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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
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2019年04月18日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その41

  「動くということ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近、研究会で行われているガンハンドリングの稽古をしているときに、「体が動いていない」という注意を受けます。

 師父の動きを拝見していると、銃を構えるとき、手だけの動きにならずに、わずかな動きに際しても全身が同調して動いているのが見て取れます。
 振り返って自分の動きを見てみるとどうでしょうか。

 鏡に自分の姿を写してみると、銃を持ち上げる腕は肩から先の動きが主であり、足腰は重く、地面に居ついているように見えます。
 師父がさながら、いつでも獲物に飛び掛かることのできる動物だとすると、こちらはドッシリと待ち構え、動きのとれない置物のようにさえ見えます。
 どうしてこのような違いが生まれてしまうのでしょうか。


 人間が野生の中で、狩猟採集民として生活していた時代、現代人に比べて人間の体はもっと活動的であり、動く量が多かったと言われています。
 考えてみれば当たり前のことですが、自分の足で動き回り、体を使って食料となる動植物を集めないことには、生活そのものが成り立ちません。
 現代人の生活を見てみると、たいして体を使わなくても生きていくことができるような社会が出来上がってしまっています。
 古くはギリシャ・ローマ時代の貴族たちの時でさえ、身の回りのことは全て奴隷が執り行い、自分は何もしなくても生活できるような社会になっていたらしく、それではいけない、健康によくないということで運動をするようになり、それがスポーツの起源となったという話があります。

 言葉でいうと体を使う、動くという表現になっても、武術的な体の動きは、生き残るための必要性から生じたものだと思います。
 それと比べ、スポーツはその成り立ちからしてすでに違うところから生じており、スポーツ的な発想では武術の体の使い方ができないというのも、頷けます。

 ガンハンドリングの稽古の最中に自分が受けた注意として、「体が動かない」という点と「的当て」になってしまっているというものがあります。
 スポーツとして銃を扱うのなら、的にどれだけ当たるかが争点となるので、極端な話、体など動かなくてもいいということになります。
 自分の頭に染み付いてしまっている考え方の根は深く、好き好んでやろうとしているわけではなくても、どうしても出てきてしまうものです。これは、しっかりと解決していかないといけない課題です。


 最近の科学的な研究によると、そもそも人間の体は、カウチソファでのんびり過ごすようには出来ておらず、体を動かしていないとその機能が低下し、健康を害するとのことです。
 比較としてよく出されるのは、チンパンジーやゴリラなどの類人猿ですが、彼らは一日の運動量が、人間とくらべかなり少ないことが明らかになっています。
 移動距離もせいぜい1日数キロで、移動した先で食料を食べ続けるのが主な生活です。
 面白いのは、ゴリラなどはぜんぜん体を使わない生活をしていても、心筋梗塞などの生活習慣病のリスクが上がらないのですが、人間が同じ生活をすると、とたんに病気になるリスクが上昇するという研究結果です。
 そもそもの構造からして、人間の体は、野生動物以上に動く必要性がある造りになっているということのようです。
 逆に言えば、人間は他の野生動物以上に、動き続けることのできる動物ということです。
 野生に生きる動物は、わりと止まっていることが多いのに対し、人間は一日中動き続けることのできる生き物です。それは、野生環境を生き抜く上では、かなり有利に働いたはずです。

 少し話が逸れましたが、我々現代人も、体の構造という点では、野生を生きていた先祖たちと同じ造りをしており、そもそもが体を動かし続けることに特化した生き物であるはずです。
 体が使われなくなった理由としては、やはり生活でその必要性がなくなったからという点が挙げられると思います。

 では、戦闘状態に置かれた場合、果たして動かずに生き延びるということが可能でしょうか。
 そんなことはありえない、と言えるはずです。
 日常生活にどっぷりと浸かった思考からでは、たったひとつ銃を持ち上げるという動作を取っても、体を使わずに行われてしまいます。
 これはどうにかしないといけません。

