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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

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2017年09月25日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その32

   「 しなやかな強さ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 道場には色々な年代の人が通ってきていますが、特に自分より年上の人たちと比べて、
自分はとても意志薄弱で、なにかを意識的に続けていくことが出来ない弱さがある、と感じていました。
 
 それが自分の弱さだと、師父には時折指摘をして頂いていたのですが、ではどうしたらいいのだろうかと見当もつかず、本物の強さとはなんだろうと思いながら、漠然と日々を過ごしていました。 
 それが、ここ最近の出来事を通じて、強くなれたとは言わないものの、自分の弱さを克服していける方法を勉強できる機会を得たと思うところがあったので、少し書いてみようかと思います。
 
 
 ものの強さには種類があって、変化に対して脆いもの、変化にたいして強いもの、と大きく分けることが出来ると思います。
  変化に対して強いものもさらに分けることが出来て、ある程度の変化に耐えられるような強さのものと、変化があればあるほどどんどん強くなっていくもの、といえると思います。

  頑なに強いものと、しなやかに強いものと言えるでしょうか。 
 この、しなやかな強さということに対して、もっと目を向けなければいけないと思うのです。

 自然界において最大の強さは、決して負けることなく生き残っていく強さです。
 この自然界で、人間にかぎらず、あらゆるものが持っているべき、決して負けてはいけないときに持っているべき強さであり、ストレスや逆境にあったときに、それに立ち向かうことのできる種類のものです。
 
 この地球上で発生した生命が、さまざまな天災や困難に見舞われながらもまだ生き残り、かつ多種多様に反映しているのは、逆境があればあるほどより適応し、より強くなって生き残っていける強さがあったからです。
 言ってみれば、それは進化の仕組みそのものと言えるでしょうか。
 
 人間という大きさで見れば、かつて多くの英雄たちが神話において語られてきたように、自分の前に現れた困難を克服していける姿を生き方として示したようなものでしょうか。
 よし、やってやる!という決意の強さとでもいうもので、物事に対して柔軟に対応していけるようなやわらかさを持った強さなのではないかと思うのです。
 
 
 武術のことに関してはまだまだからっきしですが、自分を害そうとする敵を前にして、技術云々以前に、まずは生き残るという意志を持つ。そうしなければ生き残れないのではないかと思うのです。
 頑なに変化を拒むのではなく、かといって変化に流されていくのでもなく、第3の状態、変化を受け入れてそれによって自分が変わり適応していくことで、強くなれる。
適者生存の原理、それこそが本物の強さなのではないかと思うのです。
 
 一般的な強さとは、格闘技などでは特に、自分がどれだけ頑丈になれるか、相手に侵害されずに、相手を屠ることが出来るかという強さが求められているように思います。
 それは、まさに人工的な強さに他なりません。
 
 一度出来あがってしまったものは、自ら変化することはありません。ただ、物事が起きた事にどれだけ耐えれるかという、強度だけがためされます。
 しかし、時間の変化や物事に対して不変のものなど存在しません。いつかは、壊れてしまうはずです。
 どれだけ自分を貫けるかという、固い強さになってしまっていると、これは自分より強い相手に出会ったとき、また、柔軟に変化する相手には簡単に負けてしまうものです。
 
 出来ないことに、対応していける、取り組んでいこうとする気持ち。まずは、それに対して弱い気持ちにならず、やってみようとしなければなりません。
 そして、ただ頑なになって取り組んでいっても、状態は変わっていないので、結果もともなわないものです。
 
 
 たとえば、自分にとっては太極武藝館名物のひとつ、「起き上がり腹筋」がそうでした。
 入門して十年も経つのに、まともに出来たことがありませんでした。
 そして、それを自分の中で、出来なくても仕方ない、いまの自分には出来そうもない、と理由をつけて避けていたわけです。
 
