Welcome to Blog Tai-ji



  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

  また、当ブログを快適にご覧いただくために、
  ウェブ・ブラウザは「Safari」または「Firefox」をお勧めいたします。



            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2021年09月14日

門人随想 「諦めない心」

                    by 拝師正式門人 川山 継玄


 この夏約一か月の間、私はご縁があって学童保育所に通う小学生達と過ごす機会を頂きました。
太陽が照り付ける暑い日も、帽子をかぶって虫籠や捕虫網を持って山を駆け回る子供達。
トカゲや虫を探して山肌を這うその姿は、あまりにトカゲが好きすぎて、私の目には、どうしてもトカゲそのものにしか見えない程でした。
 
 私は、普段の稽古で、一つの質問にさんざん時間をかけて考えておきながら、支離滅裂な事を拙い言葉でもじもじ言い出し、自分で発した言葉に疑問を持ち、挙句の果てに、「一体私は何を問われ、何を言いたかったのでしょう…?」とばかりに、答えを待つ相手に言葉を濁す始末。
 この状態では、自分で稽古し、研究していくなどとんでもない話です。悩んではいるものの、実際に・具体的に解決していくというには程遠い現状です。
物事と深く関わり、考え、調べて更に考察する事、言葉で説明することがとても苦手な…というよりできない私は、思考することなしに行動に移しているため、右脳優位な人間かと思っていました。
 ところが、稽古で丁寧に説明を受けて、何度も繰り返し取り組んでいるにもかかわらず、何も残っていない、時には一瞬にして頭が真っ白になって忘れてしまう。関連性が理解できない。不用意に壁や物にぶつかってしまう。等々、武術家というには何ともお粗末な有様。
 〈高速意識処理のコンピュータ〉と考えられている右脳が秘める能力はすさまじく、記憶力で言えば左脳の100万倍の能力をもっているとか。私が右脳優位であるわけがありません。

 『「文字で」記憶しようとして、“覚えられなかったらどうしよう”、“できなかったらどうしよう”、という不安や恐怖心を勝手に持ち、自らが緊張状態を作り出している。これは、左脳だけですべての物事を対処しようとして部分的・平面的にしか物事に関われていないことに起因している』
・・と、師父が脳についての講義もしてくださいました。また、
 『右脳を使えるようにするためには、良い音楽を聴きなさい、おいしい料理を作ってみなさい、食べてみなさい、本物に触れてみなさい、カラフルなペンで絵を使ってはみ出してもいいから自由にノートをとってみなさい、全てを喜びの中で存分に味わってごらんなさい…』など、師父は毎回、本当に丁寧にその時に応じた例を用いて、ご指導くださいました。

 「成長したい!」「変わりたい!」「師父や玄花后嗣と同じ景色を観たい!」と、音楽を聴き、絵を観て、自然を満喫して、映画を観て…。それらに感動はするのですが、その場で終わってしまうような、空回りしているような、貧しい精神状態の私。稽古で音楽を頭に流すのですが、いつの間にかそれは消えて、口を一文字に固く結び、緊張した面持ちに戻っています。
 そのような中で、子供達の瑞々しい感性と好奇心と行動力と優しさのお陰で、私にも一筋の光が見えてきたのです。

 小学校に通う児童全員が一輪車に乗れて、冬にはグループに分かれ、パフォーマンスを披露するまでに成長してしまう子供達。初めての夏休みを迎えた1年生の中には、乗れるようになってまだ間もない子も少なくありません。
 子供達と出会ったその日、「一輪車やろう!」と宿題を終えた1・2年生の女の子たちが私に声を掛けてくれました。一輪車には、数メートルしか乗れない私は、「今年の夏こそ、思ったところに悠々と漕いでいけるようになるぞ!」と意気込み、練習を始めました。

 「まず、遠くの山のサルをみるようにって教わったよ」
 と、1年生が口々に言います。教わったことをみんながよ〜く覚えているんだな、と感心しながら、
 「ふ〜ん、サルね!」
 とバーから手を放して漕ぎだしてみました。するとすぐさま、
 「そうそう、その調子! そうだな〜。サルじゃなくていいや。何の動物がいい?」
 と、Aちゃんがスイスイ一輪車に乗って近づいてきました。

―(えっ? 私が「サルはあの山にはいないよな」って頭の中をよぎったのがわかっちゃった?)

