Welcome to Blog Tai-ji



  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

  Blog Tai-ji では、普段の稽古の様子はもとより、どのような人がここで学び、
  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

  なお、コメントの書き込みにつきましては、現在のところ、小館門人および
  ゲストの方々のみに限らせて頂いておりますが、コメンターとして参加を
  希望される方は、太極武藝館・事務局までご連絡下さい。

  また、当ブログを快適にご覧いただくために、
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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2023年01月27日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その68

  『創意工夫した勉強を』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳を学習していく際、多かれ少なかれ、壁にぶつかる瞬間は訪れるかと思います。太極武藝館の稽古が特殊だと感じる点に、ただ深遠な太極拳を教授していただけるというだけでなく、その学習の仕方そのものにもメスが入り、自分が物事をどのように学んでいるか、人生に関わっているかということに関してまで、つまびらかにされていく点が挙げられるのではないかと思います。

 年末年始を通して、一年の中でも一番長い期間、道場での稽古がお休みとなり、我々門人は、それぞれが自身の課題に自分自身で取り組む時間が与えられました。もちろん、みんなで稽古に取り組み、それぞれの課題を発見する時間は本当に必要で、大切なことだと思います。
 ですがそれに合わせて、各自が見出した課題を、自らの力によって、自分自身で掘り下げていく時間もまた、車輪の両輪のように必要な時間だと思います。
 あたかも、世界中に存在している寺院や修道院などで取り組まれている修行において、みんなで共同で取り組む時間と、各自が必ず一人になって修行を深める時間が別々に用意されているかのようです。そうすることで初めて人間は、他者と対した自分、自分と対した自分として、一人の人間としての深みを見出していけるかのように感じられます。

 さて、この現代社会で生きてきている我々は、各自で行う勉強というと、とにかく時間と数をこなし、まるでやり終えて積み上げられたテキストの量が、そのまま自分の勉強できた量であるかのように感じている部分があるのではないかと思います。
 それは、この日本の学歴・受験社会においては、試験で結果さえ出せれば良し、それを過ぎてしまえば、果たして自分に何が残っているのだろうか…、という問題につながっているように思います。
 例えば試験をひとつ取り上げても、太極武藝館で行われるものは普通のものとは全く違いました。そこでは、自分が他者によってただ絶対評価を下されるというものではなく、自分自身が自分の問題と直面し、自分を知るという機会が設けられていたように感じられたものでした。

 稽古が休みの間、自分にとっての問題は何かを追求していましたが、そこで気づいたのは、頭での気づきでは、物事の本質は理解しきれないという点でした。
 何か自分の問題解決のきっかけになるものを…とアンテナを張り巡らしていたのですが、ある時ふっと、それまで気にならなかった本の存在に気づき、なんとなく手に取ってみました。するとそこには、自分が思ってもみなかったヒントがちりばめられていたのです。
 非常に面白いことにその本には、問題を解決する際には大きな紙に問題点を書く、部屋中に張り付ける、自分の居る環境を整える、などなど、いつも玄花宗師に指導して頂いているような内容が書かれていたのです。
 その本を読んで、私は衝撃を受けたものでした。人間というのは頭だけで出来ているわけではなく、身体を持ち、外側の物事と相互にやり取りをしながら生きている生き物です。その、頭の外側で起きている事に、本当に多くの影響を受けているのだということに改めて着目させられ、自分が見直さなければならないことに多くの光が当てられたような気分になったものでした。

 自分の頭だけで物事を理解していけるという思い込みは、自分の力だけで物事が解決していけるという錯覚と同じものであり、太極拳に当てはめれば、自分の力や創意工夫だけで相手を崩すことが出来ると思い込んでいる、拙力の発想と全く同じものだったのだと、改めて思わされました。
 ところが、太極武藝館で指導されている学習方法は、本当に簡単なことのはずなのに、全く違っています。頭の中で問題をこねくり回すのではなく、まずは書いてみる。たったそれだけのことで、問題に対して全く違った切り口が出来ているのだということに気づかされます。悩んでいないで、それをやってみる。これ以上シンプルな解決方法はないのではないでしょうか。
 だけど、自分を含め、ヒトはそれをやりたがらない…そこにこそ、学習が進歩していけない問題点と解決策があるように感じられます。