 なかなかその状態を変えられなかったのですが、師という、きっかけを与えてくれる存在が居ることが大きかったです。

 「期日までに出来るようにすること」と言われたのが、そのきっかけでした。
 
 本当は、それも自分でそこまで持って行って出来るようにしなければいけないのですが、なかなかそうは出来なかったのです。
 
 とにかく、そう言われたからにはやるしかない、弱音を吐いている暇はなくなってしまいました。
 
 それでも最初のうちは、まったく進歩が見られず、とてもできる気がしませんでした。
 出来るようになっていくためには、なんで出来ないかを考えなければなりません。
 ネガティブ・フィードバックをしていくしかないのです。
 一足飛びに変わることは出来ないので、自分の中にある、弱い部分を少しずつ変えていくしかないと気付かされるのでした。
 
 とにかく期日までになんとかしなければ!というプレッシャーが、逆に人間に強さを与えてくれる、と、今となっては思います。それに対応、適応しなければ生き残れない!という重圧が(ちょっと大げさかもしれませんが)、人に成長する糧を与えてくれるのです。
 
 
 技術的なことを言えば、体の柔らかさや、勢いを利用した方法では、正しい「起き上がり腹筋」とは言えません。
 そもそも自分の体では柔らかさでは出来ないし、勢いだけではとてもではないですが、元の位置に戻ってこられないことは明白でした。
 
 ではどうするか? 一番のやり方は、ただ正しいやり方をやろうとするしかないということでした。
 それもただ盲目的に、漫然と行うのではダメで、創意工夫をしながら正しく挑戦するしかない、というものです。
 
 最初のうちは、全く出来ませんでした。以前はいくらか上がってきていたものが、恥ずかしながら以前よりも上がらなくなり、お尻が着いたまま上体を起こしてくるだけで、立ちあがることのできる気配など全くありませんでした。
 
 少しずつ改善していくしかありません。
 始まるときの立ち方、下りていくときの体の使われ方、下りてきてからの体の状態、見直すべき点はいくらでもありました。
 それをひとつひとつチェックしながら、少しずつ変えていくのです。
 変化としては本当に微々たるものの連続で、さっきより少し体が動くようになったとか、そういった程度のものです。
 しかし、なかなか体が起き上がってくるまでには到りませんでした。
 
 
 それでもあきらめずに続けていくと(もしかしたらそのころには、まわりのほうがあきらめムードになっているかもしれませんが…)、だんだんと自分の中で変化していっているのを感じることが出来るようになります。
 
 ほとんどやみくもに近かったチャレンジが、こうしたらいいんじゃないか、と改善点と因果関係を正しく結び始めるようになり、それに見合った結果が伴ってくるようになります。
 同じように出来ないにしても、それまでとは違ったものになってくるのです。
 
 そこまでやってくると、あきらめる必要はもう殆ど無いように感じられてきています。
 出来ない、けれど、もう少しで何かがつかめそうだ。
 起き上がり腹筋の場合は、根気よく補助をしてくれるパートナーが必須でした。
 道場の仲間というのは、本当にありがたいものです。
 
 最後の壁は、それまでやってきたものを総動員して、とにかくやってやる、という気持ちで行うことでなんとか超えることができました。
 ある日の稽古で、次の練功に移るという最後の一回のチャンスで、ようやく、立ちあがることが出来たのです。
 
 稽古中だというのに、思わずガッツポーズと声が出てしまいました。
 
 
 それと、起き上がり腹筋と前後して、個人的に、師父から体質改善の命を受けてチャレンジを続けていました。
 それも普通にはちょっと無理なのでは?と思うような課題だったのですが、とにかくやるしかない、と奮起して取り組んできました。
 
 それと併せて、前々から「走るように」と言われていたのですが、それもまた、やり方を改めることとなりました。
 
 ただ疲れるだけで効果が出ない、悪くすれば武術的に悪影響を与えかねないやり方から、
もっと正しい走り方を出来るように、少しずつ改善していったのです。
 
 「最初は早く走らなくてもいいから、走り方を見直すように」というアドバイスも頂き、見直しを重ねていきました。
 最初は、数百メートルも連続して走れなかったものが、練習を続けていく間に、ようやく10キロ走っても平気な体になってきました。
 これもまた、以前の自分からは考えられないことです。
 
