|
||||||||||||||||||
2012年05月15日
連載小説「龍の道」 第88回

第88回 龍 淵(11)
「・・た、珠乃っ!!─────────────────」
この瞬間、宏隆は自分が甘かったことを痛感していた。
絡んできている相手は、多寡が不良のボス。本格的な極道ヤクザでもなし、それほど大それた事をするとも思えない。何より、自分がこの夏に経験してきた数々の危機と比べれば、テキ屋のボンボンとのケンカなど、可愛いものではないか───────────
そういう気持ちが、つい初めから相手を見くびれるような錯覚を宏隆に起こさせていたのである。
「おっと、ストップやで!、ここから先に行ってもろたら困るんや・・・・」
じっとりと、体に貼り着くようにタックルしてきて、テキ屋の三人が行く手を阻む。
三人は宏隆の手足に鉛の錘(おもり)のように絡みついて離さない。悲鳴を上げた珠乃の方へ慌てて走ろうとした、その僅かな隙を狙ってこんなふうに絡みつかれては、流石の宏隆も動きがひどくもたついた。
しかも、彼らは宏隆と真っ向から闘おうとはせず、まるで興奮する酔っぱらいでも宥める(なだめる)ようにピタリと抱きついてくるのだ。そんなふうな、ある意味では悠長とも思えるエネルギーの相手を、咄嗟に殴ったり投げつけたりすることは中々難しいものだ。
そして、そんな心理を承知した上でそのような方法を取っているとしたら、このテキ屋たちは見かけよりも強か(したたか)な、集団での戦闘の場数をかなり踏んできた、ケンカ慣れした者たちであると言える。
「くっ、くそお────────────どけっ、どくんだ!!」
その彼らに対して、ケンカの若大将と異名を取るほどの宏隆は、為す術がない。
それは、宏隆が常に独りでケンカの場を切り抜けてきたからであり、集団の策略が読めないためであった。多人数と対峙しても、学生同士のケンカでは、ただ数を恃(たの)んでのものに過ぎず、それほど怖れる必要もなかった。策謀の無い集団は個人に等しいのである。思えば、台湾のホテルで拉致された時も、相手がプロとは言え、敵の策略が宏隆に前もって読めず、一時は自分に有利な状況を造りながらも、結局は拉致されてしまう結果となったのであった。
だが、今の宏隆には、そんなことを省みる余裕はない。
必死にもがいて、絡みつく三人をほどこうとするが、大の男三人分の力はそう易々と解けはしない。身に着けた武術の技で、冷静に相手を打つなり投げるなりすれば、彼らの束縛はいとも簡単に解けるのかもしれないのだが、連れの珠乃が心配なあまり、其処へ行こうとする気持ちばかりが先に立って、いつもの宏隆らしい、武術的な動きが何ひとつ身体に起こってはくれないのである。
そして────────────
ついに宏隆はその場にドオと倒され、一人に上から馬乗りに跨がられ、他の二人には手足の関節をしっかりと押さえられて、ほとんど身動きが取れなくなってしまった。
「キャァーッ、何するのよ!・・放せっ、放しなさいっ!!」
必死にもがいている珠乃の叫び声が、向こうから聞こえる。
「ヘっへっへ・・・・どや、ヒロタカはんよぉ、闘いちゅうのはな、腕っ節だけやのうて、ココや、ココの問題やで。ええ?、ワイには敵わんやろ?、何とか言うてみい!!」
自分の頭を指しながら、大の字に転がった宏隆の頭上から見下ろして得意気にそう言う。
「くっ、卑怯者め!、まともに戦っては敵わないと思って、無関係の人間を人質にとってでも勝ちたいとは・・・この、見下げ果てた奴め、それでも男かっ!!」
「ワハハハ、なんとでも言え!、結果的にお前はワイの足もとに転がっとるやないけ!、
世の中いうもんはな、最後に笑うモンが勝ち、ちゅうことや。ええか、よう覚えとけや!」
「く、くそお────────────!!」
何とか拘束を解こうとして藻掻いて暴れる宏隆を、学生の子分二人も加わって、宏隆の頭や足を、膝を使って地面に押さえつけた。
「ガハハ・・無駄や、無駄やで。なんぼケンカ大将のお前でも、五人がかりでそんなふうに地面に押さえられたら、どないしょうもないやろ。それで反撃できたら、ほんまに奇跡やろけどな、ガハハハハハ!!」
「むう・・くっ・・・くくうっっ・・・・・」
「ほれ、無駄な抵抗をせんと、潔よう観念して、ちと、あの女の方を見てみいや」
「な、何っ────────────!?」
そう言われて、珠乃の声がする方をなんとか横目で見ると、
「あっ・・た、珠乃っ・・・!!」
珠乃は二人の男に樹の幹に押し付けられ、顔にピタリとナイフを当てられている。
「ひ、宏隆ぁっ─────────────────!!」
日頃は気丈な珠乃も、光るナイフを頬に突きつけられては、流石に声が震えている。
映画や小説ではない、これは今ここで、現実に自分に起こっていることなのであった。
「た、珠乃・・・・・」
「さあ、分かったか。あの女の顔に傷をつけられンのが嫌やったら、起きてワイに土下座せえや。土下座して、ワイの靴をきれいに舐めて、その節は大変申し訳ございませんでしたと謝って、お怒りはごもっともですから、ボクを好きなだけ殴って下さい、と言うンや」
「な、何だと!、お前なんぞに誰がそんなことを言うモンかっ!!」
「ほ、さよか・・ほんなら、あの女の顔に長い切り傷を付けさせてもらおか。お前は一生、その顔の傷の責任を背負って、楽しく生きて行くんやな・・・・」
「こ・・この、人間のクズめ!!」
「へっ、何とでも吠えたらええ。そやけどな、ここで絶対的に立場が強いのはワイの方や、ええっ、違うんか!?、どないや、ケンカ大将のヒロタカはんよぉ!!」
「くっ・・し、仕方がない・・・分かった・・・・・」
「ガハハハ、観念しよったか、なかなか物分かりがエエやないか・・・・」
自分が土下座して、散々殴られて、それで済むのなら、それで珠乃が無事なら、いくらでもそうしよう、そうするべきだ・・・・宏隆はそう決心して、観念した。
が、その時─────────────────
「う、うっ・・・!!」
「くうっ・・・!」
かすかな呻き声と共に、珠乃を拘束していた二人の男が、まるで突然目まいでも起こしたかのように、バタバタと地面に倒れた。
「な・・何やっ!、どないした!?・・・何ごとや?!」
宏隆にも、いったい何が起こったのかは分からないが、突然ナイフを向けていた男たちの拘束が解けて、走って逃げて行く珠乃の姿が目に映った。
「お、追えっ、女を追うンや!!・・ええい、お前ら、ボケーっとしとらんと、二人ほどで早よう女を追いかけんかいっ!!」
「へ、へいっ・・・・」
ナマズ顔にそう命じられて、宏隆を地面に押さえつけていた二人のテキ屋が走った。
しかしその時、宏隆を押さえていた五人の者たちの力が、ほとんど同時に弛んで弱くなった。ナマズ顔のボスが、誰と誰に対して ”追え” と、名指しで命じなかったからである。
そして、宏隆がそのチャンス逃すはずはなかった────────────
「う、うわぁっっっ!!」
「あ、アホっ、しっかり押さえとかんかいっ!!」
「じ、自分こそ・・・手ぇを弛めたやろ!」
「ドスッ─────────────────!!」
「グェエッ・・・・・」
あっという間に跳ね起きた宏隆は、あたふたと狼狽する三人のうち、まず残りのテキ屋の腹を強かに拳で打ち抜き、あっという間に悶絶させた。先ず強そうな者から順に倒していくというのは、宏隆がこれまでの戦いで培った知恵である。
「う、うわぁ・・・・・」
宏隆の素早い身のこなしと、瞬く間にただの一撃で大人のテキ屋を屠った技のキレを目前で見せつけられた二人の学生は、その大きな図体に似合わぬ怯えたような声をあげながら、じわじわと後退りをし始めた。
「お前ら、まだ僕と闘(や)りたいか?・・・」
宏隆が眉を吊り上げてそう言うと、
「ええい、退がるな!、やってまえ!、早よ、イテもたらんかいっ!!」
「そ、そやけど、このセーガク(学生)がこんなに強いて、き、聞いてまへんでぇ・・・」
もはや二人の学生の戦意は喪失している。残るはナマズ顔のボスひとりだが、宏隆は珠乃が気掛かりでならない。
「お前ら、そこでナマズの親分と待っていろ!!」
そう言い遺すと、宏隆は珠乃が逃げた方に向かって全力で走った。
「珠乃っ!・・・何処だ、珠乃ぉ────────────!!」
さっき珠乃がナイフを突きつけられていた樹の根元に、二人のテキ屋の男が倒れている。
なぜ突然こんな恰好で倒れてしまったのか分からないが、そこから珠乃が逃げた方向にむかって、宏隆はさらに走った。
「えっ──────────?!」
しかし、ほんの数十メートルも行かないうちに、立木の向こうに信じられない光景が目に映った。
「た、珠乃・・・?」
珠乃が、追いかけてきた二人の男たちに向かって、すごい形相で対峙しているのである。
「どうしたの?、来なさいよ!・・・多寡が女学生ひとりに、何を怖れているの?」
「くっ、くそお・・・この姐ちゃん、タダモンやないで!!」
男たちは各々、鋭いナイフを手にして構えているが、珠乃に向かって容易に近づけないまま一定の距離を置いている。
そしてセーラー服姿の珠乃は────────────────
何と、柄の長いホウキを持って、颯爽と構えているのである。
おそらく神社の裏にでも置いてあったのだろう、その庭箒(にわぼうき)を手に持って、近寄ればすぐにでもそのホウキで相手を打つ、という気迫が感じられるのだ。
「・・た、珠乃?・・・何をしているんだ?、危ないから下がっていろ!!」
宏隆が怒鳴ったが、テキ屋の男たちは何故か宏隆のことなど眼中に無い。
追ってきた宏隆よりも、目の前の珠乃に向かうのに精一杯で、そんな余裕がないのだ。
「宏隆、遅かったわね、まあ黙って見ててよ・・・私だって、自分の身くらい自分で守れるんだから!!」
一瞬、宏隆が来て少し安心したような目をしたが、毅然とした表情でそう言い放った。
見れば、テキ屋の男二人は、何度も地面を転がったようで、上着にもズボンにも土ぼこりがたっぷりと着いている。
「ま、まさか・・・・?」
宏隆は、ようやく気が付いた。
珠乃が手にしている庭箒は、普通の人間がそれを持って誰かを打とうとしているような構えではない。それは、訓練された者だけが醸し出す、独自の雰囲気を持った、完成された隙の無い構えなのである。