 常々、師父に指摘して頂いている通り、一般的な日常生活の中には、危機感が不足していると思います。何かが起きたとき、とっさに動けるかそうでないかは、まさに生死を分かつ問題であるはずなのに、なかなかそれが省みられることがありません。

 人間という生き物の体に対する不理解と、そこから作り上げられた社会生活にどっぷりと浸かった考え方。
 日常生活の中においてさえ、それらは最終的に健康を害することにつながり、人として良く生きることを妨げることになります。
 ましてや、戦闘という極限状態を考えるなら、それらは即座に命を危険に晒すことにつながるはずです。

 とにもかくにも、「動けるか」どうかということは、短期的に自らの命をリスクに晒すことであり、長期的に見ても、自らをリスクにさらすことにつながる問題だと思います。
 いつか、とか、いずれどうにかするではなく、今まさに解決しなければならない喫緊の問題であるはずです。

 ガンハンドリングという、普通ではやらない課題を与えられることで、その中に出てくる自分の考え方が、あぶり出されるように感じます。
 その課題と向き合い、解決していくことが、太極拳のみならず、生きていく上での問題とも関わっていくことになると感じます。

                                  (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その42」の掲載は、5月22日(水)の予定です


2019年03月29日

練拳diary #84「学習体系に身をゆだねる」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花




 「学習体系というものは、本当に凄い」と思えることが、度々あります。
 それが最近になって特に強く感じられるのは、もしかしたら新入門人の稽古への取り組みとその進歩の様子を目の当たりにしたり、研究会クラスを中心に、武術的心身の訓練方法として、新たに本格的な「ガンハンドリング」が稽古されているからかも知れません。
 ガンハンドリングとは、拳銃やライフルなどの正しい取り扱い方を指し、基礎知識から安全管理、射撃、戦闘時に至るまで、銃に関係する全てが含まれます。
 もちろん私たちは実銃ではなくトイガンを用いて稽古しますが、それでも重量や機能は実銃に近似しており、BB弾というプラスチックの弾が秒速60~90mで飛ぶ威力の高いものです。それを、軍隊で行われる指導と同様に実銃として扱うことが要求され、安全確保のためのルールや銃口管理が徹底された厳しい状況の中で稽古が行われます。

 さて、門人の誰もが最初に学ぶこととは、基本にして最大の秘伝と言われる「立ち方」すなわち站椿を、僅か十余りの要訣でわかりやすく簡潔に指導され、「歩き方」となる歩法では、站椿で整えられた身体がどのように動くのかを、科学的かつシステマチックに説かれることです。
 それだけで、と表現するのはおこがましいかもしれませんが、謂わゆる套路や推手などの太極拳らしく思える動作を一切教わっていない初心者でも、ただそれだけできちんと初歩的な発勁ができてしまうので、それが学習体系の怖ろしさであり、素晴らしいところだと思います。
 
 研究会で行われているガンハンドリングの稽古は、銃に対して正しい知識を学び、銃の安全管理から取り扱い、そして射撃、戦闘訓練に至るまでが行われます。その訓練内容は、例えば外国のシューティング施設に行っても通用するレベルと言われるほどで、特に実際に射撃するまでの動作や姿勢の確認、正しく狙いをつけるためのサイティングが、時間を掛けて細かく行われます。
 なぜ太極拳の道場で銃の稽古が行われるかと言えば、銃という日常で馴染みのない武器を正しく扱うことで武術的な意識が養われ、実際に銃を保持して様々な課題をこなしていくことで、武術的な身体が養われるからです。
 一般的に、武術の道場で扱われる武器といえば、大刀や棍、槍やヌンチャクなどを思い浮かべるかもしれません。しかし、日常に戦場のような危機を感じられない現代日本では、たとえトイガンであっても、室内で大刀を振り回しているよりはよほど現実味を帯びた、危機管理の訓練になると思われます。言い方を変えれば、木製の大刀や棍を見ただけでは武術性がピンとこないほど、私たちの危機意識は希薄なものに成り下がっているということでもあります。
 ともあれ、銃の取り扱いを正しく身につけようとすれば、否応なしに意識的にならざるを得ず、銃を保持して武術的に動こうとすれば、そこには太極拳の基本功や歩法での要求がそっくりそのまま求められます。つまり、いかに太極拳が武術的に優れたものであり、その学習体系が実戦性の高い「武術」として整えられているのかが、銃の稽古をすることで再認識させられるのです。