 「リスかな!、じゃあリスでいいや」

―(なんだ?!このテンポの良さは。)

 昨今の私の会話にはないスピード感にあっけにとられました。
 そしてその後も、私が一度乗るたびに、

 「あっ、できない理由が分かった!」

―「何?、何?、教えて‼」

 「目が下向いてる」

―「はいっ」(あれ⁈、どこかで聞いたような。)

 「腕が曲がってる」

―「あっ、本当だ」(これも聞いたことある。)

 「腰がこう(一輪車に乗ったまま、腰を巻き込んだ姿勢をとる)じゃなくてこう(同じく、命門が入った綺麗に立てている姿勢をとる)」

―「私そんなに腰が丸くなってるんだ」(あれ?、この子門人だっけ⁈)

 「体が動いてない」

―「う〜〜〜〜やっぱり(泣)」

 「笑ってない」

―「近頃眉間にしわ寄せて、口元ギュってしちゃうんだよね」(放鬆、ファンソン…)

 「怖がってる」

―「確かにそうだなあ」

 「転んでない」

―「ケガすると治りが遅いからな…」(稽古もできなくなっちゃうし。)

 極めつけが、
 「言われた通りにやってない!!」

―「…(-_-;)」(ごもっともです〜〜〜〜。)

 ・・ここは道場か?、と錯覚してしまうほど、日頃稽古で指摘されることのオンパレードで、しばらく開いた口が塞がりませんでした。
 彼女たちは、本当に真剣なまなざしで私の姿を観て、自分との違いを瞬時に察知し、心の声まで読み取って、一人一人が自分の言葉で、私ができない理由をわかりやすく、楽しそうに教えてくれるのです。
 一息つきながら、「どうして上手になったの?」と立ち乗り練習中の1年生に聞いてみると、「練習したから。」と極々普通に答えます。
 転んでも転んでも練習する彼女たち。そこには「乗れなかったらどうしよう。」という気持ちはみじんもなく、「うまくなりたい。これができるようになりたい(10級から名人まで段階があり、技の数々が用意されています)」という前向きで意欲的な気持ちだけです。乗れなければ、グループのみんなに迷惑をかけるため、彼女たちには乗れないという選択肢はありません。それだけの厳しさの中で頑張っています。

 以前のレンガ站椿の稽古で、
 「外筋でも何でも、乗ってやる!という気持ちでやるんです」と、玄花后嗣がおっしゃいました。
 「わかるまでやるんです」
 「今やらないなら、時間が経ってもやりません」
 「延期しないことです」
 ・・と、常々甘っちょろい考えが見え隠れするたびに、そう言って喝を入れてくださいます。

 人は、都合の良いように言い訳をつくっては、その場をしのぎます。それでも生活はできます。しかし、それでは太極拳は取れないと何度も何度もご指導頂きます。その場から逃げない、甘えを許さない心構えが大切だと思います。
 私は、右脳が使えるようになるには…と師父が挙げてくださったことを、心から楽しいと思えるまでやっただろうか。子供達が転んでも転んでも練習し続けるように、向かい合っただろうか。彼女達が私に指摘したように、自分を観て・認識し・修正しただろうか。
 答えは、“NO”でした。
 私が長く悩んで解決できなかった理由はただ一つ、
「“その時わかるまで取り組む”という覚悟の欠落」
だと思い至りました。それ故にできない理由を山ほど用意したり、延期したり、甘えてばかりの自分を許していたのです。

 「誰でも、今この瞬間に変われるのです」
と言われたことの意味が、分かったような気がします。
 「こうする」と言われたらその場でそのようにやる。わからなければ、わかるまでやる。それこそが大切だったのだと。
 これから、子供達から学んだ、強風に身を委ねる柳のようにしなやかで強い「諦めない心」を育て、鍛えていきたいと思います。そして、喜びに満ちて伸びやかに太極拳に向かい続けたいと思います。
                              (了)



2021年08月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その55

  『意識的に見ること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古をする上で、ただ漫然と数や時間をやればいいわけではない、とは常に注意されることです。
 では、意識して稽古に取り組むとは言いますが、何も知らない、味わったことのない状態で、果たして最初に何を意識したらいいのかという問題があるかと思います。

