Welcome to Blog Tai-ji



  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

  また、当ブログを快適にご覧いただくために、
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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2017年11月01日

連載小説「龍の道」 第200回




第200回 NEW YORK (2)


 「あっ──────!!」

 開いたドアの向こうに広がる壮大な夜景に、宏隆は思わず息を呑んだ。
 いったい此処はどこの高層ビルで、この階は何階なのか。周りに見えるまるで星屑を散りばめたようなビル群も決して低くはないが、いま宏隆が観る目線よりも、どれもかなり下に見えている。

 山の手の家から一千万ドルと喩えられる神戸の夜色を見慣れている宏隆には、シアトルやサンフランシスコは無論、ナポリ、シドニー、香港など、どこへ行ってもそれほど驚くようなことはなかった。だが、この景色は六甲山や ”スペースニードル” から見下ろすそれとは少し違って、まるで夜景の中に自分が居るような感覚になってくる。
 【編註*:スペースニードル(Space Needle):ワシントン州シアトルの万博記念塔。UFOが塔の上に乗っているような奇抜なデザインで知られる】


「ようこそ、ミスター・カトー。よく来てくれましたね」

「やっぱり・・あなたが現れると思っていました」

「初めまして、ではないね──────WASILLA(ワシラ)の山荘で、すでに君と顔を合わせているから」

「カーネル(Colonel=大佐)、でしたね。雪の山荘では、暖炉の前でシガーとコニャックでお寛ぎの最中に、たいへん失礼をしました」

「ははは・・君はおもしろい。若いのに、まるで老練な人間のような話し方をする」

「さて、僕に話があるようですが、それにしては、ずいぶん大掛かりな招待の仕方ですね。誕生日のサプライズというワケじゃなさそうだし」

「ははは、敵地に侵入して見事に脱出もする手腕ばかりでなく、ジョークもジェームスボンド並みだね。君とはじっくり話ができそうだ」

「話なら、街角のカフェでもできる。わざわざ手の込んだ誘拐をしなくても、ね」

「まあそこに掛けたまえ。何か飲むかな?、ミスター・カトーは珈琲がお好きだったね。  
 それに、かなり腹も減っていることだろう。あいにくKOBEフロインドリーブのゲベック(ドイツ風のペイストリー)やニシムラコーヒーこそ無いが、ここのキッチンではアメリカ伝統の美味いサンドウイッチならすぐに用意できる。具はターキーがお好みだったかな? 好きなものを何でも、遠慮なくそこのバトラーに申し付けてくれたまえ」

「ほう、すでに僕のことをよくご存知のようだ────────
 では、お言葉に甘えて、フランス式のキャフェ・オレに、6インチのイタリアンロール・サンドウイッチ、中身はローストターキーにオールド・イングリッシュ・チーズを添えて、ブラックオリーブ、オニオン、マスタードは多めに、アーモンド入りのバジルソースで。
 それに、ライブレッドのBLT(ベーコン・レタス・トマト)もだ。ライブレッドは日本のホテル・オークラのレベルとは言わないが、中粗挽きの全粒粉でキャラウエイシード入りならなお結構。軽くトーストをして。それに、水から茹でた5分30秒のボイルドエッグを2個付けて」

「・・Certainly, sir.(かしこまりました)」

 捕らわれの身の宏隆が、立て板に水を流すように堂々と食事を注文するので、カーネルに従(つ)いているバトラーは少し呆れ顔で去って行く。
 だが、腹が減っては戦(いくさ)が出来ぬ。機を伺ってここから脱出するにしても、空腹でヨロヨロしている状態では何も思うようには動けない。相手が敵だからと言って感情的になっていては闘う前に負けたも同然だ。せっかく食事を提供するというのだから、先ずは充分に腹拵えをして行動のエネルギーを確保し、然るべき時に備えるのが正しい──────
宏隆には、そう思えたのだ。

「なるほど、その人間の出自や本性は本人の食べ物でも分かると聞くが、本当らしい。
 心が貧しい人間は、たとえどれほど金持ちになっても、その貧しさ自体は少しも変わらないままだが、反対に、豊かさをカネや物で測らない人間は、どんなに惨めな時でも、その豊かさが何も変わらない、という──────君は良い家に生まれたようだな」