 師父は、太極拳を修得することに比べればガンハンドリングの方が単純で分かりやすい、と仰います。
 確かに、銃を扱うときの注意点には、それをできるかどうかは別にして、言われていることそのものを理解するまでにそれほど時間を必要とはせず、守るべきポイントの数も太極拳よりは少なく複雑ではない、と思えます。だからこそ、銃の訓練に太極拳の体系を当て嵌めれば、より武術的に細部まで整えられたものとなりますし、太極拳の稽古では理解できなかった問題点が、銃の訓練を行うことで問題の元となる「考え方」が明確に浮き彫りになり、解決の糸口になるのだと思います。

 ただし、ガンハンドリングの稽古が太極拳の学習に役立つかどうかは、やはりその人の精神の軸と意識によって大いに影響を受けるということも事実です。なぜなら、銃の訓練で出てくる問題点は太極拳を学習する上で生じる問題点と、ピッタリ一致するからです。
 それは、とりもなおさず架式の問題と歩法の問題であり、さらに言えば、提示されている学習体系に則って学んでいないために、何年経っても解決できないままになっていると言えます。
 例えば、先日の稽古で研究会の門人Tさんに問題点を訊いたところ、次のような答えが返ってきました。

 『結局は、片足で立った時に身体が使われておらず、軸が揃っていないのだと思います』と。

 この回答自体が、きちんと学習体系に沿って稽古を進めていないことの表れなのですが、そのことを本人に指摘しても、なかなかその意味が解ってもらえないので歯痒く思います。
 ここでの問題点は、そもそも太極拳で「片足で立つ」ことは何を意味しているのか、それについては散々様々な表現方法で説明されてきているはずなのですが、それには着目せず、片足で立った時の状態を気にしている、ということです。
 私たちの学習システムから観れば、片足で立ったところから身体を使おうとしても使えない時には、そこで軸が揃うことはありません。なぜなら、そもそも片足で立つという行為自体が身体を基本通りに使わなければできないことであり、そのようにして立てた片足の状態では、軸足にも上がっている足にも負荷が来ない状態で立つことが可能になります。
 それこそが、「片足站椿」の状態であり、套路で一番最初に出てくる「金剛搗碓」が「片足」であることも、その意味に他なりません。そしてそのことは、師匠から幾度となく示され、説明されていることなのです。
 なぜ、それをそのまま受け取ることから始めないのだろうかと、いつも私は疑問に思います。
 示された身体の使い方をした結果、まだ片足で立てない。そうであれば稽古を重ねていけばやがて片足で立てるでしょうし、太極拳における「片足で立てることの意味」も理解できることでしょう。けれども、自分なりに片足で立った状態からは、何をどのように工夫しようとも、形が似ていても、長時間立てていても、太極拳の理解には繋がらないのです。

 また、同じく研究会のMさんは自分の問題点について、太極拳で大事な「合わせる」という課題に対して、実際の中身ではなく位置を合わせる動作をしていた、と言います。本人はさらに続けて「当然自分では、何を合わせなければならないか、ということは認識しています」と畳み掛けます。
 ならば、なぜ最初からそれを稽古せず、違うことから始めようとするのでしょうか。

 示されていることをきちんと守れば、入門したばかりの初心者でも発勁のタマゴのようなことができるという、それだけの内容がそこにはあるのに、それには取り組まず違うことからアプローチを試みてしまう。知的なアプローチとは反対の試みです。さらには、自分が「違うことをしている」という認識さえ持てなくなってしまうのです。
 示されたことを最初から理解できたり体現できる人は、まずそういないと思いますし、課題をこなそうとする過程で、次の道標が見えてきて、また先へ進んでいくことができるのだと、私は学習をそのように捉えています。
 しかし、最初に理解できないからといって、自分なりに道を探して進んでも、目的地へは到達できずに迷子になってしまいます。時間をかけても進歩がなく、同じ課題を抱え続けている状態はまさに「迷子」です。迷子になったら、闇雲に歩き回らず、地図を見て現在地を確認し、目印となるところを探さなければなりません。・・それが、太極という学習の果てしない道のりに、先人たちが置いてくれたありがたい道標であるはずです。