 よほどの天才でもない限り、何もないところから武術を創出するのは簡単なことではないはずです。だからこそ、我々には先人から授けて頂いてきている、代々培われた理論があり、それを学んでいくために守っていかなければいけない体系があるのだと思います。

 意識的に稽古に取り組むためには、まず何よりも自分に対して自覚的であること、認識をきちんと持っていることが必要だと思います。そして、何を意識しなければならないか、という、意識についての型や枠、つまりは規矩を身につけていかなければならないのではないか、と感じます。

 意識の型、というと表現が難しいかもしれませんが、それは、どのように自分が物事を捉えているかという、考え方につながっているのではないかと思います。

 人間は、やろうと思えば何でも出来るし、何にでもなれるような自由度を持って生まれてきているのではないかと感じます。ところがそれは、裏を返せばまっさらに何も書き込まれていない白紙のような状態で生まれてきているとも言えるわけで、そこで使われるべきペンや絵の具、はたまた書き込まれる言葉でさえも、外側の世界との関わりで一つずつ身につけていかなければいけないのではないかとも思います。

 太極拳で求められる考え方、提示されている物事は、日常の生活の中には存在し得ないものです。師父は常に我々に「考え方を変えること」と仰っていましたが、我々がこれまでの生活で養ってきたものの見方、発想方法では、太極拳で示されているものは見えてこないのだと、改めて感じさせられます。
 絶対に引っかかることのない網を広げて太極拳という獲物を捕らえようとしたところで、どれだけ頑張っても獲物が捕まえられるはずはありません。するりと網を抜けて行ってしまいます。
 では、どうしたらいいのでしょうか。


 先日の稽古の際に、玄花后嗣から「とにかく考えずに真似をすること」という指導をしていただきました。
 自分を挟まずに真似をすること。今まで生きてきて培われてきた自分という土壌がある中で、示されたものを素直に真似をするのは、我々にとって難しいこととなってしまっています。
 順番をつけられるものではないかもしれませんが、意識的に稽古に取り組むためにこそ、まずは何も挟まずに真似ができるかという点が、重要になってくるのだと思います。
 では、なぜ真似をしなければならないのでしょうか。

 太極武藝館の稽古では、多くの時間を歩き方、歩法の稽古に当てています。歩法の稽古があって対練は行わないという日はあるものの、その逆はない、というほど歩くことに重点が置かれています。
 道場に通って来ることのできる門人は、恐らく全員が物心が付く前には歩いていたと思います。乱暴な言い方ですが、人間は体の構造上、雑なやり方でも割と歩くことが出来てしまいます。
 ところが、大きくなっていざ太極拳の稽古をしようとなった時、その雑に習得してきた歩き方そのものに苦戦させられます。赤ちゃんの時、見様見真似とはいえなんとなく出来てしまった立ち方、歩き方を、大人になってからこれ程まで修正されるとは、思ってもいない事態です。
 太極武藝館に初めて入門した人は、ここまで細かく立ち方、歩き方を修正されるのかと驚くに違いありません。
 自分というまっさらな紙に書き込まれてしまった、身についている身体の使い方を、一から修正していかなければなりません。ところが、多くの場合、それらは無意識的になんとなく書き込まれてしまったもののはずです。

 ただ真似をして動いていく。
 その中で、指導者から折を見て、必要となる注意点、要訣を指導していただきます。
 そうすると、今まで無意識に行われていた自らの行為に、ふっと意識が向き、気がつくようになります。そうして初めて、
「ああ、自分はこのように勝手な体の使い方をしていたのだな」と、気づけるようになります。
 そうすると、示されていた動きが、自分の認識の変化に伴って、さらにそれまでと違ったものとして新しい面が見えてきます。そしてそれを真似をすると、また不意に気づける瞬間がやってきます。
 こういったサイクルを循環させることによって、何も挟まずに真似をすることから、自らのことに認識が向かうようになり、意識的に稽古を行うという感覚が芽生え、養われていくのではないかと思います。

 指導者による指導はもちろんのこと、我々門人同士でも、お互いの状態を見て指摘し合うという形の稽古が行われます。
 これは、他者の間違いを注意するためではなく、むしろそれを通して、自分が何を見ているのかを学習することが求められているのではないかと思います。
 同時に、稽古でどんどん成長していける人は、どのような点に着目しているのか。それを勉強させてもらえる機会でもあると自分は感じています。