「そんなことより、宗少尉はどこに居る? 先に無事を確認させてくれ」

「ああ、Ms. Zong Lihua(ミズ・宗麗華)は、別の部屋で話を伺っているところだ。
 取るに足りない台湾のちっぽけな秘密結社だとは言っても、君たち玄洋會はなかなか手強い集団で、以前から興味があったからね。キミを拉致しようと企んだ北朝鮮の特殊部隊をいとも簡単に潰滅させてしまうのだから大したものだ。あの時は君も大活躍だったようだね。
 相変わらず秘密結社の皆さんはカンフーの訓練をしているのかな?、ハァーッ、ハッッ、ハァッ!、アチョォーッ!、などとやるのだろう? あははは・・」

 カーネルは、少しおどけた格好で手足を振りまわし、映画のブルースリーのように拳や足を振り回して物真似をした。

「貴方たちの目的はいったい何だ? 何のためにわざわざ僕らを捕らえ、遙々アラスカからここに連れてきたのか、先ずはそれを聞かせてもらおう」

 宏隆が、少し語気を強めて、そう言った。

「ふむ、怒ったかね? 人間は誰も空腹だと怒りっぽくなるものだ。間もなく食事が来るから、まあ落ち着きたまえ。そうだ、ちょっとこの夜景でも観てみないか」

 高い天井から床まである、大きなガラスの窓際に歩いて、宏隆をいざなう。

「うーむ、見事な夜景だ。たぶんニューヨークだな、ここは──────」

「おお、流石は Kobeite(神戸っ子)だ! 眠らされて空路をアラスカから連れて来られたというのに、夜景を見ただけで、すぐにここがニューヨークと判るのか?」

「ただの直感だ。あなたがユダヤ人で、こんな世界一の大都会で高層ビルを所有する、非常にリッチな人間だということは、特徴のあるその顔を見れば分かるが」

「ミスター・カトー、今ここに見えている景色の、ほとんど全ては、私たちが造ったものなのだよ」

「ほう?・・つまり、あなた達はニューヨークの建設業者ということかな」

「ははは、君は本当におもしろい。だが、まだ若い──────この世界が一体どのように動いているのか、きちんと知っているかね?」

「ユダヤの国際資本家たちが、我が物顔に世界を牛耳っているらしいのは聞いているが」

「ふむ、それはそれで正しい。だが流石にその真の目的までは分かっていないはずだ」

「目的は極めて単純だろう──────グローバリゼーション、経済構造の改革を武器に、ユダヤ人の考え方で、世界を恣(ほしいまま)に支配することではないのか?」

「君が想うような支配が目的なのではない。それに、支配自体が目的なら現時点でほぼ完遂しているとも言える。そして、これからは、わずか数十年の間に、さらにそれがシステマティックに行われるようになる」

「大きく出たものだな。それを証明できるのか?」

「できるとも・・君は銀行預金やクレジットカードを持っているかね?」

「今の世の中は、それが無ければ始まらない。先進国ではなおのことだ」

「そのシステムを創ったのは、私たちなのだよ」

「資本家や銀行家のやった事だというのは、よく分かっている。だがそれで世界を支配できるというのは、少々烏滸(おこ)がましいのではないか?」

「社会のシステムを、キミはまだ分かっていないようだ。君たちが所属する社会の構造というものが、どのように出来ているかを全く認識していない、ということになる」

「多くの民族があり、領土があり、そこに居住する人々によって造られる国家があり、そのような国家が多く存在する地球という惑星が太陽系にある──────簡単に言えばそういうことだ」

「では、君の言う ”国家” とは、何によって統治されているのかね?」

「どこの国家も、主権としての統治権を持つ政治組織によって統治されている」

「つまり、政治とその制度が国民を統治している、と言うことかね?」

「そうだ、そんな事はどの国の小学生でも知っている」

「あははは・・・これは可笑しい!!」

「なにが可笑しいんだ?」

「いや、まだそんな戯言(たわごと)を言うスパイが地球に居るのかと思ってね」

「それを戯言だと言うのか? それに僕はスパイじゃない。祖国や自分を脅かす人間に対して当然の抵抗しているだけだ」

「ふむ、なるほど・・・だが、国家を統治しているのは政治ではないよ」

「では、何だというのだ?」

「BANK──────キミもよく知る、銀行だよ!」

「国家を支配しているのは、銀行だと言うのか?」

「そのとおり、だからこそ私たちは、”銀行” というシステムを発展させてきたのだ」

「あはは、そんなバカな。銀行家は国家元首よりも偉いとでも言うのか?」

「そうだ。それは厳然たる事実なのだ。今日では銀行のシステムは、実際に国家の支配だけでなく、世界を支配することまで出来るようになってきた」

「まるで狂人の妄想のように聞こえるが・・では、その可笑しな理論を、アタマの悪い僕にも分かりやすく解説してもらえないか?」

「良いとも。君の考えを根本から改めてあげよう──────例えば、事業を興すには資本が必要だね。その資金は銀行から融資を受けるか、株券や債券を発行するか、いずれにせよ金融機関を通す必要が出てくる」