 師父は仰います。
 『体系に身を委ね、体系という河の流れに流されて大海に辿り着くような、そういうことがわかる人間じゃなければこれは理解できない。カッコだけで内容が伴わないもの、問題点を指摘される事を嫌い、なかなか中身が変わらないもの、それらは全て”甘え”に起因するものである。プライドやエエカッコに見合うだけの成長があったかどうか、それを自分に問い直さない限りは、本格的なガンハンドリングを学んだところで所詮は”お家(ウチ)バンバン”、”子供部屋のプロ”にしかなれず、本物の戦闘のプロフェッショナルにはほど遠い』


 いつ、どのようにして太極拳の学習体系が形作られたのか、考えることがあります。
 戦いの最中では、悠長に体系として纏めることなど不可能だと思えますし、やはり今回太極拳の稽古にガンハンドリングが加えられたように、その時どきで必要だと思われたものが加えられ、必要なくなったものは外れることを連綿と繰り返し、今の体系が出来上がったのでしょうか。
 何れにしても、師父が仰る”知的なアプローチ”がなければ、高度な学習体系もただの標本になりかねません。
太極拳の始まりは何であるのか、それはどこへ向かっているのか、各自がもう一度問いかける必要があると思います。

                                  (了) 

2019年02月19日

門人随想 「日の出」

                  by 拝師正式門人  西 川 敦 玄



 平成31年が始まりました。平成最後の年で新しい年号が始まる年です。筆を走らせている今、いささか時期を逸しているのですが、歳の瀬から年始にかけての風景を眺めてみます。

 毎年年が明けると清々しい気持ちになります。家族、親族、人によっては友人と、あるいは一人で夜半を過ごし、歳を越し、翌朝には初日の出を拝みます(私は実際には上がってしまった日を拝んでいるのですが)。一年の区切りをつけて、新しい一年に向けて思いを新たにします。では、お正月とは特別な一日なのでしょうか。

 日の出という現象は、ご存知のように地球の自転によって太陽光が東より差し込む現象です。地球を俯瞰する視点に立てば、日が出るとの表現は正確ではありません。日が出る(昇る)というのは、自分という視点から入光を表現したものです。初日の出とは北半球において考えると、地軸が太陽と遠ざかるように最大限に傾いた太陽と地球の関係(冬至)から、地球が9回ほど自転した時期において、ある時点での太陽光の照射開始時とでも言えば良いでしょうか。こうしてみると、太陽暦の1月1日に天文学的視点で特別な意味はなさそうです。
 それでも、私たちは地球が太陽のまわりを一周回った記念のひとして、次の公転にむけて気持ちを新たにしているわけです。
 一方で、文化的な側面に向けてみれば、1月1日が特別な日であることに異論を唱える人は少ないはずです。 日の出は日常で繰り返される現象ですが、大晦日から正月にかけてのそれは、世界中で非日常的な一日として過ごすことが多いのではないでしょうか。
 しかし、10年、20年と月日が経てば、幼少期には非日常の風景であったものが、年中行事として予定された行事、日常のイベントの一つとなります。一生を考えると何十回となく経験するわけですし、同じ民族でいえば、何百回となく経験してきている日常の風景とも言えます。
 お正月の行事、初日の出、初詣が非日常ではないとすると、日常や非日常といった考え方も簡単には捉えられないものと思ったほうが良いでしょう。