 そういった形を通して、自分が何を認識し意識しているのかという点そのものに、次第に意識が向うようになっていきます。
 自分の認識のメカニズムが、だんだんと形としてあらわになってくるのです。
 人間は、自分で思っている以上に、自身の内面を構成するものが外側の影響を受けているのではないかと思います。というよりも、それがなければ、自身の内面を認識することさえも難しいのではないかと思います。
 考え方という点においても、そこに意識を向けるという訓練を行って初めて、考え方に向かい合うという概念が生じてくる、とでも言えるでしょうか。
 そういうことを言ってもらわないと、それに目を向けるのは、人間にとっては容易なことではないと思うのです。

 歩き方に関しても、日常生活を送る上で恐らくほとんどの人は、生まれてからこれまで、自分がどのように歩いているのかを認識したことはないのではないかと思います。
 それでも、足を痛めたとか、スポーツをするなど、何かの必要性に迫られた時に、初めてそれを認識するのではないかと思います。

 太極拳を完全に独学で行うのは、恐らくほぼ不可能ではないかと思う理由がそこにあります。
 物事はそこにあったとしても、何に目を向けたらいいのかわからないからです。
 太極拳は、そのシステムを理解している指導者から、何に意識を向けたらいいかという点を教えて頂いて初めて、そこに目を向けることが出来るのではないかと思います。
 それなしで全てを独力で見極めようとするのは、砂漠の中の砂粒ひとつを見つけ出すのに近い神業ではないかと思われるのです。

「考え方を変えなさい」と言われる時、そこにある意識のメカニズムにまで目を向けよ、と言われている気がしてなりません。
 師父は我々に、構造はすでにそこにある、ということを話してくださいました。ただ、誰もそれに気づいていないだけなのだ、と。
 太極拳としての構造がすでに人間の体の中に備わっているのに気づけないのだとして、では我々は稽古の際、何を教わっているのでしょうか。
 それは、意識や認識の中にも見出されるべきメカニズム、型というものではないのかと、感じます。それさえも本来そこにあるものなのかもしれませんが、先人の導きなくしては、そこに気づくことは不可能とさえ思えます。

 最初に入門して直される立ち方、歩き方。ただそれが変わるだけでなく、そこに意識的になれるかどうか。
 何に目を向けるべきか、注意したらいいかという認識の型というべきものを、我々への指導に多くの時間を割いて頂いているのではないでしょうか。

 私たちは、師父のような物の見方が出来ているでしょうか。
 師父は、どのようなときも特定の見方に固執することなく、柔軟な捉え方をするようご指導くださいました。
 こう言われたから、とか、こうしなければならないということではなく、常に機に臨んで変化に応じることこそ、疾風勁草の在り方なのではないかと思います。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その56」の掲載は、10月22日(金)の予定です

2021年08月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その54

  『選択し続けること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 稽古をしているとき、それまで出来なかったこと、違ったことが、わずかなきっかけで急に変わるということがあります。
 師父はよく我々に、何を選択するかが大切だ、というお話をしてくださいます。

「山頂に至るのに、一歩ずつ歩いていく必要はない。・・ヘリコプターでパッと山頂に降り立ってしまえばいい」

 ・・千里の道も一歩から。武術という山の頂に到達するには、長く険しい道を一歩一歩進んで行くしかない。そのために、先人の教えを守り、彼らの示した道順に従い歩んでいくのだ・・・。

 そう、常識的に考えがちな我々の頭に、上にあげた師父の言葉はどのように響いたことでしょうか。

 特に我々日本人には、結果が出るまで粛々と努力し続けることが美徳という価値観があるかと思います。そして、たとえ結果が伴わなくても、そこに至るまでの過程が、努力し続けてきたことが美しいのだと、自分に言い聞かせるような文化があります。
 そういった面は確かに良い部分もあるかもしれませんが、言語が違えば文化圏、考え方まで異なっている他国から入ってきた武術を練習する際に、そのような美徳だけで正しく習得できるかというと、少し疑問が挟まります。
 武術とは生死を賭けた瀬戸際で生きる術であり、そこで結果を伴わない綺麗事だけを行っていては、本来必要な技術・精神は見出せないのではないかとも思われます。

