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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2018年10月02日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その38

  「『アウト』の探求」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今、マイルス・デイビスのアルバム『Kind of Blue』を聴きながら記事を書いています。
 以前、春日さんの記事「JAZZYな、太極拳を。」で紹介されて以来、時折思い出したようにマイルス・デイビスを聴くようになりました。

 以前、稽古中に師父が何度か、マイルス・デイビスの音楽と太極拳の関連性について言及されることがありました。

『君たちの太極拳は ”アウト” じゃない…。それでは太極拳のスピリットはわからないよ』

「アウト」じゃない…??

 太極武藝館で伝承されている太極拳といえば、真伝の纏絲勁が脈々と継承されている、いわばホンモノ、音楽でいえば古典的なクラシックにでも該当するような内容とでも言えるはずです。
 では、そこから外れると言わんばかりの『アウト』なスピリットがなければ、太極拳がわからないとは一体どういうことなのでしょう?
 その時の僕には、欠片も理解することが出来ず、うーんとうなるばかりでした。

 そこで、春日さんの記事で紹介されていた、マイルス・デイビスの2枚のアルバムを聴いてみました。そして、たしかに衝撃を受けます。
 それは、自分の抱いていたジャズに対するイメージを払拭するには十分な音楽に思われました。それからいくつか、マイルスの音楽を聴いていると、その中におススメのアルバムとして、『Kind of Blue』が含まれており、それを聴いて、おや、と疑問に思いました。

 『Kind of Blue』は、紹介されていた『Decoy』とは少し毛色が違い、オーソドックスなジャズといった音楽で、聴き慣れたような、非常に心地のいい音色が響きます。

 そうなのです。聴き慣れた音楽なのです。ここで自分はわからなくなりました。
 『Decoy』を聴けば、わからないまでも「アウトなのか」と考えさせられるものですが、
『Kind of Blue』は、何をもってしてアウトというのかわからなかったのです。
  このことは、「太極拳がアウトである」と言われながらも、自分にはピンと来ていないことに重なるような気がして、僕は少し調べてみることにしました。
 そして、このアルバムもまた、『アウト』な作品だと言えるのではないかと思うようになったのです。

 『Kind of Blue』は、それまで、ジャズの手法として定番だったコード(和音)中心の技法を、モード(旋律)主体のモードジャズとして確立させた、記念碑的作品だそうです。
  このアルバムによってジャズの世界に新しい地平が切り拓かれ、モードジャズというジャンルは、以降多くの人々によって演奏されることとなりました。それによっていまの我々の耳には、心地よい聴き慣れた音楽として届くことになったのです。


 このアルバムの録音の際、デイビスは演奏者たちに「このスケール(音階)で演奏するように」と指示した短いメロディーを渡し、テスト演奏やトレーニング、ミーティングを一切させなかったそうです。
 ジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスといった名だたるプレイヤーたちも参加したというその録音現場は、一体どのような風景だったのでしょうか。

 たとえプロであろうと、それまで自身の経験したことのないものをするには、自分自身と向かい合う必要性が生じるはずです。
 特に、ジャズで行われる同じフレーズを繰り返すリフ(リフレインの略)演奏という技法は、同じ物事に取り組みながらも、立ち現れてくるものと向き合い、自分自身に問いかけ、それそのものの本質と向き合うことではないでしょうか。
 それは繰り返し行われる、自分自身の再創造であり、絶えず続く学習の過程であるともいえるのではないでしょうか。
 それは、音楽と武術、ジャンルは違えど、我々が毎回の稽古で求められている姿勢と、同じものなのではないか、という気がしたのです。

 「じゃあお前にマイルス・デイビスの何が分かるの?」と聞かれれば、「ぜんぜんわからない」と答えるしかありません。
 マイルス自身「俺の言ってることが全て理解できるなら、俺になれ!」と言っています。
 彼の残した言葉は、その音楽の中にこそ込められているはずです。もし、マイルスについて何かを知りたいのだとしたら、彼の音楽を聞くことの中にしかないはずです。
 その上で、マイルスのやってきたことを知ると、ジャズという世界で彼がどんな存在だったか、全体の構図がおぼろげながらも浮かんできます。
 それによって、マイルス・デイビスがなぜ『アウト』なのか、アウトサイダーな音楽であるジャズの中でも、より異端な、帝王として存在しているのかが、より際立って浮かんでくる気がします。何よりも、マイルス・デイビスの音楽を聞いているのは非常に心地いい体験です。
 そのスタイルを否定し、刷新し続けていくスタイルは、今も古びることなく、常に新しいものとして自分の中に流れ込んできます。

 なぜジャズの話を書いたかというと、僕自身にとって、マイルス・デイビスがひとつの新しい出会いであったからです。それほど多くを聞き込んだわけではないですが、ブログで紹介されて、それまで知識として知っていた程度のものから、「聴いてみよう」と思うようになり、ちょっとずつ聴いてみるようになったのです。
 その過程では、「よし、太極拳にアウトが必要なら聴いてみよう!」というモチベーションが、もちろんないわけではありませんでしたが、それよりもマイルスのジャズが良い音楽で、純粋に音楽として聴きたいと思うようになったからです。
 紹介して頂いた春日さんと、さらに興味を持たせて頂いた師父には感謝しています。

 マイルス・デイビスの音楽が、以前の自分のスタイルを常に刷新し続けること、それによって『アウト』で有り続ける、それがジャズの「スピリット」だとしたら、それは自分が思っていたアウトサイダーのイメージとも、また異なっているものでした。
 アウトサイダーというと、どうしてももっと破壊的で横暴で、自分自身の力で周りの世界をどんどんと書き換えていってしまうようなもの、とくに芸術に関してはそういうものだ、とどこかで思っていました。

 マイルス・デイビスの逸話しかり、日本の芸術家で言えば、岡本太郎などがそうでしょうか。しかし、気になって改めて岡本太郎の本をパラパラと読み返してみると、彼の書いている文章は大胆な情熱を持ちながら、実際にはものすごく繊細であり、普通の人では見逃してしまうようなことへの感性があることに気付かされます。

 先日、野外訓練が行われた際、師父の行動がものすごく丁寧で、ゆっくりなのだということに改めて気付かされました。ゆっくりなのですが、それが遅いのかというとそうではなく、ものすごく早いのです。
 仕草があまりに丁寧なので、そして目に見えない速さなどではないのでゆっくりに見えるのですが、行動ひとつひとつの繋がりが途切れなく、全体で観るととても早いのです。

 それは、何かの手順を覚えたから何も考えなくても動ける早さではなく、ひとつひとつ何が起きているかをしっかりと認識しながら、手順を絶えず確認でき、間違いがなく、そして滞りがないために出てくる早さなのではないかと思いました。
 ただ勢いでやってしまうものとは、異質の早さです。