 では、反対に日常の生活を決まったように送るということは、日常的なのでしょうか。
ここで、いささか極端な例を思いだしました。
 ドイツの哲学者にカントという人がいます。著作はあまり読んだことが無いのですが、学術的業績のほかに、規則正しい生活習慣で知られた人です。
 有名な逸話だと思いますが、彼の日常は細部まで日々同じように送り、散歩の道まで決まっていたそうです。そして、散歩の道沿いに住んでいる人はその姿をみて時計の狂いを直したと言われているエピソードがあります。
 日常の生活が日々を決まったように過ごすことと仮定するならば、これなどは、もっとも毎日を日常的に生きていると言えると思います。しかし、これを誰も真似できませんし、私達の生活では規則正しく毎日物事が進むことはありえない訳です。
 このようにカントの如く日常を過ごすことは、私たちにとっては非日常と言えると思います。しかし、強制的に時間を整えることに鍵があるわけではないでしょう。そこを非日常の要点とみると、日常性と非日常を取り違えそうです。
 それでは、何が日常を非日常たらしめているのでしょうか。そこには、意志の力、積極的に自己を日常に関わらせていく力の働きがあるのだと思います。そして、面白いことに、まるで型にはまるような日常性のなかでの意志の発露こそが、非日常性を発揮する要点のようにみえます。

 では、私たちの日常生活はどのようなことで成り立っているのでしょう? 、日々の生活では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。
 ・・ん?!、 もしかして、以下のように言いかえても不自然ではないかもしれません。
 私たちの稽古では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。そうです。いつもの稽古です。私達が四苦八苦している、あの稽古です。
 元日をお正月の特別な一日として過ごすことをしてみても非日常とはならないように、稽古を特別なイベントとして行っても、非日常にはならないでしょう。つまり、稽古に出たときに(平日に対するお正月のように)、特別な歩き方をすることが非日常の歩き方ではないと思います。先ほど見たように、そこに意志の発露があることで、非日常性を発揮するのだと思います。
 しかし、如何に意志の力の発露が大事とはいえ、稽古にでている特別な環境が、意識を非日常に向かわせてくれることに変わりはありません。また、一年の節目になる日も同様に特別な環境です。

 今年も例年と同じように年が明けて、新しい年が始まりました。
 平成最後の歳の始まりを、私は新鮮な気分で、厳かに、希望をもって迎え、前に進んでいきたいと思っています。

                                  (了)


2019年02月07日

練拳Diary #83「スピード」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 前回の練拳ダイアリーでは「非日常」に着目し、それが、自分から遠くかけ離れたところにあるものではないことを私の視点から述べ、そこから師父の日常の所作一つ一つが非日常的であることをご紹介させて頂きました。
 普段はあまり語られることのない師父の日常の所作については、多くの方が興味を持たれたようで、記事を出した後は師父が作られる料理などについても、訊かれる機会が増えました。

 さて、今回はタイトルの通り「スピード」について、考えてみたいと思います。
 スピード、つまり「速さ」について考えるきっかけとなったのは、あるとき師父が、

 『君らに全く足りていないのはスピードだ。高度な武藝としての戦闘技術をトータルに修得したいなら、早急にスピードという事を理解する必要がある』

 ・・と、仰ったことです。
 単純に、戦闘に必要な動きとしてのスピードを身につけるだけなら、”スピードを理解する必要がある”とは言われないはずです。ここで指摘されている「スピード」とは何であるのか、またそれを理解することで何が変わるのでしょうか。

 スピードについて考えたとき、やはり最も厳しい規律で統制されている「軍隊」のことが思い浮かびます。
 規律とは、改めて言うまでもなく、物事の正しい順序や人の行為の基準として定められたものを指しますが、軍隊でのそれが厳しい理由は、一言で言えば命の危険を伴う仕事だからです。
 何かを守ること、そのために命を賭して戦うことは当然リスクが高く、ともすれば人生を失うことになります。どうすれば危機を回避できるのか、或いはリスクを低減できるのかを考えてみれば、結局のところ、自分勝手な解釈や判断をせずに、物事がどうなっているのかを冷静に見極めること、それに尽きるのだと思えます。
 危機とは、往々にして自分の浅はかな考えやちっぽけな想像の範囲など遥かに超えていることを思えば、厳しい規律は、自分勝手な解釈や判断を戒め、正しい判断力を養うという点において、とても役に立ちます。
 規律というものには「細かく」「窮屈」で「不自由な感覚」と言ったイメージもありますが、これを反対に考えてみて、「大雑把」「安楽」「自由な感覚」でも良いとされたなら、規律なしで一体何が身につくのか、自分は何を守れるのか、誰でも疑問に思うところではないでしょうか。