少なくとも、脅しで光るナイフをちらつかせては目的を達成してきた、そんなテキ屋の男たちの構えとは、話にならないほど次元が違っている。
「う、うわぁあ───────────ああああっっっ!!」
悲鳴のような叫び声を上げたのは、テキ屋の方である。
手にしたナイフを振りかざして、大声を上げて珠乃に切りつけていったのだが、珠乃は眉ひとつ動かさずに、スウーッと庭箒を回転させながら男の手を払い、ホウキの反対側で足を払って、男を宙に舞わせて、大きな音を立てて転がした。
いや、それは箒が回転して動いたと言うよりも、その長さが自在に変化したと言うべきかも知れない。珠乃が手にした箒は、支点のない不思議な動きをしていた。
「すごい─────────────────!」
もはや、珠乃の身を案じて自分が盾になるとか、加勢するというような状況ではない。
珠乃を追って来た男たちは、明らかに珠乃に手を灼き、彼女を捕まえるどころではなく、どうすれば良いのか、困り果てているのだ。
そして、宏隆は珠乃が心配でならなかったが、高度な武藝を極めようとしている自分にとって、正直なところ、本人の身の安全さえ確かなら、目の前で見せられた珠乃の不思議な動きをこのまま見ていたいという気持ちもある。
そう思えるほど、宏隆が安心していられるような力が、珠乃には感じられるのだ。
「・・ち、ちっくしょぉ!!」
もう一人の男が、手にしたナイフを頼りに飛び込んでいったが、それで珠乃を突こうとするよりも早く、ホウキの柄が彼の喉元にグイと突き込まれた。
「ぐ・・グェエッ・・・・」
どんなに優れた格闘家であろうと、喉を鍛える方法はない。
宏隆は、王老師が戦う時には敵の喉にしか触れない、と陳中尉に聞いたことがあった。
ホウキの柄で強かに喉を突かれた男は、もんどり打って地面に倒れ、悶絶して倒れたところをさらに腹を突かれ、その場で静かになった。
「う、うわぁ─────────────────!!」
さっき倒されたもう一人の男が、ナイフを捨てて逃げて行く。
そばにいた宏隆の存在を気にする余裕もなく、なまず顔のボスの居る方へ飛ぶように走って行くのだ。
「珠乃っ・・・!」
「宏隆 ─────────────」
「大丈夫か?・・・怖くなかったか?」
駆け寄って、肩を抱くようにして宏隆がそう訊くと、
「こ、怖かったわよ!・・・私だって普通の人間よ!、女の子よ!、怖いに決まってるじゃないの!・・・今まで何やってたのよ、小さい頃からケンカ大将だって威張ってたくせに、私が、私がこんな目に遭ってるっていうのに・・・!!」
手にしていた箒を投げ捨てて、女らしく泣きじゃくりながら、興奮して宏隆の胸を叩く。これまでの緊張がようやく解けて、我慢していた感情が一気に出てきたのだ。
「ご、ごめんよ・・でも、余りにも、状況が─────────」
「もう・・バカ、バカっ・・・バカ宏隆ぁっ!!」
「ごめんよ・・な、ゴメンってば・・・」
ポケットからハンカチを出して、珠乃の涙を拭いてやる。
「何とか無事に済んだみたいね─────────────────」
「えっ・・・?」
その声に振り返ると、すぐ後ろに腕組みをした宗少尉が立っていた。
「宗少尉・・どうして此処へ?!」
「せっかくの早朝デートの所を悪いけど、早々に後始末をしなきゃならないから、それを済ませたら、あなた達は早く学校に行きなさい。それとも今日はオフにして、どこかにエスケイプした方が良いかもしれないわね」
「後始末って?」
「あっちに倒れている二人の男と、ココから逃げようとしたヤング・ボスのことよ」
「も、もしかして、倒れていた二人は宗少尉が・・?」
「違うわよ。私は連絡を受けて、ついさっき到着したところ」
「・・連絡って、誰から?」
「ヒロタカの居るところには常に警護が付いているの。特に台湾の一件からは身辺の警戒を厳重にしているのよ。それは神戸に居ても同じコトよ」
「それじゃ、あの二人はウチの組織の人たちが?」
「そう、毒を塗った吹き矢で、珠乃さんの安全を確保したのよ」
「ど、毒・・!!」
「まあ、毒って言ったって、ただの痺れ薬だけどね」
「宏隆、あなた一体何をやっているの?、ソシキだとか、毒の吹き矢だとか・・・・」
いかにも訝し(いぶかし)そうな表情をして、珠乃が訊く。
「あ、その・・・つまり、何というか・・・・」
「大丈夫よ、ヒロタカ。珠乃さんの家庭の調査はもう済んでいるし、ご親戚や交流関係も敵の勢力ではないことが分かっているから。ご両親は分別ある愛国者で、神戸に転居してきてからはヒロタカのお父様とも付き合いがあって、憂国の想いもよく一致しているから、何を知られても大丈夫よ」
「ふう・・・・」
「でも、そのうち、きちんと説明しておいた方がいいわね。せっかく、仲が良い幼馴染みのステキなカップルなんだから────────────」
ちょっと嫉妬をするような顔をして、宗少尉が横目で宏隆を見ながら言う。
「コホン・・・そういうワケだから、珠乃、またゆっくり話すよ」
「何だかよく分からないけど、まあ、今日は追求しないであげるわ」
「・・・さてと、ヒロタカ、あのヤング・ボスをどうする?」
「あ、そうだ。さっき逃げようとしてた、って言ってたけど・・」
「神戸支局の連中が捕まえて、あそこでヒロタカを待っているから行きましょう。子分どもは逃げてしまったけど、まあいいわね、加勢が来るとは思えないし・・・・」
そう言いながら、宏隆たちを促して、ナマズのボスが居るところに向かう。
「でも、吹き矢で倒した二人はどうするの?」
歩きながら、ちょっと心配そうに宏隆が訊く。
「ああ、あんなの、放っておけば1時間もすれば気がつくわよ。もし誰かに見られても宿酔(ふつかよい)で寝ているようにしか見えないから、心配ないし」
「なるほど・・・」
「問題は、あのヤング・ボスをどうするかだけどね・・・・」
なまず顔のボスは、大きな樹の陰で後ろ手に括られ、地面に正座をさせられている。
「少尉、ご苦労さまです!」
逃げようとしたボスを捕らえた玄洋會の二人の要員が、宗少尉に向かって敬礼をする。
折り目正しい敬礼の仕方から、彼らが軍隊の経験者であることが分かる。
「あなた達こそご苦労さま、朝からひと仕事だったわね」
「いいえ、それよりヒロタカさんに怪我が無くて何よりでした」
肩に7、80センチほどの黒いケースを掛けた、もうひとりの要員が答える。
その革のケースには、さっき瞬時にテキ屋たちを倒した、組み立て式のブローガン(吹き矢)が入っているのかも知れなかった。
「ありがとうございます。自分が不甲斐ないばかりに、皆さんにご迷惑をおかけしました」
宏隆が彼らに向かって頭を下げた。
「ヒロタカよぉ、お前、いったい何モンや?、こんな連中がウヨウヨ出てきて、お前がこんなワケの分からんヤツと知っとったら、下手にリベンジなんかするんやなかったな」
「ナマズ・・・いや、浪速の山本一家のミネオ、とか言ったな・・・今日は全面的に僕の負けだ、潔くそれを認めるよ。でも、君たちのおかげで僕は多くのことを学ぶことが出来た。珠乃をあんな危険に晒してしまったけれどね・・・結果的に、僕は独りでは君たちに対処できなかったし、勝てなかった。そのことは僕にとって大きな問題なんだ。これからその事をよく考えなくちゃいけない」
「・・そしたら、ワイを許してくれるんか?」
「いや、お前らのような卑怯な奴らを許すつもりはない。また懲りずにこんな事をしたら、何があっても叩きのめしてやる。けれど今回は僕の負けだ。もし僕独りだったら完全にお前たちに屈辱を味わわせられていたかも知れない・・・自分の武術は、辛うじて自分だけを守れるようなものでしかなかった。それがハッキリしたから、きちんとそんなことを含めた訓練をしなければならないと思うんだ。そうしなければ、お前たちのような手合いにむざむざと負けてしまうからね」
「負けた─────────────────!!」
「え・・?」
「ヒロタカ、お前はエラいやっちゃな・・・何やら武道を追求しとるらしいが、きっとモノになるやろな。それに、バックにはワイらみたいなテキ屋とは違う、もっと大きな組織が控えとるようやし、そんなヤツには、逆立ちしても到底かなわへんわ。
ワイの負けや!、二度とお前や兄貴の所には現れんから、今日のことは水に流してくれへんか?、恐い目に遭わせてしもた連れのお嬢さんにも、このとおり謝るよって・・・」
テキ屋の跡取り息子は、そう言って深く頭を下げた。
「宏隆、もう勘弁してあげて・・・・」
怖ろしい目に遭わされた珠乃が、優しい目をしてそう言う。
「ああ、僕もいまさらどうする気もない・・・宗少尉、放してあげて下さい」
「おいっ・・・ヒロタカが許すと言うからお前を開放してやるが、本来なら地下の拘束室で一生過ごして貰うか、鳴門の渦に放り込んで魚の餌食にしてやるところだからね!!」
「ひっ!!・・・わ、分かりました、よく分かりました・・・・」
「それは本心か?、もし懲りずにまたヒロタカに近づいてきたら──────────」
そう言うと、宗少尉は腰の後ろから素早く拳銃を取り出し、銃口をピタリと男の額に付けた。
「うわっ、うわわあっ・・・・す、すんません、もう来ません、絶対に近づきません!!」
「ふん!・・その言葉を、よーっく覚えときなっ!!」
「は、はい、すんません・・・決して忘れませンです、すんません・・・・」
「よし、縛(いましめ)を解いてやりな!」
「イエッサー!!」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第89回の掲載は、6月1日(金)の予定です
2012年05月12日
2012年05月01日
連載小説「龍の道」 第87回

第87回 龍 淵(10)
「しまった─────────────────」
宏隆は後悔した。こんな場合、女性が一緒に居るのと、そうでないのとでは自分の行動が大きく違ってくる。
珠乃は自分と同い年の、ごく普通の女子高校生なのだ。小さい頃からケンカ三昧の日々を過ごし、いつの間にか台湾の秘密結社に籍を置くようにまでなったような自分とは何もかも違う、あまりにも普通の人なのだ。そんな人がそばに居るか居ないかでは、イザという時にかなり違ってきてしまう。