 
 「起き上がり腹筋」でようやく立ち上がってこられたこと。
 おそらく、どれかひとつのことだけにチャレンジしていたのでは出来なかったと思うのですが、同時に取り組んでいたいくつかのことが自分の中で、確実に実を結んでいったことの結果なのではないかと思います。
 
 人には得意不得意があるので、ある人には簡単に出来ることが自分には難しく、またその逆もあると思います。
 それと、誰もが難しいと感じてしまうようなことも、当然あります。
 
 観方を変えれば、取り組んだことがないことを目の前にしたとき、最初から出来なくても当たり前のことだといえます。
 そうなったときに、あきらめてしまわずに、とにかく取り組んでみることが大切なのだと思うようになりました。
 
 場合によっては、既に出来る人から見れば幼稚なレベルにしか見えないかもしれません。また、自分の中の、何か「出来ること」と比較して、あまりにちっぽけすぎて、なんの意味もなさないように感じるかもしれません。
 
 けれど、そこであきらめずに、やり続ければ、変化は確実に自分の中に蓄積されていきます。それまでのやり方を自分の中に持ったままにしてしまうと、おそらくその小さな変化が見過ごされてしまうのだと思います。
 そうすれば、それはいつまでたっても出来ないままで、だんだんと続けるのが嫌になってしまうのだと思います。
 
 戸惑いの中にあっても、とにかく続けていくこと。
 それがある瞬間、ぱっと違った世界に連れて行ってくれるのだと思います。
 
 一般的に難しいのは、何かに取り組むときに、体系的に段階を踏んで挑戦していくことなのだと思います。
 自分の経験から、改めて振り返ってみると、太極拳というのは、少しずつ登っていける階段が用意されている、すさまじい学習体系なのだと感じさせられました。
 
 自身をふりかえってみると失敗のもとは、早く強くなりたいという思いから、一足飛びに上を目指そうとしてしまっていたところ、といえるでしょうか。
 本当は目の前に次の一歩があるというのに、そこを無視して進もうとしては、いずれ壁にぶつかってしまいます。
 
 地道にコツコツと。
 そうして得られるものが、本当に自分の中に根付いていく功夫なのだという気がします。
 

 体質改善の命令は今も挑戦中なのですが、その中で、自分は変わっていけるのだという、確かな手ごたえを感じることが出来るようになりました。
 
 そのチャレンジが終わっても、また次に、今度は自分で立てた目標に向かって、少しずつ続けていこうかと思っています。
 それが楽しみなのは、いままでになかった感覚で、自分自身にとって一番驚きの変化でしょうか。 

                                 (了)





*次回、「今日も稽古で日が暮れる/ その33」の掲載は、11月22日(水)の予定です


2017年09月01日

連載小説「龍の道」掲載遅延のお詫び

日頃より「龍の道」をご愛読いただき、誠にありがとうございます。

本年の春ごろより私事による多忙が続き、
中々ブログの掲載予定日に原稿をアップすることが叶わず、
たいへん心苦しく思っております。

前回と同様、本日予定された掲載も行う事が出来なくなってしまいましたが、
来月には何とか「龍の道・第200回」を掲載できるよう精一杯努力いたしますので、
今暫くのご寛容を頂きますよう、お願い申し上げます。


                     春日 敬之 拝

taka_kasuga at 19:36コメント(0) この記事をクリップ!

2017年08月01日

連載小説「龍の道」掲載延期のお知らせ

日頃より「龍の道」をご愛読いただき、ありがとうございます。

本日、8月1日(火)掲載予定の「龍の道・第200回」は、
著者が引き続き大変多忙のため、残念ながら掲載を延期させていただきます。

愛読者の皆さまには誠に申し訳ありませんが、
何とぞご諒承くださいますようお願いいたします。


        太極武藝館 Official Blog ブログ・タイジィ 編集室

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2017年07月27日

練拳Diary #79「武術的な稽古」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 梅雨が明けて暑さが一段と厳しくなり、照りつける日差しが容赦なく肌を焦がすようになりました。ここ本部道場の稽古では、以前にも増して高度な内容が展開され、消化するのに必死な毎日です。