 さて、その軍隊で、一般社会から参入した私が真っ先に受けた洗礼とは、まさに「速さ」でした。最初に所属したところでは、集合は決められた時間の2分前には完了していなければならず、装具の着脱は無論最速で行い教官より早いことが当たり前、武器その他の点検も最速確実が要求されますし、報告などは短く要領よく、食事は長くて15分、お風呂も実質15分、洗面、洗濯、アイロン、靴磨きは、数少ない道具を大勢で効率よく時間内に回さなくてはならない・・などなど、訓練中に求められる動作から隊舎生活の全てにまで「速さ」が要求されます。
 最初は、何か説明をする教官の言葉も速くて聞き取れないほどでしたが、やがて、そこで要求される速さの中でなんとか合わせようとしていると、”どのようにすれば間に合うのか”という、一つの法則が見えてきました。その法則こそが、「ただよく見て、ただよく聞くこと」だったのです。なんとシンプルなことでしょうか。
 よく見てさえいれば、教官が次に何をしたいのかが分かり、視野も広くなるため、様々なことに対して心の準備が整います。よく聞いてさえいれば、次に何を指示されるかが分かるのです。
 それは、あらかじめヤマを張って備えているのとは違い、瞬間瞬間に合わせ続けることで見えてくるものです。ヤマを張っていると、外れた時に大幅に遅れますが、合わせ続けていれば外れることはありません。
そしてもう一つ大事なことは、要求される速さの中では、自分勝手に考えたり動いたりする余裕が微塵も入らないということです。つまり、先ほど述べた最も危機に対応できると思われる「自分勝手な考えが入らない状態」が養われるのです。

 私たちが道場で学んでいることは、高度な戦闘理論と技術を修得することであり、高度であるが故にその過程では自分を律することが必要とされ、それに伴って人間性や精神性が養われていきます。
 「自分を律する」とは、例えばピアノの調律と同様に、ある秩序に順って自分を整えていくことです。それが武藝修得に必要なことであるために、道場で学ぶにあたっての規約が厳密に定められているわけです。
しかし、どういうワケか人は言われたことをやりたくない、守りたくないという面を持ち合わせています。学生の頃、出された宿題に対して「これは自分に必要な、大事なことだから」と、せっせと取り組んだ人がどれほど居るでしょうか。
 よく考えてみれば、「やりたくない、守りたくない」と思っていることに対して、それをやるように指示されると、人は「延期」します。期限の定められていないことは無期限に、期限が定められているものは期限ギリギリに、という具合に、自分で再設定してしまうのです。
 その理由は?と問えば、余りにもありきたりな「やろうとはしているけれど、中々出来ない」というものが殆どではないでしょうか。
 誰でも、言われたこと全てに対してスムーズにこなせるかと言えば、決してそんなことはなく、誰もが皆必死に、新しい課題をこなそうとしているのです。ただし「やろうとはしているけれど・・」という、まるで自分を肯定するかのような理由を持ち続けていると、当然いつまで経っても出来ません。まずは、「自分はそれをやりたくないのだ」と、はっきり認めることが必要だと思います。