「だからと言って、銀行が国家を支配しているとは言えない」

「まあ、私の話を最後まで聞いてほしい・・・銀行と取引があれば、大きなお金を融資してもらう事ができる。ビジネスを大きくするためには融資が必要になる。君の父上のような大きな資産家でも、必ず銀行との取引があるはずだ」

「それはそうだが」

「そして、銀行から融資を受ければ、銀行は企業の債権者となり、反対に企業は銀行の負債者となる。つまり企業は銀行から借りたお金を返済する義務を負うわけだ」

「そんな事くらい、誰でも知っている」

「そう、そして銀行は、企業の債権者であるがゆえに、その経営状態を把握することができるし、経営それ自体についても口を夾む権利がある。つまり、銀行を利用した時点ですでにチカラ関係としては企業よりも銀行のほうが強い立場と言えるのだ」

「それはそうなのだろう。だが、そのこと自体が国家の統治力に勝るとは言えないはずだ」

「そうかな? では国家は、その国を営むための収入を、どこから得ているのだろう?」

「税金に決まっている。どの国も、税金がなければ国家経営は成り立たない」

「そうだ。だがその税金、商品に掛かる物品税や所得税、消費税などは、各企業が営利活動を行うからこそ、そこに国家が税金を掛けることができる。政治家にしても、よほどの資産家の息子でもない限り、企業からの政治資金の献金がなければ選挙資金さえ賄えず、政治活動自体が成り立たない。要するに、企業が利益を出さなければ国家の運営も政治も成り立たない、と言うことになる」

「つまり、銀行>企業>国家という図式──────国家よりも企業、企業よりも銀行の方が強い、というチカラ関係になる、と言いたいのか?」

「そのとおりだ。ミスター・カトー、なかなか物分かりが良いじゃないか」

「だが、実際は国家が銀行や企業の存在を認めて、その営利活動を法的に許可しているからこそ、銀行も企業も成り立っているはずだ。それが法治国家というものだろう」

「確かに、表向きにはそのとおりだ。だが本当のところは、それは建前に過ぎない。
 実質的には銀行と企業が国家の上に君臨している。だからこそ、このような貨幣経済社会に於いては、お金を持っている者と、お金を操作できる者が、最も強大な権力を持つのだ。大資産家である君の父上の言うことも、日本の政治家は喜んで聞いていることだろう」

「世界はカネで回っている、それを支配できる者が世界を支配する、ということか。
だから、マイヤー・アムシェル・ロートシルト* は、『私に一国の通貨の管理権を与えてくれれば、誰が法律を作ろうとかまわない』などと、豪語したのだな」

【註*:Mayer Amschel Rothschild(1744~1812)=ロスチャイルド財閥の基礎を築いた初代。フランクフルトでユダヤ人銀行家オッペンハイム家に12歳から丁稚奉公し、古銭商人を経てヘッセン・カッセル方伯(ほうはく)家の御用商人となって成功し、ナポレオン戦争で大きな財を成した。当時のフランクフルトのゲットーに住むユダヤ人には家名がなかったが、暮らしていた家が赤い表札であったため、ロートシルト(ドイツ語で”赤い表札”)と名乗り、以後もそれが家名として使われた】


「そのとおり、よく知っているじゃないか、はははは・・」

「経済のシステムは勉強を始めたばかりだ。特に通貨システムの裏側を知らなくては、世界がどのように動いているか、本当のところは全く分からないと、今の話を聴いて思えるようになってきた」

「それはとても良いことだ。格闘に精通し拳銃を振り回していても、世界は分からない。
君の言うとおり、この世はカネで動いているのだから」

「だが、世界がカネで動いていても、それを人生の目的としない人はいくらでも居る。人生の目的を人間性の成長におき、精神的により進化していくことこそ、人として最も尊いことだと僕は信じている。この広い宇宙には、そんな精神的進化を遂げた生物が多く存在しているはずだ」