 紙に書いてみる、環境を整えてみる。本当に単純なことに取り組んでみることで、人間は自分以外のものと、自分で気づいている以上に相互にやりとりをしているのだということが実感させられます。これは自分と物との関係だけでなく、自分と他者との関係においても、全く同じことが言えるように思えます。
 頭ではなく身体で分かっていくというのは、ただ体育会系のノリで身体をひたすら鍛えて、ということではなく、周囲にあるメッセージにまず気づけるのは身体だということに、意識を向けていくことではないかと思います。自分の頭では「わからない」と思い込んでいることでも、身体のアンテナは敏感にキャッチしていることが多々あるように感じます。そこに意識的になることで、新たに見えるものも多いのではないかと思います。

 玄花宗師と対練をさせて頂くと、とにかく自分のことが見透かされてしまっているという感覚が拭えません。太極拳には聴勁という言葉がありますが、こちらの身体が発している声を、自分よりもしっかりと聞き取られていて、自分の気づけないレベルで行動に対処されている。そのような相手に、どれだけ力もうと関係なくやられてしまうのは、もはや自然の理といえるのではないでしょうか。
 武術の道場という場で、ただ敵を屠る技術を教わるのではなく、人との関わり方について話が広がり、そこから見えてくるものが、そのまま自分の稽古の仕方とも繋がってきているというのは不思議に感じるものでもあり、また、同じ人間の取り組んでいることであるために、ごく当たり前のことのようにも思えてきます。

 このことは、これもまたいつも指導して頂いている通り、日常生活の中で太極拳を勉強していけることと繋がっているのではないかと思います。仕事でも普段の生活においても、人や物事と対峙する時、太極拳として自分が向かい合えているかどうか。いつも血気盛んで相手を叩きのめすことしか考えていない人間に、いざ道場や実戦において余計な力を使わないなどということが出来るとは到底思えません。
 ただ、だからといって普段から「修行だ、修行だ…」と眉間に皺を寄せていても、それもまた余分な力みになっていて、稽古としては片手落ちになってしまっているのだと思います。心を静かに、波風が起きてもそれを観察する余裕を持ち、かつ無抵抗ではなくしっかりと対処できるような芯の強さを持った人間であること。それが問われているように感じます。

 剣禅一如という言葉がありますが、人間としてどれだけ自分を磨いているかが、そっくりそのまま太極拳の修練の度合いに繋がっているようにも思えてきます。昔の達人はすべからくその境地に達していたからこそ、見えていたものがあったのではないかと感じます。

 自分も、肩肘を張らずに自然体で、そこから初めて見えてくる自身の本質に向かい合い、それを磨いていきたいと思いました。

                              (了)



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2023年01月01日

謹 賀 新 年

  明けましておめでとうございます
  本年もどうぞよろしくお願いいたします 



日頃よりブログタイジィをご愛読いただき、誠にありがとうございます。
太極武藝館では昨年、第一后嗣であられた円山玄花后嗣が二代目宗師を継承されることとなり、継承式が執り行われました。その後、数年振りに研究会の強化訓練が実施されたり、札幌支部への長期稽古指導を実現されるなど、確実に新たな時代が重ねられてゆく中で、眩ゆくもより一層の内なる厳しさが感じられる一年となりました。

二代目宗師と正式弟子の皆さんを中心に、真の武術性とスピリットを錬磨しながら玄門太極に伝えられる高度な拳理拳学を紐解いて行かれる様子は、私たち一般門人も稽古のみならず普段の姿勢こそが大事なのだと思わざるを得ず、道場に居る時だけではなく、むしろ日常が修行の場となるかのような錯覚を覚え、大いに刺激となっています。