しかし、もう遅い。何より、せっかく逃がそうと思った肝心の珠乃が一緒に付いてくると言って聞かないのだ。現に今も、自分から先にその大阪弁の不良の後に従いて、胸を張ってどんどん歩いているのだから、どうにも始末が悪い。
それに加えて、後ろからどう見てもその男の仲間だと思われる、如何にも屈強そうな体格の二人が、宏隆たちを遠巻きに囲むようにして付いてきている。
「こうなったら、仕方がないな─────────────────」
宏隆は覚悟を決めた。イザとなったら、たとえ自分の身を犠牲にしてでも、珠乃の無事を真っ先に考えてコトを運ばなくてはならない。こんな時には、どれほど自分の腕に覚えがあろうと、相手をどう料理するかということよりも、一緒に居る者の身の安全を最優先に図らなくてはならない、と宏隆は自分に言い聞かせた。
「・・さ、ここから裏に回るんや。この神社はな、すぐ近くの住宅地に住んどられる組長はん御一家が、必ずお正月にお参りをされるんで有名なところなンや。ワイも度々ココにお参りして、将来は立派な任侠の組長になれるようお願いしたいと思うとるんやで」
「やれやれ、罰当たりな。暴力団の親分が参拝するのに感心するよりも、先ずはここに祀られている、祖国を護るために自らの命を捧げた五万三千柱の英霊に敬意を払うべきじゃないのか。まあ、どれほどお前がお願いしても、英霊たちがそれを聞き届けてくれるかどうかは別のハナシだけどな」
「う・・くっ・・・・」
「その昔には任侠道というような言葉もあって、その世界も本物の男気や義侠心で構成されていたというが、今では在日不良朝鮮人や密入国の中国人などが大半を占める、ただの無法者の暴力集団に過ぎないじゃないか。そんなところに人生の目標を持つようなら、所詮不良の行く末は、お決まりのヤクザ渡世────────まあ、それではモノにはならんな」
「な、何だとぉ、聞いた風な口を利きよって。けど聞き捨てならんな、その ”モノにならん” ちゅうのは何のことじゃい?・・ちいと、ワイにも分かるように言うてみぃや!!」
「モノになるとは、人間になることだよ─────────────────」
「人間に?・・アホぬかせ、ワイかて生まれた時からずっと、お前と同ンなじ人間やで!」
「いいや、人は各々が与えられた試練を経て、それをきちんと乗り越えてこそ、初めて本物の人間になるのだ。この身は単なる容れ物、宿借りの殻にすぎず、人生の試練を経て魂が入るまでは、ただヒトの形をした人形と同じようなものだと、ぼくは思っている」
「ペッ、人間がヤドカリやて?、アホくさ!、お前みたいなガキに、本物の任侠道っちゅうんがどんなもんか、分かるもんけ!!」
「分かるとも、少なくともお前よりはな・・・教えてやろう、曾ての任侠道は、弱きを助け強きを挫く、あくまでも暴政に対抗する義侠心がその根本になっていたのだ。
悪政の無法社会で脅かされる罪もない一般庶民を守り、悪法に縛られてむざむざと泣き寝入りをするしかなかった民の中に、人の仁と義を通す義侠の男たちが存在したのだ。
昨今のような、法治国家の繁華街を根城に、弱い者や堅気の一般市民を狙って騙し脅かして利をむさぼるようなミミッチイ輩どもの、どこが任侠なものか!!」
「こ、こいつ、高校生のクセに禅寺の坊主みたいにエラソウに・・・けど、そないな難しいことを言われても、ワイにはよう分からんで・・・まあええ、さぁ、グズグズせんと、早うこっちに来んかい!!」
朝も七時半を過ぎているのに、護国神社の裏手はまだ薄暗い。摩耶山のすぐ麓に位置しているこの神域は、立派な社殿のすぐ裏側まで古来の樹々が鬱蒼と生い茂る山の斜面が迫っていて、さぞかし此処に祀られる英霊たちも安らかに眠られることだろうと思える。
その本殿の裏側の、少し広くなったところで男は立ち止まると、さっきから遠巻きについて来ていた二人が逃げ道を塞ぐようにして、宏隆と珠乃のすぐ後ろ、ほんの2メートルほどの所に離れて立った。
「さあ、もう何処にも逃げられへんで。へへへ、今日はあきらめるしかないな。可哀想やけども、ワイがやられたように、今度はお前に痛い目に遭うてもらわんと、な」
「一体どうしたいんだ?、高校生の僕を相手に、自分ひとりでは勝ち目がないとみて、図体の大きな加勢を二人も恃んで、また卑怯な真似をしたいということか?」
「ふんっ!、ケンカに卑怯もクソもあるもんけ、お前が叩きのめされて、ワイの恨みを晴らせたらそれでエエんじゃい!!」
「なるほど、そういうことか。だが、その行き着くところは任侠道とはほど遠いな。やはりチンピラ愚連隊になるしか能が無いらしい。可哀想に────────────」
「ええい、その減らず口をきけるのも、そこまでやでっ!!」
そう吠えるように言うと、男は「ヒューッ!」と鋭く指笛を吹き鳴らした。
「む・・・・・・?」
その音を合図に、斜面を覆う樹々の太い幹の裏側から、ふたり、三人と、隠れていた仲間がぞろぞろと現れてきて、全部で五人の男たちがズラリと後ろに並んだ。
「コイツでっか、峰雄はんをエラい目に遭わせた、言うんは?」
「ミネオ・・というのか、この男は────────────」
心の中でそう思いながら、宏隆はこの難局を如何に切り抜けるかを考えていた。
さっき後ろから従いて来た二人は、明らかにその峰雄という男と同じ大学生に見えるが、いま樹々の陰から出てきた五人の男たちは、どうみても、もっと年上の大人である。
「ほう、今度は大人たちの登場か。しかし、学生のケンカに大人の加勢を呼ぶとは、それもこんなに大勢・・・・お前もつくづく腐りきった甘ちゃんだな」
宏隆は、その人数にちっとも動じない。
普通ならば、これほどの人数に囲まれれば、袋叩きにされることを覚悟して、土下座して謝るしかないような状況であるのに、彼のこれまでのケンカ三昧の経験に加えて、この夏の非日常的な体験が、彼を自分でも考えられぬほど強く、逞しくしていたのである。
「坊主、度胸だけはあるようやな・・・まあ、ホザきたきゃあ、今のうちにいくらでもホザいておくがええ。どうせすぐに声も出んようになるからな────────────」
低いドスの利いた声で、ひとりの男が言った。
「高校生の分際で、うちのボンにえらいナメた真似をしよったらしいが───────
浪速の神農(しんのう)・山本貫太郎一家としては、若(わか)がそんな目に遭うたままでは黙っとれんからな、まあ、殺しはせんよって、勘弁してもらおか・・・」
もう一人の男が、言った。
「ナニワの神農?、カンタロウ一家?・・・ははあ、お前、大阪のテキ屋さんの ”ぼんち” だったんか、なるほどな。しかしまあ、テキ屋の若サマが、たった一人の高校生を相手にわざわざ大阪から若いモンを大勢引き連れて ”お礼参り” とは、なんとも情けない・・・」
「ケッ、ほざくンやないで、ヒロタカよぉ・・・お前がワケの分からん不思議なケンカ術を使うことは、ウチの若いモンにもよぉーっく説明済みや。敵を知りて、己を知ったならば、百戦も危ういべからず、ちゅうことやで!・・・どや、観念せんかい!!」
「ははは、それを言うなら ”危ういべからず” じゃなくて、危うからず、だよ。タンカを切る時はもっとカッコよくやらなきゃ。ついでに ”君子危うきに近寄らず” ってのも、そこに書いてなかったかい?・・・まあ、何にしても情けない若サマには変わりはないが」
「くっ・・こっ、この・・減らず口のガキがぁ!!」
テキ屋の男が口にした ”神農” というのは、職業の神様として中国から伝わってきた神農皇帝のことで、市(いち)や縁日、盛り場や祭礼などに様々な出店を出す的屋(てきや)が彼らの世界で自分たちのことを指す隠語でもある。
的屋というのは、その文字が示す通り、思いがけず大当たりすることや一夜にして儲かることを「的矢(まとや)=矢で当てた的」に掛けて造られた言葉であり、日本人であれば誰もが知るように、境内や参道、門前市などで屋台や露店を出店し、参拝客目当てに御利益品や縁起物をはじめ、食品や玩具を売ったり、射的やくじ引き、金魚すくい、見世物小屋、大道芸などを披露して稼ぐことを生業とする、露天商・行商人の集団のことである。
つまり的屋は日本の祭りや神事などの伝統文化と共存してきた集団であり、親分・子分、兄貴分・弟分という組や徒弟関係はあっても、元々はいわゆるヤクザとは本来の性質が異なっていた。博徒にせよ的屋にせよ、江戸時代には共に下民(げみん)・賤民(せんみん)として、身分制度では最下層として扱われてきたが、古くから的屋は稼業人、博徒は渡世人と呼ばれ、無宿で渡世人の博徒=ヤクザ者は的屋とは区別されてきたのである。
また、生業を行うための縄張りも、博徒は「シマ」というが的屋は「庭場」と表現する。庭場とは寺社奉行の管轄地の名称である。
しかし、的屋が営業を滞りなく行う為に必要な調整役として存在したヤクザの存在は的屋を下部組織に従えるまでに至り、現在では的屋と暴力団の関係は益々濃くなり、その殆どが暴力団化しているという。公安指定暴力団である東京池袋の「極東会(組長:松山眞一こと曹圭化=チョ・ギュワ)」は構成員1,200名、日本最大のテキ屋組織であることで知られている。
「ごくせん」のように、原作ではヤクザであったものを任侠集団(境内でタコ焼きを売るだけのテキ屋?)に変更して製作されたテレビドラマもあった。コミカルなドラマとは言え昨今ではそのような社会的性質を持つ集団の娘がヒロインとして放送され、高視聴率を得るというのだから、テレビ放送も日本の世論も、以前とは随分変わったものだと思う。
ともあれ──────────────そのテキ屋の若(わか)が、この夏に宏隆にこっぴどく返り討ちに遭った挙げ句に締め落とされ、救急車で病院送りにされたのだから、やはり極道一家としては黙ってはいられない、というところであった。
「坊主、そういうワケやから、まあ、観念せぇや・・・・・」
もうひとりの、顔に大きな傷のある男が、言った。
「・・・珠乃、僕からできるだけ遠くに離れていろ──────────────」
小声でそう言って、誰も居ない唯一の方角である神社の裏側に向かって、珠乃の肩を突き放すように押すと、
「さあ、手っ取り早く済ませようや、これから学校に行かなきゃならないんでね」
カバンを傍らの樹の根元に置きながら、宏隆は努めて明るく、相手に向かって言う。