「Oh、ゼン・メディテーションだね!・・なるほど、そういった趣味も必要かもしれない。絶対的な支配を受けている事へのストレスを紛らすには、たしかに良い健康法だろうな」

「禅や瞑想は趣味で行うものではない。それは古今東西の賢者たちが見出した、人が人としてより高く進化していくための優れた方法だ。そんなことがカネの亡者に分かるものか」

「それは失礼した。だが、君の父上もその意見に賛成するだろうか?」

「何だって・・・?」

「日本でも有数の資産家である君の父上、ミスター・ミツオキ・カトーには、近々私たちと一緒に働いてもらおうと考えているのだ」

「父を、お前たちの配下にするつもりか?!」

「配下ではない。同じ立場で仕事に携わってもらいたいと思っているだけだ」

「ば、ばかな──────息子を誘拐して監禁した挙げ句、言いたい放題を言うような人間に、父がそう簡単に協力関係を築くワケがないだろう!」

「ははは、そうかな・・?」


                                ( つづく)





  *次回、連載小説「龍の道」 第201回の掲載は、12月1日(金)の予定です

2017年10月25日

練拳Diary #80「台風に思うこと」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 先週末、10月22日に超大型の台風21号が静岡県の御前崎を直撃し、本州に上陸しました。
 強風域の直径2,200km、最大風速50mという「超大型」の呼称のまま日本に上陸した台風は観測史上初めてということですが、普段から雨が少なく、めったに大雨に降られることがない本部道場でも、この日は窓一面に大粒の雨がひっきりなしに叩き付けられ、稽古を終わろうという夜中になっても、渦巻く風の音が止むことはありませんでした。
 その日は、いつものメンバーに加えて、札幌、東京、長野からも、門人が稽古に出席するために来ていました。
 「大事な稽古が行われる」となれば、たとえ超大型の台風が来ていようとも彼らには関係なく、帰るための交通機関が動いている間は問題無いとして、一心不乱に稽古に励むのでした。
 きっと、本当は交通機関がストップしようとも、貴重な教えを受けられるのであればそれで良い、とさえ思っているに違いないのです。また、そう思えるだけの教授内容がこの道場には確かに存在するし、それを修得するためには、並大抵の熱意と努力では報われないことが感じられるからこそ、緊急速報で避難準備警報が鳴り響く中であっても稽古に没頭できるのだと思います。

 さて、この日も充実した稽古が十分に行われた後のこと、とある問題が発生しました。
 帰り支度をしていたAさんとBさんの2人にふと目を留めると、いつもの稽古帰りと同じ服装をしていて、とても今から暴風雨の中を帰るとは思えませんでした。
 念のため「合羽を持っていますか?」と聞くと、Aさんは何と「家にあります」と答え、Bさんは「車の中です」と答える有り様です。
 台風が一日中荒れ狂った挙げ句、あと数時間で最大のピークを迎えるという大雨と暴風の状況下で、カッパの一枚も無いという事態に、師父と私はとても驚きました。

 もちろん、台風が来ることは事前に分かっていたはずですし、彼らにその準備をする時間が無かったわけでもないのです。けれども、Aさんは先日のキャンプで使用したカッパを焚き火臭いという理由で、拭いて家に干したままにしており、Bさんは駐車場まで持ってきていながら、わざわざ車に置いてきていました。
 きっと、2人が稽古に来るために外に出たその時は、雨が止んでいたのでしょう。けれども、帰りたい今この時に、暴風雨を遮るためのカッパが無いのです。

 普通の人は、結果的に無事に家まで帰ることが出来た場合には、もしかしたら、「雨具がなくてもそれほどひどい目には逢わなかった」「自分は無事だった」と考えるかも知れません。しかし、それは全く結果オーライではないのです。

 『一番の問題は、そのとき結果的に無事であったかどうかではなく、超大型の台風が直撃するその日に、鞄に合羽を入れてこなくても大丈夫だと思えてしまうような、その高を括れてしまう精神性のままでも、太極拳のような高度な武術を修得できると思っていることだ』と、師父は仰います。
 また、『人間の中身はひとつなので、日常の備えに対しては高を括ってしまうけれど、深遠なる太極拳には真摯に向かい合う、などという器用なことは出来ない』とも仰いました。