新年のブログの表紙は、札幌市にある「モエレ沼公園(イサム・ノグチ設計、デザインの公園)」内の写真で、札幌支部の研究会門人には、稽古がない日はこの公園で自主稽古に励む門人も居るとの声を聞きました。今年は札幌支部の稽古の様子なども、ブログにて写真付きでお伝えしていきたいと考えています。

私たち「ブログタイジィ」も、スタッフ一同、心を新たに気を引き締めて、
ますます充実したブログとなるよう、精一杯励んで行きたいと思います。
本年も「ブログタイジィ」を、どうぞよろしくお願いいたします。


      令和5年  元旦

                  太極武藝館オフィシャルブログ
                  「Blog Tai-ji 編集室」スタッフ一同





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2022年12月23日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その67

  『只、真っ直ぐに立つ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 ついこの間年が明けたと思っていたら早いもので、もう1年が過ぎ去ろうとしています。時間は誰に対しても平等に流れているはずですが、慌ただしく毎日を過ごしている間に、油断をしていればあっという間に流れていってしまうものですね。
 さて、その長いようで体感は短くも感じられたこの一年間、どのように成長、ないしは変化することが出来たでしょうか。個人的には、一年の後半になるにつれていくつかの出来事がバタバタと起こり始め、より慌ただしく忙しくなっていった年でした。
 その結果、仕事の都合で道場に稽古に来られる時間が、以前よりも減ってしまいました。その変わりというわけではなかったですが、このブログでの連載を毎月書かせていただくようになったこともあり、結果的には、これまで以上に太極拳に向かい合う毎日を過ごしていたように思います。

 道場に来れない時間が出来たということは、その時間取り組んでいた稽古時間は、どうしても減ってしまうことになります。それによって自分の稽古の進捗に遅れを出してしまうわけにはいかないので、自分自身で稽古への取り組み方を工夫しなければなりませんでした。
 その中で、先月の記事にも書きましたが、玄花宗師が訓練中に「放鬆(ファンソン)」に取り組んでいたというお話を聞き、改めて自分の状態、「力み」についてじっくりと観察をすることとしました。
 少し話が逸れるかもしれませんが、人間の意志の力というものは、現実の物事に影響を及ぼすような、不思議な力を秘めているように感じられます。この一年で自分の周りに起きた変化というのも、自分がどこかで「なんとかしたい、物事に変化を起こしたい」と本気で思うようになり、そうすることでだんだんと変化が現れ始め、それに乗っかることで実際に変わり始めたところが多分にあったように思います。

 少し眉唾な話にも聞こえますが、自分の意志で、意識を変えることで実際に行動に変化が出始め、それによって周りの物事にも影響が出始める…人間が自分一人で生きているわけではないからこそ、起こる現象ではないかと感じています。
 自分がただ一人で「ああしたい、こうしたい」と思って我儘に行動したとしても、それは周りと協調性のあるものではありません。ただ我を振り回しても、この世界はどうも応えてはくれないように感じられたのです。むしろ、自分を静かにすることで、そこにある流れのようなものが見いだされ、それにそっと自分も合流していくような感覚、それが変化が起きている時の状態なのではないか、と思うようになったのです。
 それと同じような変化が、もしかしたら自分自身の太極拳の在り方にも起こり得るのかもしれないと思うようになったのは、一年の四分の三が終わったくらいからでしょうか。
 自分の周りの出来事との関わり方にも、力みではなく、放鬆された状態で臨まなければ、太極拳と人生を一貫したものとして生きていくことは出来ないのかもしれません。