 普段の師父の立ち振る舞いを見ても、いつも、丁寧に見えるのです。いつもやっているから、とか、これはこうだから、といったことで省略してしまうことのない動きに思えます。

 太極拳は『アウト』であるとおっしゃっている事と、この丁寧な物腰は、一体どこで重なるというのでしょうか。
 悩んだ末に、あるひとつのことが自分の中で結びつきました。
 マイルス・デイビスは、それまであったジャズをぶっ壊したアウトサイダーな人ですが、そこにあったのは、実は謙虚な姿勢だったのではないかと思います。
 マイルスは、自身のジャズのことを「俺のジャズはこうなんだよ」と、固定してしまうことは決してありませんでした。それまであった音楽を、「自分の」ジャズで壊していったのではありません。
 自分の中にあった音楽を、内省し、疑いを持ち、それを更新し続けていくことで、新しいことを創造していきました。その結果、それまであったジャズとは違う、新しいものが生まれていきました。そこにあるのは、自分を通す横暴さではなくて、自分を変え続けていく謙虚さではないでしょうか。
 その姿勢があったからこそ、マイルス・デイビスはジャズを新しくし続け、本物のジャズの魂を持ち続けられたのではないでしょうか。もし、ただマイルスのジャズの模倣に走ってしまったら、それは「ジャズってのはこうなんだよ」と定義づけてしまうことであり、横暴さの現れではないかと思います。
 それは、マイルスが持っていた本当のジャズの味にはならないのだと思います。

 では、それは武術、太極拳に当てはめて考えてみたらどうなるでしょうか。
 まず、自分の中に、勝手に思い込んでいる武術のイメージがあることに気付かされます。それは自分が傲慢にも思い込んだものです。
 そして、それがあるからこそ、たとえ目の前で本当の事が示されていても、全てを透明な目でみることが出来ず、壁にぶち当たってしまうのではないでしょうか。
 自分自身、稽古中にどれだけ師父の動きが見えずに、苦い思いをしているか数えればきりがありません。
 まずは、そこから外れる、自分自身の枷から『アウト』になることが必要なのだ、と師父はおっしゃっていたのではないか、そう思うようになりました。
 そのためには、たとえ何かに気づいたとしても気づかなかったとしても、自分の考えに固執せず、本当に言われていることを徹底して追求していける謙虚な姿勢が必要なのではないかと思います。
 追求していく対象そのものに対するリスペクトは当然必要ですが、マイルス・デイビスの例でも書いたとおり、それによって何か、たとえばジャズの世界などを変えていく、という思いで自分の考えを貫こうとするのは、少し間違った形なのではないかと思います。

 絶えず謙虚さを持ち、自身を省みることと、物事を再考し、新しいアプローチで取り組んでいくこと。そのためには目標を明確に定め、何よりも情熱を忘れないことが大事なのではないかと思います。
 音楽や武術のみならず、日常生活の中での、普段の立ち振る舞いまで含めた姿が大切になってくるのではないかと思います。つまり、きちんと生きていくために大事にしなければならないことが、どこでも大事になってくるということなのかもしれません。

 そのために、道場での稽古とは省みるところ、自身のあり方を磨くことにつながってくるのかもしれません。

                                  (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その39」の掲載は、11月22日(木)の予定です


2018年08月16日

練拳Diary #82「稽古と非日常」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花


 太極拳の稽古修練の世界。そこでは、古く常識的な考えで凝り固まった頭を叩き割り、新しい考え方と価値観を知り、直向きにそこに広がる全てを受け容れることが求められます。
 そして、そのような非日常の新しい世界に身を投じれば、自分の力ではどうすることもできなかった「自分の殻」を破り、新たに生まれ変われる気がするからこそ、人はわざわざ非日常の門を叩いて入門を乞うのではないでしょうか。

 問題はそこから、いざ新しい世界で新しい考え方に出会ったとき、どのように受け取るのか、はたまた受け取らないのか──────。
 この非日常の世界でどれだけ受け容れられるか、ということは、言い換えればどれだけ自分をやめられるかということなのだと思いますが、それがなかなか難しいことです。なぜなら、人の性質には、変化を求めるよりも現状を維持したい、今が心身ともにそこそこ平穏ならそれで良いと思えるヤワな傾向があるからだと思います。
 それこそ、何かのきっかけでふと立ち止まり、自分を振り返る機会があっても、まるで考え方にも ”慣性の法則” が働くかのように、それまでの自分の古い考え方が押し寄せてくるのです。
 そこで古い考え方を落として、新しい自分として一歩を踏み出せるかどうか。その原動力となるのは、未知なる世界、未知なる自分への興味ではないでしょうか。

 失敗を恐れず、危険を顧みず。誰かのためではなく自分のために歩くこの人生。
 生まれた時に「自分はこの様に生きたい」・・と思ったかどうかは、もう覚えていませんが、「今の自分はこの様に生きている」と、胸を張って生まれた時の自分に言えるなら、自分の人生、自分の足で歩いていると言えるような気がします。

 ところで、稽古中よく耳にする「非日常」という言葉ですが、この言葉を聞くと、皆さんはどのようなイメージを持つのでしょうか。
 「非日常的な力」「非日常的な考え方」「非日常的なアプローチの仕方」・・と、様々に表現される「非日常」という言葉は、もしかしたら発した人の意に反して、異なる捉えられ方をしているかもしれない、と思います。
 例えば、先ほど挙げた3つの文章を違う言葉に置き換えて見ると、
 「日常からかけ離れた力」「凡人の自分にはとても及ばない考え方」「一般的ではない、一部の卓越した人にしかできない取り組み方」・・などとなるかも知れません。
 実は、これらの言葉は私が考えたものではなく、その昔道場で小耳に挟んだ門下生のリアルな感想ですが、これらの文句からは「非日常」という言葉が「自分には到底実践できない理想の世界」というイメージに置き換えられていることが分かります。

 自分にとって未知の世界に対し、自分の考え方では及ばない、かけ離れた世界だと思うこと自体は、間違っていないと思います。特に、武術や芸術の世界のように特殊な技術が必要とされ、そのための学習体系が存在するようなところでは、まずはじめに「自分とは全く違う」という正しい認識がなければ、新しいことを学んで行けないからです。
 しかし、先ほどの言葉のように「自分には到底実践できないナントカ」という方向に行くと、学習としては前に進めなくなってしまいます。
 大体、「自分には出来ない」と思いながら何かをやっていて、楽しいはずがないのです。
 自分とはかけ離れたとてつもない何かに対して憧れを抱き(それは、武術的な強さでも、たとえば身体の健康でも変わらないことですが)、尚かつ幸運にもそこに至る道筋を示してもらえたなら、あとはひたすら前向きに突き進むことが求められ、その中では当然自分とぶつかることもあるし、自分を超えるためには自分を変える必要があり、たとえ七転八倒しながらでも、遥か遠い憧れだったある意味不確かなものが、自分の歩く先に現実的に見えてくるのです。同時に、自分の中には「歩いてきた」という確かな実感が感じられます。だから取り組む甲斐があって楽しいし、追及することをそう簡単にはやめられないのだと、私は思います。