 確かに自分のことを振り返ってみても、何かを軽んじている時や、何かに対して傲慢になっている時というのは、その対象となる「何か」が問題になるのではなく、常に自分自身が軽薄であったり傲慢であったりしますので、対象毎に自分を分けることは出来ません。
 太極拳は、自分にとってとても難しい武術だと感じられます。けれども、その「難しさ」を掘り下げていくと、何もかもが「自分勝手に出来ないこと」に辿り着きます。太極拳が難しいのではなく、自分勝手に出来ないために難しいと感じられていたのです。
 示されていることを、自分を挟むことなく、そのままその通りに受け取れること。それを可能にする精神性と意識を養うために、道場には細かい礼儀作法や道着、身嗜みなどまでもが細かく定められているのだと、今となってはよく分かります。

 「高を括る」ことは、言わばその場限りの自己満足です。今回の事で言えば、カッパを鞄に入れていかなくても良いと判断したとき、不測の事態に備えることよりも、自分の都合を優先したというわけです。
 ちなみに師父はその日、台風の影響で帰宅が困難となっても良いように、日常の装備に加えてビバーク(不時の露営)の出来る準備と、ガスストーブなども持って来られていたと聞きました。
 結局それらの装備は使わずに済みましたが、もしもその日帰れない状況になったとしたらどうでしょうか。たとえば、台風で倒れてきた木が車に直撃して動かせなくなっていたとしたら・・真夜中の駐車場に来て潰れた車を見て呆然としている時点で、師父はカッパの上下に身を包み、ザックには防水カバーまで掛けてありますが、彼ら2人はすでに全身びしょ濡れで、どんどん体温と体力が奪われていきます。その後、仮に風雨を凌げる場所を見つけたとしても、濡れた服がカッパだけなのと、着ていた服装の全部がビショ濡れの場合とでは、身体を温めたり、お湯を沸かしたり、温かい食事を摂ったりするための、次の行動に取り掛かるまでの時間や労力が大幅に変わってくることでしょう。
 実際にどのような状況でも動ける人と、限定された状況でしか動けない人との違いが、ここに表れるような気がします。

 私たち現代人は、ともすれば「今までもこれで大丈夫だったから」という浅薄な発想から物事を判断し、実行してしまいます。なぜ「これではダメかも知れない」とは考えないのでしょうか。
 思い当たることは、いつも師父が私たちに仰るように、周りを見渡せば24時間開いているコンビニがそこら中にあり、手元には万能とさえ思える魔法のスマートフォンがあるからなのだと思います。コンビニが悪いのではなく、コンビニがあるから大丈夫だと思える私たちの頭がオカシイのです。便利さ、安易さ、簡易なことが当たり前になってしまっていること、これほど恐ろしいことは無いと思えます。なぜなら、便利さと引き換えに、私たちは「自分で考える力」を失っているからです。

 さあ、それなら人間の野生と本能を呼び覚ますために野外訓練をしよう、と思い立てば、もちろん雨具は持って行くに違いないのですが、今度は野営のための火が熾せないという事態が起こります。
 すぐに火の着くガスレンジや電子レンジで育った私たちにとって、野外で火を熾すことはとても難しいことなのですが、やはり、そこには「これで火が着くはずだ」という自分勝手な思い込みが存在します。私が太極拳を難しいと感じることと、火を熾すことを難しいと感じることは、実は同じことなのです。
 何が問題で、何が解決になるのか。それを瞬時に分かり、解決のために実行できるようになるには、一朝一夕には不可能です。
 普段から、根拠もなく「きっと大丈夫だ」と思うのではなく、「何が起こっても大丈夫なように準備しておく」というその心構えが、自分が修得したいと思える太極拳に向かう心構えと同じであり、その心構えで修練を積み重ねた結果として、戦って生きて帰れる強さへと繋がっているのだと思います。

 本部道場で開催された『CQC特別講習会』では、日常生活から被災時を含む様々な状況での危機管理についても講習が行われていますが、今回のようなことが起こると、その講習の中で師父がいちばん初めに仰っていた、『誰もが自分だけは大丈夫だと思っている』という言葉が思い起こされます。