 頭が堅くても本当のことはわからない、ともよく言われます。
 ヘリコプターで山頂に至る、という例え通り、もし先人たちが指し示している道が、ヘリで空中を通るルートまで含んでいるのだとしたら、我々が固定観念に囚われて躍起になって足元を探し続けたところで、永遠に道は見つからないということになってしまいます。

 師父はよく、月を指し示す指を稽古に例えてくださり、指ではなく月を見なくてはならないと仰ってくださいます。
 月へ至る道を探すのに、足元を探す愚か者がどれだけいるでしょうか。
 我々が何かを発見できないと嘆いているとき、月がある空のその先ではなく、自らの足元をじっと眺めるという愚を犯していないかを、改めて見直すべきではないかと思いました。

 この話は、単なる例え話ではなくて、実際的な技法にまで繋がっているのでは、とも感じます。
 相手を倒す時、高度な技術を追求する人間でも、どうしても自分と相手との関係性だけに着眼してしまうのではないでしょうか。
 相手がどのようにあって、自分がどうであるか。相手がどのように向かってきて、自分がどのように動くか。
 しかし、本当に見なければいけないのは、その点だけなのでしょうか。
 地に足をつけ、自分で歩くことだけが道の追求だと、そう思い込んでいる自身の姿がそこに重なります。姿形もなく空中に指し示された道までも、我々は捉えなくてはならないのではないか、という考えがよぎります。

 以前より動画で公開されているように、師父は壁際で行うような対練も我々に示してくださいます。
 なぜ壁際なのでしょうか。壁際に追い込まれた時にどのようにエスケープするかという練習を、状況を設定して行っているのでしょうか。
 私たちは、そのような単純な稽古を教えられたことは一度もありません。
 自分自身、壁際で動きにくくなった状態で動くことで何か発見する、といったような浅い理解で稽古をしていました。ですがあるとき、「もっと壁を使う」という師父の言葉が、実感として理解されたように感じたのです。
 言われた時にはわからなかった意味が、自身の感覚と結びつき、それに相手の崩れ方が重なった瞬間が訪れたのです。

 そこにずっとあったはずの壁に、我々は心身ともに、知らない間に影響を受けていました。ですが、そのことの意味をずっとわからないまま、ただ漫然と対練を繰り返していたかのようでした。
 そこにあるものに改めて気づき、それとの関係性まで含めて、自分と相手を認識しなければならないのだと、感じさせられたのです。

 そこにあって見えているはずのものが見えない。
 しかし、それがあると認識できるようになる感覚は、そこにはないはずの、例えば空を行く道のことも、はっきりと道と認識できるような感覚と、共通するものがあるのではないかと思います。

 人の意思は自由で、何者にも囚われていないはずです。
 ですが、我々が自由だと思っている以上に、そこにあるはずのものに影響を受け、制限されているのではないかと感じます。
 そのことに意識的に気づけると、それらをどうするかを、選択することができるのではないかと思います。
 そこに石があることに気づけば、それを避けることもできるし、座って一休みすることもできます。敵がそれに気づいてなければ、そこに足をかけて転がすこともできるかもしれません。

 意識的で気づいていること、自覚的であること。その上で、どのようにするかを意思で選択していけること。そのことの大切さを、我々は教わっているのではないかと思います。
 そして、その選択したことは、一度決めたことだからそれでよし、未来永劫続くというものではなくて、その都度その都度、瞬間瞬間に選択し続けなければ、すぐに変わっていってしまうのではないかとも感じられます。

 冒頭の話に戻ると、確かにヘリでパッと山頂に至ることは、歩くよりもすごく早いです。
 ですが、そこに至ったらそれで終わりではなく、さらなる別の頂に登るか、そこから山を下るか、その瞬間に選択肢はもう生じているのではないかと思います。
 山頂に来たからゴールだと、何もせずに保留していては、あっという間に山から転がり落ちてしまいます。
 ヘリコプターが空中でホバリングし続けるためには、実は空を飛び続けるのと同じだけの仕事をし続けなくてはいけません。
 あらゆるスポーツのプロ選手なども、一度覚えた技法を毎日毎日練習し続けます。そうしないと、それが出来なくなってしまうと知っているからです。
 そして興味深い事に、彼らが毎日練習し続けるのは、そのスポーツにおける最高難度の動きではなく、最も基礎的な動きなのだそうです。