 このことは、自分一人での稽古もさることながら、対練において、他の人と稽古をさせていただく時に特に顕著に感じられるようになった気がしました。これまで知らずに力んだままの自分で、どうにか相手を制しようとしていたり、受けようとしていた部分が、どんどんと現れてきているように思います。この変化はいまだ継続中で、急に上達したり何もかも良くなるということではないのですが、明らかにこれまでと違った形で、対練で得られるものがあるように感じています。
 そして結局のところ、自分の在り方や立ち方がどうかという点に、問題は戻ってきてしまっているように思います。
 この点は、稽古においてずっと一貫して指導して頂いていることで、それが稽古の根幹をなしているからこそ、いつもこの点に戻ってくることになるのかもしれません。
 表題にも書きましたが、余分に力むことなく、只、真っ直ぐに立つことの難しさを、改めて感じています。「愚直」という言葉がありますが、稽古のみならず人生においても、自分が「これだ」と思ったことをただひたすらに続けること。たとえ何も知らない他人が「あいつは愚か者だ」と蔑んでこようとも、それを続けられるだけの愚直さがなければ、物事は大成しないようになっているのかもしれません。
 この一年があっという間に感じられたように、もしかしたら人生も、振り返ればあっという間なのかもしれません。その中で、これだと信じた道をただひたすらに歩み続けられること。まさに王道を行かなければ、本物として成就することなど到底かなわないのかもしれません。

 いま現在も、力まずに立つことの難しさを感じています。人間というのは、何かをしている時はもちろんのこと、何もしていない時でさえ、無駄な力みを自分の中に持っているのだなと、改めて感じさせられています。
 戦いの場においてそれが余計なものだと喝破し、それを止めることで、人間の持つ別の力の使い方を見出した先人たちは、どれほどの意志の力があったのだろう、と思わされます。そして、それが簡単ではないからこそ、自分も取り組んでいくことの楽しみもまた、同時に味わえているようにも思います。
 日常の些細な動作でさえ、なんとなく力みで動いてしまえる時があるというのに、自衛隊で行われた戦闘に関する訓練を、放鬆を意識しながら乗り越えた玄花宗師のような状態に、一体どのようにしたら近づけるのでしょうか。そこに求められるのは、本当に強い意志の力ではないかと感じられます。それをこそぜひとも身に着けたい、と痛切に感じます。

 道場で一緒に稽古をさせて頂いていると、太極拳での成長、変化がある人というのは、必ずその人間性も同時に変化しているように感じられます。特に上達している人というのは間違いなく、人間としての温かみや優しさがあるように感じられ、そういう人と対練させていただくと、こちらが凄い崩され方をしている時、それが無理矢理ではなくて、こちらの状態というか、意を汲んでもらいながら、上手にうまく崩れるほうに誘導されていっているようにさえ感じられます。それは、なんと表現したらいいのか、すごく崩されているというのに、不思議と嫌なものではないのです。
 力ずくで何か影響をさせられている時はむしろ逆に、自然と体は逆らう方向に作用してしまい、結果、崩れは少なくなってしまうのです。
 先日の稽古で、玄花宗師に床に組み伏され、手足は完全に折りたたまれ拘束されたというのに、自分の体からするとそこに収まることが正常なことにさえ感じられ、全く自由が利かないというのに、抵抗したくなるような嫌な気持ちにならないのです。冷静にあとから考えてみると、これは本当に恐ろしいことではないかと思います。敵対する相手にそれをやられたとしたら、抵抗する気力が全く起きないまま、自分が死地にいることになってしまうのですから。

 それもすべて、拙力ではなく勁力、そこにあるはずなのに、説明され訓練されないと気づけない力の流れが使われているからなのだろうと思います。
 そこに至るための方法は、稽古を通じて示していただいているのだと思います。問題は、それに対して自分が意識的に気づいて取り組んでいけるか、その点にかかっているのだと思います。
 それを習得するためには、うまいことやろうとせず、只、真っ直ぐに立つことを磨いていくように、ひたむきに取り組んでいくしかないのだろうと思います。そこで得られるものは、この人生を生きていく上で、全く無駄になることはなく、むしろ自分を最大限に生かしていってくれるものに感じられます。

 本年も、私の拙い文章を読んでいただき、ありがとうございました。稽古や生活で感じられたものを、何かしらシェア出来たのだとしたら、これほど嬉しいことはありません。
 みなさまにとって、この一年はどのような年だったのでしょうか。
 来年もまた、この連載も含めどんどん自分を磨いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