 大型台風が御前崎を直撃したその日、札幌から稽古に来ていたCさんは、やはり豪雨の対策となる物を何も持っておらず、コンビニでカッパを買って最終電車に乗り込んだものの、到着した駅から24時間営業のファミリーレストランに向かい、バスの出発時間まで温かな数時間を過ごすつもりが、向かう途中で風雨の酷さに身の危険を感じて引き返し、駅付近にあるバスターミナルの地下で風雨を凌ぐことになりました。結局その夜は、稽古の帰り際に師父に頂いたリンゴとバナナが夜食になったそうです。
 後日ご本人から聞いた「本当に美味しかったです」という言葉からも、Cさんがどのような心境で一夜を過ごしたかが伺えます。

 「災害時には不測の事態が起こる」と言われていますが、今回の台風のことから、実は日常生活においても、本当はずっと不測の事態が起こっているのだと思いました。ただ、それが幸いにも大ごとでは無いために気付かなかったり、慣れてしまって何とも思わなくなっているのではないでしょうか。
 日常の自分勝手な習慣を、身体面でも精神面でも否定し、物事本来の正しい法則を見つけて、身に着けていくこと。これは太極拳の修得に欠かせないことですが、同時に災害時に生き残ることや戦争時に生きて帰れる事にも繋がり、延いては人間性の成長にも繋がるはずです。

 「降らずとも傘の用意──────」

 千利休が遺したこの言葉の意味を、今一度深く考え直してみようと思えた、この度の台風でした。

                                   (了)

2017年09月25日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その32

   「 しなやかな強さ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 道場には色々な年代の人が通ってきていますが、特に自分より年上の人たちと比べて、
自分はとても意志薄弱で、なにかを意識的に続けていくことが出来ない弱さがある、と感じていました。
 
 それが自分の弱さだと、師父には時折指摘をして頂いていたのですが、ではどうしたらいいのだろうかと見当もつかず、本物の強さとはなんだろうと思いながら、漠然と日々を過ごしていました。 
 それが、ここ最近の出来事を通じて、強くなれたとは言わないものの、自分の弱さを克服していける方法を勉強できる機会を得たと思うところがあったので、少し書いてみようかと思います。
 
 
 ものの強さには種類があって、変化に対して脆いもの、変化にたいして強いもの、と大きく分けることが出来ると思います。
  変化に対して強いものもさらに分けることが出来て、ある程度の変化に耐えられるような強さのものと、変化があればあるほどどんどん強くなっていくもの、といえると思います。

  頑なに強いものと、しなやかに強いものと言えるでしょうか。 
 この、しなやかな強さということに対して、もっと目を向けなければいけないと思うのです。

 自然界において最大の強さは、決して負けることなく生き残っていく強さです。
 この自然界で、人間にかぎらず、あらゆるものが持っているべき、決して負けてはいけないときに持っているべき強さであり、ストレスや逆境にあったときに、それに立ち向かうことのできる種類のものです。
 
 この地球上で発生した生命が、さまざまな天災や困難に見舞われながらもまだ生き残り、かつ多種多様に反映しているのは、逆境があればあるほどより適応し、より強くなって生き残っていける強さがあったからです。
 言ってみれば、それは進化の仕組みそのものと言えるでしょうか。
 
 人間という大きさで見れば、かつて多くの英雄たちが神話において語られてきたように、自分の前に現れた困難を克服していける姿を生き方として示したようなものでしょうか。
 よし、やってやる!という決意の強さとでもいうもので、物事に対して柔軟に対応していけるようなやわらかさを持った強さなのではないかと思うのです。
 
 
 武術のことに関してはまだまだからっきしですが、自分を害そうとする敵を前にして、技術云々以前に、まずは生き残るという意志を持つ。そうしなければ生き残れないのではないかと思うのです。
 頑なに変化を拒むのではなく、かといって変化に流されていくのでもなく、第3の状態、変化を受け入れてそれによって自分が変わり適応していくことで、強くなれる。
適者生存の原理、それこそが本物の強さなのではないかと思うのです。
 
 一般的な強さとは、格闘技などでは特に、自分がどれだけ頑丈になれるか、相手に侵害されずに、相手を屠ることが出来るかという強さが求められているように思います。
 それは、まさに人工的な強さに他なりません。
 
 一度出来あがってしまったものは、自ら変化することはありません。ただ、物事が起きた事にどれだけ耐えれるかという、強度だけがためされます。
 しかし、時間の変化や物事に対して不変のものなど存在しません。いつかは、壊れてしまうはずです。
 どれだけ自分を貫けるかという、固い強さになってしまっていると、これは自分より強い相手に出会ったとき、また、柔軟に変化する相手には簡単に負けてしまうものです。
 