 本来は、自分が「課題」として与えられたことに対して、「やりたい、やりたくない、やろうとしている」ということを挟む余地は一切ないのです。与えられたなら、それは、その時その瞬間に必要なこととして存在するわけですから、その場で直ぐに取り組み始められなければなりません。
 ちょうど、私たちの稽古がそれにあたります。
 稽古で示される、師匠との動きの違いや対練での相手への影響の相違など、「これを理解する必要がある」と言われた時に、その場で分からなかったものは、家に帰ってからも、やはり分からないのです。
 これも「スピード」として考えることができますが、その時に生じている問題に、その場で取り組めるか、ということです。
その際に、「自分はやろうとはしている」という先ほどの言葉を持ってきたらどうでしょうか。或いは、自分や家族が生命の危機に直面している時、果たして同じように「努力はしているつもりだ」と言っている暇があるでしょうか。
 つまり、それを言える間は「余裕」であり、自分にとっては今すぐ何とかしなければならない重要な問題ではない、ということなのです。
この事実を、人はとにかく避けたがる傾向にあります。私自身も、例えば ”ゴミを片付ける” というようなささやかなことでさえ、「後で」と延期し、そしてそれは長いことそのままになってしまいます。
問題は、それがささやかな事柄だから仕方なく、大きな事柄にはきちんと取り組めるのかというと、そうでもないところです。小さなことにきちんと取り組めないと、大きなことにも取り組めず、そして反対に、小さなことにきちんと取り組める人は、大きなことに対しても、自分を何も変えることなく同じ姿勢で取り組むことができるのです。ここに見られる法則は、何を表しているのでしょうか。

 「戦闘」という、まさに危機と隣り合わせであることを稽古として学び、自己成長に繋げたい、という選択をした私たちは、「スピード」ということに対して今一度考えてみる必要があると思います。
 そして先ほども述べたように、「延期」をしてしまうことに対して「自分は本当はやりたくないのだ」という認識と、「課題とは、自分の好むと好まざるに関わらず取り組むべきものである」という二つの認識を、きちんと持つべきだと思います。
 なぜなら、自分の人生における課題はそもそも誰かが与えてくれるものではなく、自分で気がつき、受け取り、理解していかなければならないものだと思えるからです。
 せめて、同じ道を歩む師匠や仲間が自分に分かりやすく出してくれた課題に対しては、誠実に向き合いたいものです。
それができなければ、自分は一体この人生で何を学んでいこうというのか、それ自体が不確かなものになってしまう気がします。

                                 (了)

2019年01月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その40

  「困難に立ち向かう」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古で新しい課題が示されるたび、それまでの自分ではクリアできないという現実と直面させられます。
 現代人は困ることが足りていない、と師父は指摘されています。たしかに、日々の生活を振り返ってみると、何かの課題に対して困る、ということはほとんどないように感じます。ただ、何か面倒なことがあって困る、せいぜいこれくらいしかないのではないでしょうか。

 昨年から開講されているCQC講習会において、ロープを使った懸垂降下、ラペリングという課題への取り組みが始められています。
 私にとっては、ロープ降下は、生まれてこのかた一度もやったことのないことです。まさか自分がやるとは考えたこともありませんでした。少なくとも自分にとっては全く未知の経験です。
 仮に、いきなりぽんと道具を全部渡されて、手順を説明されたとしても、とてもではありませんができる気がしません。
 しかし、ここ太極武藝館では、そんな取り組み方は決して行われません。見よう見まねでなんとなくできたような形にすることは絶対になく、自分のような初心者を含め誰しもが、確実に理解できるような体系として、師父に細かく指導をしていただけました。

 まずはどういったメカニズムで降下が安全に行われるのか、ロープや道具に関する科学的な説明からはじまりました。その上で、ひとつずつ守るべきプロセスを、課題として段階的にこなしていきます。
 それぞれの段階でうまくいかないことがあったとしても、周りにいる仲間たちも意見を出し合い、当人がきちんと理解できるまで取り組み、示されたやり方を正しく、確実にできるようになっていきます。そうすることで、全くの未経験者である自分たちが、5メートルの垂直壁から安全に降下することができるようになりました。

 困難な課題に立ち向かうとき、そのままでは課題が大きすぎて、どこから手をつけたらいいかわかりません。一見すると解決不可能にも思えてしまいます。
 ところが、その課題を少しずつ細かく見ていくことで、ひとつひとつを解決可能な小さな課題に変えていきます。そうすることで、正しい手順で段階的に解決していき、最終的には、不可能に思えた最初の課題もこなせるようになっていきます。