 それでは、なぜ人は自分が学ぶために入門したはずの道場で、発せられた師匠の言葉に対し、ともすれば否定的なマイナスのイメージを持つ場合があるのでしょうか。
 もちろん、人それぞれに色々な想いがあるはずですが、理由のひとつとしては、自分が思うように学習を進めていけないことが挙げられると思います。
 しかし、そもそも人は既に自分にできることに対して新たに「やってみよう」とは思わないはずで、自分にできないことをこそ習得するためにこの道に入ったはずですが、どうやらそのような状況でも人は自分の好きなように学習したいと思う気持ちがままあるようです。
 もうひとつの理由は、「非日常」という言葉の取り違えです。カエサルの言葉ではありませんが、人は物を見たいように見て、聞きたいように聞く傾向があります。私たちはまず、師匠が何を「非日常」であると言い表しているのか、そのことに耳を傾ける必要がありそうです。


 ここでひとつ、興味深くて美味しい話をしましょう。
 ある時、師父がお夕飯を作ってくれました。
 「自分が食べたいものがあるから」と、仰った時には立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認しながら買い物に必要なものをピックアップし、そのまま近所のスーパーに買い物へ出かけられました。・・その作業と行動の早いこと、早いこと。台所によく慣れた主婦だって、そうはいかないのではないかと思ったとき、あるひとつの考えが浮かびました──────この光景は、まるで軍人が武器庫から必要な武器を持ち出している時のようだ、と。

 急いでいるわけでも、慌てているのでもなく、言って見れば状況把握と必要となる行動の認識、そして判断から実行の過程がもの凄く早く、その過程には「思考」の時間が入っていないとさえ見受けられました。

 そこで感じられた「早さ」は、師父が買い物から帰られた後も続きます。
 材料を出して、刻んで、火にかけて・・・出来上がり!?
 「はい、どうぞ!」と言われて私が真っ先に見たのは時計でした。
 ・・ええっ?、キッチンに立たれてから40分位しか経っていませんよ、師父!
 「なんでこの立派な料理がこんなに早いのですか?」と聞きながらも、手にスプーンを持ってお皿に飛びつく自分には、もはや師父の言葉は耳に入っていなかった気がします。
 そうです、この芳しい香りには、誰も抗えないはずです!

 出てきたのは、ラム肉の軽い煮込みにクスクスが添えられたモロッコ料理。一応写真を載せておきますが、美味しさのあまり食べる勢いがついて、悪しからず半分近く平らげてから撮影したものとなってしまいました。


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 「う〜ん、ラム肉は私の好物ですが、それにしても美味しい。見た目はゴロッとした野菜とお肉が入っているだけなのに、それらの素材の味が全て引き出されていて、その旨味がシンプルなクスクスに見事に移ってベストマッチング〜!!」とホクホクしながら食べていたら、キッチンから師父が出てこられて食卓に座り「お味は、どうかな?」と言いながら、一緒に食べ始めたのです。
 おや?、と思いキッチンに目を向けると、なんと、全て綺麗に片付いています。出てきた料理は、子羊の煮込みとクスクス、それにサラダですが、料理が出来上がって器に盛り付けた時には、鍋から流しまで元の使用前のキッチンになっているとは、誰が思うでしょうか。
 「一体、いつの間に片付けたのですか?」と問いかける私に、師父は「料理が終わった時には片付けも終わっていた方が、次の仕事が楽でしょ」と仰います。
 ここでまたしても、ひとつの考えが浮かびました──────確かに、師父が一発殴った時には、すでに次のパンチが打てる身体の状態が整えられていて、ご自分の攻撃によって居つくことはありえない、と。

 そうです。買い物も、料理も、後片付けも、全て日常の所作です。けれども、師父が示してくださったのは、食事を考えるところから実際の行動、そしてご自分が食べるまで、どれも非日常的なアプローチの仕方でした。
 つまり、自分の好きな考えを挟まず、そこで必要となることを見極めながら動き続け、同時に結果を出す。そして師父はそれを楽しみ、なんの制約もなく料理を味わいながら仕上げて、最後には片付けながら食べている人の感想に耳を傾けたりしているのです。


 師父お手製の料理は、モロッコ料理にとどまらず、
 フレンチの豚肩ロースとキャベツのワイン煮、

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 鶏肉の煮込み、フェットチーネ添え、

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 牛肉とキノコの煮込み、

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 究極の肉じゃが(命名は玄花)

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 ・・と続いていきます。

 どの料理も、どこのスーパーでも手に入るありふれた材料が使われていて、メインディッシュだけではなくサイドディッシュも組み合わせ、それらを僅か一時間足らずで調理し、食べる時には片付けまで終わっている状態です。

 もしも自分が同じ料理を作ったなら、どのような味わいになるのか、そしてその後の台所はどうなっているのだろうか───────

 そう考えたときに思い浮かぶのは、やはり稽古の取り組み方や考え方などで感じられる、師父との「違い」と全く同じことでした。
 これはきっと、掃除をしても、本を読んでも、車を運転しても、野外で火を熾しても、それこそ暴漢に襲われても、災害に巻き込まれた時でも、同じ「違い」があるはずで、そうだとしたら、師父の所作を見て感じる繊細さや常識に捉われない柔軟な考え方、行動力の早さなどは、師父がもともと性格や能力として持っていたものではなくて、恐らくは太極拳の修行の中で必要なこととして身につけて練り上げてこられた、真の功夫(コンフー)なのだと言えるはずです。

 日常を、非日常的に取り組むこと。
 それは自分が人生を生きることに対して意識的になることとイコールだと感じられます。
 それを、自分の怠惰さを棚に上げて、やれ高尚だ非凡だ特殊だからと理由をつけて自分では何もしないのは、武術家の風上にも置けないのはもちろん、ひとりの人間としても自分の魂を腐らせているに等しいことだと、私は思います。

 私が学生の頃には、遠方に住む祖母に電話を掛ける度に、必ず『お勉強していますか?』という言葉を頂きましたが、今なら、祖母の話した「勉強」が日常の全てに当て嵌まることを実感できます。
 自分と関わる全てのことに対して、勉強できるかどうか。それは自分の物事に対する向かい方次第だということを、幼い私に分かりやすい言葉で示してくれたのだと思います。

                                 (了)


2018年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その37

  「学習法の学習法」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、一般クラスで稽古指導の手伝いをしているときでした。ある門人の歩法を見ていたとき、窓ガラスに鏡写しになったご自分の姿を、なかなか見てもらえないということがありました。
 正しい状態と間違った状態の違いを説明し、二種類を比べてもらえば違うということは理解してもらえ、そしてご自分の感覚でも違いはわかる、という状態でした。しかし、いざ動いたときに、なぜかご自分の動く姿を見てもらえません!
 「そこです!」
 というやりとりを玄花后嗣もまじえて数回行った末、ようやく見てもらい、違いを自身の「目」で納得してもらえたのでした。