 出来ないことに、対応していける、取り組んでいこうとする気持ち。まずは、それに対して弱い気持ちにならず、やってみようとしなければなりません。
 そして、ただ頑なになって取り組んでいっても、状態は変わっていないので、結果もともなわないものです。
 
 
 たとえば、自分にとっては太極武藝館名物のひとつ、「起き上がり腹筋」がそうでした。
 入門して十年も経つのに、まともに出来たことがありませんでした。
 そして、それを自分の中で、出来なくても仕方ない、いまの自分には出来そうもない、と理由をつけて避けていたわけです。
 
 なかなかその状態を変えられなかったのですが、師という、きっかけを与えてくれる存在が居ることが大きかったです。

 「期日までに出来るようにすること」と言われたのが、そのきっかけでした。
 
 本当は、それも自分でそこまで持って行って出来るようにしなければいけないのですが、なかなかそうは出来なかったのです。
 
 とにかく、そう言われたからにはやるしかない、弱音を吐いている暇はなくなってしまいました。
 
 それでも最初のうちは、まったく進歩が見られず、とてもできる気がしませんでした。
 出来るようになっていくためには、なんで出来ないかを考えなければなりません。
 ネガティブ・フィードバックをしていくしかないのです。
 一足飛びに変わることは出来ないので、自分の中にある、弱い部分を少しずつ変えていくしかないと気付かされるのでした。
 
 とにかく期日までになんとかしなければ!というプレッシャーが、逆に人間に強さを与えてくれる、と、今となっては思います。それに対応、適応しなければ生き残れない!という重圧が(ちょっと大げさかもしれませんが)、人に成長する糧を与えてくれるのです。
 
 
 技術的なことを言えば、体の柔らかさや、勢いを利用した方法では、正しい「起き上がり腹筋」とは言えません。
 そもそも自分の体では柔らかさでは出来ないし、勢いだけではとてもではないですが、元の位置に戻ってこられないことは明白でした。
 
 ではどうするか? 一番のやり方は、ただ正しいやり方をやろうとするしかないということでした。
 それもただ盲目的に、漫然と行うのではダメで、創意工夫をしながら正しく挑戦するしかない、というものです。
 
 最初のうちは、全く出来ませんでした。以前はいくらか上がってきていたものが、恥ずかしながら以前よりも上がらなくなり、お尻が着いたまま上体を起こしてくるだけで、立ちあがることのできる気配など全くありませんでした。
 
 少しずつ改善していくしかありません。
 始まるときの立ち方、下りていくときの体の使われ方、下りてきてからの体の状態、見直すべき点はいくらでもありました。
 それをひとつひとつチェックしながら、少しずつ変えていくのです。
 変化としては本当に微々たるものの連続で、さっきより少し体が動くようになったとか、そういった程度のものです。
 しかし、なかなか体が起き上がってくるまでには到りませんでした。
 
 
 それでもあきらめずに続けていくと(もしかしたらそのころには、まわりのほうがあきらめムードになっているかもしれませんが…)、だんだんと自分の中で変化していっているのを感じることが出来るようになります。
 
 ほとんどやみくもに近かったチャレンジが、こうしたらいいんじゃないか、と改善点と因果関係を正しく結び始めるようになり、それに見合った結果が伴ってくるようになります。
 同じように出来ないにしても、それまでとは違ったものになってくるのです。
 
 そこまでやってくると、あきらめる必要はもう殆ど無いように感じられてきています。
 出来ない、けれど、もう少しで何かがつかめそうだ。
 起き上がり腹筋の場合は、根気よく補助をしてくれるパートナーが必須でした。
 道場の仲間というのは、本当にありがたいものです。
 
 最後の壁は、それまでやってきたものを総動員して、とにかくやってやる、という気持ちで行うことでなんとか超えることができました。
 ある日の稽古で、次の練功に移るという最後の一回のチャンスで、ようやく、立ちあがることが出来たのです。
 
 稽古中だというのに、思わずガッツポーズと声が出てしまいました。
 
 
 それと、起き上がり腹筋と前後して、個人的に、師父から体質改善の命を受けてチャレンジを続けていました。
 それも普通にはちょっと無理なのでは?と思うような課題だったのですが、とにかくやるしかない、と奮起して取り組んできました。
 