 さて、今回は稽古の中でも「対練(対人訓練)」に焦点を当てて、思うところを述べたいと思います。

 対練の稽古には幾つかの稽古方法がありますが、主なものには「役割を攻撃と防御に分けたもの」と「役割を分けずに行うもの」があります。
 対練で役割を分けることには、他にも「受け」と「取り」と呼ばれるものがあり、その時々の対練で、師が示された課題を行う側が「取り」で、それに対して「取り」が技法を学べるように、打つ・崩すなどの攻撃を仕掛けて行く側を「受け」と呼びます。正に、相手の技術を受けてあげるわけです。

 対練は、どちらの役割でも太極拳の基本功で学ぶ正しい身体の整え方と使い方が要求されるので、こちらが「受け」の立場でも、決して相手の技や力を受けて、打たれたり崩されたりしてあげるわけではなく、あくまでもこちらの攻撃が相手に対して実際的に有効であることが条件となるわけです。

 ちょっと極端かもしれませんが、料理でたとえれば ”作り手” と ”食べる人” とも表せるでしょうか。
 「取り」を作り手、「受け」を食べる人とすると、食べる方は出された料理をただ「食べられる」とか「美味しい」と言って食べてあげるのではなく、その料理を深く味わい、料理した人のことまで分かるような状態で居ることです。
 余談ですが、私は料理を作る事とそれを食べること、つまり「食事」に於いては、料理が美味しいだけでは不十分ではないかと考えたことがあります。たとえばその料理人と料理とが一流であるならば、それを余すところなく味わい、それが一流であることを見抜けるだけの、食べる側の一流の資質が必要であり、自分が一流を志す姿勢がなければ、作り手と食べる人による「食事」という行為も完結しないような、そんな気がするのです。
 そう考えると、作る側も食べる側も、一期一会の真剣勝負となり、たかが食事といえども武術と何ら変わらないものと言えそうです。

 さて、実際の対練についてです。
 「受け」の攻撃に対して「取り」の動きが優位であった場合には、当然「受け」の攻撃は無効になり、反対に「取り」の反撃が有効になります。
 武術的に考えた時、「受け」は「取り」の反撃に対してもまだ動ける身体の状態が要求されます。
 たとえば、その対練でのみ有効な力みや踏ん張りは、相手の攻撃がナイフなどの武器であった場合には何の効果もなく、それらは非武術的な行為であると言えます。
 正しい稽古の状態として、「取り」が優位であるために「受け」が反撃された場合、あるいは「受け」が反撃を躱して避けることしかできずに優位に立てなかった状況は、稽古中に幾らでも生じてくるのですが、そのような稽古風景の動画を見た外部の方より、『あれは馴れ合いで倒されている、同門同士でなければ通用しない』といった内容の感想を耳にしたことがあります。
 それは、ことさら私たちの道場に限ったことではなく、斯界ではよく話題になることらしいので、この際「馴れ合い」について少し考えてみることにしました。

 馴れ合いとは、既にお互いに動きや力の大小、向かって来る方向などが分かっている状態で、相手の力や技に対して適当に折り合いをつけて、いい加減に受けたり流したりすることである、と言えるでしょうか。
 これを武術的に考えてみると、例えば、お互いにナイフを持っている、または片方だけがナイフや銃を持っているとすると、その途端に馴れ合うことは大変難しくなります。
 なぜなら、いずれも実際に傷つき、怪我をする可能性が出てくるからです。
 稽古ではもちろん本物の銃を持って向かい合うことは出来ませんが、たとえ電動ガンでも弾丸の入った銃口を向けられた時には、お互いに ”馴れ合う” などという気持ちにはとてもなれないものです。
 また、稽古では実際に本物のナイフを持って素手の相手に斬りつけて行くこともありますが、通常ならどう考えても武器を所持している方が有利に思えるところが、実際に大型ナイフを持って相手に向かうと、相手が素手であっても、ある種の緊張感で一杯になります。
 それは、下手な動きをすればナイフを持っている自分も危ういということが、理屈ではなく身体で実感出来るからであり、私の場合は何度行っても、決して有利に立ったとは思えませんでした。
 ナイフは、それ自体が十分な殺傷能力を持つ物です。そして、それを手にして構えたときの緊張感は「危機感」とも言い換えることができるので、武術の稽古中に馴れ合う事が出来る状況とは、「危機感が欠如した状態」であると考えられます。