「ええい、いてもたれっ(やってしまえ)!!」
その、ナマズが潰れたような顔のテキ屋の若(わか)が、先ず宏隆の後ろ側に居た二人の子分に向かって、大声でそう命じた。
しかし─────────────────
「うっ・・・ううっ・・・・・・」
屈強な体つきをした二人の子分は、いざ宏隆に襲いかかろうとした途端に、その場で動けなくなってしまった。それどころか、ジワジワと徐々に後退りさえしているように見えるのである。
「・・な、なんや、なにしとるんや?、はよ行かんかい!、いてもたらんかいっ!!」
ナマズ顔のテキ屋の若は、もたついている子分にハッパをかけるのだが、
「うっ・・い、行けへん!・・・ま、前に、歩けへんで!!」
「な、何でや?・・・何でやろ?!・・・足が前に出て行けへん!!」
ただ立っているだけの宏隆に、ただの一歩も近づけないのだ。
やってしまえと言われても、闘う前からこの状態では、戦闘意欲が湧くどころの話ではない。もちろん、そのような状況が引き起こされるのは、王老師に指導された訓練の賜物に違いないが、それにしても、宏隆の武術のレベルはかなり高まってきていると言える。
「こ、こいつぅ、ナ二しよるねん!!、ワイらの知らん技を使いよって・・見かけによらず卑怯なやっちゃな!!」
「ははは、たったひとりを七人で囲んでおいて、卑怯とはよく言うな・・・さあ、分かったら黙って引き上げることだ。さもないと、本当に怪我をすることになるぞ!!」
屈強そうな二人の学生は、息も荒く油汗をかいて、すっかり戦意を喪失してしまったが、そのとき、
「中国拳法、やな?─────────────────」
ナマズ顔の若の後ろから、ひとりが宏隆に声を掛けた。
「ほう・・テキ屋の兄さんにも、武術の分かる者が居るらしいな」
宏隆はそれを聞いて、振り返ってそう言った。
「オレの祖国は朝鮮だが、今じゃすっかり日本人みたいなもんや。ナニワにも中国人はたくさん居るが、そいつらと話していると、時々お前みたいな不思議な技を使うヤツのことが話題になったりする・・・何でも ”気” とか何とか、言うそうやな」
「いや、僕のは ”気” 何かじゃあないよ。今のだって、特別に訓練をしたわけでもない。
ただ、こうしていればそう出来ることが自分に分かるだけのことだ」
「ほう・・何にしても、エラい高校生を襲ったもんだな、ウチの若も・・・」
「ええい、お前たち、感心しとらんとコイツを何とかしないか!、何のために大阪くんだりからお前たちを連れて来たと思うてるんや!!」
「大丈夫、ちゃんと仕事はしまっせ・・・」
「おい──────────────」
「よし・・・・!!」
あらかじめ何かを打ち合わせでもしていたのか、五人の男たちは互いに目配せをして頷き合うと、スッと素早く動く気配を見せた。
「襲ってくるな──────────────」
そう思って宏隆は身構えたが、意外にも、二人の男が本殿のすぐ裏に立っていた珠乃の方に向かって走り出し、後の三人は慌てて後を追おうとする宏隆に、通せんぼするように両手を広げて立ちはだかった。
「くっ・・・・し、しまった!!」
「きゃぁああ──────────────っ!!」
すぐに、珠乃の疳高い悲鳴が、辺りをつんざいて響いた。
(つづく)
【神戸護国神社】

*次回、連載小説「龍の道」 第88回の掲載は、5月15日(火)の予定です
2012年04月26日
歩々是道場 「螺旋の構造 その5」
「ハイハイの構造(1)」 by のら (一般・武藝クラス所属)
ある名の知れた運動科学の研究家が、赤ちゃんのハイハイを動物の四足歩行と関連づけて書いている本を偶々(たまたま)書店で見つけた。やはり武術の原理を研究している人は同じようなことに興味を持つものなのかと思いつつ、その本を購入して帰った。
実のところ、私はその研究家が言うところの「システム」にはあまり興味が無い。身体意識や運動科学とは言っても、詰まるところはその本人だけが見え、本人だけにしか理解し得ないシステムとして提示されているからであり、たとえそれがどれほどユニークで面白い発想によって書かれた内容であろうとも、そのような性質のものが果たして「科学」と呼べるのかどうか、私には少々疑問に思えるからである。
因みに、何かが「システム」であるためには、二つ以上の構成要素と、その構成要素同士が相互に働きかけ合う「インタラクション(相互作用)」が必要となる。構成要素がふたつならインタラクションはひとつであるが、構成要素が4つになると6個、5つになると10個となり、構成要素が100個に増えるとインタラクションの数は実に4,950個にもなる。
科学を「システム」と呼ぶには、単なる構成要素の説明や理論だけではなく、そこに存在する全てのインタラクションについても明示され、説明が為されなくてはならない。しかもそれらは学問的な研究の成果として、論理として筋道の通った明確な理論で説明できる知識体系によって構成されたものでなくてはならず、さらには多くの人がそれを納得できたり、誰もがそれを学べる内容でなければ「学問」としては成立し難いのである。
よく引き合いに出されるムカデは、おそらく自分がどのようにして百本の足を動かすのかを知らないだろうが、ムカデの命令系統には、どうすれば隣合った足を絡ませないように歩けるのかというインタラクションが明確に存在している筈である。そうでなくてはムカデは自分の足に絡まり、躓いてまともに歩けない。
科学とは、ムカデが躓かずに歩けるのは多分こうだろう、ああだろうと想像して独自の仮説や推論を立てるばかりではなく、実験や観察による検証を通じ、実際的な理論に基づく研究が体系的に行われ、科学的な根拠を以て「事実」が証明されることによって初めてそれが定説となり、学問と呼べるようになるのである。個人的な想像や仮説、推論の段階で実践が行われているものは少なくとも「システム」とは呼べず、正しくは「実験や試行の段階」と呼ぶべきものだと私は思っている。
前回にも述べたが、太極武藝館の円山洋玄師父は、高度な武術としての太極拳の練拳修行に励まれるだけではなく、それを純粋な学問として捉えられ、四十年の長きにわたって研究を続けて来られた。
その研究の成果は、纏絲勁の構造研究ひとつを取ってみても、内外に類を見ない緻密な内容で構成されており、纏絲勁が「氣」や「丹田」などという概念を全く抜きにしてこれほどまでに解明されたことはかつて無いと、それを教授される誰もが等しく確信できるものである。
それは決して師父の個人的な想像や仮説によるものではなく、「人間の構造」としてこうすればこうなる、という極めて明快で截然たるものであり、それ故に、本気で追求する気さえあれば誰もがそれを習得できる可能性が非常に高いものだと思える。
毎回のように稽古で師父が私たちに指導されることは、太極拳は神秘や独善に陥ることなく、高度な武術を追求する人の誰もが納得の行く「科学」として、「学問」として追求されなくてはならない、ということである。開門から18年間、その一貫して変わらぬ姿勢は館名の上に冠された「太極拳學研究會」という名称にもよく表されている。
師父が解明され、今なお更なる研究が続けられている太極拳は、その運動構造の構成要素やインタラクションが何もかも明確に説明され得る、まさに「システム」と呼ぶに相応しいものだ。
そしてそれは、「運転免許証が持てる人なら誰にでも出来ること」であると師父が言われるとおり、私たちの誰もが納得のできる極めて明快なものであり、喩えそれが正式弟子への教授レベルではなくとも、一般クラスや外門研修会など一般門人のクラスに於いても、太極拳は十二分に納得できる「高度な武術」という学問として、一点の曇りも無く指導されている。
太極武藝館では、太極拳はその「システム」さえ理解すれば、誰にでも修得できるものとして指導されている。誰もがヒトとして同じ身体構造を持っているのだから、誰もが同じように出来て当たり前、それでこそ科学であり、学問であり、それでこそシステムと呼べるものだ、と師父は言われるのである。
さて、インタラダクション・・・いや、イントロダクションが長くなった。
この辺りで、本題の「ハイハイ」の話にハイることにしたい。
私が赤ん坊のハイハイに注目したのは、ハイハイの中にヒトが二本足で立ち上がるための重要な要素が隠されている、と思えたからである。
「這い這い」の稽古をしているビデオを見せられた時に、そのことにハタと気が付いた。
そうだ、「這い這いからの立ち上がり」が問題なのではない、「這い這いそれ自体」こそが、理解すべき最も重要なコトなのだ、と─────────────────
これを解くことは「站椿」の秘密を解くことに直結する、と私は直感したのである。
稽古の「這い這い」を撮ったビデオを見ていると、すぐに面白いことに気がつく。
それは、各個人によって手足の動くパターンが異なっている、ということである。
ある人は佐川急便の飛脚のように、手足の左右の同じ側がほとんど同時に出されて歩いて行く。またある人は、二本足で腕を振って歩く行進のように、右手と左足、左手と右足がほぼ同時に出され、それを交互に繰り返しながら歩いて行く。そしてまたある人は、ちょっと見るだけでは手足を動かす順序が分かりにくいのだが、しかし自然に、一定のパターンで、まるで動物のように、ヒタヒタ、クネクネと歩いて行くのである。
つまり、同じ人間であるのに、四つ這い歩行をすると手足の動くパターンが異なるのだ。そのことは私にとって非常に驚きであった。それは一体どういうことなのか・・・
四足(しそく)動物は群れで歩く時にも、みな同じパターンで歩いているのに、人間サマがハイハイをするときには、それぞれパターンが違っているのである。
しかし、よく考えれば、ヒトのハイハイと四足動物の歩行は同じではない。
ヒトがいくら頑張ってハイハイをしても、四足動物のようには歩けないのだ。
そんなコトはよく考えなくても当たり前のコトじゃないか、と思われるだろうが、それがなぜ当たり前なのかを考え、解き明かすのがカガクであり学問なのだから、よく考えていきたい。
実は、それが当たり前ではないのは、ヒトと四足動物とは「生態」が異なっているからなのである。・・え、そんなの当たり前じゃないか、ですって?──────────(汗)