 それと併せて、前々から「走るように」と言われていたのですが、それもまた、やり方を改めることとなりました。
 
 ただ疲れるだけで効果が出ない、悪くすれば武術的に悪影響を与えかねないやり方から、
もっと正しい走り方を出来るように、少しずつ改善していったのです。
 
 「最初は早く走らなくてもいいから、走り方を見直すように」というアドバイスも頂き、見直しを重ねていきました。
 最初は、数百メートルも連続して走れなかったものが、練習を続けていく間に、ようやく10キロ走っても平気な体になってきました。
 これもまた、以前の自分からは考えられないことです。
 
 
 「起き上がり腹筋」でようやく立ち上がってこられたこと。
 おそらく、どれかひとつのことだけにチャレンジしていたのでは出来なかったと思うのですが、同時に取り組んでいたいくつかのことが自分の中で、確実に実を結んでいったことの結果なのではないかと思います。
 
 人には得意不得意があるので、ある人には簡単に出来ることが自分には難しく、またその逆もあると思います。
 それと、誰もが難しいと感じてしまうようなことも、当然あります。
 
 観方を変えれば、取り組んだことがないことを目の前にしたとき、最初から出来なくても当たり前のことだといえます。
 そうなったときに、あきらめてしまわずに、とにかく取り組んでみることが大切なのだと思うようになりました。
 
 場合によっては、既に出来る人から見れば幼稚なレベルにしか見えないかもしれません。また、自分の中の、何か「出来ること」と比較して、あまりにちっぽけすぎて、なんの意味もなさないように感じるかもしれません。
 
 けれど、そこであきらめずに、やり続ければ、変化は確実に自分の中に蓄積されていきます。それまでのやり方を自分の中に持ったままにしてしまうと、おそらくその小さな変化が見過ごされてしまうのだと思います。
 そうすれば、それはいつまでたっても出来ないままで、だんだんと続けるのが嫌になってしまうのだと思います。
 
 戸惑いの中にあっても、とにかく続けていくこと。
 それがある瞬間、ぱっと違った世界に連れて行ってくれるのだと思います。
 
 一般的に難しいのは、何かに取り組むときに、体系的に段階を踏んで挑戦していくことなのだと思います。
 自分の経験から、改めて振り返ってみると、太極拳というのは、少しずつ登っていける階段が用意されている、すさまじい学習体系なのだと感じさせられました。
 
 自身をふりかえってみると失敗のもとは、早く強くなりたいという思いから、一足飛びに上を目指そうとしてしまっていたところ、といえるでしょうか。
 本当は目の前に次の一歩があるというのに、そこを無視して進もうとしては、いずれ壁にぶつかってしまいます。
 
 地道にコツコツと。
 そうして得られるものが、本当に自分の中に根付いていく功夫なのだという気がします。
 

 体質改善の命令は今も挑戦中なのですが、その中で、自分は変わっていけるのだという、確かな手ごたえを感じることが出来るようになりました。
 
 そのチャレンジが終わっても、また次に、今度は自分で立てた目標に向かって、少しずつ続けていこうかと思っています。
 それが楽しみなのは、いままでになかった感覚で、自分自身にとって一番驚きの変化でしょうか。 

                                 (了)





*次回、「今日も稽古で日が暮れる/ その33」の掲載は、11月22日(水)の予定です


2017年09月01日

連載小説「龍の道」掲載遅延のお詫び

日頃より「龍の道」をご愛読いただき、誠にありがとうございます。

本年の春ごろより私事による多忙が続き、
中々ブログの掲載予定日に原稿をアップすることが叶わず、
たいへん心苦しく思っております。

前回と同様、本日予定された掲載も行う事が出来なくなってしまいましたが、
来月には何とか「龍の道・第200回」を掲載できるよう精一杯努力いたしますので、
今暫くのご寛容を頂きますよう、お願い申し上げます。


                     春日 敬之 拝

taka_kasuga at 19:36コメント(0) この記事をクリップ!

2017年08月01日

連載小説「龍の道」掲載延期のお知らせ

日頃より「龍の道」をご愛読いただき、ありがとうございます。

本日、8月1日(火)掲載予定の「龍の道・第200回」は、
著者が引き続き大変多忙のため、残念ながら掲載を延期させていただきます。

愛読者の皆さまには誠に申し訳ありませんが、
何とぞご諒承くださいますようお願いいたします。


        太極武藝館 Official Blog ブログ・タイジィ 編集室

tai_ji_office at 20:49コメント(0)お知らせ この記事をクリップ!

 北朝鮮の拉致を許すな!



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