 「本当に、違ったんですね!」
 とその門人は感嘆しながら言っていました。理解はできていたはずなのに、違いに気づけない。そして、実は気がついていないからこそ、正しくやろうとしているつもりでありながら、本当は間違った稽古を延々と続けてしまっていたのです。

 このようなことは、その門人に限らず、我々になら誰しも起こり得ることです。
 これは一体、どういうことなのでしょうか。


【おつむの問題?】

 我々は稽古中にしばしば、「アタマが硬い」「頭は悪くないが“おつむ”が弱い」といった指摘を受けます。
 目の前で見ているはずなのに、まるで目が見えない人のように、実際にやってみると全く理解できていないということはよくあることで、本当に自分自身「大丈夫なのか・・・?」と思ってしまうレベルで頭が働いていないように感じることがあります。

 道場の中でのみならず、世間でももっと頭を鍛えないといけない、という風潮はあるらしく、昨今では「脳トレ」と言われるジャンルのゲームや書籍が賑わっています。
 では、その「脳トレ」などで頭を鍛えればいいのでしょうか。
 脳トレに関しては、学術的な研究も行われていますが、ほとんどの研究が導き出した結果によれば、「脳トレは効果がない」という見解が主流のようです。
 もし効果があるとすれば、取り組んだ類のパズルやゲームが得意になるであったり、あるいは思い込み(プラセボ効果)によって、能力が向上する、といった程度のものでしかないということが言われています。つまり、やってもあまり意味がない、ということです。

 逆に、本当に脳の能力、認知機能や反射速度を高めたいのなら、娯楽用の一般的なテレビゲームのアクションゲームやシューティングゲームをやったほうが、実際に脳機能が改善される効果が高い、という研究結果が出ています。
 一時期は”ゲーム脳”という言葉で、ゲームをすることが悪いように言われていましたが、それによって生まれた脳トレゲームよりも、悪そうな普通のゲームをやったほうが効果があったというのは皮肉なものですね。

 イラク戦争に従事していた米軍の兵士が、オフの時間には持ち込んだテレビゲームでひたすら遊んでいるという話がありますが、ストレス解消のほかに、もしかしたらある種のトレーニングになっていたのかもしれません。
 シールズの伝説的なスナイパー、クリス・カイル氏も、現地で手に入れたゲームをやり込んでプロ級の腕前だった、と著書に書いてありました。

 知的な活動を行うとき、その人がもともと持ってる知能が問題なのか、それとも後から学習した能力が大切なのか、いろいろと言われているところではあります。
 実際のところ、生まれ持った知能よりも、後天的に学習できる、学習能力そのもののほうが結果に大きな影響を与えていると見る研究があります。

 ここが大事な点なのですが、「知能」ではなく、「どれだけ学習したか=知識」でもないのです。どれだけ学習していけるか、という点が、重要なのです。
 そしてもっと大事なのが、どれだけ学習していけるかという学習方法は、学習していけるということです。


【認知の認知、メタ認知】

 さて、では実際に学習方法を改善していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 学習方法を変えるには、自分が何を考えているかを知る必要があります。自分の認知に関わる認知のことを「メタ認知」と言います。
 ロシア武術のシステマでも、「汝自身を知れ」というキーワードが言われているようですが、自分が何を考え、何をしているのかを知ることが、学習プロセスを改善していく上では必要不可欠な要素になってきます。

 冒頭で挙げた例では、その門人は歩法の問題を解決しようという学習を行なっていましたが、その学習方法(鏡を見ないで行う)に問題があるとは認識していませんでした。
 決して努力していなかったわけではなく、ただその努力の仕方が少し違っていたのです。
 結果的に、その門人は問題に気づき、学習プロセスの見直し(鏡を見て確認する)を行いました。それによって、問題とされていた部分が本当の意味で理解され、問題は解決へと向かっていったのです。

 自身の能力を高め、技術を向上させていくには、たゆまぬ努力が必要です。それは、がむしゃらな努力ではなく、効率的な努力でなくてはいけません。
 それは一般的には、学校ではほとんど教えてもらえないような、勉強法に関する勉強法と呼べるものです。

 余談ですが、最近の研究では、小学生くらいの子供に宿題をやらせるのは百害あって一利なし、という見解が広まっているようです。
 それは大人が外側から押し付けることによって、子供が持ってる自主的な学習意慾とそれに取り組む時間を削いでしまうことのほうが多いから、ということらしいです。
 小学生時代にそれに気づいていた自分は、自主的に宿題をしなかったものです。(ウソです、ただのサボりです)
 子供、というより人間が持っている学習能力は、浅はかな考えがおよびもつかないものなのかもしれません。
 たとえば昆虫が好きな子供がいたら、そこから広がっていく世界を勉強していけるように導いていってあげるのが良いのでしょう。強制的に算数のドリルをやらせるより、「昆虫の繁殖による個体数の増減」について子供が自主的に研究しはじめたら、それはもう応用数学や生物学・社会学のレベルです。親にとっては未知の領域かもしれませんが、子供がそちらをやりたがっているのを喜んであげるのが本当の愛情だと思います。

 話がそれました。
 大人は、そこからさらに一歩先に進んで、その研究を進めていくためにはどうしたらいいかを、より能動的に研究していくことが可能です。
 メタ認知による学習法の改善は、それそのものが強力なツールであり、自身の修練を推し進めていってくれる原動力になるはずです。
 大切なことは、自分が何を考えているかを知り、何を見ているか、何を見たいと思っているのかを知ることです。


【なまけものの伝説】

 怠け者というと世間ではあまりいい意味に取られませんが、コンピュータのプログラミングの世界では、怠け者は腕のいいプログラマーである、ということが言われています。
 というのも、怠け者は自分が可能な限り楽をするための手段を考えるので、それによってプログラムを改良し、人の手を煩わせないものに進歩させていくことになるからです。

 そして怠け者は、楽をすることでできた時間を何に使うのでしょう。
 そのプロセスをさらに改善させることに使い、そうして学習プロセスはどんどんとレベルアップしていけるのです。
 日本では、コツコツと努力を積み重ねるのが美徳という観点がありますが、それは場合によっては怠惰な努力になるともいえます。
 プログラミングの例で言えば、同じものをひたすら打ち込むのは愚か者の仕事であり、真の怠け者はそれを省略して同じ仕事ができるプログラムを作ります。そうして効率化した仕事を「仕事をサボっている」と見る風潮はいかがなものかと思います。