 それでは、「馴れ合いではない状況」とは、どのようなものなのでしょうか。
 先ほどの検証からも分かる通り、先ずは「危機感が存在する」ということが言えます。そしてそれは、「武術=戦闘」の為の稽古をしている限りは、武器の有無に関係なく、常に持っていなければならない感覚です。
 たとえスポーツの世界でも、試合のための練習で ”馴れ合う” などという事は考えにくいですし、たとえ実際の試合を想定したような練習ではなくても、遊びではなく練習である限りは、馴れ合いの感覚は上達の妨げになると思えます。

 反対に、「馴れ合いであってはならない」と言う場合、一般的にはそれがどのように捉えられるのかも考えてみましたが、それは、お互いに「本気で打ち合う」とか、実際に相手に「ダメージを与えられるようにする」ということになるでしょうか。
 確かにこれだと、相手にやられる危機感もあれば、それを必死に防ぐ工夫もできるのかも知れませんが、やはりそれでは肝心なことが抜けてしまっています。
 それは、本物のナイフを持った時に、お互いに本気で刺し合ったり、相手にダメージを与えることを目的にしていたのでは、全く稽古にならないということです。
 つまり、「実戦のための練習なら殴り合うのが手っ取り早い」という考え方もまた、所詮は危機感の欠如から来るものであり、実際に生命が脅かされないような、「術理の必要性」が無いような稽古は、限りなく ”馴れ合い” に近いと言えます。

 私たちが「武術の稽古」について度々述べる機会を設けるのは、日々の稽古で、まさにここのところが重要だと考えるからです。

『その対練は、お互いに武器を持っていても、同じ考え方で、同じ様に動いていたか?』
  ────────この問い掛けを、稽古中に何度言われたか分かりません。

 危機感の欠如は、私たち現代人が武術を修得しようとする上で、ひとつの大きな問題となって降り掛かってきます。
 相手がナイフを持っていなくても、持っているかのような気持ちで向かい合えること。
そして、お互いにナイフを持って向かい合っても、ただ相手の身体に刃を当てることを目的とせずに、実際に相手に有効な攻撃ができる身体操作の追求を目的とすることで、「武術」としての稽古が可能になり、ただの一本の攻撃が、術理の力を伴った有効な攻撃に変わるのだと思います。
 実際に、稽古で最初から相手の打撃に恐怖を覚えるような状況では、術理としての自分の身体操作や、相手との間合いを充分に心掛けることなども難しくなります。

 『稽古では実戦のように、実戦では稽古のように』とは、拝師弟子や一般門人を問わず、武術を志す者の心構えとして、師から幾度となく指導されてきたことですが、先ほど述べた「危機感の欠如」と同じく、その精神状態が身に付くのは容易なことではありません。

 武術という術理の世界を正しく認識し、正しい稽古を積み重ねていくこと。
 ありきたりのことかも知れませんが、やはりそれしか無いのだと思えます。


                                   (了)


2017年07月15日

連載小説「龍の道」掲載延期のお知らせ

日頃より、連載小説「龍の道」をご愛読いただき、ありがとうございます。

7月1日に掲載の、記事の末尾でもお知らせをいたしましたが、
本日、7月15日(土)掲載予定の「龍の道・第200回」は、
著者がたいへん多忙のため、掲載を延期させていただきます。

楽しみにお待ち頂いている皆さまには誠に申し訳ありませんが、
何とぞご諒承くださいますようお願いいたします。


        太極武藝館 Official Blog ブログ・タイジィ 編集室


tai_ji_office at 19:03コメント(0)お知らせ この記事をクリップ!

 北朝鮮の拉致を許すな!



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