 これはすごいことだと思いませんか? 少なくとも自分はそう思いました。

 今回の場合は、ただロープ降下の技能を身につけていくというだけでなく、その中にある課題を学習していく中で、何かを新たに学習していくにはどうしたらいいかという、学習法の学習法も示されているように、自分には感じられました。
 ロープワークが、ただ結び方を憶えるのではなく、訓練として行われたのと同様に、ロープ降下も、訓練として行われることで、もっと新しい考え方に気づかされるきっかけを与えていただいたように感じるのです。
 もちろん、ロープ降下を訓練することによって得られる身体の軸は、武術的に動ける身体を養うためにも、とても役に立っていると思います。
 実際に自分で動いているとき、そしてロープ降下の訓練を行った門人と対練をしているときには、とくにそれを強く感じます。そしてそれだけでなく、考え方の訓練としても、大きな意味を持っているように思うのです。

 何かを学習する上で、明確にフィードバックを得られるというのは大事なことです。
 ロープ降下の場合、野外で垂直壁から降りてくることができるという、明確な結果が出ます。そのため、自分の学習へのアプローチがどうだったかを、明確に検証することができるのではないかと思います。

 この、学習プロセスに対する検証過程は、そっくりそのまま太極拳への自分の学習方法を検証することにも使えるのではないでしょうか。
 ロープ降下において最初はできそうにないと思えた課題を、段階的に分けていくことで理解していけることは、すでに経験させていただきました。
 そもそも、太極拳もまた同様に、体系的な学習として師父に指導して頂いていることを、もっと大事に受け止めないといけない、と自分は感じました。どうしても、師父に示していただく太極拳の「結果」があまりにもすごいものに見えて、そこで半分思考停止してしまいがちです。
 それは、いきなり垂直壁で降下しろ、と言われているのと同様なのかもしれません。
 そこに至るまでの過程で、もっと段階的に課題を分けて、問題点がどこだったかを検証してきたときのように、太極拳においても、細かく検証していくことが可能なはずです。

 また、考え方が変わるという点においても、自分の中でも変化がありました。
 たとえば外を歩いているとき、建物の中にいるときなど、自分がどういう場所のどういう高さにいて、周りにどんなものがあるかを、以前よりも気にするようになりました。
 というよりは、以前はまったく気にしていなかったというべきでしょうか。

 それまで気づかなかった危険にも、目を向けるようになってきた!

 …などと思って道場に稽古に行くのですが、そこで師父に簡単な課題を出されて、
「いま自分がどの方向に何歩歩いたか憶えているか?」
 と質問され、ぜんぜん何にも気を配れていない! とハッとさせられる、そんなことの繰り返しばかりです。

 今年に入ってから、稽古の質が以前にも増して、より洗練されて高度になっているように感じます。
 これまでも、おそらく他では得られない高度な内容を指導されていたかと思いますが、稽古に参加させて頂いていて、より新しい取り組みが行われているのではないかと感じるところがあります。
 より洗練された内容でどんどん進んでいくので、のろまな自分も大慌てで、「これは大変だぞ…!」と、目を覚まされて、なんとかついていこうと必死になっているような状態です。

 太極武藝館の稽古においては、自分の考え方をどんどん変えていかないといけない、と思います。それまでの考えなど、本当は通用しないのだということを、一瞬にして自覚させてもらえるという経験は、なかなか味わえないかと思うのですが、稽古においてはそれは日常茶飯事です。
 それだけ、日常に溺れ切った自分の発想では生き残れないという甘さの表れであり、日常とはかけ離れた考え方、物の見方で師父が過ごされているということなのだと思います。
 より高度になっていく内容に伴って、自分にとっては非常に難しく、困難な課題も出てくるかと思いますが、

「逃げない、晴れ晴れと立ち向かう」

 という言葉を、師父に倣って自分も胸に刻み込んで、着実に課題に取り組んでいきたいと思います。

                                   (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その41」の掲載は、3月22日(金)の予定です


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