 愚か者の、愚者の努力をいくら続けてもやった気になるだけで、愚者であることからは逃れられません。我々には、賢者の努力とも言える、努力することが最大限の効果をあらわす努力をする必要があるように思います。
 のんびりと「今日はできなかったけど、明日にはできるかもしれない」などと構えている時間はないのではないでしょうか。人生の時間は、怠惰に生きれば長いですが、使おうとすれば短いのです。
 現実として今日わからない、できないことは出てくるのは仕方ないですが、それでも、明日につながる何かを残していくような努力はするべきなのです。


【若者の思考】

 嫌でも体は歳をとり、肉体は変化していきます。それさえも、きちんと努力をすれば何もしないものとは比べるべくもないカバーができます。
 そしてそれ以上に、脳は思っているよりも神経細胞のレベルでは老化しにくいようです。
 もし歳をとったと感じるとすれば、それは自分の考え方が歳をとったのであり、頭を使わなくなったり、物事への興味を失ってしまったことの結果です。

 太極武藝館で太極拳を稽古する門人たちは、老若男女問わず、新しいことに興味を持ち、意慾的であり、年齢を感じさせない人ばかりです。
 稽古で年配の方たちが多い時に、師父が冗談で「太極老人館」などと言われることもありますが、それでも一般的な社会よりはイイ・・・と、思います・・・。

 どうかその美点を生かし、さらに伸ばしていく方向に向かっていきたいものです。
そして自分たちの手で、太極拳という高度な文化を残し、発展させていきたいと思います。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その38」の掲載は、9月22日(日)の予定です


2018年06月14日

JAZZYな、太極拳を。 第2回

  あんた、JAZZYの何なのさ。
   〜 ちょっと前なら憶えちゃいるが・・♪ 〜
 

                         by 春日 敬之
  


 それではっ、みなさまぁ、ご一緒にぃ〜!!

 はいっ、♪ミ〜ナトのヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカぁああ〜〜♫・・・
 🎶 ジャジャジャジャンジャン、ジャジャジャジャンジャン・・(伴奏の音スね)

 ・・と、言うことで、ご唱和ありがとうございました。
 はい、懐かしかったですねぇ、ご存知、神奈川県のご当地ソング。
 ♫ これっきりこれっきり〜もぉオォ、コレキリ〜ですね〜♪ と同ンなじですねぇ〜♪
 港のヨーコは、今世紀に入ってからも、横浜ギンバエがカバーしてます。  
 え、そんな昔の話はちと分からネーなって?
 あ、そ。。。何のコトか分からない人は、すぐググりませうね。
 嗚呼、昭和は遠くなりにけり。。(^_^;)

 エニワイ(anywayのオーストラリア発音スね、ともかく)、
「髪のあるオトコだって、ここにゃ沢山いるからねぇ〜」ってのは、われらがスゲー館でもおなじですなぁ (^ ^)。。
 円山館長は無論、研究会を中心に、なぜか軍人カットやボーズ頭(ハゲ頭とは言ってませんよ!)の多いスゲー館ですが、やはりそれなりに皆さん ”カレンダー映え” してますねぇ、わはははは。
 ま、イカにリアル軍人の玄花さんでも、流石にボーズ頭ってワケにはいかないッスよね。
 ・・え?、「G. I. ジェーン」のデミ・ムーアはスキンヘッドぢゃないかって? (゚o゚;;
 ♫ ズビズバ〜・・やめてケーレ、ゲバゲバ・・・

 しかし、もしケニーGみたいな変なヘアの見学者が来たら、名前を訊ねる前にきっと、
「♪ワリぃなぁ、ほかを当たってくれヨ・・アンタ、太極拳の何なのさ?」なんて、事務局の怖〜いオバさまに言われるカモです。
 さて、あンまし古い話ばかりしてると「JIZZY(ジジィ)な太極拳」になりそうなんで、このくらいにして────(^◇^;)


 このへんで本題に入りませう。
 この新しいカテゴリーが「JAZZYな、太極拳を。」と題された事には、ボクのカルクッチィ(イタリア語で ”軽い食事” の意←ウソ)な中身ではチト申し訳ないほど、もっと深〜い意味がありそうです。

 ちなみに「JAZZY」というのを辞書で引くと、ジャズを思わせるさま、だとか、
 ジャズ風の、活発な、華やかな・・なんて意味がいろいろと出てきます。

 ジャズというのは、皆さんもご存じのとおり、19世紀末から20世紀の頭にかけて、アメリカ南部で「黒人の民俗音楽」と「白人の西欧音楽」が融合して出来た音楽のひとつの形式、つうワケですが、早い話が、オフビートの独自のリズムで行われる、即興演奏が特徴のミュージック、それがジャズである、というワケですね。

 ところが「ジャズ」とひと口に言っても、その種類や範疇はとてもとても多くて、近ごろじゃ、何でもかんでもジャズと呼んだりするんで、ホントに混乱します。

 ついこのあいだなんかも、

 「春日さん、JAZZがお好きなんですってね ♡」
 「は?、ええ、まあね・・コテコテのヤツより、割と軽めのが好きだけど」
 「でも、おウチにジムなんかも備えてるなんて、スゴ〜くマニアックぅ♪」
 「いや、ウチは小さなマンションなんで、ジム用具なんか置いてないっスよ」
 「やぁーね、そのジムじゃなくって、JBLのこと、スピーカーの」
 「それを言うなら ”ジムラン(James B. Lansing)” じゃないの?」
 「ん?・・そういえば、そんな名前だったかも〜、あはは」
 「でも、よくそんな古い言葉を知ってるね(キョービ僕らも使わンで、ホンマ)」
 「ジツは私、最近、JAZZにどどぉおーんとハマってしまって ♡」
 「はは、どどーんとねぇ・・ ε-(´∀`; ) で、因みにどんなの聴いてるの?」
 「主に、ケニーGとか、ZAZ(ザーズ)なんかですけど」
 「へ?・・・へにーちぃー?」

 な〜んて会話があったりしましたです、はい。。⊂( ̄(エ) ̄;;)⊃

 ま、ケニーGも、ZAZも、確かにジャズ系の曲を演るし、サックスは見事だし、ザーズのフランス語が分からなくても、ココチ良いので、ボクもたまにゃあ聴くけどさ。。
 でもね、まるでカラオケみたいに、パソコンで他の楽器演奏を打ち込んだものをバックに録音して、堂々とレコードとして売ってるケニーGなんかは、ジャズだけに限らず、音楽そのものを愛する人間としては、やっぱり、ウゥ〜む、何だかなぁっっっ。。と思ってしまいますですね。やはりユダヤ系は商魂タクマスいと言うか。
 たとえアルバムの累計売上げ枚数が世界一多いジャズアーティストとしてギネスブックに載ろうと、本部のカワヤマさんなんかバック無しで「兄弟船」を唄うってんだから、ケニー爺(62歳)より根性あるよね。