ウマを例にとってみよう。
四足動物が歩行するときには、速度変化に応じて幾つかのパターンがある。
馬は歩行の速度調節を行うときに2通りの方法を取る。ひとつは「歩幅」を変化させることによって速度を調節するもので、小さな速度調節の場合はこれによって行われる。
もうひとつは「歩行パターン」を変化させるものである。歩いたり走ったりする際に、足を動かす順序やタイミングを様々なパターンに変化させるのである。
馬には、大きく分けると WALK(並足)、TROT(速歩)、CANTER(駆足)、GALLOP (襲歩)と呼ばれる四つの歩行パターンがあって、WALKからGALLP へと順に速さが増していく。これについては乗馬を知らない人でも聞いたことがあるかもしれない。これらの歩行パターンでは、足を動かす順序やタイミングが各々異なっている。
馬は四つ足なので、このように速度に合わせた歩行パターンが存在するが、人間が歩行するときには、「歩く」か「走る」か、せいぜい「スキップする」くらいのもので、速度に合わせて歩行パターンが変化するわけではない。つまり、人間がいくら速く走っても、馬のような歩行パターンにはならないのである。もしもスタート地点に向かってスタスタと歩いていたカール・ルイス(ちょっと古いが)が、ヨーイ、ドンで競争馬のようにタカタッ、タカタッと走り始めたら、きっと観客は目を疑うに違いない。
さて、ウマとヒトの歩行の違いは、二本足と四本足の違いだけではないはずである。
それ以外に、何があるのだろうか。きっとそこには、ヒトのハイハイと四足動物の歩行との決定的なシステムの違いがあるにチガイない、と私は思った。
その違いは、馬の「身体構造」にあった。
私たちが馬の身体を見ると、人と同じように肩関節から前足が出て、股関節から後ろ足が出ているように思えるが、それは全くの間違いで、馬の体と人間の体を相照らして比較すれば、腕の肘の部分までと、足の膝の部分までが胴体の中に隠れていることになる。
つまり、私たちがウマの肩のように思えるのは肘であり、股関節に思えるところは膝で、膝だと思えるところは手首なのである。
また、肉食動物の多くは指向型と呼ばれる「つま先立ち」の状態で立っているが、馬のような草食動物の多くは蹄行型と呼ばれる「指先立ち」の状態で立っている。
それ故のコトかどうか分からないが、四足動物の中では、ウマの走りは格段に速い。
動物がトップスピードで100メートルを走った場合のタイムを調べてみると、
チーター 3.2秒
ガゼル(ウシ科) 4.0秒
ウマ(サラブレッド・人が乗った状態で) 5.0秒
いぬ(グレイハウンド) 5.1秒
トラ(ネコ科) 5.2秒
カンガルー 5.5秒
うさぎ 5.6秒
ライオン 6.2秒
くま 6.4秒
オオカミ(イヌ科) 6.5秒
きりん 7.1秒
バッファロー 7.2秒
ねこ 7.5秒
サイ 7.8秒
カバ 8.0秒
いのしし 8.0秒
ワニ 9.0秒
らくだ 9.0秒
ゾウ 9.2秒
ヒト 9.2秒(200m走後半のタイム)
ついでに自動車の 0〜100m加速走行(0〜100km/hではない)を知っているだけ比較してみると、
テスラ・2.0 ロードスター(電気自動車) 3.7秒
ポルシェ・911-GT3 4.1秒
メルセデスベンツ・Gクラス及びMクラス(四駆) 5.0秒
スバル・インプレッサ WRX 5.4秒
日産スカイライン R34GT-R 5.5秒
ホンダ NSX・タイプR 5.6秒
日産フェアレディZ 6.1秒
マツダ・ロードスター 2.0RS 6.5秒
アルファロメオ・ブレラ1.75-Ti 6.8秒
ランドクルーザー・プラド(四駆) 9.66秒
などとなっていて、如何に四足動物たちが高級スポーツカーに引けを取らず俊足であるかがよく分かる。ウサギがライオンより速かったり、人間がゾウさんと同じタイムなのも面白い。テスラというのは、少し前にあのレオさまがプリウスから乗り換えたという、ポルシェよりも速いと言われる、ジェット推進十万馬力ならぬ、電気推進十万ポンド(1,300万円)のクルマである。
サラブレッドは流石に速いけれど、Thorough(完璧に)+Bred(育てられた)という語源をもつ、血統や成育環境なども完璧な競走馬である。18世紀初頭から競走用に品種改良の為の交配と淘汰を繰り返され続けているウマなので、速いのは当たり前なのかも知れない。
まあ、人間サマでも、名門に生まれた人をサラブレッドなどと喩えることがあるほどで、ウマといえども高級スポーツカーのように一目置くべき存在なのでアル。
少々寄り道をしたが、本題に戻ろう。
馬の場合は、第一指と第五指が消失していて、第二指と第四指が退化し、その代わりに著しく発達した第三指によって体全体を支えている。したがって人間の脚(ジャオ=足首から下)に当たるところは指先になるのである。
さらには、ヒトの肩甲骨は鎖骨によって固定されているが、馬には鎖骨がなく、肩甲骨と脊椎は靱帯で繋がれているだけである。そのために馬の肩甲骨はヒトよりも遥かに動き易く歩行中も足の動きに連動して大きく活発に動いている。
さらには、馬の足の骨格は前から見ると真っ直ぐになっているが、ヒトの骨格を前から見ると股関節から膝関節に向かって内側に入り、膝関節から下だけが真っ直ぐになっている。
人間が馬のような恰好でハイハイの姿勢=四つん這いになると、前足に相当する腕は手のひらで接地し、後ろ足は膝関節で接地することになる。
これだけを見ても、ヒトの四つん這いとウマの四足歩行とでは、かなり構造が違っていることが分かる。試しにハイハイの恰好で手を指先立ち、足をつま先立ちになって歩いてみればよく分かる。見た目が同じような恰好だからといって、それを似たようなものだと思うのは大変危険である。ヒトと四足動物はそもそも身体構造が違っている。短絡的な発想は学問の落とし穴である。
さて、太極武藝館の稽古では、ハイハイが「順体」で行われるように指導されている。
・・と言っても、実際にはこれは大変なことなのである。二本足で立って歩いていても分かりにくいというのに、四つん這いのハイハイで順体を取れと言われても、一体順体、いや一体全体何をどうすれば良いのか、初めはまったく分からないし、ハイハイをしてみても皆各々に歩くパターンが違うのだから。
しかし、『赤ん坊のハイハイは、そもそも順体なのである』と、師父はサラリと仰る。
いやはや、ハイハイをしている赤ん坊はみんな順体の構造で歩いているというのだからスゴイ話ではないか。私たちが求めてやまない「順体の構造」が、赤ちゃんのハイハイには有るというのである。私たちは、曾て赤ん坊の頃に体験したその四つ這い歩行のメカニズムをすっかり忘れてしまったのだろうか。
ついでながら、私たちの稽古では「這い這い」を「ヒトの四足歩行」とは言わない。それは「手足歩行」と呼ばれて、四足動物の歩行とは明確に区別されている。
この稿の始めに挙げた運動科学研究家が書いた本には、ヒトが進化してきた過程においては、魚類が陸に上がり、爬虫類から哺乳類へと変化し、哺乳類の四足動物からサルの仲間が分岐し、そこからまた幾つかの分岐があってホモサピエンスが誕生した。つまり進化という歴史を遡っていくと必ず私たち全員が四足動物に到達する・・・と書かれている。そしてそれは四足時代、あるいはそれより前に蓄積されたDNAの極めて多くが現代の私たちに伝えられ保存されていることである、などとも書かれていた。
しかし私は、「進化」というものは【より優れたものになること】であると捉えている。
つまり、人間サマが今さらわざわざ四足動物だった遙かなオオムカシを思い出さなくても何の問題も無い、そんなことをしなくても何ら不足はないではないかと、端的に思えるのである。ましてや、タモリじゃあるまいし、武術を学ぶ人が四つん這いになって爬虫類の真似をする必要なんぞ何処にもありはしないと思う。
四足動物だった頃には出来なかった高度なことが、現在のヒトには出来るのである。
それは、手足の末端が繊細な感覚に発達したために脳が発達した、などというコトだけではないと思うし、そのために身体の中心部が使われなくなったなどとも思えない。
四足動物には絶対に「纏絲勁」なんぞ出来るワケがないし、進化に於いて最も近いところの「サルにでも出来る」ようなことでもない。纏絲勁は人間だから、ヒトの構造だからこそ出来ることなのであり、逆に言えば、人間であれば誰でも出来るはずのものに違いないのである。
ヒトに進化する前の四足動物だった頃のDNAを引っ張り出して、遠く遙かな記憶を呼び起こしながら、四つん這いになって武術的に高度な身体を養成する必要はまったく無い、と私には思える。
そんなコトよりも、もっと他にやるべきこと、理解すべきことがあるのだ。
私たちには、ヒトとして進化したところの高度な運動機能が備えられている。
もし進化論が正しければ、それは「進化」してきた故のことであり、それは四足動物やその先に生じたサルの仲間たちよりも遙かに優れたものであることは疑いようもない。
その「ヒトとして進化したカラダとは何か」を解明することこそ科学であり、武術の研究や進歩発展に必要な学問であると、私は思う。
太極武藝館の稽古で行われる「這い這い=手足歩行」は、四足動物だった頃のDNAの記憶を辿るためではなく、人間本来に備えられた、動物として最も進化したところの身体構造機能を探るために行われている。
(つづく)
ある名の知れた運動科学の研究家が、赤ちゃんのハイハイを動物の四足歩行と関連づけて書いている本を偶々(たまたま)書店で見つけた。やはり武術の原理を研究している人は同じようなことに興味を持つものなのかと思いつつ、その本を購入して帰った。
実のところ、私はその研究家が言うところの「システム」にはあまり興味が無い。身体意識や運動科学とは言っても、詰まるところはその本人だけが見え、本人だけにしか理解し得ないシステムとして提示されているからであり、たとえそれがどれほどユニークで面白い発想によって書かれた内容であろうとも、そのような性質のものが果たして「科学」と呼べるのかどうか、私には少々疑問に思えるからである。