 スポーツと武術という違いはありますが、我々も、基礎・基本を最も大事なものとして、指導していただいています。
 そしてそれをこそ、常に見つめ直し、磨いていかないといけません。
 この共通点は、決して偶然ではないはずです。

 何かを決意し、一度選択することは簡単なことです。
 本当に難しいのは、それを選択し続けることではないかと思います。

 我々が成し遂げなければならないのは、太極拳をただ理解するのみならず、理解したものを研鑽し続けることではないかと思います。
 そこへ至る道を、示されているものと、また、これとは明示されずに現されているものをも、感受性を最大限に開いて、見ていかなければならないのだと思います。


                             (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その55」の掲載は、8月22日(日)の予定です

2021年07月31日

ブログ再開のお知らせ

☆いつも「ブログ・タイジィ」をご愛読頂き、ありがとうございます

諸事情により記事の掲載を一時休止しておりましたが、
ようやく再開の運びとなりましたので、ここにお知らせいたします。
読者の皆様には、大変お待たせいたしました。
すでに、新たな記事掲載の希望者も出てこられ、編集室としては嬉しい限りです。

今年も残り半分を切りましたが、「ブログ・タイジィ」はまだまだこれから盛り上げていきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 
                   「ブログ・タイジィ」編集室 一同


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2021年03月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その53

 『味噌の味噌臭きは上味噌にあらず』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず…」

 以前稽古中に、師父が我々に言ってくださったことわざです。その時には、細かい意味の説明などはなかったと思うので、発言の真意は個々人がそれぞれで味わってみよ、ということだったのだと思います。

 味噌を武術に置き換えて考えてみると、武術然とした武術は高級武術にあらず、といったところでしょうか。

 これは、最近師父に指導していただいている、「太極拳みたいな動きをしない」ということと通じる部分があるのではないかと思います。
 我々が基本功や歩法、対練をしている時、いかにも武術らしい動き…力強く、居付きや蹴りを使った素早い動きが出てきてしまいます。師父の動きを比較させていただくと、それはまるで舞でも舞っているかのように軽やかで、むしろ一見すると武術らしくない動きと見えなくもありません。

 我々は、そもそも武術の本当の動きを理解できておらず、それでいて自分の中にある武術観を完全には捨て去ることができず、大なり小なりそれを引きずったまま稽古に臨んでしまっているように思います。
 それを捨て去れることこそが、真に上達していける道なのではないかと思うのですが、言うは易しで、それを行動に移すのは難しいものがあります。

 ことわざの通り、味噌臭い味噌は食べられたものではありません。それなのになぜ、その味噌臭さを我々は武術性だと信じて疑わないのでしょうか。


 先日、師父が非常に興味深い話をしてくださいました。
 ところで、師父のお話はいつも一見関係なさそうなところから始まり、それが順を追って進んでいくと、最終的に明確な答えに辿り着きます…。
 師父のお話を聞いていると、とても短い時間の中に、明確な一本の筋道が見えて、そして最後の結論に至った時の爽快感は、まるで質の良いミステリ小説を読んだ時の気持ちになります。考えてみればそのように繋がってくるのに、最後に至るまでそういう発想は出来ず、そう来たか!とつい膝を打つような気分になります。

 さて、先日お話ししてくださったのは、「武術には狩猟のセンスが必要である」と言うものです。
 人類の発展の歴史を紐解き、狩猟の時代から個人の貯蔵が始まり、そこから争いが始まったと言う話をしていただきました。誰かが自分より多くのものを持っているから、それを欲する心が起こり、そこから争いが生じる。奪う側も、奪われないように守る側も、戦いの手段が必要になり、そこで狩りのセンスが必要とされると繋がっていきました。
 また、個人の所有という概念が生まれ、誰かとの比較で優劣を生じさせるようになり、そこからそれまでにないもの、俗っぽさが生じるというのは、非常に示唆的な話だと思いました。
 