 だから最近は、いったい、どっからどこまでがジャズなのか。
 何をもってジャズと名乗れるのか、あるいはジャズと呼べるのか。
 ジャズの音楽が好きで、たとえレコードを山ほど持っている人でも、ジャズレコードのプロデューサーでも、それをビシッと定義できなくなりつつあります。

 その定義の難しさというのは、ジャズが元々表現形式が自由なものであることに加えて、各時代ごとの歴史がずいぶん影響しているわけですが、ココでそれをボクが書くとエラ〜く長い話になりそうなので、興味のある方はご自分でお調べください。


 ────ただし、もちろんジャズの「定義」は、あります。

 ごく簡単に言ってしまえば、早い話が、「ブルース&スウィング」であるかどうか、
 というのが、それを決めるガイドラインとなります。

 つまり、その楽曲が「ブルース」という12小節の独自の節回しで造られた旋律で、
「ブルーノート・スケール」と呼ばれる、メジャー・スケール(長音階)に、E(ミ)、
G(ソ)、B(シ)の音を半音下げた(♭にした)音を加えて演奏するもの。
 あるいはまた、マイナー・ペンタトニック・スケールと呼ばれる、五音階で出来たものを用いて即興で演奏される特徴的な音階を持つもの。

 ペンタトニックなんて聞いたら何だかエラく難しいものに感じてしまいますが、そんなに特別なモンじゃなくて、たとえばFメジャーのスケールなんかは、誰もがよく知る「赤とんぼ」や「海」「ふるさと」など、童謡のメロディにも多く使われているものです。

 これらが「ジャズ」という音楽の心臓部、クルマで言えばエンジンに当たるものです。
 そしてそれを、まるでアルファロメオみたいに官能的な走りにしてくれるのが、
「スウィング」という味付けです。それはクルマで言えばシャシーの造りや、ステアリングの切れ、アクセルのレスポンス、と言ったところでしょうか。
(またまたクルマの話ですンません。新しいジュリア、欲スいなぁ・・^^;)


 しかし、そんなことは(カスガのアホな呟きを含めて)、ホンモノのジャズにとってはどうでも良いことなのです。

 つまり、ジャズにとって本当に大切なコトは、その「スピリット」にあるぅ〜っっっ!!

 泣く子も黙るジャズの帝王、モダンジャズのドンとまで呼ばれた、かのマイルス・デイヴィスは、『オレの音楽をジャズと呼ぶんじゃねぇ!』と、言い切りました。
 嗚呼、さっすがだねぇ〜!、そう言えるのは、やっぱり天才。彼はすごいっスね。

 『もしウチの纏絲勁が◯家と違うって言うんなら、別に◯氏太極拳って名乗らなくってもイイのさ。そんなチンケなコトはどうでもいい。けどな、この世に纏絲勁ってのはコレしかないんだ』・・って断言し、実際に弟子をキリモミで飛ばしちまうどこかの館長と、どこか似てるかもです (^_^;)

 確かに、マイルスの音楽は伝統的なジャズには留まらず、ブルース、ロック、ヒップホップなんかも取り入れた、独自の世界を醸し出していますね。まあ、天才と言われるような人が皆んなそうであるように、彼の優れた音楽性はジャズという、音楽というハンチューには到底収まりきらないものなのでしょう。

 そして、逆説的ですが、オレの音楽をジャズと呼ぶなという、このマイルス・デイヴィスの言葉こそが、これぞジャズの魂・スピリットだと言えます。

 つまり、端的に言えば「アウト」であるということ─────
 ジャズはアウトなのだ、と言うと、多くの方が首をかしげるかもしれませんね。
 いやいや、「アウト、セーフ、ヨヨイノ、ヨイッ♪」って野球拳のコトぢゃなくつて、  
(え、そんな拳法があるのかって? ヤだねぇ。アンタ、平成の怪人東京バリーちゃん?)

 アウトってのは、アウト・ローとか、アウト・オブ・アフリカの「アウト」です。
 文字どおり「外れてる、それ以外、出る、離れる、終わる、ダメ、失敗」ってコト。
 だから Out-low は法に外れた無法者。因みに Out of Africa はメリル・ストリープと、ロバート・レッドフォード主演の映画で、邦題は「愛と哀しみの果て」です。

 映画の話が出たので、またまたジャズとは何の関係もないハナシですが (^◇^;) 、
 どうしてニッポンじゃ、わざわざ洋画に変な日本語のタイトルを付けるンだろね?
 80年代は「愛と哀しみの果て」だけじゃなくて、なぜか「愛と〇〇のナンタラ」といった邦題の映画が流行りましたが(愛の水中花ってのもこの頃だったっけ?)、「愛と青春の旅立ち」は An Officer and a Gentleman、「愛と追憶の日々」は Terms of Endearment、まったく元のタイトルと違ってますよね。
 因みに、Out of Africa は、正しくは「アフリカを後にして」といった意味で、原作であるカレン・ブリクセンの小説でも邦題は「アフリカの日々」です。
 この小説は作者のアフリカでの経験を元にしたものですが、この人は2009年まで、デンマークの50クローネ紙幣の肖像にもなっていました。(デンマークの夏目漱石?)

 「Die Hard」が上映された時は、そのままダイハードと訳されてて、なんだかホッとしました。しぶとい(奴)とか、中々死なねェ、という意味ですが、もし「厳しく死んでネ」とか、「ヒッジョーニ・キビシ〜」なんてタイトルになってたら、日本人としてはもう、絶対に楽には死ねませんですね。(そんな題になるワケないやろ)
 ちょっとボク好みの「ラスト・ターゲット」や「裏切りのサーカス」なんかも、原題とまったく違うのでビックリしますが。「ダヴィンチ・コード」や「コロンビアーナ」には変な邦題が付かなくて良かったなぁ、とつくづく思います。
 いやぁ、映画って、ホントに素晴らしいモンですねぇ!


 さて、底抜け脱線の無駄話にサヨナラ・サヨナラして、ジャズの本題に戻りましょう。

 オヤジ世代の方々にはお馴染み深い「ユーミン」こと、シンガーソングライターの女王、松任谷由実サンは、あの特徴ある、随筆のような曲のコード進行で聴く人を魅了しますが、ボサノヴァやジャズ、或いはシカゴやTOTO、ボビー・コールドウェルなどに代表される「AOR」などの洋楽を知っている人や実際に演っている人にとっては決して珍しいものではありません。

 ユーミンの曲は、転調を自然に起こさせるために、ジャズでは殆どの曲に頻繁に出現する「供V(ツー・ファイブ。ニブイとかヴィジター2じゃなくて)」のコード進行を曲の間に巧みに、リズミカルに挟んで作っているので、聴いてると次のキーが勝手に想像される、というか、アタマ(意識)の中に無意識的に用意されて行くので、聴いてる人にとってはまるで自分のコトのようにどんどん気持ちが良くなって行くわけですね。ハイ。
 うーむむ、ユーミンはまるで荒地の魔女・・いや、ハウルの動く城のようですね。