因みに、何かが「システム」であるためには、二つ以上の構成要素と、その構成要素同士が相互に働きかけ合う「インタラクション(相互作用)」が必要となる。構成要素がふたつならインタラクションはひとつであるが、構成要素が4つになると6個、5つになると10個となり、構成要素が100個に増えるとインタラクションの数は実に4,950個にもなる。
科学を「システム」と呼ぶには、単なる構成要素の説明や理論だけではなく、そこに存在する全てのインタラクションについても明示され、説明が為されなくてはならない。しかもそれらは学問的な研究の成果として、論理として筋道の通った明確な理論で説明できる知識体系によって構成されたものでなくてはならず、さらには多くの人がそれを納得できたり、誰もがそれを学べる内容でなければ「学問」としては成立し難いのである。
よく引き合いに出されるムカデは、おそらく自分がどのようにして百本の足を動かすのかを知らないだろうが、ムカデの命令系統には、どうすれば隣合った足を絡ませないように歩けるのかというインタラクションが明確に存在している筈である。そうでなくてはムカデは自分の足に絡まり、躓いてまともに歩けない。
科学とは、ムカデが躓かずに歩けるのは多分こうだろう、ああだろうと想像して独自の仮説や推論を立てるばかりではなく、実験や観察による検証を通じ、実際的な理論に基づく研究が体系的に行われ、科学的な根拠を以て「事実」が証明されることによって初めてそれが定説となり、学問と呼べるようになるのである。個人的な想像や仮説、推論の段階で実践が行われているものは少なくとも「システム」とは呼べず、正しくは「実験や試行の段階」と呼ぶべきものだと私は思っている。
前回にも述べたが、太極武藝館の円山洋玄師父は、高度な武術としての太極拳の練拳修行に励まれるだけではなく、それを純粋な学問として捉えられ、四十年の長きにわたって研究を続けて来られた。
その研究の成果は、纏絲勁の構造研究ひとつを取ってみても、内外に類を見ない緻密な内容で構成されており、纏絲勁が「氣」や「丹田」などという概念を全く抜きにしてこれほどまでに解明されたことはかつて無いと、それを教授される誰もが等しく確信できるものである。
それは決して師父の個人的な想像や仮説によるものではなく、「人間の構造」としてこうすればこうなる、という極めて明快で截然たるものであり、それ故に、本気で追求する気さえあれば誰もがそれを習得できる可能性が非常に高いものだと思える。
毎回のように稽古で師父が私たちに指導されることは、太極拳は神秘や独善に陥ることなく、高度な武術を追求する人の誰もが納得の行く「科学」として、「学問」として追求されなくてはならない、ということである。開門から18年間、その一貫して変わらぬ姿勢は館名の上に冠された「太極拳學研究會」という名称にもよく表されている。
師父が解明され、今なお更なる研究が続けられている太極拳は、その運動構造の構成要素やインタラクションが何もかも明確に説明され得る、まさに「システム」と呼ぶに相応しいものだ。
そしてそれは、「運転免許証が持てる人なら誰にでも出来ること」であると師父が言われるとおり、私たちの誰もが納得のできる極めて明快なものであり、喩えそれが正式弟子への教授レベルではなくとも、一般クラスや外門研修会など一般門人のクラスに於いても、太極拳は十二分に納得できる「高度な武術」という学問として、一点の曇りも無く指導されている。
太極武藝館では、太極拳はその「システム」さえ理解すれば、誰にでも修得できるものとして指導されている。誰もがヒトとして同じ身体構造を持っているのだから、誰もが同じように出来て当たり前、それでこそ科学であり、学問であり、それでこそシステムと呼べるものだ、と師父は言われるのである。
さて、インタラダクション・・・いや、イントロダクションが長くなった。
この辺りで、本題の「ハイハイ」の話にハイることにしたい。
私が赤ん坊のハイハイに注目したのは、ハイハイの中にヒトが二本足で立ち上がるための重要な要素が隠されている、と思えたからである。
「這い這い」の稽古をしているビデオを見せられた時に、そのことにハタと気が付いた。
そうだ、「這い這いからの立ち上がり」が問題なのではない、「這い這いそれ自体」こそが、理解すべき最も重要なコトなのだ、と─────────────────
これを解くことは「站椿」の秘密を解くことに直結する、と私は直感したのである。
稽古の「這い這い」を撮ったビデオを見ていると、すぐに面白いことに気がつく。
それは、各個人によって手足の動くパターンが異なっている、ということである。
ある人は佐川急便の飛脚のように、手足の左右の同じ側がほとんど同時に出されて歩いて行く。またある人は、二本足で腕を振って歩く行進のように、右手と左足、左手と右足がほぼ同時に出され、それを交互に繰り返しながら歩いて行く。そしてまたある人は、ちょっと見るだけでは手足を動かす順序が分かりにくいのだが、しかし自然に、一定のパターンで、まるで動物のように、ヒタヒタ、クネクネと歩いて行くのである。
つまり、同じ人間であるのに、四つ這い歩行をすると手足の動くパターンが異なるのだ。そのことは私にとって非常に驚きであった。それは一体どういうことなのか・・・
四足(しそく)動物は群れで歩く時にも、みな同じパターンで歩いているのに、人間サマがハイハイをするときには、それぞれパターンが違っているのである。
しかし、よく考えれば、ヒトのハイハイと四足動物の歩行は同じではない。
ヒトがいくら頑張ってハイハイをしても、四足動物のようには歩けないのだ。
そんなコトはよく考えなくても当たり前のコトじゃないか、と思われるだろうが、それがなぜ当たり前なのかを考え、解き明かすのがカガクであり学問なのだから、よく考えていきたい。
実は、それが当たり前ではないのは、ヒトと四足動物とは「生態」が異なっているからなのである。・・え、そんなの当たり前じゃないか、ですって?──────────(汗)
ウマを例にとってみよう。
四足動物が歩行するときには、速度変化に応じて幾つかのパターンがある。
馬は歩行の速度調節を行うときに2通りの方法を取る。ひとつは「歩幅」を変化させることによって速度を調節するもので、小さな速度調節の場合はこれによって行われる。
もうひとつは「歩行パターン」を変化させるものである。歩いたり走ったりする際に、足を動かす順序やタイミングを様々なパターンに変化させるのである。
馬には、大きく分けると WALK(並足)、TROT(速歩)、CANTER(駆足)、GALLOP (襲歩)と呼ばれる四つの歩行パターンがあって、WALKからGALLP へと順に速さが増していく。これについては乗馬を知らない人でも聞いたことがあるかもしれない。これらの歩行パターンでは、足を動かす順序やタイミングが各々異なっている。
馬は四つ足なので、このように速度に合わせた歩行パターンが存在するが、人間が歩行するときには、「歩く」か「走る」か、せいぜい「スキップする」くらいのもので、速度に合わせて歩行パターンが変化するわけではない。つまり、人間がいくら速く走っても、馬のような歩行パターンにはならないのである。もしもスタート地点に向かってスタスタと歩いていたカール・ルイス(ちょっと古いが)が、ヨーイ、ドンで競争馬のようにタカタッ、タカタッと走り始めたら、きっと観客は目を疑うに違いない。
さて、ウマとヒトの歩行の違いは、二本足と四本足の違いだけではないはずである。
それ以外に、何があるのだろうか。きっとそこには、ヒトのハイハイと四足動物の歩行との決定的なシステムの違いがあるにチガイない、と私は思った。
その違いは、馬の「身体構造」にあった。
私たちが馬の身体を見ると、人と同じように肩関節から前足が出て、股関節から後ろ足が出ているように思えるが、それは全くの間違いで、馬の体と人間の体を相照らして比較すれば、腕の肘の部分までと、足の膝の部分までが胴体の中に隠れていることになる。
つまり、私たちがウマの肩のように思えるのは肘であり、股関節に思えるところは膝で、膝だと思えるところは手首なのである。
また、肉食動物の多くは指向型と呼ばれる「つま先立ち」の状態で立っているが、馬のような草食動物の多くは蹄行型と呼ばれる「指先立ち」の状態で立っている。
それ故のコトかどうか分からないが、四足動物の中では、ウマの走りは格段に速い。
動物がトップスピードで100メートルを走った場合のタイムを調べてみると、
チーター 3.2秒
ガゼル(ウシ科) 4.0秒
ウマ(サラブレッド・人が乗った状態で) 5.0秒
いぬ(グレイハウンド) 5.1秒
トラ(ネコ科) 5.2秒
カンガルー 5.5秒
うさぎ 5.6秒
ライオン 6.2秒
くま 6.4秒
オオカミ(イヌ科) 6.5秒
きりん 7.1秒
バッファロー 7.2秒
ねこ 7.5秒
サイ 7.8秒
カバ 8.0秒
いのしし 8.0秒
ワニ 9.0秒
らくだ 9.0秒
ゾウ 9.2秒
ヒト 9.2秒(200m走後半のタイム)
ついでに自動車の 0〜100m加速走行(0〜100km/hではない)を知っているだけ比較してみると、
テスラ・2.0 ロードスター(電気自動車) 3.7秒
ポルシェ・911-GT3 4.1秒
メルセデスベンツ・Gクラス及びMクラス(四駆) 5.0秒
スバル・インプレッサ WRX 5.4秒
日産スカイライン R34GT-R 5.5秒
ホンダ NSX・タイプR 5.6秒
日産フェアレディZ 6.1秒
マツダ・ロードスター 2.0RS 6.5秒
アルファロメオ・ブレラ1.75-Ti 6.8秒
ランドクルーザー・プラド(四駆) 9.66秒
などとなっていて、如何に四足動物たちが高級スポーツカーに引けを取らず俊足であるかがよく分かる。ウサギがライオンより速かったり、人間がゾウさんと同じタイムなのも面白い。テスラというのは、少し前にあのレオさまがプリウスから乗り換えたという、ポルシェよりも速いと言われる、ジェット推進十万馬力ならぬ、電気推進十万ポンド(1,300万円)のクルマである。
サラブレッドは流石に速いけれど、Thorough(完璧に)+Bred(育てられた)という語源をもつ、血統や成育環境なども完璧な競走馬である。18世紀初頭から競走用に品種改良の為の交配と淘汰を繰り返され続けているウマなので、速いのは当たり前なのかも知れない。