                                (了)






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2022年12月03日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その66

  『太極拳を優先する』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 みなさん、日々の稽古は順調に取り組まれておりますでしょうか。太極武藝館本部道場での稽古では、毎回のように新鮮な発見と驚きに満ち満ちており、新たな体験をすると、驚いた鳥のように羽ばたいて動き回る(とりみだす)といった行動まで、門人の中で見られるようになってまいりました。・・・主に自分ですが。
 道場の中で得た感覚と経験は、それを大事に仕舞っておいても身に付くことにはならず、それを普段の生活から、稽古として磨きをかける必要があるかと思います。毎日、毎分毎秒を稽古として過ごすこと、それを意識的に実践しようとすると、怠惰に日常を過ごすだけでは得られなかった充実感や楽しみを味わうことをもできます。また、簡単に日常生活に飲まれ、常に稽古し続けることの難しさというのも、同時に感じられるものです。

 太極拳を本当に習得し、研鑽を積んでいくためには、生活の中に太極拳の稽古を取り入れるといった表現では生ぬるい、生活そのものを太極拳にしていくことが求められているのではないかと思います。
 この現代日本で生活を営んでいる限り、誰しも太極拳以外の何かをしていなければならないはずです。仕事であれ、家の用事であれ、するべきことはいくらでも存在しています。
 では、それらの中で自分がどのような優先順位を付けて生きているのか。太極拳に限らずですが、何かを極めようという時には、必ずそれが問われることになるのではないかと思います。
 少なくとも、玄花宗師は、「太極拳を何よりも優先している」と明言されています。それは言葉だけではなく、玄花宗師の普段の行動や立ち振る舞い、在り方を見ていてもありありと見られますし、納得できます。玄花宗師と我々の実力の差を要因づけるものがあるとすれば、太極拳にどれだけの熱量を注ぎ込んでいるのか、その点が非常に大きな原因ではないかとさえ感じます。
 そのことについて、我々は、改めて自分自身に問わなければならないのではないか、と思うのです。

 日々の暮らしの中で、一日のうち何時間かを道場での稽古に費やす。それを一週間、一か月、一年と続けていく。自分も含め、道場に通っている門人皆さんと接していると、それがどれだけ大変なことかは、嫌でも想像がつくものです。
「それでも太極拳を学びたい!」
 この気持ちはみんなに一貫していることだと感じますし、それがなければこれだけのことを続けることは不可能だと思います。また、一歩道場を離れたとしても、即座に太極拳のことが頭をよぎり、あれはどうなっているのだろう、体の使い方は・・・?と、心はまるで道場に居続けながら、稽古を続けているかのようです。

 先日、玄花宗師が自衛隊の訓練に出頭されて、道場に戻ってこられた後、その期間に何を稽古していたのかというお話をしてくださいました。というのも、訓練から帰ってこられた玄花宗師の体の動きや使い方が、その以前と比べても、我々の目には明らかに違って見えたので、どうしても気になって質問してしまったのです。
 宗師のお話によると、訓練期間中はやることがいっぱいであまりに忙しく、太極拳(のカタチでの)稽古をしている時間は、今回は一切取れなかったとのことでした。
 では何をされていたのかというと、ひたすら「放鬆(ファンソン)」に取り組んでおられたのだそうです。

 かいつまんで説明を聞くだけでも、訓練は目まぐるしいものに思われました。朝から晩まで訓練場はもちろん、隊舎の中でも1階〜屋上まで駆けずり回り、食堂での食事よりレーション(配給される携帯食)の方が多いようなスケジュール…。それも体調もこれまでで一番優れなかったとのことで、場合によっては途中でリタイアの可能性もあったとのことでした。
 そのような中で、ひたすら放鬆に取り組まれ、調整することに集中し続ける…。その結果が、体力検定は1級の結果を残し、訓練に参加した女性隊員の中で一位の成績を取る。射撃検定は前回よりもスコアを上げる、等々。
 一体、どういうことなの?と、話を聞いた門人は、驚きの声を上げるか、変な笑いをこぼす始末でした。
 自衛隊の訓練も太極拳の稽古も共通しているところが大いにある、とライフルの射撃姿勢を取りながら説明してくださる宗師の姿は、もはや自分が同じ人間とは思えないような軽やかさと滑らかさでした。