 だから中央高速なんかもう、「♪ 中央フリーウェイ〜」って歌わないと絶対走れない!
 どんどんシフトアップして行きながら(マニュアル全盛期だったよね。かつてはこの道もそんなに混んでませんでしたし)、♫ 中央フリーウェイ(って言ってもカネ取るけどネ)、右に見える競馬場ぉ〜、左はビール工場ぉ〜(今思えば観光案内?)、このミチは、まるで滑走路、夜空につづくぅ〜♪・・って、唄うんですよね、きっとボクと同じ想いの人も、まだたくさん居るンだろうなぁ・・
(え、オジさんの話ぁちーとも見えねーなぁって? キミぃ、即破門だね)

 でも、フツーのバカボンボン♪、じゃない、平々凡々な人間には、まずあんな具合には曲が作れませんですな。ユーミンの曲はメロディラインから「供V」に変わって、さらに飛んでもないコードに、平気でぶっ飛んで戻ったり出来るんだから、ホントにすごい。
 近ごろちょっと流行った「ひこうき雲」なんかも、コードがいきなり有り得ないところへぶっ飛ぶしね。文字どおり、空を駆けてゆく〜♩ような、すごいブッ飛び方をします。
 やっぱりユーミンってのも、ある意味天才なんだろなぁ。

 というコトで、よーするに武術にとって最も大切なコトが「戦えること」や「闘うためのスピリット」だと言えるように、ジャズにとっては「アウト」と「ブルース」が最も大切な生命(いのち)である、ということなんですね。
 キミぃ、男だっだらね、売られた喧嘩ワ買わナぐちゃダメだヨ、つぅことですね、ハイ。

 しかし、何というテキトーなまとめ方だろう・・ε- (^(エ)^; ふぅ


 はい、それではようやく今回のアルバムの登場です。
 マイルス・デイビスが登場したので、私のお気に入りのアルバムをふたつ。

 まずは、この「デコイ」 。
 目がデカイですが、タイトルは DECOY、です。^^;)


          Decoy_Miles_Davis


 このアルバムは、聴かないうちからジャケ買い。つまり、何よりも、ジャケットの表紙が気に入って買ってしまいました。マイルスはイイ表紙のアルバムが多いスねぇ。

 それに、天才ってのは、やっぱり共通した ”眼つき” をしてますナ。
 岡本太郎、三島由紀夫、土方歳三、棟方志功、ピカソ、ゲーテ、ニコラテスラ、そしてシェークスピアにダヴィンチ・・因みに天才で名高いアインシュタインさんは、目よりも出した舌の方が有名なので、ここにゃあイレません。 ♪(´ε` )


 で、ワインの方は、ってえと・・うーむ、これこそ難しいなぁ。。
 マイルスのアルバムを録音するプレステイジ・レーベルのプロデューサーの名前は、
ボブ・ワインストックなんていう名前だったけど、いくら発音が似てるからって、スペルも違うしなぁ。。(ウチのワインストックも整理せにゃぁね)

 そうそう、面白い話がありました。
 このワインストックさんがプロデュースしたアルバムを録音したある日のこと。
 正確には1954年12月24日、メンバーはマイルス・デイビス以下、ミルト・ジャクソン、パーシー・ヒース、ケニー・クラーク、セロニアス・モンクという豪華な顔ぶれで、誰もがどんな素晴らしいアルバムが出来上がることかと、期待を膨らませていたのです。 
 ところが、マイルスがスタジオに入るや否や、セロニアス・モンクに向かって突然こう言い放ったのです。

 『おい、オレがソロを演ってる間は、バックでピアノを弾くなよ』

 これはもう、お前のピアノは邪魔だと言わんばかり、いや実際にそう言っているわけで、大先輩のモンクに対してモンクをつけるなんてのは失礼にもほどが有る。そのうえモンクはマイルスに負けず劣らずの奇人変人、スタジオ内には今にも殴り合いのケンカが始まるのではないかと大きな緊張が走った・・と言います。
 しかしモンクは黙ってマイルスに従い、マイルスのソロではピアノを弾かず、曲によっては普通のピアノソロさえ弾かずにいました。

 これはジャズの世界では「クリスマス・ケンカ・セッション」として知られていますが、マイルスは自叙伝の中でその時のことをこう言っています。

『モンクのピアノはオレのトランペットのバックには合わないと思ったから、休んでいてくれと言っただけさ。モンクもその意図を分かってくれていた。だいたい、あんなデカくて強そうな奴に、オレみたいなチビがケンカを売るわきゃぁないだろ?・・』

 まあ、人の噂話と言うのは尾ヒレ葉ヒレが着くものですが、だんだんオーバーな噂になって行ったというコトかも知れません。

 さて、その時の、問題の録音がコレ。


「BAGS GROOVE / MILES DAVIS PRESTIGE 7109」

   _SY355_


 ま、機会があったらぜひ聴いてみてください。


 ほい、ワインを忘れるところだった。

 マイルスの生誕地はイリノイ州オールトンでしたが、その生涯を閉じたのはカリフォルニア州サンタモニカでした。享年65歳。
 ビバリーヒルズからクルマで10分も走ると、サンタモニカの風を感じる海に出ます。
 彼がなぜそこを終の住処として選んだかは分からないけれど、きっと大好きなフェラーリで風を楽しみながら海岸をぶっ飛ばしていた事でしょう。


 そこで、今回はこのワイン。


 【L’ERMITAGE BRUT 2011 / Roederer Estate】

  エルミタージュ・ブリュット、ロデレール・エステート、です。



           Pasted Graphic 2



 フランスで「シャンパーニュ / メゾンN0.1」に輝いたルイ・ロデレールがカリフォルニアで手がけるスパークリングワイン専門のワイナリーが、この「ロデレール・エステート」。
真夏でも平均気温が23℃という気候で産み出される、本家のシャンパンに勝るとも劣らないとても上質なスパークリングは、マイルス・デイビスもきっと気に入ったはず。

 あのアメリカで、今じゃこんなアワが飲めるのかぁっ!!
 ・・と、泡を食ってしまうような素晴らしいワインです。

 ジャズの似合う夜に、ぜひ一度お試しあれ。

                               ( Cheers!)




 *L'ERMITAGE BRUT(エルミタージュ・ブリュット) 2011*

2004年のヴィンテージが、アメリカのワイン評価誌「Wine Enthusiast」で世界中のすべてのワインで年間第1位に輝いた逸品。Enthusiast 誌は『非常に精巧なスパークリングワイン。フレッシュ感と見事な酸味が口一杯に広がるとっておきのワインだ』と評した。
  <参考価格/2011年 750ml 6,500円(税抜)>

2018年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その36

  「整えるということ・暗号・真似をする」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


【整える】

 太極拳では正しく立つことが重要視され、身体のみならず、精神の軸もきちんと律していかないと習得は難しい、と言われています。
自分も、半ば盲目的に「整えなければ・・・」と思い稽古に取り組んでいたのですが、あるときふと、整えるとはどういうことだろう? と疑問に思ったのです。

 整える、ということは情報の観点でいえば物事の秩序の度合い、と解釈できますが、ではその度合いとはいったいどこから生じるのでしょうか?