まあ、人間サマでも、名門に生まれた人をサラブレッドなどと喩えることがあるほどで、ウマといえども高級スポーツカーのように一目置くべき存在なのでアル。
少々寄り道をしたが、本題に戻ろう。
馬の場合は、第一指と第五指が消失していて、第二指と第四指が退化し、その代わりに著しく発達した第三指によって体全体を支えている。したがって人間の脚(ジャオ=足首から下)に当たるところは指先になるのである。
さらには、ヒトの肩甲骨は鎖骨によって固定されているが、馬には鎖骨がなく、肩甲骨と脊椎は靱帯で繋がれているだけである。そのために馬の肩甲骨はヒトよりも遥かに動き易く歩行中も足の動きに連動して大きく活発に動いている。
さらには、馬の足の骨格は前から見ると真っ直ぐになっているが、ヒトの骨格を前から見ると股関節から膝関節に向かって内側に入り、膝関節から下だけが真っ直ぐになっている。
人間が馬のような恰好でハイハイの姿勢=四つん這いになると、前足に相当する腕は手のひらで接地し、後ろ足は膝関節で接地することになる。
これだけを見ても、ヒトの四つん這いとウマの四足歩行とでは、かなり構造が違っていることが分かる。試しにハイハイの恰好で手を指先立ち、足をつま先立ちになって歩いてみればよく分かる。見た目が同じような恰好だからといって、それを似たようなものだと思うのは大変危険である。ヒトと四足動物はそもそも身体構造が違っている。短絡的な発想は学問の落とし穴である。
さて、太極武藝館の稽古では、ハイハイが「順体」で行われるように指導されている。
・・と言っても、実際にはこれは大変なことなのである。二本足で立って歩いていても分かりにくいというのに、四つん這いのハイハイで順体を取れと言われても、一体順体、いや一体全体何をどうすれば良いのか、初めはまったく分からないし、ハイハイをしてみても皆各々に歩くパターンが違うのだから。
しかし、『赤ん坊のハイハイは、そもそも順体なのである』と、師父はサラリと仰る。
いやはや、ハイハイをしている赤ん坊はみんな順体の構造で歩いているというのだからスゴイ話ではないか。私たちが求めてやまない「順体の構造」が、赤ちゃんのハイハイには有るというのである。私たちは、曾て赤ん坊の頃に体験したその四つ這い歩行のメカニズムをすっかり忘れてしまったのだろうか。
ついでながら、私たちの稽古では「這い這い」を「ヒトの四足歩行」とは言わない。それは「手足歩行」と呼ばれて、四足動物の歩行とは明確に区別されている。
この稿の始めに挙げた運動科学研究家が書いた本には、ヒトが進化してきた過程においては、魚類が陸に上がり、爬虫類から哺乳類へと変化し、哺乳類の四足動物からサルの仲間が分岐し、そこからまた幾つかの分岐があってホモサピエンスが誕生した。つまり進化という歴史を遡っていくと必ず私たち全員が四足動物に到達する・・・と書かれている。そしてそれは四足時代、あるいはそれより前に蓄積されたDNAの極めて多くが現代の私たちに伝えられ保存されていることである、などとも書かれていた。
しかし私は、「進化」というものは【より優れたものになること】であると捉えている。
つまり、人間サマが今さらわざわざ四足動物だった遙かなオオムカシを思い出さなくても何の問題も無い、そんなことをしなくても何ら不足はないではないかと、端的に思えるのである。ましてや、タモリじゃあるまいし、武術を学ぶ人が四つん這いになって爬虫類の真似をする必要なんぞ何処にもありはしないと思う。
四足動物だった頃には出来なかった高度なことが、現在のヒトには出来るのである。
それは、手足の末端が繊細な感覚に発達したために脳が発達した、などというコトだけではないと思うし、そのために身体の中心部が使われなくなったなどとも思えない。
四足動物には絶対に「纏絲勁」なんぞ出来るワケがないし、進化に於いて最も近いところの「サルにでも出来る」ようなことでもない。纏絲勁は人間だから、ヒトの構造だからこそ出来ることなのであり、逆に言えば、人間であれば誰でも出来るはずのものに違いないのである。
ヒトに進化する前の四足動物だった頃のDNAを引っ張り出して、遠く遙かな記憶を呼び起こしながら、四つん這いになって武術的に高度な身体を養成する必要はまったく無い、と私には思える。
そんなコトよりも、もっと他にやるべきこと、理解すべきことがあるのだ。
私たちには、ヒトとして進化したところの高度な運動機能が備えられている。
もし進化論が正しければ、それは「進化」してきた故のことであり、それは四足動物やその先に生じたサルの仲間たちよりも遙かに優れたものであることは疑いようもない。
その「ヒトとして進化したカラダとは何か」を解明することこそ科学であり、武術の研究や進歩発展に必要な学問であると、私は思う。
太極武藝館の稽古で行われる「這い這い=手足歩行」は、四足動物だった頃のDNAの記憶を辿るためではなく、人間本来に備えられた、動物として最も進化したところの身体構造機能を探るために行われている。
(つづく)
2012年04月15日
連載小説「龍の道」 第86回

第86回 龍 淵(9)
あれからもう、何週間か経つ。その間、何度パラシュートで空を飛んだことだろうか。
宗少尉とのタンデムジャンプですっかりスカイダイビングに魅せられた宏隆は、決められた訓練スケジュール通りに、天気さえ良ければ週末には必ずいつもの鶉野(うずらの)の飛行場に赴き、パラシュートで降下することを繰り返した。
特攻に散った人々の想いを決して無駄にしてはならないと、この滑走路から飛び立つ度に宏隆は思う。自分もまた、北朝鮮の偽装船から襲撃を受けたり、台湾のホテルから拉致されたりと、実際に短期間に二度も外国人からの干渉を受けている。それは正しくは他国の政治からの干渉であり、もしあの時に自分が平和と安全を唱えて無抵抗で居たら、今ごろこうして空を飛ぶことも出来ず、武術の訓練を続けることも出来なかったのだ。
かつての日本は、自分と同じように決して無抵抗ではなかった。欧米諸国の脅威に対して否応なく開戦を余儀なくされていった事は内外の歴史家が異口同音に指摘するところだが、敗戦は最初から日本人にも分かっていたのだと思う。分かりきっていながらも、白人至上主義を振りかざす欧米諸国がアジアへ侵攻して来ることに、アジアで唯一、日本だけが敢然と立ち向かったのである。
──────────そんな想いを胸に、今日も宏隆はセスナに乗り込む。
曾て、この同じ滑走路を特攻隊の若者が離着陸を繰り返し、日夜訓練に励んだのだ。
度胸を決めてやってみれば、これほど面白いことはない、と宏隆は思った。数ある宏隆の体験の中でも、これは最高の部類に入る。自己というものを根底から引っ繰り返すような、大きなチカラがあるのだ。
そして、想像しているのと、実際にやってみるのとでは、あまりにも内容が違っている。何よりも、数千メートルの上空から飛び出したはずなのに、自分が時速200キロで落下しているとは到底思えないのだ。むしろいつまでもフワフワと宙に浮いていられるような錯覚さえあるが、しかし高度計を見れば、否応なく刻々と自分が地面に近づいている現実が認識される。当たり前のことだが、もし良い気になっていつまでもパラシュートを開かなければ、地面に激突してしまうのである。
タンデムで飛んだのは、初めの一回だけであった。
その後は独りで飛ぶことになったのだが、無論、その前にはパラシュートのセッティングやメインテナンス、レスキューパラシュート(予備傘)を開く訓練や、メインパラシュートを切り離す訓練、着地や着水などの訓練が地上で行われる。特に着水時にはキャノピー(傘の部分)が自分の上に落ちてこないようにしたり、素早くパラシュートを外さないとキャノピーやコードに絡まって溺れる場合もあるので入念に訓練する。
実際に独りで飛び始めてからも、いきなり単独で飛ぶことはない。宗少尉が教官として近くを一緒に降下しながら、姿勢の確認や高度の確認など、空中で細やかな指導を受けながら何度も飛ぶのである。
宏隆は、わずかな訓練時間で空中で自在に姿勢を変えられるようになり、急降下や減速のための身体の使い方などを思いのまま操れるようになった。
「Very Good ! !、ずいぶん上手に飛べるようになったわね。やっぱりヒロタカは素晴らしい運動センスを持っているわ!」
着地ポイントに描かれた、直径九十センチの白い円の中にピタリと両足を乗せて降り立った宏隆に、すぐ後から降りてきた宗少尉が声を掛けた。
「そうですか、ただ面白くて夢中で繰り返しているだけですけれど────────」
まるで地上を散歩でもしてきたように、何の乱れもなく普通に歩いているように降り立つ宗少尉を眺めながら、宏隆はひたすら感心してしまう。
「一般のパラシュート・スクールでは日に3回程度のジャンプを限度とするけれど、ヒロタカの場合は学校もあるから時間的にそうも言っていられず、特殊部隊式に一日5回のジャンプまで増やしていったのだけれど・・・まあ、これで総ジャンプ回数が25回を超えたので、これからが本格的なパラシュートの訓練になるわね」
「今日も天気が良いから、もっと飛びたいくらいですね」
「私が教えることは、もうほとんど無いわ。フリーフォール(パラシュートが開く迄の自由落下)での姿勢は自在に操れるようになったから、後はいろいろな状況でたくさん飛ぶことと、決められたポイントにもっと正確に着地できるように練習を繰り返すことね」
「もっと正確にっていうと、どのくらいの?」
「直径3センチの円に、カカトを踏めることよ」
「ええっ、たったの3センチ?、昔の50円玉よりもちょっと大きいくらいの所に?!」
「そんなに驚くほどのコトでもないのよ。その程度なら一般のパラシュート競技でも軽くこなす人が多く居るわ。むしろそんな競技では、誰がそれを外すかで勝負が決まることが多いんだから」
「すごいなぁ、特殊部隊も真っ青という感じ・・・」
「いいえ、特殊部隊は百パーセントそれを外さない訓練を受けるのよ!」
「ひえっ、恐れ入りました──────────────」