 俗っぽさ、世俗的な思考に満ちた頭では、到底太極拳をとることはできない。

 師父ははっきりとこのように仰います。
 というのも、俗に塗れた中では、天才のセンスは生じず、生じたとしても世間から抹殺されてしまうもの、だとおっしゃいます。
 武術で必要な感性、閃き、センスは俗世で生きる中では必要とされず、埋もれてしまうのかもしれません。
 人類が狩猟の時代から貯蔵・農耕の時代へと変遷していく中で、それまでにはなかった他者との関わり方、社会性が生じてきたと想像できます。社会性で必要とされることは、狩猟の時代に母なる大地との関わりで必要とされてきたこととは、大分異なっていたのではないかと思います。

 「狩りのセンス」が必要という話をされた時、自分の頭には、受容性というワードが浮かんできて、それとつながりました。
 人間が生きていくために狩猟を行う時、獲物=恵みを与えてくれるのは、いつだって自分以外の自然、大いなる他者であったはずです。
 そして、その母なる自然が分け与えてくれるものを頂く=受容性という感性が今の人間よりも強かったのではないかと思います。

 狩猟では、どれだけ個人で足掻いても、自然から与えられるもの以上のものを得ることはできないはずです。かといって、何もせずに待っているだけでは、ただ飢えて命を落とすだけです。
 獲物を得られても、必要なだけの量で終えなければ生態系のバランスは崩れ、最後には自分たちも生きていけなくなります。
 そこでは、積極的あるいは能動的な受容性とでもいうものが必要とされていたのではないかと思います。

 現代でも、狩猟採集社会を営んでいる文化をみると、必ず自然に感謝を捧げる儀式が執り行われています。それは自然からいただいたものへの感謝であり、それが人間にとっての、芸術の始まりなのだと思うと示唆的なものがあるように感じます。
 最近も、人類最古の壁画が発見されたと話題になりましたが、それらは不思議と、人間と動物が描かれたものが多いのです。これは偶然なのでしょうか。

 太極拳を稽古することと照らし合わせてみると、どうなるでしょうか。
 自分でこうだと思い込んだことをやるのではなく、示されたことをきちんと受け取る。
 そして、ただ教えてもらうのを待つだけでなく、積極的に自分から取りにいくこと。

 それはあたかも、狩猟において生きるために獲物を持ち帰ることと、共通しているのではないかと思うのです。

 また師父は、老子の『道(タオ)』の思想も例に挙げて我々に話してくださいました。
 人間はここに存在としてあること。今、ここに生きていること。

 その時の自分には、それもまた、狩猟の話と関わったものとして響いてきました。
 獲物を狩るとき、明日の、明後日の生活はどうなるだろうと未来に心配を馳せたりはしないはずです。ただ、目の前にあるものと関わり、そうして獲物を追っていくことしか頭にないはずです。
 先の心配はしても仕方なく、与えられるものは母なる自然から与えられる。
 偶然か必然か、『道』の考え方に当てはまるように感じられます。

 老子は、確かに人の関わりの中で生じる社会性という面からみると、それらの決まり事を根底から破ってしまうような厄介者に感じますが、もっとプリミティブ・原始的で素朴な人間の営みという面から見れば、決して破綻しているわけではなく、むしろ自然の本質に迫るものではないかと感じられるから不思議です。

 また師父は、老子と同様に人々に生き方を説いたキリストの話も例に挙げてくださいました。

 1日の終わり、捕らえた魚を持って帰ろうとする男に、キリストが声を掛けたそうです。

 師父は、「その男はどうするだろうか」と我々に問い掛けます。 
 魚が痛むからと、そそくさと帰ってしまうでしょうか。
 もしくは、話を聞くものの「また後日」と去ってしまうのでしょうか。

 それとも、獲った魚や他の全部を捨てて導きに従い、キリストについていくでしょうか。

 そして、その行いは、社会的に見て正しくない、と非難されるべきなのでしょうか。 

 社会性=俗っぽい目で見てしまうと、本来そこに見出せるはずの自然的な営み、原理が見えなくなってしまうのではないかと思います。
 それはまさに、自分の考えを盲信して稽古を繰り返し、本当に示されているものが見えない我々の姿そのものを指し示しているのではないかと思います。

 味噌臭い味噌は、食べられたものではありません。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その54」の掲載は、5月22日(土)の予定です

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