 玄花宗師が、忙しい訓練の中、そのように太極拳の稽古に取り組まれてきたのだとして、では我々は、自分の生活の中でどのように稽古に取り組めているのか、見直さなければならないのだと痛感しました。
 玄花宗師の結果を前にして、「忙しくて出来なかった」は、もはや自分にとって都合のいい言い訳にしかなりません。少なくとも、道場での稽古で得られたものは、次の稽古に来るまでにはさらに磨きを掛け上達してくるくらいでないと、道場での稽古がどんどんレベルアップしていくことに、追いつけなくなってしまうのではないか、とさえ感じられます。

 道場で稽古を行う門人の誰かが上達してくると、それに引きずられるようにして他の人にも良い影響が出始め、それはお互いに影響を与え合って、結果的に稽古の質そのものが引き上げられているのではないかと、ここ最近は感じています。
 玄花宗師だけが上達して、それを我々にどれだけ教えてくださっても、それだけでは門人全体の腕が上がっていくわけがありません。ひとりひとりが磨きをかけ上達していくことで、その相乗効果はどんどん大きくなっていくのではないかと思います。

 道場で、どんどん上達している門人と話をさせてもらうと、間違いなくみんな、自分の稽古に時間を費やしています。稽古の仕方は人によって様々ですが、朝や夜の時間をあてていたり、普段の動きそのものを稽古の質へと変えていたりと、話を聞かせてもらって大いに参考になることばかりです。
 それもみんな、社会人として立派に生活を送りながら、本当に多忙であるにも関わらず、そのように太極拳に取り組んでいるのです。太極拳のことを後回しせずにどれだけ優先しているか、たったその一点の違いだけで、こうまで得られる結果が異なってくるのかと、大いに驚かされることばかりです。

 もし稽古に取り組んでいて、だんだんわからなくなってしまったり、結果が出なくなってしまうなどという状態がある場合、稽古への取り組み方と、それに先立って何を優先して生活しているのか見直す必要があるのだと、自分自身のこととして感じます。
 行動に先立って現れてくる気持ちの面で太極拳を後回しにしてしまっていたら、結果は当然それに即したものとしてあらわれてくるはずです。
 トータルで見れば稽古をする限り上達はしていけるのだと思いますが、何よりも太極拳を優先して稽古に取り組んでいる人と比較して、そのスピードに差が出てしまうことは、もはや説明の必要もないことかと思います。

 もちろん、どうしたって現実的に時間が確保できず、道場での稽古には参加できない、ということは誰しも出てくるかと思います。自分自身、仕事の内容が変化したことに伴い、以前よりも道場での稽古に参加できる時間が少なくなってしまいました。
 しかし、そうなったときにどのように自分自身で稽古に取り組んでいけばいいのかは、玄花宗師がすでに我々に、その姿を通して教えてくださっているのです。
 あとは、自分自身の選択として、太極拳にどう向かっていくつもりなのか。太極拳が上達できるかどうかは、最終的にそこに掛かっているのかもしれません。
 道場での稽古を通して、多くの人を手本にさせていただける機会があることは、大いにありがたいことです。そこで得られた勉強を有効的に使わせていただき、また自分自身の稽古に還元していきたいと思います。
                               (了)




☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!



お知らせ

☆いつも『ブログ・タイジィ』をご愛読いただき、ありがとうございます

この度、ブログ編集室のネット環境移設に伴い、太郎冠者さんの人気記事、
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」の掲載を、一時延期させていただきました。

楽しみにお待ち頂いている読者の皆様には大変お待たせいたしましたが、
間も無く記事が掲載されますので、今暫くお待ちくださいますようお願い申し上げます。


                  Blog Tai-ji 編集室

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