 部屋の中で散り散りになった本を本棚に片付けるとき、そこには一定のルールが必要になります。本のサイズで分ける、著者で分ける、内容の関連性で分ける・・・それぞれの好みもあるかと思います。ただランダムに棚に収めるだけでは、それはしまっただけであり、整えたことにはならないといえます。

 では、人間の体も同じように整えることができるかというと、そうはできません。
そもそも人間の体はひとつにつながっていて、バラバラにならず、順番はすべて決まっています。
そうしてみると、人間とはすでに整ったものだと言えます。

 すでに整っているはずのものを、バラバラだと感じて、では整えようと好き勝手な基準を考える。それが、じつは人間の傲慢な考え方なのではないだろうか、とふと感じたのです。
 それでは、太極拳で言われているような「整える」とはどういうことか、自分の中で、最初から考える必要性が出てきました。


【暗 号】

 「太極拳とはコード、すなわち暗号を解くことだ」と、師父は常々言われています。
 色々指導されている中で、あるときふと、何かが分かることがあります。暗号の正解のひとつにたどり着いたということでしょうか。
 ですが、そのひとつがわかったからといって、暗号のすべてが理解できたわけではありません。せいぜい、知らない言語体系の中の単語ひとつの意味がわかった、くらいの解釈でしょうか。その言語が習得できたとはとうてい言えません。
 暗号のひとつを解くことによって、ひとつのヒントは理解できたかもしれませんが、暗号の普遍性を解いて、完全に理解したわけではないのです。

 ここで太極拳から離れて、いわゆる一般的な暗号を解くことを考えてみます。

 暗号とは、ある特定の変換法則によって、文章を別の状態に変えて、解読表を持たない人間には理解できないようにするものです。
 なにもヒントのない状態から暗号を解くには、その中に繰り返し現れる部分に着目し、それがなにを意味しているかを特定することから始められることが多いです。
 知らない言語を理解する、たとえば古代エジプトのヒエログリフを解読する場合でも、繰り返し現れる文字列がなにを意味するかわかったことが、解読のきっかけになりました。

 知らない街で知らない言葉を使う人々を観察していて、人々が知り合いだと思われる人と会うごとに「ンダバ!」と言っていたら、それはあいさつなんだろうなと推察する、というようなものです。「ンダバ」は適当に考えた言葉ですが。

 太極拳の暗号を解読する場合にも、それと同じ手法でアプローチできるかと思います。
 基本功や套路の中に繰り返し現れる要素を見極め、それが指導されていることとどう共通しているか、それを見極めるのです。

 そうすると、まるで関連がなかったかと思われるような動きの中に、共通の何かが、次第にみえてきます。そうしたら、それをヒントに考えていくことが可能なはずです。


【真似すること】

 さて、その上で、真似をすることの大切さについても考えてみたいと思います。
 真似をすることは、もちろん学習する上での心構えとしても大事なのですが、そことは少し観点を変えて、戦略として、数字の上でどれだけ有利かということを考えてみようと思います。

 暗号を解く上で、現れている繰り返しに着目せず、総当たり的に文字を当てはめて、意味がつながる文章が出てくるまでやる、というやり方ももちろん可能です。

 パスワードを解くとき、たとえばそれが四桁の数字でできる暗証番号だとしたら、
0000〜9999までの10,000個の数字の組み合わせの中に必ず正解があります。頑張ればなんとかなるかもしれません。
 では、それが7桁の数字だとしたらどうでしょう。
0000000〜9999999までの10,000,000個の数字の中に正解が含まれています。気が遠くなる数字です。
 そこにアルファベットまで含むとしたら、もうどうしようもないですね。
 だから普通、他人のパスワードを盗みたいクラッカーは、多くの人が使いやすいパスワードのパターンを使って攻めることをします。1234567など、わかりやすいパスワードは危険と言われる所以です。

 真似をすることの大切さとは、ひとつにはそれだけ、試行回数を減らすことができるからです。
 ランダムな数字をあてもなく入力していくのではなく、たとえばある特定の数字(誕生日など)が含まれている、とヒントがあれば、それだけ解けるまでにかかる回数は減ります。

 師父に模範を示していただくことは、極端にいえば、隣でパスワードを入力している様子を見ていることに近いのかもしれません。
 それはもう、ほとんど正解を示されているといっても過言ではないかもしれません。

 そこまで極端でなくとも、暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文を、目の前で指し示していただいて、ここにも、ほら、ここにも・・・と教授されているようなものでしょうか。

 真似できない状態というのは、それらのヒントを一切顧みず、自力で総当たりによって暗号を解読することだとすれば、真似したときとしないときで、一体どれほどの労力の違いがあるか、一目瞭然だと思います。


【ふたたび整える、そして暗号】

 いくつかのことをざっと見てきましたが、最初の疑問に戻って、整えるということについて考えてみたいと思います。

 冒頭で、人間とはすでに整っているのでは、と書きました。そして暗号の話に続いたわけですが、ここでふと疑問がよぎります。
 自分はそれまで、太極拳が暗号だと思っていたところがあったのですが、もしかしたらそれは少し違うのではないだろうか、ということです。

 暗号は解読表があれば、読み解けるものです。
 自分が一番わからなければいけないのは自分自身、広く言えば、対峙する相手や周りの環境まで含めた、人間のことなのではないでしょうか。
 だとすれば、暗号というのは太極拳のことではなくて、広く人間全般のことを指し示していて、太極拳とは、暗号=人間を理解するための、解読表という意味があるのではないか、と思ったのです。
 しかし物事は単純ではなく、太極拳という解読表もまた暗号によって記されているとすれば、二重三重に理解しなければならないことがあるというのも、腑に落ちるものです。

 整えるということは、すでにそこにある暗号で記された自分から、どれだけ意味のある言葉を正しく解読できるかといえて、それは本棚を整理するときのように、好き勝手な基準で言葉を並び替えるのとは意味が違うといえるはずです。

 そして、暗号を解読するために繰り返し現れる言葉に着目するというやり方を、暗号という二元的な世界から離れて、時間や動きまで含めた動的な現象で表現すると、真似をすることと言えるのではないかと思います。
 イメージが平面から動的な立体になるので表現が難しいですが、まず真似をしないことには、そもそも疑問となっている解読したい暗号が立ち現れてこないと言えるのかもしれません。

 真似をすることは、もっと根源的なものであり、本質に迫るための手段とさえいえるのではないでしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その37」の掲載は、7月22日(日)の予定です


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