公共の交通機関はOKとして、最近では自動車の相乗りサービスもあるし、レンタル自転車も探せばあるよなぁ。まてよ、飛行機で行くのが早いのか?

 「車を使ってはいけない」とした場合、このようなことがぱっと浮かんできたのではないでしょうか。
 “本来は” 車を使うべきところを、それを禁じられてしまったので、代替手段として、他の乗り物を探す、ということがです。

 では、「車は必要ない」といわれた場合は、どうでしょうか。
自然と、歩いてすぐ行ける近くとか、車がなくても行ける場所なんだな、と思いませんか?
あとはせいぜい、駅からすぐ近くの場所、などでしょうか。

 両方とも、条件は同じ、「車は使わない」と示しているだけなのにこれだけ違ったように感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

 もしも、伏せられていた目的地が、(道場にいたとして)本部道場の入ったビルの上の階だったとしたらどうでしょうか。
 上の階に行くには、階段を使ってすぐです。

 目的地を知っている人からすれば当り前なので「まぁ、車は使わないよね」となります。当り前なのですが、車を出すあたり少し罠の匂いがしますね。嘘は言ってないんですが。

 それはともかく、目的地を知らされていない人たちの間では、こうしている間に様々な解釈が生まれてきてしまいました。

 車は使わない! 目的地に行くためには車は使ってはいけないということなんだ!
 では他にどのような手段があるだろうか?と。ちょっとしたお祭り騒ぎです。

 ある人は時刻表を調べ始め、効率的な移動を模索します。今の時代、スマホは便利でなんでも調べられますね。またある人は、では車でなければいいんだな、などと言いはじめ、画期的な新しい乗り物を発明しだしたりするかもしれません。人が乗れるドローンとか大流行りですね。

 その中で、もっともシンプルに考え、あるいは言った人のニュアンスを読み取れた人だけが、「ああ、車はいらないんだな」などと呟き、言った人とちらっと視線を交わし(その人はなぜか人差し指を立て、天井を差して笑っていました)そっと部屋を出て行くわけです。

 果たして、どちらが知的な姿でしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その35」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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