「それに、様々な状況で訓練を積まなきゃいけないわ。いつかも言ったけど、ジャングルの狭くて小さなポイントにスッと降りられるような正確さが求められるのよ。そうでなくてはただの週末のアクティヴ・レジャーと同じことだから」
「哎呀(アイヤー)、難しそう・・・・」
「スポーツとしてスカイダイビングを楽しむのとは違って、ヒロタカの場合は戦闘を想定した様々な訓練がパラシュートを通じて行われることになるわ。台湾に戻ったら、早速そんな訓練が始まるからね」
「台湾で?、宗少尉が日本に居る間にやればいいのに・・・」
「だって、日本じゃ武器や弾薬を持つわけにいかないでしょ。自衛隊じゃないんだから」
「あ、武器を携行しての訓練か、それもいいな。台湾へ行く途中に襲撃してきた朝鮮の偽装船なんか、空から密かにパラシュートで忍び寄って、手榴弾を落として機関を破壊すれば良かったですね」
「・・・そうね、速い船にランディングするのは難しいので、そんなコトも訓練するのよ。まあ、訓練だから相手は実弾で攻撃してこないけどね。中国や北朝鮮の船なら見つかり次第躊躇せずいきなり撃ってくるから、覚悟しなきゃね」
「え、冗談で言ったんだけど、ホントにそんなことをやるんだ・・」
「他にも、セスナやヘリの操縦なんかも、ある程度は覚えてもらうことになるわ」
「わぁ、ホントですか!!」
「万が一、パイロットが撃たれた場合などに備えて、ある程度の操縦はできなきゃね」
「 ”ある程度” って、そんなんじゃ墜落してしまうのでは?」
「大丈夫よ、たぶん・・・」
「たぶんって、そんな無責任な・・・人命は地球より重いんですよ!」
「それは日本の話でしょ。中国じゃ昔っから人命はチリ紙よりも軽いんだから。まあヘリの操縦は難しいけど、セスナなんかはそんなに大変じゃないから・・・」
「うわ、すっごい、メッチャクチャ適当なこと言ってる!」
「あはは・・オトコは黙って訓練していればいいのよっ!!」
「ぼくはビールじゃないんだからね、もう・・」
「さあ、馬鹿なこと言ってないで、今日のジャンプはお終い。これから神戸に戻って射撃訓練よ。射撃は欠かさず訓練しないとウデが鈍(なま)るからね。今日はライフルよ!」
「格闘訓練は?」
「やりたければ、どうぞ。南京町の地下にはゴツイ相手がごろごろ居るでしょ」
「よし、今日は負けないぞ!」
「そう、その意気よ。功夫も大事だけど、まずは絶対に負けないという気持ちが大切ね」
「・・で、その後は?」
「ふふ・・たこやき、食べに行こうか────────────」
「ええっ、またタコ焼きを食べるの?」
「だって、”蛸の壺” の明石焼き、スゴく美味しいんですもの!、あのお店、これからきっと何十年も営業が続いて立派な老舗になるわね」
「はいはい、お付き合いしますよ。毎週食べないと口がナマるんでしょ、きっと・・」
「そうよ、美味しいモノだって、功夫を積まなきゃ!!」
「やれやれ・・・」
宗少尉が神戸に来てからはおよそ、そんな毎日を過ごしていた宏隆であるが、降下訓練が25回を超えた、その週末が終わった月曜日の朝─────────────
「加藤くん・・加藤くん!・・・ヒロタカ!!」
学校に向かう路を歩いていた宏隆に、後ろから誰かが声を掛けた。
「え?・・・ああ、なんだ、キミか・・・・」
「なんだ君か、とはご挨拶ね。 ”おはよう” くらい言えないの?」
「あ、失礼・・おはよう、今朝は風が冷たいね、はは・・・」
「まあ、取って付けたように!、でも許してあげるわ、宏隆は昔からそうだから」
「う、コホン・・・」
同じ高校に通う、息長珠乃(おきなが・たまの)である。
珠乃は、宏隆が小学校三年生の時に奈良から引っ越してきて、国玉通の南側にある瀟洒な屋敷に住んでいる。珠乃は宏隆のクラスに来た転校生であったが、家がすぐ側のこともあって、その時からずっと幼馴染みの付き合いが続いており、お互いの家にもよく遊びに行ったりする、親同士もよく気が合うような間柄であった。
「そろそろ六甲颪(ろっこうおろし)が厳しくなってきたわね・・」
「ん?、ああ、そうだね。♪六甲オロシにぃ、サッソウとぉ〜、ってか、はは・・・」
「何言ってるの、ロクに野球のルールも知らないくせに。それに何だかボーッとしていて、ぜんぜん颯爽としてなんかいないわ」
「ははは・・まあ、六甲颪は ”ボーラ” ほどじゃないけど、本当に寒くなってきたね」
「ああ、ボーラね。私も家族でトリエステ(イタリア北部の州都)に行ったことがあるけれど、中心街の歩道には、歩行者が風に飛ばされないために、掴まるロープや鎖がそこら中に張ってあるものね」
「そう、風速40メートルくらいの風が普通に吹くんだよな、あの街は。オートバイなんか簡単にバタバタ倒れてしまう」
「──────────加藤くん、何か悩み事でもあるの?」
「・・え、どうして?」
「最近、学校でもずっとボォーッとしているし、何だか疲れているみたいで・・」
「そう?、まあここんトコずっと飛んでたんで、そりゃ体もくたびれているんだろうけど」
「飛んでた・・って?」
「え?・・あ、そうそう、近ごろはブッ飛んでるような生活だったというか、はは・・」
「ふぅーん・・・宏隆、何か隠してるわね?!」
「そ、そんなことないよ・・・」
「いいえ、最近少しおかしいわ。特に夏休みの前と後とでは、まるで人が変わったみたいになってしまって。何があったのか、ちゃんと私に話しなさい!」
「何もないよ。なんだよ、まるで女房みたいなコト言って・・・」
「にょ、女房って・・・わ、わたし、あなたの奥さんじゃなくってよ!!」
「いや・・・だから・・まるでそんな言い方だ、って──────────」
「そりゃあ、小学校の時にすぐ側に引っ越してきてから、なぜかずっと同級生で、ほとんど席も隣か前で、毎朝わざわざ宏隆の家に寄って、ランドセルに教科書や筆バコを詰めてあげて、挙げ句の果てに本人がそのカバンを持たずに、変な棒っきれだけを大事そうに持って玄関を出ても、私がカバンを抱えて学校まで従いて行ってあげましたけどね!!」
「またそれを言う!・・小学校の時の話だろ、あれから何年経ってると思ってるんだ?」
「ひとが心配して言ってるのに、もうっ・・バカ宏隆、知らないからっ!!」
「・・あ、おい、待てよ、珠乃!・・・まったく、昔から短気なんだから・・・」
小走りをするように、珠乃がぐんぐん先に歩いて行く。
「待てよ・・・待って、ってば──────────────」
春になれば見事に桜が咲き乱れる国玉通りを東に歩いて護国神社のところまで来たとき、珠乃がクルリと振り向いて、
「はい、待ったわよ!」
「もう・・そんなコトで怒るなよ、子供じゃないんだから」
「・・あ、同い年なのに、私が今でも子供だと思ってるんでしょ!」
「また、そうやってケンカを売る・・・・」
「ケンカじゃないわ、宏隆がバカなのよ!」
珠乃がそう言い終わったとき─────────────────
「ほおー、朝からお安くないなぁ・・・・」
ぬう・・と、護国神社の脇の松林から、とつぜん学生服姿の男が姿を現した。
「誰だ────────なぜ道をふさぐ?」
「はン、この顔をもう忘れたんかいな・・・この夏に、ハンサムな兄貴に用があった時に、一緒に居た弟のお前に見事に伸(の)されて、気絶させられた男やないか!」
この物語の初めに登場した、不良学生のボスである。(註:龍の道・第2〜3回 参照)
「ああ、あの時の・・・!!」
宏隆は懐かしそうにニコニコ笑っている。
「その節はえろう世話になったなぁ、今日はわざわざ挨拶に来たんやで・・」
「すっかり元気そうじゃないか。手加減してやったから、すぐに回復しただろう?」
「くっ、相変わらず口の減らんガキやな。あの時は高校生やと思うて、つい油断したんや。けど、今度はそうはいかへんで、覚悟してもらおか!」
「なるほど、雪辱戦ってコトか。しかし、馬鹿馬鹿しいからそんな事はヤメにしないか?」
「お前には馬鹿馬鹿しくても、ワイにとっては、そやないんや。きっちり落とし前をつけんとコンプレックスになってしもぅて、これから生きて行けへんからな」
「そうか、まあその気持ちは分からんでもないが、僕はこれから学校へ行くところだから、せめて放課後にしてくれないか?」
「・・宏隆、このヒト、お友だちなの?」
心配そうに、珠乃が訊ねる。何やら凄まれていることは珠乃にもわかる。それに相手は宏隆よりも年上で体格も大きく、ナマズのように潰れた黒い顔の中で妖しく光っている眼も気味が悪かった。
「いや、友だちじゃないが、どうやら、まんざら縁の無い人間でもないらしい・・」
「へっ、こっちは忙しいンや。お前が何時にここを通るか、ずっと調べて今日が最適やと思って来たんや。ま、すぐに済むから、神社の裏まで顔を貸してもらうで!」
「やれやれ、仕方がないなぁ・・・珠乃、まあそういうワケだから先に行ってくれ」
「おっと、そうはいかんで。すぐその先には交番もあるよってな。けど、オンナを使って人を呼ぶとは、意外とお前も卑怯なやっちゃなあ」
「誰がそんなコトするもんか、ただ彼女を巻き込みたくないだけだよ!」
「いいわ、私も行く─────────────────」
「ば、馬鹿、何言ってるんだ・・・危ないから先に行ってろって!」
「いいえ、男が卑怯だと言われて、そのまま引き退がるわけにはいかないでしょ。私も行きます。行って、この人の言う ”落とし前” とかいうものがどんなものか、見届けてあげる」
「ほぉーお、今どき珍しい、えろうキモのすわった女やな。ほら、彼女もそう言ぅてるやないか、二人して仲良う一緒に来いや!」
「ば、バカ、何てことを言うんだ、いいから、合図をしたら学校まで突っ走れ!!」
珠乃の耳元まで近づいて、小声でそう言い聞かせるが──────────
「イヤよ、私だけ逃げるなんて!、宏隆と一緒に行く!!」
「お、大きな声を出すな、バカ・・・」
「人のことを、バカ、バカって言わないでちょうだい!・・・さあ、大阪弁のキミっ、宏隆に用事があるんだったら、さっさとオトシマエをつける所に案内しなさい!」
「ヒューッ!、これぁ、坊主よりもオンナの方がよっぽど強いでぇ・・ワハハハハ!!」
(つづく)
【スカイダイビングの動画・映画「Point Break」より】

*次回、連載小説「龍の道」 第87回の掲載は、5月1日(火)の予定です



